第四話 残された髭
敢志は急に目の前に現れた異国の男に動悸がした。
普段は問題ない。しかし、狭い部屋と
酸素が上手く肺に送られず天を仰ぐ敢志の姿は、酸素を求め浮上する魚類のようだ。
深く息を吐き、落ち着く為に目を閉じればあの日の光景が浮かんでくる。
船の上、甲板に追い込まれた中年の男。胸からは血を流し、刃物を持った異国人たちに囲まれている。上空では不気味に鳴く海鳥。
そして、大きな水しぶきと共に中年の男は海に落ちた。
沈んでいく男に敢志は手を伸ばしたが、その手が届くことはなかった。
あの時の青い圧迫感と底の闇が今の倉庫と重なってしまう。
「敢志はん!」
「えっ?」
松世の声が敢志を過去から引き戻す。
「何してまんの? 早く助けんと!」
まだ立ち尽くす敢志を尻目に松世が足元で横たわる異国人の頬を叩く。
「兄さん、兄さん!」
しかし全く反応がない。
「大丈夫。脈はあるみたいやわ。でも、無理に動かすわけにはいかんし……。文ちゃん、手拭いと水を持ってきて!」
「はい!」
このような事態にもしっかりと行動する女二人に敢志は置いてけぼりだ。
「俺、警察を呼んできます。」
ようやく出てきた言葉に松世が睨みを効かせる。
「お馬鹿さん!それは文ちゃんに任せるから、敢志はんはここにおって。やないとさすがに男には勝たれへん。」
怪しい男の元に女だけを置いていこうとするほど思考が混乱していた。
「すみません。」
深呼吸をして松世の横にしゃがみ込み、異国の男の顔を見る。
異国人特有の高い鼻、そして髪色に、服装は洋装で
しかし、燕尾服の代名詞でもある燕の尾の様な上着は着用していない。
「持ってきました!」
文が水の入った
松世がそれを硬く絞り異国人の額に置く。
すると一瞬だけ髪色と同じ梔子色の眉が動いた気がした。
「起きひんな。文ちゃん、隣の若さんに警察とお医者さん呼びに行くようお願いしてくれる? 足がえろう速いからすぐに呼んできてくれるはずや。」
「分かりました!」
再び文が部屋を出て行った後、敢志は松世に噛みつくように話しかけた。
「医者って、この人の為ですか?」
「そらそうや。ここで死なれたら嫌やさかい。」
「異国人なんてさっさと警察に突き出せばいいのに。」
歯を食いしばりながら下を睨み付ける敢志から異国人に対する異様なまでの憎悪を感じ、松世は話を逸らした。
「せや。逃げたシルクハットの方とはどこでおうたの?」
笑顔とまでは行かないが、少しだけ穏やかな表情に戻った敢志。
「あの人とは、あの事件の時です。蒸気機関車の中で、俺を助けてくれました。」
「そう……。それやのに何で逃走なんかしはったんやろ?」
「……。もしかすると、この異国人を気絶させてしまって逃げたのかもしれない。」
「ってことは、この兄さんは?」
「牛若丸に侵入した野菜か肉泥棒では? あと、シルクハットの老人は牛鍋を持って逃げたそうですよ。それで殴ったのかも。」
その言葉に松世がハッとなる。そして倉庫の中を忙しなく漁り始めた。
床に散らばる箱から、棚に残された箱の中までくまなく調べている。
「ない。」
「えっ?」
一番冷静だった松世が今度は取り乱し始めた。
「あの鍋は、ただの鍋とちゃいますの!」
敢志は牛若丸にもう十年以上通っているが、そのような特別な鍋の存在は聞いたことがなかった。
「ああ、どないしましょう!」
頭を抱えてしゃがみ込んでしまう松世。
「あの鍋、高級品なんですか?」
「高級ではないの。でも、でも……。ご先祖様から代々譲り受けた……。」
それはさぞかし貴重な物だと感心した敢志だったが、松世の次の言葉に鳥肌がたった。
「呪いの鍋なんどす。」
