戸惑いの乙女カイエン
少女はいつも夢見ている
運命の人に、巡り会うこと
その人と永遠を約束すること
アル・アアシャー 「海の街の娘」より「ふたつの魂」
家のものを食堂に集め、皇帝に言い渡されたことを伝えたのち。
カイエンは使用人を下がらせ、イリヤとシーヴに「明朝、大公騎士団の団員へこの事件をうまく伝えるように」と命じ、アキノにヴァイロンを託し、サグラチカとルーサに抱えられるようにして自室へ戻り、寝台に倒れこんだ。
長い一日であった。
精神的にも肉体的にも疲れ果てていた。
大公として、この事態の収取にあって、するべきことがあったのかもしれないが、考えるだけの体力がなかったのである。
起きたら何もないままの日常であればいいのに、と思う暇もなく、彼女は眠った。
翌朝。
カイエンは朝早くに起こされた。
皇帝の使者が来たと伝えられ、無理やり起こされた。
嫌も応もなく、ややウェーブのかかった紫がかった黒の髪をくしけずられ、それをいつものように簡単に首の後ろで簡単に束ねられ、顔を洗い、皇帝の使者を迎えるにふさわしい最低の衣服を着せられた。
この辺りで、頭がやや覚醒してきたが、朝の目覚めの濃い紅茶の一杯もないまま、カイエンは使者である、ウェント伯爵の前に引っ張り出された。ここまですべてが受身形である。カイエンの意思など、どこにもなかった。
大公宮の謁見の間。
名前は大仰だが、皇帝の宮殿の謁見の間とは比べるべくもない部屋だ。大公が座る場所は一段高くなっており、丈夫な樫の木の彫刻された椅子に大公は座るのだが、これも玉座とは比べ物にならない実用主義の代物だ。これは前大公アルウィンが奢侈な生活を求めず、つまりはケチだったので、あえて自分の好みの物に取り替える気など全くなかったこともあるが、そもそも、この椅子は何代も前から使われているもので、そうすると、大公のケチは代々のものなのかもしれなかった。
世襲制ではないから、家のしきたりというわけでもないのだが。
カイエンもまたもっと豪奢な椅子を、などとは考えたこともなかった。今の椅子でも小柄なカイエンには高すぎて足が浮くのに、これ以上大きく豪華にしてどうするのだ、というのが彼女の意見であった。
ともあれ、そこに座る頃にはさすがのカイエンもはっきりと目が覚めていた。
「ウェント伯爵、朝も早くからお疲れさまです」
嫌味の効いた挨拶もできた。ついでに小さな、ぎりぎり下品に見えない程度のあくびも付け足してやった。ざまあみろ。
心の中の言葉は今日もべらんめえである。
しかし、ウェント伯爵は老獪な貴族であった。歳はもう四十になるであろう。長い間、宮廷を泳ぎ回り、皇帝に取り入ってきたベテラン貴族である。
「大公殿下にはご機嫌麗しく。朝早くから恐縮ではございますが、皇帝陛下からのご命令をお伝えに参りました」
ご機嫌麗しくねえよ、眠くてしょうがねえ! とカイエンが心の中でわめくよりも前に、ウェント伯爵は言葉を続けていた。
「大公殿下におかれましては、昨日、勅命により賜られましたご側室をいかがなされましたでございましょうか」
ご側室。
なんだそれは。意味がわからない。そんなのいませんよ。
寝起きのカイエンは聞きなれないその言葉を何度か反芻し、やっと昨日の「男妾騒動」に思い至った。
「勅命により賜った側室とな……」
不敬罪により侮辱刑を課す。
あれか、将軍だったヴァイロンが私の男妾とかにさせられたあれか。
嫌味を付け加えてやろうと思ったが、まだ眠くて本来の会話のキレが出てこない。
「さようでございます。将軍位を剥奪、殿下の後宮に入れられたかの者のことでござりまする」
ウェント伯爵の口上には澱みがない。悔しいが恐ろしいまでに皇帝の廷臣として熟達した話の進め方であった。
「ヴァイロンは、家の執事夫婦……養い親に託しておる」
昨日の今日のことであるし、未だ、ウェント伯爵には遠く及ばぬ「宮廷を泳ぎ渡る能力」しか持たないカイエンは、ここは正直に言うしかすべのないところであった。眠かったこともある。
「それはいけませんぞ」
予測しないわけではなかったが、ウェント伯爵の返答は厳しかった。
背後に皇帝の威光を背負っているからなかなかに厳しい。
カイエンはやや目が覚めてきたので、やや女らしい声音で言ってみた。
「いけませんか。私のやり方ではいけないのですか」
ウェント伯爵はにこやかに同じ言葉で全否定した。
「いけませんな」
「恐れながら、大公殿下にあらせられましては、未だ正式なご夫君なき御身。後宮の用意もなされていないはずとの皇帝陛下のおおせであります」
カイエンはその後に続くであろう皇帝の命令が半分は予想できた。
出歯亀オヤジめが!
