第三話 牛鍋窃盗

 牛若丸の店内は左右に三つずつ一段高い場所に個室が完備されている。外国の料理だが、個室の床は畳が敷かれていて落ち着いて食事ができる。左側の真ん中の個室に上がり、老人と向かい合って座る。

「待っといてな。」

松世は暖簾をくぐり奥へと消えた。

向かい合って座る老人は、敢志がずっと握りしめている『日報謎怪』を指さす。

「読まないのかい?」

「碌な事書いてないでしょ?」

「非常に興味深かったよ。私たちの推理を根底から覆していてね。」

乾いた笑いを漏らしながら老人は髭を扱う。

個人情報まで載り、奇怪な推理を展開する内容に目を通そうとしたが、松世がお盆を二つ持ってきたので、『日報謎怪』は畳の上に放られた。

「どうぞ。」

先にちゃぶ台の上に湯気の立つ湯呑が置かれる。

二人で朝の冷え込みにやられた身体を温める為に湯呑を口にすると老人の動きが止まる。

「失礼。女将さん、厠をお借りしても?」

「はい。場所はこの奥の……。」

湯呑とは別の盆に乗った朝餉を並べながら松世が老人に厠の場所を教える。

「暖簾を潜って突き当りを左ですね?」

復唱しながらカイゼル髭を扱う老人のこれは癖だろうか。

「お手伝いの文ちゃんがおるはずやから分からんかったら聞いたらええよ。」

「分かりました。ありがとうございます。」

もう一度場所を確認して老人は店の奥の暖簾を潜った。

そこは壁に蝋燭の明かりが灯った廊下が続き、右側の炊事場からは味噌汁の良い匂いが漂っている。

しかし、そこは目的地ではない為、更に廊下の奥へと進む。突き当たりを左に曲がると廊下がまた続き奥に厠へ続く扉があるのだが、その廊下の壁にもたれて若草色の何かが蹲っていた。

恐る恐る近寄るとそれは若草色の着物を着た少女で、先ほど松世が言っていた「文ちゃん」だと推測する。

「大丈夫かい?」

文の震える肩に手を添えると、彼女は肩以上に震える指先で厠への扉とは別の扉を指さした。

「ここは?」

何の用途に使われている部屋か尋ねたが、怯えているのか口は開いているのに文は声を出すことが出来なかった。

文の様子からただ事ではないと感じ取った老人。

彼女を連れて敢志の元へ戻ろうとしたが、部屋からカラカランと物が落下する音がして動きを止める。

誰かが中にいる。店員でないのは明らかだ。

誰かを呼びに行っている間に逃げられるかもしれない。だが、ここで声を上げて助けを呼べば相手に気づかれてしまう。

文の肩に添えている手に力を込め、ゆっくりと解放する。

「少し待っていたまえ。」

立ち上がる老人の身の危険を感じ、文は彼の手を掴んだ。

首を激しく横に振るが、老人はそんな文に優しく微笑んだ。

「大丈夫。心配はいらないよ。」

握られた手を握り返し、文を安心させる。

老人の滑らかな皮膚に、文はハッと顔を上げたが、一瞬だけ老人のガラス玉の様な瞳と交差したのみで彼は背を向けてしまった。

そしてゆっくりと引き戸を開け、老人は部屋の奥に入っていく。

—————ガラガラ、ガラ…ゴン!!

