第六話 江戸商事
数日後、敢志は店を休みにした。
店の格子戸に錠をする敢志をジョヴァンニは何も言わずに見つめる。
その哀愁漂う背中を追いかけ、駅へと向かい二人は馬車鉄道に乗り込んだ。
「品川ぁ、品川ぁ。」
目的地が連呼され、敢志は拳を握りしめた。
「行こうか。」「ああ。」とようやく会話を交わし品川の地へ降り立つ。
迷いなく歩を進める敢志。しかしジョヴァンニにはその足取りが本当は重たく見えて仕方がない。
日本古来の建築物の街並みから徐々に西洋のそれに風景は変わっていく。まるで日本が歩んでいる文明開化の歴史を体験しているような気分になっていると敢志の足が止まった。
「ここだ。」
二人して上を見上げる。
ここいらでは一番高い煉瓦を基調とした建物。上に看板が設置されているが太陽の光がまぶしくて骨格しか見えない。しかしそれが見えずとも、目の前の青銅の看板がこの建物の名称を教えてくれる————三代目社長山科権兵衛が経営する日本屈指の商社「江戸商事」
「これは立派だな。」
荘厳なたたずまいに感服するジョヴァンニ。
「二代目の時にここまで大きくなったんだ。初代の時は木造の小さな商社だったよ。」
あえて父親の名を言わないのは彼の心の中が複雑だからだろう。だが、やはり父親がここまで大きくした商社を目の前に少し顔がほころんでいた。
そして深呼吸をすると木目と彫刻が施された扉を開き、江戸商事に足を踏み入れた。
一階は来客用の為、内装重視の赤いカーペットに中央大階段と豪華絢爛だ。そして行き届いた接客を可能にする為の案内役の女性がいた。その一人が敢志とジョヴァンニに気が付き足早に近づいて来る。
歩き方ひとつ指導されているのが伺える美しい所作の女性に名前を告げる。
「山科社長より伺っております。」
丁寧にお辞儀をした女性が近くの男性に目配せをする。それに瞬時に反応した男性がこちらへやって来た。
「こちらでございます。」
この男性が真の案内役という事だ。こちらも丁寧だが、敢志を時折盗み見ている。
そんな彼は二人を連れて中央大階段を登り、更に別の階段と、どんどん上へと案内していく。
そして何階にいるのか分からないほど登った後、一階と同じくらい手入れの行き届いた階に到着した。長い廊下に扉は一つ、社長室だ。
「本日山科社長は急用で席を外しておりますが、ご自由にお過ごしくださいませ。」
と、社長室の前でお辞儀をする男性。
「私はこちらで待機しております。ご用がございましたら何なりと。」
そして案内役の上げた視線が最後とばかりに敢志をもう一度見つめ、そのまま社長室へ二人を送り出した。
社長室はこれまた権力と繁栄の象徴そのものだった。清志が社長の頃はもう少し質素だったが、今は天井からガラス細工が施されたガス灯がぶら下がり、煌びやかに反射している。
棚には壺や花瓶、皿などが並び、絵画も金の額縁に収められ埃一つ被っていない。
「見事だな。」
「更に大きくなったんだろう。父上の時より豪華になっている。」
そう言って壁伝いに視線を送る敢志。ジョヴァンニも吊られて後を追うと、そこには絵画と白黒写真があった。
絵画の方は初代社長、写真の方が伊東清志だ。
「瓜二つだ。」
「そうかな?」
二人の目元はそっくりだった。清志の方が当然ながら老けてはいるが漢らしい印象を受ける。白黒で本物の色は分からない、しかし敢志と同じ漆黒の瞳の持ち主だった。真っ直ぐに未来を見つめるような視線。敢志もいつかこれを取り戻すことが出来るのかと、亡き父の写真に想いを馳せた。
「それで先ほどの御仁も君を何度も見つめていたわけだ。」
ジョヴァンニが扉の方を見た。
この向こうで二人を待っている男が敢志を何度も見ていた理由はそれだ。
