大公軍団長兼傭兵ギルド総長イリヤボルト

 カイエンのもとにウェント伯爵が来、豪腕ジェネロがヴァイロンに変わって将軍に据えられた日の夜。

 この日からカイエンはヴァイロンと食事を共にすることに決めた。男でも将軍でも戦士でも軍人でもないカイエンには想像できないが、それらすべての尊厳を奪われたヴァイロンを、大公宮内とはいえ、執事の役宅に押し込めておくのは気の毒だったのである。


 自分の顔をみると余計に辛いかもしれん、とも思ったが、アキノとサグラチカに相談したところ、「そうしてやってほしい」と二人揃って言うので、そう決めた。

 カイエンは基本的に好き嫌いはないので、カイエンの食卓にはバランスのとれた、様々な食材の料理が並ぶ。大公家は代々、質素堅実であるから、食べきれないほどの料理が並ぶことなどはないが、帝都ハーマポスタールは港町であるから、新鮮な魚類貝類の料理をメインに色とりどりの皿が運ばれる。

 それをモンタナに指示して給仕させながら、執事のアキノが報告した。

 アキノは早速、明日から後宮の元大公妃のお部屋を掃除し、整え、早ければ明後日にもウェント伯爵を呼び、検分させるつもりだと言う。

 後宮の入り口には外界との交渉を制限する青銅製の扉があり、そこには専門の門兵を置かねばならない、とも。


「しかしな、アキノ」

 カイエンは素直に疑問を口にする。生まれた時からそばにいる、アキノとサグラチカの夫婦は死んだ父の信頼も厚かった。もはや身内であり、父のない今では父のようにも思っていた。乳母のサグラチカは母の優しさを知らないカイエンにとっては、唯一の母性とも言えた。

 大公ともなれば、人をどこまで信用、信頼するかも試されてくるが、彼らをも百パーセント信用できないとなれば、毎日の生活も成り立たなくなる。

「後宮の入り口の扉なら毎日のように見ているが……。私の居間のすぐ北側の回廊の向こうだからな。あそこに門兵を置くのか。それは決まりごとか」

「はい。前大公妃様がおいでの頃には、あそこに女の騎士が交代で立っておりました」

 モンタナが皿に盛ってくれた、白身魚の前菜にナイフを入れながら、カイエンは聞いた。目の端で、モンタナがヴァイロンの皿にも同じ料理を盛っているのを見ながら。


 カイエンはひとり子のお姫様育ちだが、たまに実母である皇后の元に呼ばれたりすると、子供ながらに皇后やその取り巻き、召使いにまで気を遣わねばならず、また、父のアルウィンはたまに機嫌が悪いと些細なことをとがめだてする癖があったこともあって、身分の上下を問わず他人の気持ちに敏感なところがあった。

 それゆえ、黙っておとなしく座っているヴァイロンの様子が気になっていた。


「女の騎士か。信用おける者に心当たりがあるか」

 後宮の警備となると、皇帝の後宮でも、大扉の内側には女の騎士が用心に立っている。帝国軍では数は少ないが、女の騎士、兵士も奉仕している。男の入れない領域の警備につかせるためだ。