「?!」

先程より物が激しく落下する音や男性の言い合う声が聴こえてきた。

文は誰かを呼ばなければいけないと頭では分かっているのに腰が抜けてしまい動く事が出来ない。

「……。」

激しい音がしていたのに、今度は完璧に静まり返っている。

高鳴る心臓を押さえ、若草色に皺が寄る。

「……。もしもし。」

小さく声をかけても返事はない。人がいるのかすら疑ってしまう程で逆に恐怖を感じる。

震撼する空気の中、文は必死に声を絞り出す。

「あの……。」

ガサガサと音がした後、扉がゆっくりと開く。

「ああ、よかったご無事で。」

文の目の前にはシルクハットとそして……。

「それは。」

手に牛鍋が握られていた。

「中は、大丈夫でしたか?」

何故牛鍋を持っているのか気になりはしたが、彼の無事に文は駆け寄った————が、目の前で牛鍋が振り上げられる。

「きゃあああああ!!!!」

振り降ろされる牛鍋。少女は頭を守って蹲り、迫りくる激痛に覚悟した。

だが間一髪、牛鍋の動きを止める声が響き渡る。

「やめろ!」

蹲る文が顔を上げると店内へ通じる廊下に敢志が立っていた。その後ろには松世も。

「ちっ。」

舌打ちをし、牛鍋を持った人物は文に一撃を食らわすことなく厠の方へ逃走した。

「待て!」

「文ちゃん!」

「女将さん!」

敢志はシルクハットを被った牛鍋窃盗犯を、松世は蹲る文の元へ駆け寄った。

「大丈夫?怪我しとらん?」

文を抱きしめる松世を置いて敢志は厠へ続く扉から出て行く。

厠に隠れていない事を確認して、続く裏口から外へ出る。隣の建物との間の狭い路地を華麗にすり抜け表へ出るが……。

「どこへ行った。」

朝餉の時刻はとうに過ぎ、人通りが増えた通りの真ん中で左右に首を振る。

しかしあのシルクハットは見えない。

「すみません。シルクハットを被った老人を見ませんでしたか?」

近くにいた町人の男を掴えて尋ねる。男は心当たりがある表情になる。

「ああ。それならあっちの方へ走っていったよ。鍋を手に持っていたけど、ありゃなんだい?」

それはこっちが知りたい。

敢志は男に礼を言ってその方向へ走った。

しかしどこにも見当たらない。

「くそ。」

どこかの家に隠れたのか、それとも足に自信のある老人なのか、どちらにしてもこれ以上の捜索は無理だと諦めた。

牛若丸の方も心配だと、袴が崩れるのもお構いなしに再び走って戻る。

裏口から入ると、まだ同じ場所で松世が文を慰めていた。

「文ちゃん、大丈夫?」

敢志も駆け寄る。

「しっ。」

しゃがむと直ぐに松世の人差し指が敢志の口元に添えられる。

そしてその人差し指がゆっくりと目の前の部屋を指す。

松世の瞳は緊張していて、文の瞳も怯えた色をしている。

「まだ誰かいるの。一人じゃなかった。なのに出てきたのは帽子の人だけだった。」

シルクハットの老人ともう一人言い合う男の声を聞いたという文の話に敢志は冷や汗をかいた。

「待っていてください。俺が行きます。」

今頼れるのは自分しかいない。

その男が何者かは知らないが敢志は覚悟を決めて部屋に近づいた。

なるべく音を鳴らさないように引き戸を開ける。

「……。」

扉に隙間が出来るたびに妙な緊張感に襲われる。

そして徐々に隙間から中の様子が分かってくる。

床には箱や野菜、食器が散乱していて、この部屋の用途が倉庫だと分かる。

しかし今は綺麗に並べられている棚から落下し、床に転がっている。

いくつか食器の破片が見え、更に扉を開く。

すると……。

「足?」

床に投げ出された長い足が見えた。

そして足から上半身の方へ視線をずらしていくと、暗い倉庫ながらも外からの明かりであまり見た事もない髪色が目につく―――梔子くちなし色の髪が。

全く動かないそれに敢志は数日前のあの光景が頭をよぎり、心臓が止まりそうになった。が、今はそれどころではない。

「人が倒れています!」

てっきり反撃でも食らうかと思っていたが、動かぬ人間に違う一大事を感じ倉庫へ飛び込む。

「大丈夫ですか?!」

その人物はうつ伏せに倒れていた。

無理矢理仰向けにすると、端正な顔つきをした男で、さらに短髪とそれを染め上げる梔子色に敢志は腹の底から熱い何かが込み上げた。

黒く渦巻く熱い思いを無理矢理飲み込み、敢志は刺々しく一言呟いく。

「—――異国人。」




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