久しぶりに先代を目の前にしている気分だったのだろう。だが、敢志は違った。
「どうせ、あとも継げなかったできそこないと思われているよ。……山科さんとの話聞いていたんだろ?」
「……君は私を本格的に盗聴魔にしたいようだな。」
「じゃあどうして何も言わずにここまでついてきてくれたんだ?」
朝餉の席で敢志は「一緒に来てほしい。」とだけ漏らし、ジョヴァンニは二つ返事で快諾した。
「ジョヴァンニは何も聞いてこなかった。それが答えでしょ?」
正直、思いつめた敢志の表情に何も聞けなかったのが大方の理由だ。それに……
「あの時、店番を任されていたのだ。これで盗聴を認めれば職務放棄をも認めたも同然だ。」
「お咎めなし、と言えば?」
「その時は素直に認めよう。話は聞いていた。」
ぷっと息を吹き出す敢志、そして微笑みながら堂々と白状したジョヴァンニ。
数日前に出会ったとは思えないほどの空気感だったが、二人はそれに気が付くことはなかった。それほどごく自然になじんでいた。
「だが、はっきりと聞いていたわけではない。さすがにご婦人の相手をしながらだったのでね。」
その言葉に、笑っていた敢志の表情に再び影が落ちる。
「無理に話す必要はない。」
「……いや、聞いてほしい。」
二人だけの社長室。
まるで秘密の取引でもしているかのように静かな声で敢志は清志の話を始めた。
————「父上には……。江戸商事二代目社長伊東清志には黒い噂があったらしい。」
わざわざ名前に言い直すその表現に、敢志の中で父親との距離が空いてしまったことが再度伺える。
「黒い噂?」
「そうだ。英吉利人との密輸入の噂が立っていたそうだ。」
山科から告げられた清志の所業は敢志に大きな衝撃を与えた
「しかし噂なのだろう。」
「二代目社長は苦楽を共にしてきた山科さんにも隠れて密輸入をしていた。」
だから山科も「噂」止まりだったのだ。
山科も清志の死の真相を知り、その密輸入説への核心を得た。
取引相手と商談の縺れの上で起こったのがあの事件だったと。
あの大量の食料も、もしかすると海外逃亡の為だったのかもしれない。そして家を燃やしたのは何か見られては困る証拠品が残っていたから。処分する時間はなかった、もう追手は清志のすぐそこまで来ていたのだから。
山科と敢志の持っている情報から導き出した答えは全ての辻褄があっていた。
「なるほど。」
ジョヴァンニも何の反論もないのか、それだけしか言わない。そして俯く敢志に今日の目的を尋ねる。
「それと今回此処を訪れたのにはどんなつながりが?」
敢志は社長室の奥のもう一つの扉を見つめる。
「山科さんが、二代目社長の私物が会社に残っているって教えてくれたんだ。それを引き取りに来た。」
そこに密輸入に関する証拠は何一つなかった。しかし捨てるわけにもいかず、そして敢志の居所も分からずにずっとここに残されていると山科は告げた。ついでに敢志の店の場所を突き止めたのはあの迷惑新聞のお陰だそうだ。
「なるほど。私は荷物持ちというわけか。」
「これで盗聴した事とは相殺だ。」
「反論の余地はなさそうだ。さすが……。と、言っていいな。」
本当は「さすが有名な貿易商の御子息だ。」と言いたかったが、今の敢志には火に油を注いでしまうとその言葉を飲み込んだ。
「行こう。」
自分に言い聞かせるようにして、敢志は父の遺品が残る部屋へと前進した。
木の軋む音をさせて開いた扉。その奥には十畳ほどの部屋が広がっていた。
鏡に箪笥など、ここはどうやら身なりを整える場所だったらしい。
埃を割く様に、二人は部屋の一角へと向かう。そこにあったのは二つの木箱。
