第五話 清志と山科


 敢志は突如現れた山科やましなに動揺していた。お茶の準備も忘れ、ちゃぶ台を片付けた居間に二人で向かい合って正座をする。

皺のない紋付き袴姿の山科。手にしている扇子は閉じていても金粉が装飾されているのが分かる。

「元気そうでなりより。」

「はい。」

初めて出会った時より老けた山科 権兵衛は敢志の父親よりやや年下だと認知している。

 初めて会ったのはまだ敢志が幼少の頃で、「仕事仲間だ。」と紹介された。あの時の山科はまだ髪も黒々としていて、今の様に白髪だらけではなかった。年齢や仕事の疲労が白髪の原因かもしれない。それほどよく働く人だった。

そして伊東 清志と山科 権兵衛の二人のおかげで今の江戸商事は成り立ったと言っても過言ではない。

「いくつになったのかな?」

「もう28になります。」

「そうか、そうか……清志があの博打に出た時もそれくらいじゃったな。」

 最初は小さな問屋だった江戸商事。そこへ大きな博打にでたのは清志だった。

 時は江戸時代、外国を排斥しようとする攘夷論じょういろんが謳歌していた日の元で清志は危険な賭けに出た。伊東 清志は野心家で好奇心が旺盛、いつまでも少年のような無邪気な男だった。

攘夷派も、それを処罰した者も暗殺される時代に海外進出を果たそうとしたのだ。

本人は安政の大獄や桜田門外の変など見向きもしない。

ただ純粋に江戸商事を大きくする事だけを考えていた———その手段が海外との貿易。

「儂も若かったのお。」

 清志の相棒だった山科。

二人のおかげで江戸商事は有名商社となり、ほどなくして功績が認められた清志は早々と二代目社長に就任。それからも精力的に文明開化の波に乗りながら江戸商事を大きくしていった。

「一緒に清志と時代を駆け抜けたのがなつかしいわい。本当に惜しい男を亡くした。」

目頭を押さえる山科。

敢志は山科に清志の死の真相を話していなかった。

遺体は海に沈んでしまい葬儀も取り行われなかった。しかし、社長の死を伝えないわけにはいかない。江戸商事へ赴きそれを告げた後、三代目社長に山科 権兵衛が就任した。

それからは山科とも江戸商事とも関係を断って生き、この弁柄堂に関係者が来る事もなかった。

「ここが敢志君の家なのかな?」

「はい。」

「確か、本家は品川じゃろ?」

「……。あの家は燃えました。それにあそこに俺は住んでいませんでしたから。」

 敢志は、父の様な貿易商になるつもりだった。しかし清志から江戸商事への就職は真っ向から反対され、自身の店を構えるに至ったのだ。

家を出て行くようにとも告げられ、清志本人はその理由を「親の七光りに頼らず自立してみろ。父親が伊東清志であることも隠せ。」とした。

父親に才能のなさを突き付けられたと思った敢志はその後必死に弁柄堂を経営した。

経営のいろはは清志に叩き込まれていた。それを使うのは歯がゆかったが、どんな厳しい現実を突きつけてきても尊敬する父親の教え通りの経営で弁柄堂を回し続けたのだ。

 それは敢志が清志を父親としても商人としても尊敬している証拠だった。

だが、その後尊敬していた父親がとんでもない暴挙に出た。

「家が燃えた? 何故じゃ?」

と、本家が燃えた理由について尋ねる山科に、敢志は重い口を開いた。


 4年前—――1886年の冬。

品川の本家が火事になったと耳にした。慌てて向かうと少年時代の思い出が詰まった家は消し炭になっていた。まだ燻る煙。木材の燃えた臭いが立ち込め、やじ馬や火消しもちらほらいた。事件が起こってまだそんなに経っていない。

片端から聞きまわると、どうやら死者はいないらしい。

それどころか火をつけたのは清志本人だとやじ馬たちは言った。

「どこへ行ったか知っていますか?」

何故清志が自宅に火をつけたのかは分からない。

問い詰めるべく居場所を聞いたが、みな首を横に振るばかりだった。

だが、やはり名の知れた男なだけはある。横浜行きの蒸気機関車に乗ったという情報を手に入れた。

清志と横浜の関係性に心当たりがある敢志はすぐさま横浜へ向かったのだ。


「清志は横浜に何をしに行ったのじゃ。」

「船です。」

「船?」

 俯く敢志は、憎しみと悲しみを堪えた。

とうとう父の相棒である山科に清志の死の真相を話す時が来たのだ。


 横浜港には清志個人が所有している船がある。

敢志はそれに乗って清志が逃走を謀るつもりだと考え付いた。

横浜港に到着した時、天気は曇り。停泊している船の中から必死に清志の船を探す。その間、海の上では低空飛行の鴎が鳴き、頭上に広がる灰色が胸内に渦巻く不安にのしかかる。

停泊する船の奥に知ったものを見つけ、更に胸の鼓動を跳ね上げながら走った。

荷物を乗せている数人の男たち、だが船に乗り込む気は無いようだ。荷物を運び入れたらすぐに降りてくる。

 だが降りてこない者もいた———異国人だ。

「仕事仲間か?」「取引先?」「それとも別の何か……。」答えは自分の目で確かめればいい。

異国人の後を追って敢志も船にこっそりと忍び込んだ。


————ゴウン、ゴウン


 蒸気船のエンジン音が船内に響いている。初めて聞いた時は船ごとその音に攫われて沈むのではないかと心配になったほどだ。

そしてこの音を初めて聞かせてくれた父を探すが何処にもいない。

「ここか?」

貨物室を覗くとそこには食料があった。父やあの異国人が食べるにしては量が多い。

この分量だと海外までは余裕で渡航できる。

離れて生計を立てているとはいえ、勘当を食らったわけではない父とは未だに商売の話をしながら酒を飲む仲だった。そんな清志が果たして敢志に何も言わず海外へ行くだろうか。

