第四話 二人目の客
「さてと。」
両手を叩き敢志は気合を入れた。
そして格子戸を全開にする。
取引先や昨日の事件で二日も閉まっていた弁柄堂に日の光が差し込む。
「俺は今から準備があるから、どこかに出かけてもいいけど? ずっと家にいるのも退屈だろ。」
しかしジョヴァンニはワイシャツの袖を捲った。
「勿論君が嫌でなければ店の方も手伝うつもりだ。家政婦兼従業員とでも思ってくれればいい。」
確かにウロウロしている間に事件解決の吉報が来ても困る。
「お願いしようかな。はい、これ。」
敢志は土間ほうきと竹ほうきを渡した。
「こっちが店の中、こっちが店先……。」
ジョヴァンニに掃除の手順を教える。
そして土間ほうきと石の床が擦れる摩擦音を背後に浴びながら、家の中へ向かう。
在庫を保存していた二階の物置はジョヴァンニが使っている。
仏間に移動した箱から商品を取り出しながら、視線を仏壇に移す。
手にしていた箱を置き、仏壇の前に正座をした。目を瞑り、そしてゆっくりと手を合わせる。
昨日は挨拶ができずに申し訳ありませんでした。
慌ただしい一日の末、伊太利亜人の……。
「……。」
両親への日課の挨拶の途中で敢志は目を開けた。
ジョヴァンニを何と表現すればいいか迷ったのだ。
居候だが、家事も店の手伝いもしてくれている。だが家政婦とも従業員とも違う。
そして同居人と言うにはまだほど遠い。しかし、相良も言ったように境を感じさせぬ距離感にもうずっと前から一緒に住んでいる感覚だ。
そのせいか、ジョヴァンニの存在を何と表せばよいのか分からない。
遠くで土間ほうきの掃く音が竹ほうきに変わる。
そしてもう一度目を閉じた。
慌ただしい一日の末、伊太利亜人のジョヴァンニとここで過ごすことになりました。
髪の毛の色が父上を殺した英吉利人に似ています。
彼に調子を崩され歯がゆい気持ちもしますが……。
それでも彼とは————何とかやっていけそうです。
亡き両親への報告を済ませ、ハッとなる。
これではまるで自分がこれからもジョヴァンニと一緒に過ごすみたいではないか。
「事件解決までだ。」と何度も心の中で唱え、在庫が入っている箱を前に仕事に取り掛かる。
そうこうしているうちに表から騒がしい声が聞こえ始め、何事かと店に顔を出した。
子ども向けの菓子が多い弁柄堂には珍しく、女性の声がする。
そしてその通り、竹ほうきを持ったジョヴァンニが着物や袴を着た女性に囲まれていた。
「綺麗ねえ。」「その
聞かずともどこで情報を仕入れてきたか分かる
「あら伊東さん!」「
そして何度見ても整った顔だと再認識させられた。
「おはようございます。」
敢志が出てきたことで警戒していた男たちも安心したのか近寄ってきた。
「ほらあんた、何もなかっただろ?」
と、近寄ってきた男の妻が言う。
「そらよお、いくら伊東のあんちゃんの店っていってもだなあ。」
ジョヴァンニの事を知り見物に来た夫婦。妻の方はこの店の常連だ。週に一度饅頭を買っていく。亭主の方は、妻の誕生日にこそこそ現れては一番上等な和菓子を買っていくのだ。
会話の内容から、妻は異国人でも物怖じせず、逆に亭主の方が足踏みしていたようだ。
「こんな良い人の所に変な人が住みつくわけないじゃないの!」
「でも、いいいたりあじんなんて見た事もねえし。」
「伊太利亜人よ。失礼しちゃうわねえ、この人ったら。」
女性の好奇心の旺盛さとそれに対する怖いもの知らずなところは商売の強い味方だ。
全員ではないが新商品に最初に目が行くのは女性。「新商品」という単語にもめっぽう弱いのだ。
「これを機に異国の甘味も並べたら?」
ジョヴァンニを囲む輪から上がった提案に、「やはりか」と敢志は思った。
これは前から言われているし、一度考えた事もある。
だが、清志の事件が起こりその考えは綺麗さっぱり消えた。
「考えておきます。」
「もお、何度もそういって並べないじゃない。」
「ちゃんと考えておきますよ。」
いつもと同じ返答をする敢志。