この方面の下品な語彙をなぜか聞き知っているカイエンは、皇帝を呪った。そういう語彙を自分に伝えた父、アルウィンをも呪っていたかもしれない。
「皇帝陛下はわたくしにお命じになりました。大公殿下の後宮にしかとかのヴァイロンが納められるところを、確かめてこいと」
つまりは、もう一人の男として外の世界には出てこられないのを確認して来いということである。
ヴァイロンの将軍としての影響力を軒並み引っこ抜くためだ。
しかし、ここまでするなら、いっそ冤罪でもなんでもおしつけて、無理やり処刑してしまったほうが早いんじゃないか。
カイエンは恐ろしいことを考えたが、これは侮辱刑の恐ろしさをまだ本当には理解できていなかったのである。
処刑すれば怨嗟の念が残り、死者は死後、英雄化される危険性があるが、侮辱刑は生きながらその存在を貶め、時間の経過とともに、英雄を忘れさせてしまうことができるのである。
カイエンはウェント伯爵をひとまず下がらせた。
「さようか。ご苦労なことであるな。だが、昨日の今日だ。わたくしのできることにも限りがある。しかと我が後宮の用意ができた折にはまたそなたをここへ呼び、しかと見聞していただこう。それでよろしいな」
嫌々ながらカイエンはウェント伯爵に告げ、伯爵は、
「恐れ多きことでございます」
と言いながら下がっていった。
「馬鹿野郎めが」
扉が閉まった途端に、カイエンの地が出た。さすがにもう頭ははっきりと覚醒している。しかし、罵倒する言葉の選択は誤ったようだ。「ばーか」じゃまるで子供だ。
しかし、皇帝にこう命じられた以上、放置もできない。もう子供じゃないんだから。
「アキノ」
こういう時に頼りになるのはこの執事しかいない。
「はは」
執事のアキノは伯爵がこの部屋に入ってから、カイエンが入り、そして伯爵が出て行くまで、ずっと部屋の隅で控えていたのである。伯爵も大貴族であるから、使用人の一人や二人が会見の場にいても、壁龕ニッチに置かれた彫像ぐらいにしかその存在を感じないのである。
「伯爵の言うとおり、私にはどうしたらいいものか全然わからん。そもそも、この宮の「後宮」の棟には入ったこともない。私が生まれてからこのかた、閉めたままだろう」
そうだ。
アイーシャが出て行ってから、そこには住むべき人がいないままのはずだ。真面目でクソつまらない性格だった父には愛妾の一人もいなかった。外では知らないが、後宮はずっと空だったはずだ。
「宮の北側の奥だから、私は外から見たこともないが、どのくらいの部屋数があるのだ」
答えは、カイエンの予想を超えており、彼女は思わずのけぞった。
「召使いの小部屋まで入れますと、五十は下らないかと」
「もっとも」
アキノは用心深く続けた。
「寵妃お一人がお使いになる『お部屋』は、召使いの部屋や居間、中庭などを含めて『ひと区画』として数えます。そういうことなら十ほどでしょう」
そうですか。
カイエンはもう、そう心の中で言うしかない。
「手入れはどうなっている」
「季節ごとの最低限のお手入れはさせておりますが、その中でも、前大公妃様がいらした『青のお部屋』は一番大きく、また一番大公殿下のご寝室やお居間に近い場所でございます。そちらが一番最近まで使われておりましたので、家具調度なども一通り揃っております」
前大公妃のお部屋、といえば、カイエンの実母で今は皇帝の宮殿で皇后をやっているあの、アイーシャのいた部屋、ということだ。いろいろ確執のあるところの母娘のからむ話であるから、アキノの答えもやや歯切れが悪い。
「そうか。あまり気が進まないが、時間もないことだ。そこでいいだろう。近日中に手入れを済ませ、ヴァイロンを移せ。気の毒だが、今はもう、いたし方ない。女臭い設えの部屋で居心地が悪いだろうが、それはおいおい直していこう」
「……承知いたしました」
あのでかい男が母のいた後宮の「お部屋」にぽつんといることを考えると、なんだか複雑な気分だ。そういえば、カイエンはよく知らないが、軍人としては日々の鍛錬もせねばなるまい。お姫様じゃないのだ、体が鈍るだろう。そういうことも考えてやらねば気の毒だ。
そこまで考えて、カイエンは疲れ切っていた昨晩はそこまで考えついていなかったところまで、やっと思考が追いついた。
将軍位剥奪後、ヴァイロンの率いていた万人単位の将兵はどうなったのかと。
