第二話 ロザンナ・カッパローネ

 初めて異国荘を見た敢志にはこれが異国荘なのか分からなかった。三階建ての建物は木造なのか煉瓦造りなのか、石造りなのかさえ分からない。炎に包まれた建物は轟音と黒い煙を上げ、熱風で人を寄せ付けない。一人で踊り狂う赤い鬼の下で腕用わんようポンプが数台無力な水を噴いている。

「近寄るな! 焼け死ぬぞ!」

と警察官と消防組が右往左往しているのを尻目に炎は隣の宿舎へと燃え移った。

「あっちの宿舎は?」「あれは外国人専用の棟です」

そう話声が聞こえた瞬間、明らかに警察と消防組の動きは二つに分かれた。

「外国人が焼け死んだら上から何を言われるか分かったものではない」と更に消火に励むものと、「ふん、良い様だ」とポンプから手を離し、この火事を腰に手を当てて見物する者に別れた。

しかしその中に「人命に区別などない!」と駆け回る警察官がひとりいた。

「相良さん!」

若き警察官が、頬を真っ黒にしながら消防組と消火に励んでいた。敢志の声は届いていないが、思いは同じで、敢志も政府や外交の事など関係なしに、近くの腕用ポンプに駆け寄った。

「手伝います!」

その姿に感化された見物人も近くの井戸から水を運び、少量の水ながらも大勢による消火が始まった。

「蒸気の力じゃー‼」

と野太い男の声がし、破裂音と共に大量の水が宿舎に向けて放水された。右端から段々火の勢いが収まってきたが、左は収まらず、とうとう外国人宿舎からも火が上がり始めた。

「———‼」

叫び声がする。

敢志は目を凝らし、耳を澄ませ、声の主を探した。

「―—‼」

何かを訴えている。だが、この黒煙でどこから発せられているのか分からない。上を見上げ必死に首を動かす。

「……いた!」

外国人宿舎の三階の窓から女性が助けを求めている。

だが、誰も助けに行かない。外国人宿舎の前には、腰に手をあて、外国人を排斥しようとする人間しかいなかった。

「くそッ! 役に立たないこれは俺が借ります!」

ふんぞり返る消防組の男の上半身に巻かれているタスキを引っ張り、抜き去る。

その端を咥え、もう端を素早くたすき掛けし、袴の裾も締める。

「おい! 危険だぞ!」

制止も無視して、敢志は宿舎の一階の窓を割り、中に侵入した。誰かの部屋で、そこから廊下に出る。右からは炎が迫っていたが、その手前に階段があり、一気に三階まで駆けあがった。