「の、呪い?!」
「はい。何でも江戸時代にあの鍋で人が殴り殺されたとか。」
足元に転がる異国人の脈を敢志はもう一度確認する。
生きていた。
「それ以来、夜な夜なあの鍋から呻き声がするとかなんとか……。」
過去を思い返していた時とは全く違う寒気と圧迫感に襲われ、今すぐこの倉庫から出たくなった。
「そんなもの何でここにあるんですか!」
「捨てて呪われても嫌やし、かといって家に置いとくのもなあ……。ここなら野菜も置いてあるしあの鍋も寂しくないやろ?」
笑顔で理解不能な事を言う松世に肝が据わっているのかどうなのか分からなくなる敢志。
「では、この異国人はその呪いの鍋を盗みに来た変わり者?」
「そうかもしれんなあ。まあ、あえなく気絶させられたわけやけど。」
「しかし、あの老人はこの異国人から鍋を守ったのに、それを持って逃げるなんておかしくないですか?身を守るために殴った可能性もあるのに。」
敢志の推理では、異国人が盗みの為に牛若丸に侵入、それに出くわした文と老人。
そして倉庫に入った老人と異国人が格闘の末、老人は呪いの牛鍋で異国人を殴ってしまう。気絶した事で焦りを感じ逃げてしまったのではないか—————と、考えていた。
が、その推理を覆すような言葉が背中から投げられる。
「あの方は、老人なんですか?」
隣の若旦那に言伝を頼んだ文が戻ってきていた。
文の言葉に松世が首を傾げる。
「どういうこと文ちゃん?」
「あの高い帽子、ええと、しるくはっととやらを被った男性は老人なのですか?」
文の疑問視する言葉に敢志と松世は目を合わせ、お互いの記憶を確かめる様に視線を交差させる。
「御髭があったような。」
「はい。俺も髭で老人だと……。」
あの特徴的なカイゼル髭は一度見れば忘れない上に、最初に目につく。
そしてシルクハットも、あの老人を象徴する特徴だ。
それ以外は……。
「……。」
それ以外、敢志は何もあの老人の事を知らない。
名前も、年齢すらも何も知らない。服装もきちんと見ていない。
だが、あのカイゼル髭で勝手に老人だと思い込んでいた。
「私、倉庫に入っていく前にあの方に手を握られました。」
文は触れられた手の甲を撫でる。
「とても滑らかで、ご老人の皮膚とは程遠かった。そしてとても綺麗な目をしていましたわ。そんな方が私を牛鍋で殴ろうとしたりするでしょうか。」
悲しそうな目で文は敢志を見つめた。
訴えるような目に混乱する頭を整理しようと敢志は頭を掻いた。
「逃げた男の特徴もあのしるくはっととやらです。帽子は誰にでも被れます。だったら、逃げたのが最初に倉庫にいた人間。そして今この目の前にいるのが……。」
認めたくなかった。
しかし、文が踏みとどまった敢志に答えを突き付ける。
「この異国の方がその老人なのでは?」
「……。」
黙り込む敢志。
既にその答えに気持ちが固まった文と、一理あると頷く松世が敢志を見つめる。
「でも、この異国人には髭が生えていない! あの一瞬で髭を全て抜くなんて不可能だ!」
「敢志はん……。」
「俺は認めません。あの老人がこの異国人だったなんて!」
どうにか文の答えを覆そうともがく敢志の横顔が見ていられなくて、目を逸らした松世が何かを見つけた。
「これ、何やろか。」
異国人が右手に何かを握りしめている。隙間からはみ出た黒い物体。
丁寧に一本一本指を開いてそれを取り出す。
「敢志はん、文ちゃん! これ……。」
松世がその黒い物体を敢志に渡した。それは……。
「髭だ。」
立派なカイゼル髭だった。
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