大人が両手を広げてやっと運べる大きさで、やはりジョヴァンニを連れてきて正解だったと安堵のため息を零す敢志。
「これだけか?」
「山科さんはそう言っていた。」
「山科殿もよほど君を信頼しているのだろうな。不在にもかかわらず、部屋を開けてくれるなど。」
木箱から離れたジョヴァンニが箪笥に近づく。そして「信頼」とは程遠く、彼は箪笥に手を伸ばした。
「おいジョヴァンニ、それはよせ。」
「しかし、これだけとは限らないだろ。彼の知らない御父上殿の遺品があるかもしれないぞ?」
取っ手を掴んだまま、ジョヴァンニは振り向いた。そして二つの箱に目配せする。
「そうかもしれないけど。」
「だろ?なに、別に盗むわけではない。関係のない物はここに置いていくさ。それに後から遺品が見つかって困るのは君じゃないかい?」
「どうして?」
「何度もここに足を運ぶのは気持ちのいいものではないだろ?」
一理ある。
そして自身を気遣ってくれたジョヴァンニに感謝の念が生まれる。
「今回は一本取られたな。」
「まいどあり。」
手をひらひらと上げるジョヴァンニが商売人の様な事を言う。
「ジョヴァンニが言うと似合わないな。でも、ありがとう。」
「礼には及ばない。では、開けても?」
「頼むよ。」
ジョヴァンニが重厚な引き出しを引くと、桐の匂いがふわりと鼻先を擽った。少し黴臭さも鼻をついたが、それ以上に刺激的な物がそこにはあった。
「これは……。」
「何か入っていたのか?」
「何とも面妖な仮面だ。」
ジョヴァンニの手には狐の面が握られていた。
「それ見せて。」
それを引き出しに戻そうとする手を制する。
「御父上殿の私物か?」
突き出た狐の鼻、目の周りに施された赤い曲線模様、髭は黒色の三本線。
「これ……どこかで……。」
はっきりとはしないが、敢志はこれに似たものをどこかで見た様な気がした。
「祭囃子でも聞こえてきそうだな。」
そうジョヴァンニは言うが、全くその音と一致しない敢志。つまりこれは祭で見たわけではない。これはつい最近どこかで……。
「思い出した!」
ジョヴァンニが確認する前に敢志は箱を持って、駆けだしていた。
「待ちたまえ!」
慌ててジョヴァンニも残りのもう一箱を持って後を追う。
背中で扉を押し開け、「もうよいのですか?」という案内役の男に一礼と感謝の言葉を投げると階段を二段飛ばしで降りた。
何とか二人を追いかけた案内役の男が一階へ辿り着いた時にはもうその姿はなく。むなしく会社の扉がバタンと大きな音を立てて閉まるところだった。
息を上げる男に、受付の女性が近づく。
「どうなさったのですか?」
「急に走って、はあ……行かれて。」
「まあ。」
「はあ……はあ……。本当、顔だけでなくああいうところも伊東社長に似ている。」
懐かしき昔の主を想い、男がもう完璧に閉じられた扉に細めた目を向ける。
「なつかしいものですね。」
そして天井を仰ぐ。
「惜しい人を亡くしてしまった。」
溢れる涙を押さえ、男は誰もいない上の階へ追悼の意を登らせていく。
江戸商事を飛び出した二人。
ジョヴァンニは前を走る敢志に叫んだ。
「どこへ向かうのだ!」
「警視庁!」
「?」
だがこの大荷物だ。「一度弁柄堂に戻ろう。」とジョヴァンニが提案しなければ敢志はこのまま警視庁へ突っ走っていた。
日本橋へ向かう馬車鉄道に乗り込み、二人は必死に息を整えた。
何故敢志が警視庁に向かうのか理由を聞けない程、二人は空気の出し入れに専念した。
ようやく会話が出来るようになった時には駅に到着し、また箱を抱えて弁柄堂まで疾走した。
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