我ながらのんびりしている。これで大公とは、恥ずかしい限りだな、と思う。十八といういう年齢に甘えていたら、今度のように足をすくわれる。
そして、その意図もわからないとは。
「アキノ」
部屋を出ようとしていたアキノを呼び止める。
「気づくのが遅くてすまないが、ヴァイロンの率いていた部隊の将兵はどういうあつかいになったのだ。獣神将軍の軍、『フィエロアルマ』はどうなった」
将兵は動揺していることだろう。自分たちの将軍、勇猛で文字通り光り輝く未来を約束されていたはずの司令官が、こともあろうに免職、地位剥奪。それだけではなく、名誉まで地べたに落ちるような侮辱刑を受け、小娘の後宮に放り込まれたなんて聞いたら、パニックになってもおかしくない。
アキノはちょっと考え、遠慮がちに答えた。
「今朝ほど聞きましたが、フィエロアルマの兵舎の周りは、近衛兵で囲まれているとのことです」
「えっ! もう始まってしまったのか」
「騒ぎが起きる前に、抑えられたというところでしょう。皇帝陛下のこの度のご行動は、まことに用意周到。私どもは知らないうちに外堀も内堀も埋められておったようでございます」
カイエンの声がやや震えた。
「ま、まさか将兵には手を出すまいな」
アキノの顔も渋いものだ。大公宮の執事として、情報収取の至らなさを恥じているのであろう。
「近衛兵は周りを武装して囲んでおるだけで、手出しはしておらず、フィエロアルマ側も暴発はしておらぬそうです」
「ヴァイロンの副官は確か、あの『豪腕』ジェネロだったな。こちらから使いを出すか」
回り始めた頭で、カイエンは必死で考えた。豪腕ジェネロは、彼自身が将軍になれる男だ。直接、話したことはないが、ヴァイロンが登場してこなければ、彼が将軍になっていたはずなのだ。年齢は三十過ぎといったところだろう。
「いえ、殿下、それは危険かと。殿下がフィエロアルマと繋がっていると皇帝陛下に思われますと、ことがややこしくなりましょう」
「……そうか」
「ここは静観して、尻尾を出さぬことかと。……もともとこちらは何も画策してなどおりませんが、付け入る隙を与えてはなりません」
「うむ」
そこまで話したところで、謁見の間の扉が叩かれ、侍従のモンタナが慌てたように入ってきた。
「殿下、ザラ将軍閣下からのお遣いという者が、このような書簡を……」
「使者はどうした」
「それが、隠れるようにして帰って行かれました」
ザラ将軍といえば、将軍の中で一番の長老である。大将軍がいないため、他の将軍と同じ位階にあるが、他の将軍たちからは畏敬の目で仰がれる存在だ。
モンタナが銀のトレイに載せて持ってきた書簡を見ると、そこに将軍の封蝋はない。来る途中で使者が止められ、書簡を奪われた時の用心だろう。
カイエンとアキノが顔を見合わせ、アキノがモンタナにただす。
「本当にザラ将軍のお使いだったのだろうな」
モンタナは青くなって慌てるばかりだ。それでも見るべきところは見ていたからえらい。アキノがモンタナを評価しているのは、ぼやっとして見える外見や態度とは正反対に、恐ろしく記憶力がいいからだ。それに口も固い。
「それは間違いないと思います。前に御前試合がありました時、私はヴァイロン様に届け物をしたことがありますが、その折にザラ将軍の側に控えていた者でございます」
カイエンが書簡を取り上げようとすると、アキノがそっとその手を抑えた。
「なにか仕組まれていないともかぎりません」
アキノは白い手袋をした手で、そっと書簡を調べ、光に透かし、匂いを嗅ぎ、それからようやっとそれを広げた。
そこには詩のような文が一行。
「戸惑いの乙女よ、惑乱するなかれ……」
堂々とした太いペンの男文字で、インクが黒々している。ザラ将軍の手跡に間違いなさそうだ。
(私は戸惑いの乙女かよ)
カイエンは心の中でつっこんだ。
しかし、言いたいことはわかる。
お前は手を出すな、というメッセージだ。
「どうやら、ザラ将軍はお味方のようですな」
アキノはそう言うと、書簡を暖炉へ持って行き、熾火の中へ突っ込んだ。
元、獣神将軍ヴァイロンの軍、フィエロアルマの兵舎へザラ将軍が単独で入り、しばらくして豪腕ジェネロを伴って出てきたのは、その日の夕刻であった。
即刻、フィエロアルマの新将軍が任命された。
豪腕ジェネロこと、ジェネロ・コロンボ将軍の誕生であった。
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