 だが、この大公宮に女騎士がいただろうか。

 言いながら白身魚を口に運ぶ。

 旨い。

 本人は知覚していないが、カイエンの食べる姿は子供のようで、微笑ましい。大公としての食事のマナーに支障のある種類のものではないが。

 また、体が弱い割に、カイエンは健啖家で、料理頭のハイメの励みとなっていた。

「カイエン様、ルーサが私の縁者であることを覚えていらっしゃいますか」

 カイエンは頷いた。女中頭のルーサは、アキノと同じ地方の出身者だ。アキノの推薦で奉公に上がったことも知っている。

「もちろん覚えているとも」

「ルーサの姉が、若い頃この宮で女騎士をしておりました。結婚し、子を産んで下がっておりましたが、子供も大きくなり、戻りたいと申しておりました」

「ふむ。しかし、一人では交代できまい。他にも候補がいるか」

 貴族の使用人は、縁故で採用することが多い。

 大公家も例外でなく、アキノと妻のサグラチカ、女中頭のルーサは同じ郷の出身である。

 侍従のモンタナは前の大公の執事の縁故で、料理頭のハイメは前の料理頭の選んだ一番弟子である。

「ルーサの姉のブランカの知己で、女騎士のシェスタという者も、奉公先を探しているそうです」


 この都合の良すぎる返答にはさすがにカイエンも眉をひそめた。

「おいおい、あまりにも用意が良すぎないか」

 アキノが動じないことを知りつつも聞いてみる。

「はて。良き奉公先を探す縁者は他にも多々おります。これはほんの一部でございます」

 アキノのとぼけっぷりはいつもの通りだ。

 カイエンはあえて疑ったりはしないが、大公家の差配としてのアキノにぬかりはない。

「わかった」

 カイエンは白身魚を食べ終えた。モンタナがすかさずスープのワゴンを引いてくる。

「ブランカとシェスタ、一日を交代するとなればもう一人は必要であろう。その者も集めて、明後日に披露できるか」

 アキノは満足げに微笑んだ。

「もちろんでございます」

 帝国は広い。

 アキノの故郷は辺境とは言えないが、地方の一都市ではある。

 明後日に人材がそろえられるとは。

 あえてカイエンは考えないことにした。

 これは大公のおおらかさというものであろう。

 一番の側近を疑うとなれば、己の地位が崩壊する。

 おおらかさでなければ、くそ度胸の類だ。


 カイエンは父、アルウィンの言い残した言葉を思い出していた。

「カイエン、上に立つ者は配下を信頼せねばならぬ。裏切られて己が倒れるなら、笑って倒れねばならぬ。

 配下の能力に惚れるのだ。

 そういう配下を信頼というおおらかさでもって従わせるのだ。

 無理強いはいかぬ。

 不安による疑いの心もいかぬ。

 物事、見える範囲には限りがある。

 信じて裏切られるのは諦めて受け流さねばならぬ。


 カイエン、蛮勇はいらぬ。

 そもそも、我らに勇気はいらぬ。

 だが、信じる度胸はすえねばならぬ。

 その上に一家はまとまるのだ」

 十五で大公位を相続した時にはわからなかったが。

 三年経った今、ようやくわかる。


 カイエンはウミガメのスープの匂いを嗅ぎながら言った。

「わかった。すべて任せる」






「あれー、殿下をほっぽってきて大丈夫なのぅ」

 大公宮の中ではあるが、独立した執事の役宅。

 その居間には執事アキノと、大公軍団の団長、イリヤボルト・ディアマンテスの姿があった。

 カイエンとヴァイロンの夕餉が済んだのちのことである。

 アキノはなんだか嫌そうにイリヤの甘い顔を見遣った。息子ほどに歳のはなれたイリヤは、実はアキノの故郷の縁者だ。

 縁者とは知らずに前大公の時に雇い入れ、顔立ちの類似で身内と知ったのは、イリヤが大公の私軍の頭になった後であった。

(故郷さえもあてにならぬ)

