第三話 い棟


 三人はロザンナがいた棟の階段を慎重に昇る。崩落は防いだが、炎のせいで、階段は真っ黒になっている。煤で草履を滑らせながら敢志は一段一段踏みしめる。

「ここなら大丈夫」

その後ろをロザンナと夏目がついていく。ロザンナはいちいち確認せねば昇れない危険な場所というのにアイザック博士の研究資料を取り返したくて忙しなく、夏目は何かを嗅ぎつけようと首をあちこち動かしている。時折、カメラのシャッターが下りる音がして「やはり光源がいりますな」と聞こえる。

「夏目さーん、早くしてください。じゃないとその伊太利亜女子に怒られますよ」

「伊太利亜女子って何よ! だいたい貴方が私を!」

「だって俺が助けた時は日本語でしゃべってなかったじゃないか」

「あれは……その……火事だし、それに急いでたからつい……」

痛いところを突かれ、ロザンナはしどろもどろになりながら言い訳をする。

「あはは。可愛いところもあるんだな」

と敢志は素直に思ったことを口にする。そして最後の一段を確認し、ロザンナに手を差し出す。

「普通の人らしくてよかったよ」

「?! ……馬鹿にしてるでしょ!」

とロザンナは差し出された手を弾いた。

「痛ッ! やっぱりその性格直した方が良いんじゃないか?!」

「煩い!」

長い髪を翻しロザンナは先に行く。階段の一番上でそれを横目で見ながら、叩かれた手を振っている敢志。下からそれを見た夏目はロザンナの耳が赤く染まっているのを見逃さなかった。そして写真を撮る。「出来上がったら記念にあげますよ。もしかすると祝事のさいのいい記念になるかも」と敢志の肩を叩いたが、本人は首を傾げるだけで、夏目は、壊滅的に女心の分からない男だと思った。それはそれは恋文を書くようなことがあれば添削してやりたいほどに……


 結局、先頭を歩いていた敢志が最後に部屋に入った。

部屋は6畳ほどで、半分は焼けていた。床は木造で、心臓に悪い音がする。

「ここはい棟だっけ?」

と敢志が尋ねるとロザンナは「そうよ」と言いながら部屋の右端、焼けていない箇所に散らばる資料を集めた。

「ロザンナは本が好きなのか?」

この部屋は異様に書物が多い。半分以上が天井まで着きそうな本棚で、床が沈んでいないのが不思議なくらいだ。

「え、ええ、まあね」

「これがベッドか……」

と敢志は左の焼け焦げた場所を入り口からみる。床が抜け落ちそうなので近付くことはしない。

真っ黒の壁際に金属の棒で組み立てられた寝具がある。敷物は焼けてしまっているが、金属まで溶かすほどの高温ではなかったようで、綺麗に残っていた。

「西洋人の部屋って感じだな。い棟が異国人宿舎なんだっけ?」

「そうよ。そしてろ棟が日本人宿舎。住んでいるのはほとんど帝国大学の学生や教授ばかり」

「知識人の集まりか。ん? これは何だ?」

敢志は足元の草履をずらした。

その下からは親指と人差し指で円形を作ったくらいの大きさの染みがあった。

「赤褐色の染み?」

しゃがみ込み、それに触れる。すでに乾いているそれは、手には付着しない。それが転々としている。そして染みと交互にもう一つ別の染みが床に付着していた。

「半月?」

今度は半月の染み。円形、半月、円形、半月——と続いた先には……

「あれ? どれかしら」

と資料を捲っているロザンナの姿。しかしロザンナは黒い長靴の様な——ブーツを履いており、足跡とは一致しない。

「これなんだと思います?」

敢志の問いには誰も返事をしない。資料を捲ったり、写真を撮ったり、みな好き放題だ。なのに「ちょっと敢志、それ持ってて!」「伊東氏、この西洋の玩具は何でしょうか?!」とこちらの質問は無視して飛んで来るものだから、ここにいない梔子色の彼が本当に恋しくなってしまう。

 きっとジョヴァンニならしゃがみ込んでこの謎の染みを一緒に解明してくれていただろう。


「これは実に興味深いね」


何処からか声がする。しかし部屋を見渡してもここには三人の男女しかいない。

 敢志は拳を握りしめて、染みと向き合った。

——バキッ

「え?」

鼓膜を不気味な音が震わせる。

——バキ、バキ

「あの……変な音しませんか?」

これも二人は無視だ。資料を束ね、夏目は部屋の奥の真っ黒なベッドに近寄っていた。

「夏目さん! そっち危険ですよ!」

「なんのこれしき! 未確認生物とはいつも危険が隣り合わせ。足を踏み込めない場所にこそ、彼奴等は——」

そこは違う意味で危険区域だと、忠告するが夏目は聞く耳を持たない。どうしようかと迷っていると「敢志、これお願い!」とこちらを見もせずにロザンナに言われたため、とうとう地団駄を踏み、煤を舞い上げてしまった。

——バキ、バキバキバキッ‼

「やばい‼」

奥の壁に亀裂が入る。夏目は慌てて、外へ避難したが、ロザンナはかなり集中しているようだ。まだ資料を見ている。

「ロザンナ!」

「何よ。早く運ぶのを……きゃッ‼」

まだ事の事態を理解できていないロザンナを、敢志は再び抱え部屋を出た。バキバキバキッと木くずと煤を巻き上げ、目の前から部屋が消えた。間一髪廊下へ逃げたが、階段も崩れ落ち、廊下が上空に浮いている。

 肩で息をする敢志の腕の中にいるロザンナは何とか資料を手にしていたが、他の書物は地面で舞う砂埃の中に消えてしまった。

それを見下ろす赤毛に、敢志は平手の二発は覚悟したが、今度は飛んでこなかった。

それどころか小さく「ありがとう」という声が聞こえ「え? 何? 聞き間違い?」と皮肉めいた返事をしてしまう。

 夏目が、「またそういうことを……」と言う前に室内の筈なのに、青空の下、乾いた皮膚の摩擦音が響き渡った。

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麦と船 冬澤 紺 @w_n_

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