 そう思ったその時、震えるエンジン音に混ざって男たちの声がした。

敢志は慌てて食料の木箱の陰に隠れる。

ドスドスと数人の重たい足音がする。敢志が木箱の隙間から覗くと革の長靴を履いた足が数本見えた。

「—――――。」

会話の内容を直ぐに理解することが出来ない。要所要所の丸みを帯びた発音から異国の言葉だと分かる。

息を殺しエンジン音の轟音の中から必死に異国語だけを聞き取る。

「……Japanese……。」

英語だ。

そして日本人の男を探している。黒髪、袴、無精髭—――清志の特徴が上げられる。

去っていく足音が聞こえなくなると、敢志は急いで貨物室を出た。

 どこからか言い争うような騒がしい声が聞こえ、無我夢中で声の方へ向かう。

 行きついた先は甲板、既に船は出港していて、水平線へ向かって進んでいた。

灰色の雲の下、まだ降らぬ雨と雷が起こったかのように清志の流暢な英語と本場の英語が言い合いをしている。

「あれを寄こせ。」「どこへ行く気だ。」「俺たちは英吉利人だ。裁くことは出来ない。」

英吉利人の男たちが何か裁かれる様な事をしたのか。

最初それが何か分からなかったが、鮮血がちらつき理解した。

「父上!」

敢志の声に驚き、清志と男たちが振り向く。

清志と重なっていた大きな身体の隙間から、彼の胸に刺さる刃物と流れ落ちる真っ赤な液体に頭に血が昇る。

「敢志、来るな!!」

敢志は清志の制止の叫びを無視して男たちに突進した。

向かってきた男の一人を投げ飛ばし、次に立ちはだかる男を軽やかに避け清志の元へ駆け寄る。腕を掴まれ必死に振りほどく。

「どけ! 離せ!」

振りほどく瞬間のその一瞬、清志から目を離してしまった。

そしてもう一度、清志を見た時———―もう二度と視線が合う事はなかった。

「父上えええ!!!」

下へと落ちていく足を掴もうと手を伸ばしたが、その手は空を掻く。

「くっ!」

そして敢志は何の躊躇いもなく、白い気泡が大量に浮く海面へ身を投げた。

深く潜水するも、底へと沈んでいく清志に手は届かない。

海底の闇に吸い込まれるように清志は消えていく————その命と共に。



————数年の時を経て清志の死の真相を知った山科。俯いてその表情は全く見えない。

「そうじゃったのか……。」

「はい。その後、船は港に戻りました。俺も泳いで戻ったのですがその時にはもう……。」

あの英吉利人の男たちの姿はなかった。

「警察にも届けました。しかし、取り合ってはもらえなかった。」

「じゃろな。あの頃はノルマントン号事件の後じゃった。」

顔を上げた山科の口からはあの時代のもう一つの事件が飛び出しす。

 ノルマントン号事件、それは清志の死の二か月前、1886年10月24日に起こった沈没事故だ。しかもただの沈没事故ではない。

あの事件も出発は横浜港だった。そこから神戸港へ向かう日本人25名を乗せたノルマントン号が沖合で難破し座礁沈没した。その際英吉利人や独逸ドイツ人などで構成された乗組員は全員救命ボートで脱出。しかし日本人は一人も避難できず全員死亡した痛ましい事件だ。

だが海難審判による乗組員への判決は無罪だった。

「領事裁判権に対する国民の不満が一気に高まった事件じゃった。」

敢志は重たく首を縦に振った。

「そして父上の事件は犯人の捜索も含んでいた為、警察はきちんと取り合ってくれませんでした。」

国民による反発運動を避け、清志の事件は泣き寝入りに終わってしまった。

だが、敢志はあの日の事を一度も忘れた事はなかった。

実の父親の死という簡単な理由だけではなく、清志がいくつかの謎を残していたからだ。

「山科さん。」

「なんじゃ?」

「父上は、どうして家を燃やしたのでしょうか。そして何故英吉利人なんかに追われていたのでしょう。」

生前の父親の怪しげな行動を山科なら知っているかもしれない。

あの時は死の現実から全てを投げ出し、弁柄堂の経営にだけ没頭し亡き父親に自分がなろうともがいた。

だが、ようやく落ち着き、こうやってかつての清志の相棒が現れた今、あの謎が敢志の中で大きくなり始めていた。

「山科さんなら何かご存じでは?」

「……。」

一度開いた口を山科は閉じた。

何かを躊躇うような仕草に敢志の心がざわつく。

「教えてください。どんなことでもいいんです。」

敢志の真っ直ぐな視線、それを受け止めた山科がゆっくりと口を開いた。

「一つだけある。」

「何ですか?」

「敢志君にこのような事を言ってよいか分からんが……。清志には一つ黒い噂があった。」

「黒い……噂?」

 敢志の中で清志の姿が、彼の沈んだ海底の闇の様に黒くなっていく。

それを払拭するかのように生唾を飲み、山科の話に耳を傾けた。

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