まだ火の手が迫っていない三階の廊下。しかし、階段からはどんどん迫ってきている。

耳を澄ませば、女性の声が聞こえて、敢志はその部屋の扉のノブを回した。

中は女性の部屋で、何かを風呂敷に詰め、この火事の現場には似つかわしくない。

「―—‼」

敢志を見て何かを叫んでいる。

「まさか身体を自分で動かせないのか?」

立つだけでやっとなのだろうか。女性の二本の足はしっかり床についているが、動いているのは上半身だけだ。その上半身は紙の束をまとめ、風呂敷に包んでいる。

「今、俺が……」

と、敢志は女性の膝裏と背中に手を回し、抱えた。

「―—‼」

「え? 何?! 分からない! ん? あなた……」

近くに来て分かった。その女性は外国人だった。長い赤毛は今の火事を表しているようだ。

そしてその火事はこの部屋に迫っていた。

——バチバチ

壁が嫌な音を鳴らす。風呂敷を胸に抱えた女性が耳元で喚き散らすのも無視して敢志は部屋を飛び出た。

「階段が……」

火の海になっていた。

そこに背を向け、敢志は別の部屋へ飛び込む。そして……

「捕まって!」

と女性を自分の胸に閉じ込めるように抱きしめた。そして窓の枠に足をかける。腕の中で女性が悲鳴を上げるのが聞こえる。だが、もう迷っていられなかった。

「いくぞ!」

敢志は窓枠を蹴り、身体を丸めながら階下の大きな木に飛び下りた。


——ガサガサガサ、バキ、バキ、ガサガサ、ドサッ‼


「いっ‼」

敢志は頭に枝や葉をつけて地面に尻餅をついた。腕の中では女性が荒く呼吸している。ゆっくり目を開けると、赤い髪と、穴が開いた木を下から眺めていた。

「よかった……助かった……」

そうぼやいた瞬間、人工的に変形させられた木は消え、目じりを吊り上げた女性の顔でいっぱいになる。

「いいわけないでしょッ‼」

異国の女性から日本語が飛び出し、驚く敢志の横っ面に

——パチーンッ‼

と平手が飛んだ。

あまりの勢いで、張り飛ばされた敢志の視界には女性でも木でもなく、「蒸気の力じゃー‼」と叫ぶ男性が放水している大量の水が異国荘を鎮火し終えた景色だった。

白と黒の煙が上がり、激しい水しぶきがここまで、いや敢志の目元にだけ飛んで来る。

「伊東氏―‼」

横向きの夏目が敢志に駆け寄る。

「いつまで寝ているのですか?!」

「好きで寝てるんじゃないですけど……」

「お嬢さん、こちらの方、ちょっとお借りしますよ!」

と女性を丁寧に退かし、夏目は敢志の上半身に巻かれているたすきを引っ張った。

「痛い! もう痛いのは勘弁してくださいよ!」

「急いで! ギルバーツ氏が警察に連れて行かれます!」

その名にハッとなる。

「そうだ、ジョヴァンニ!」

しかし遅かった。敢志達の目の前を馬車が砂埃を上げて走り去った。鞭を撓らせる制服姿の男。通り過ぎる刹那、窓に梔子色が見えた気がした。

「くそッ、俺は警察に行きます。夏目さん、火事の件教えてくれてありがとうございました!」

と敢志はその場を去ろうとしたが、腕に痛みが走り本日何度目かの「いて!」という声を上げてしまう。

「待ちなさいよ!」

後ろを振り向くと、先ほどの女性がタスキを握りしめていた。

「悪いけどそんな暇はないんだ!」

「逃げる気?! いいからこっちに来なさい!」

背丈は敢志より頭一つ低いのに、力が強く、離してくれる様子もない。

気まで強いその女性に張り手を食らった事を思い出した敢志は観念して向き合った。

「何? 急いでいるから手短に!」

「何とは何よ! あなたのせいで大切な物をあの部屋に忘れてきちゃったじゃないの! 必死に準備していたのに!」

饒舌な日本語を話す女性に敢志はそれであんなに動かなかったのかと納得してしまう。

「ちょっと聞いてるの?!」

かなり大切な物だったのか、女性の怒りは頂点に達していて、意図も簡単に腕が振りあがる。

 その手首を敢志は掴んだ。

「落ち着いて。そもそもそれならそう言ってくれれば運ぶのを手伝ったのに」

「言ったわよ! ていうか離しなさいよ! レディーに向かってその乱暴な態度はないわ!」

「乱暴なのは君だろ!」

思わず敢志も声を上げてしまう。夏目がまあまあと間に入るが、女性は怒りが収まらず夏目にも怒鳴り散らした。

「もしあれが燃えてしまっていたら! どうしてくれるのよ! あれが……あれが……」

今度はそのまま泣き崩れた。

母親のいない敢志は女性の扱いというのがてんでダメで、目の前の状況が不可思議でお手上げ状態だった。そして「あなたのせいで!」と、じゃがみ込んだその位置から鋭い眼光が向けられ背筋に悪寒が走った。