しかし、消え去った計画がまた甘い匂いをさせ始めていることを心の鼻は掠め取っていた。先日食べた焼き菓子の芳醇な香りがもうしてきそうだった。
早くもジョヴァンニから興味がそれた子どもたちは菓子に夢中になり始めた。
ここしばらく店を開けていなかったせいで饅頭などの生菓子もなく、物見に訪れていた町人たちも少しずつ家に帰っていった。
「黒糖饅頭なら明後日には用意できますよ。」
「なら、それを10個ばかりお願いできる?」
「はい。」
敢志の接客の様子を見て覚え込むジョヴァンニ。
英吉利人に恨みを持っているとは到底思えない敢志の人当たりの良い表情。
そして、朝方集まってきた町人の様子から彼が日本橋の人たちに愛されていることが分かる。そのおかげで変装などせずとも、日本人と楽しく会話をすることが出来た。
ジョヴァンニが変装を解いたこの姿で、こんなにも日本人と話したのは本当に久しぶりだった。
しかしそれでも、腫物を扱うような視線には敏感だ。
刺さるような視線を感じ、敢志から視線を逸らす。店を見渡すと、この菓子屋には不釣り合いな男と目があった。ジョヴァンニと目が合うとすぐに逸らした男が今度は敢志を見る。
普通の客とは違う。商品を持っているわけでもない、だが商品を物色している様子もない。
その男は敢志をただジッと見ていた。
男が踵を返そうとしたが、直感で不信感を抱いたジョヴァンニは声をかけた。
「失礼。」
その声に男だけでなく、敢志も反応する。
ジョヴァンニに声をかけられ足を止めた男がゆっくりと振り向く。
ジョヴァンニの知らない男、だが敢志は違った。
男の顔を見た瞬間、黒糖饅頭を注文してきた客の横をフラフラと通りすぎ、男の側にやってきた。
「あなたは……。」
敢志の声は震えていた。それに応え軽く頭頂部の薄い頭を下げた男。
「やあ、敢志君。」
「どうしてここに……。」
動揺する敢志がジョヴァンニに消え入りそうな声で話しかける。
「ジョヴァンニ、店番を頼めるか?」
「ああ。」
急に様子が変わった彼に戸惑いながらも、ジョヴァンニは店番を引き受けた。
奥へどうぞと敢志が男を促し、また丁寧に一礼すると男は敢志の後をついていった。
二人が居間の方へ消えた後、黒糖饅頭を注文していた女性とその連れの女性がひそひそと会話を始めた。
「あの人まさか。」
「ええそうよ、新聞で見た事があるわ。」
「あの御仁をご存じで?」
ジョヴァンニは、ヒソヒソ話をする女性に微笑みながら話しかけた。
一瞬彼に見とれた女性たちが頬を染めながら手招きをする。
紅をさした口元に耳を寄せれば、あの男の正体を教えてくれた。
「あの方、
名前を聞いても全く脳が刺激されない。
「
更に情報が追加されたがそれでも心当たりはない。だが、とても偉い人で自分とは関係ない事だけは分かった。
「こんなところに何しに来たのかしら。江戸商事って品川よね?」
「ええ。確か先代の社長の時世に海外進出まで果たした大きな商社よ。」
遠回しに弁柄堂との規模を比較された気分になっていると、女性の一人が手で口を覆った。
「どうかなさいましたか?」
と、ジョヴァンニは尋ねたが女性は目を泳がせるばかりだ。
「……。もしかして……。」
まだ口を覆ったままモゴモゴと話す。
「山科 権兵衛が社長に就任したのは数年前。その前の先代の社長さん……。」
泳いでいた目が、とんでもない事に気が付いたと更に揺れる。
「お名前を確か———伊東 清志さんというの。」
「?!」
もう一人の女性もその苗字に反応を示す。
「伊東ってまさか。」
「しっ! 声が大きい! 苗字だけよ。」
二人は苗字だけと言うが、ジョヴァンニはその名をよく知っている。
敢志の亡き父親の名にジョヴァンニの瞳も激しく揺れ、二人が消えて行った居間の方を見つめた。
透視でもするかのように目を細める。
そしてこの奥にいる大商社の社長と、それ以上に大きな存在に息を呑んだ。
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