 アキノにとっても信頼とははなはだ厳しく、難しいものであった。


「大事ない。サグラチカもおる」

 苦々しく呟けば、この蛇のようにのらりくらりした男はかえって嬉しそうだ。

 何の用で、来たかもわかっている。やっかいなことだ。

「殿下って、えらいよね」

 イリヤの言いようのふてぶてしさ。

「お姫様で大公様なのに、あんな獣人にまで気ィつかってさあ」

「……ヴァイロンに非はない」

 アキノは戸棚から琥珀色の蒸留酒を取り出し、嫌々ながら、二つの杯に注ぎ入れた。

「でもさあ、今回ばっかりは足元すくわれたよね。黒幕は誰? まさかあの皇后陛下じゃないよねえ」

 遠慮なくイリヤは一方の杯を手に取り、ぐびりと飲んだ。

 アキノもそれに続く。

 失態を同族に責められるのはいたしかたない。

「油断したことは確かだ。だがヴァイロンは『残った』。まだ使いようはある」

 イリヤはにこにこと屈託がない。

「あのさあ、あの皇帝の使者のナントカ伯爵だけど」

「ウェント伯爵だ」

 アキノは正確に指摘した。

「そうそう、その伯爵。あの人、ヴァイロンさんが後宮に住むようになりました、ってだけで満足して引き下がるのかなぁ」

「何が言いたい」

 アキノは青い目をぎらりと光らせた。

「一昔前までは、王族の婚姻って、確実に事がなされたか、臣下がしかと見聞するもんだったんでしょ〜?」

 イリヤは淡々と、薄笑いをうかべたまま、問題発言を始めた。

「……」

「今でも辺境の国とかじゃ、婚姻の翌朝に新郎新婦の敷布をみんなの前に掲げたりするんでしょ?」

 一昔前まで、帝国だけでなく各国とも、正式な婚姻においては、初夜に立会人を置かせたり、初夜の翌朝に新郎新婦の褥の敷布を公開したりしたものだ。

 新婦の破瓜の血に彩られた敷布は完全な婚姻、両家の絆の確かな印として衆人にさらされたのだ。

 アキノは本当に嫌そうな顔でイリヤを見やった。

「これは婚姻ではない。大公殿下は側室を迎えられただけだ」

「ええ〜。皇帝陛下の無理難題の理由はまだわからないとしてもさ、皇帝のあの勢いじゃ、ごまかしはきかないよー」

 イリヤは執事の居間のソファに、だらしなく寝そべっている。アキノとしてはその態度を改めさせたいが、イリヤの言っている事は、実はアキノの懸念でもあった。

「……殿下にはお気の毒ではあるが、その対策は万全だよ、イリヤ」

 アキノはやや落ち着いて答えた。

 アキノにとって、大公家の存続は必至。

 様々な展開に備えて、準備に抜かりはない。

「へー。そうなんだ。じゃあ、ヴァイロンが殿下を無理やり犯して、孕ませてもいいってこと?」

 イリヤのいうことは生々しいが、真実をしっかりと掴んでいる。

 アキノは不敵な笑いを顔に張り付かせて、挑発的発言のイリヤを見た。

 その口から意外な言葉が紡がれた。


「そなた、騾馬という動物を知っておるか」


 イリヤは目を瞬かせた。

 急になんなのそれ。

 それでも、一応答えられることは答えてみせた。

「えっと、馬の雌と、ロバの雄の混血だよね。躾やすいし、馬力も馬並みなんで、地方じゃ労役に使うために積極的に交配しているよね。あれのこと?」

「そうだ」

 アキノは杯を傾けつつ、イリヤのやや惚けた顔に向けて言った。立ったままだが、今や両人の間の主導権はイリヤからアキノに変わっていた。

「おぬしは知っているか。騾馬は子をなせるかな」

 イリヤは息を呑んだ。

 アキノの深慮遠謀が一気に見えたからだ。

「あー、無理です。ほとんど無理でしょ。確か馬とロバは種族が違うんだよね。だから子供はできないんだよね。騾馬同士でも馬と騾馬でも、ロバと騾馬でも」

「その通りだよ」

アキノは続けた。

「ヴァイロンは騾馬だ。あの子の母親もおそらくは騾馬。獣人と人間の雑種だったのだろう。稀にだが、雑種も子をなすそうな。だが、それは、雌に限られるそうだ」

 血の滴るような言葉をアキノは発し、イリヤはやや狼狽しながらそれを聞いた。

「ヴァイロンは無害だ。そして、騾馬ゆえのあの、獣人も人間をも超えた能力はまだ使いようがある」

「恐れる事はなにもないさ。私が育てた子だぞ。ヴァイロンはカイエン様を傷つけたりはすまいよ。根が優しい子だからな。ま、閨のことはサグラチカにも按配させようぞ。初夜の敷布の公開など、どうにでもできるわ」



 そうして。

 大公カイエンの未だ知らぬところで、物語は動きつつあった。



 アキノの言いように呆然としつつも、イリヤは最後の気力で言い募った。

「あのさ」

「その、騾馬の例えの話なんだけど、それってふつうの人たちも知ってること?」

 アキノは黙って首を振った。

 獣人の血を引く者自体が少ないのだ。

 それでも、人の母から生まれてくるのであるから、子が作れないなど、思い至る筈がない。知っているのは数少ない科学者や怪しげな魔道の輩くらいであろう。

「それとー」

「大公私設軍隊の軍団長としてなんだけどさ、今の話は別として、傭兵団ギルドの会長として今度の賃上げ交渉はしてもいいよね」

 大公の軍隊は私設部隊であり、官軍ではなかった。

 帝国の首都、ハーマポスタール防衛の軍隊は、傭兵の集まりであった。

 もっとも、傭兵とはいえ、帝国の国民からしか雇われない。

 その労働組合たるギルドの長がイリヤであったのは皮肉としか言いようがない。



 大公カイエンのせねばならない事柄は、本人の自覚以上に多いようであった。

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