どうすればいいのか迷っていると遠くから「伊東殿‼」と相良の声がした。

「相良さん! ジョヴァンニは?!」

と駆け寄ってきたばかりの相良の肩を揺さぶった。

「今しがた連行されました。罪は殺人と放火でござる」

「そんな……ジョヴァンニが……」

信じられず、敢志はフラフラと立ちくらみがした。

「某も、ギルバーツ殿の仕業ではないと信じております。しかし、火の手が上がる寸前、発火場所にいるのを目撃されています」

「それだけで……ん? 今、何て言いました? 殺人?」

「左様。発火場所の宿舎には刃物が腹部に刺さった遺体が発見されました。警察はギルバーツ殿が殺害後、証拠隠滅に火を点けた。そう考えているようでござる」

まだ足りない。殺された人物の性別、名前、そしてジョヴァンニとの接点は? しかし相良の表情とまだ発生したばかりの事件に調査が必要と敢志は考えた。

「今回の事件、燃えたのは外国人も住まう異国荘でござる。外交問題に発展しなければ良いのですが」

「ジョヴァンニがしていないと言えば、すぐに彼は解放されますか?」

相良は眉間に皺を寄せ、ゆっくりと首を横に振る。

「激しい拷問を受け犯人に仕立て上げられる可能性があります」

敢志は全身の毛が逆立った。

「外国人を血祭りにあげねば気が済まぬ者、ここで日本人が犯人ならば外交関係に影響が出ると戦々恐々する者、それが入り混じる事となるでしょう。事実、ギルバーツ殿の逮捕までの流れが早かった。その場ですぐに取り押さえられた」

このままではジョヴァンニが犯人にされる。最悪拷問で命を落とすかもしれない。

敢志は迷っていられなかった。

警察へ赴くはずだった足は踵を返す。

「相良さん。庁舎に戻りますか?」

「もちろんでござる。どうにかしてギルバーツ殿の拷問を止めるのが某に今できる事」

「お願いします。俺はここに残って何か手がかりを探ってみます。ジョヴァンニの事よろしくお願いします」

相良は強く頷き、待機させていた馬に跨り、ジョヴァンニの元へと駆けた。

それを見届けて、敢志は黒い塊となった異国荘を見上げる。

「絶対助けてやる。そしてもう一度戻って来い、ジョヴァンニ」

強く燃える黒い瞳は、目の前の建物を燃やした炎以上に熱い。それに近寄る事ができず、眺めていたもう一人の男が敢志の肩を叩いた。

「それでは、今回はギルバーツ氏の代わりに私が伊東氏の相方を務めましょう!」

相方というより、あわよくば何か記事の種を掘り返そうとしている目つきの夏目だったが、敢志は「お願いします」と一時的に助っ人を得た。

そして更にもう1人、男同士の熱い絆を見ていた人間——

「もう話は終わったかしら?」

高飛車な女性が腰に手を当てて仁王立ちしていた。ようやく全身を見るだけの余裕ができた敢志。その女性はドレスと呼ばれる西洋の服を着ていた。赤毛に、栗色の瞳。高い鼻は、捕らわれの伊太利亜人を思わせる。

「聞いていただろ? 俺たちは今から友人を助けるために調査に行くんだ」

「その前に私と一緒にさっきの部屋に来なさいよ!」

「はあ?!」

「まあまあお2人さん」

夏目は完璧にいつもの勢いを吸い取られ、仲裁役に回っている。

「ただってわけじゃないわ! 交換条件として、こちらはこの異国荘の情報をあげるわ」

「え?」

「さっきから話を聞いていたけど、ここの情報もなしにどうやって調査するの? ろ棟は燃えて炭になっているし、い棟だって半分真っ黒だわ!」

「ろ棟? い棟?」

「やっぱり何も分かっていないじゃない。ここの異国荘の建物の各棟の名称よ。これ以上情報が欲しければ、先に私と一緒にさっきの部屋に来て!」

偉そうな女性に敢志は青筋を立てそうになったが、ここは大人しくいう事を聞くことにした。

「分かった。俺は敢志だ。伊東敢志。こっちは夏目さん。あなたは?」

「私はロザンナ・カッパローネよ。ここの異国荘に住んでる伊太利亜人。帝国大学の留学生なの」

フッと毛先が巻いてある長い髪をなびかせるロザンナという女性。

「ロザンナね」

ジョヴァンニの時と違って「さん」はつけない。

「で? 何を取りに行くの?」

「ずばり、アイザック博士の研究資料よ!」


長く細い指を、ロザンナは天に向けた。


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