第五話 異国人と老人

 その髭からはふわりと微かにデンプン糊の香りがした。障子替えの際に使う糊の匂いに、昔破っては怒られた記憶が蘇る。

「ちょっと失礼。」

松世もその匂いに気が付き、よく嗅ごうと丁寧な所作でカイゼル髭に鼻先を近づけた。

「糊の匂い……。まさかこれ、付け髭とちゃいます?」

敢志の脳裏に昨日の迷惑記者『日報謎怪』の夏目の言葉が過る———変装した未確認生物。

「変装……。」

真実が口から飛び出した。

あらまあ、と松世が頬に手を添える。

「あのシルクハットのお方、老人でも日本人でもなかったってことやんな?完璧に騙されとったわ。」

「そのようです!」

助けられた文も賛同した。

しかし、俯いた敢志が黒く染まった声を出す。

「ありえない。異国人が誰かを助けるだなんて。」

目の前の異国人があの老人だったならば、自分を蒸気機関車で助けたのもこの異国人という事になる。

憎むべき相手に自分が助けられたのだ、許せるわけがない。

「でも、これなら全ての辻褄もあうんとちゃいます?」

老人は目の前の異国人だった。

彼は文を残し倉庫の侵入者と対峙。しかし何か不慮の事故で気絶させられてしまった。

その時、衝撃で落ちたシルクハットを被り、牛鍋を持って侵入者は逃走。倉庫の外にいた文に姿を見られたと思い殴ろうとした。

何も矛盾しているところも、変なところもない。

「でも……。」

異国人が善意を働くわけがないという先入観を植え付けている敢志は倉庫を見渡す。

まだ何か見落としている物は無いか必死に探した。

その姿こそ盗人のようだった。

そこへドタバタと足音が近づいてくる。

「御免!」

制服に身を包んだ警察官だった。

「事件があったのはここで間違いないか?」

警察官が松世と文から事情を聞く。

その後ろからやってきた別の警察官が倒れている異国人をつま先で小突いた。

「おい起きろ!」

何度も小突く警察官の腕に松世がしがみついた。

「ちょっとお待ちを!」

「この人は違うんです!」

文も彼が無実であると信じ、ぞんざいな扱いを止めようと身体を張るが警察官は二人を引き剥がした。

女子おんなこどもの意見など聞いておらん! おい貴様、手伝え!」

敢志を睨み付ける警察官。

「敢志はん! あきまへん!」

松世の必死な声が倉庫に響く。

今ここで異国人を突き出してしまえば、鬱憤も少しは晴れるかもしれない。

だが、真実を知ってしまった。

それなのにそれに背いて彼を警察に突き出すなど敢志の中の仁義が許さなかった。

心の中で過去の異国人に対する恨みと、仁義が葛藤を繰り広げる。

「この人は……。」

倒れている異国人を見下ろす敢志。

梔子色の髪色は、あの日船の上で見た男たちと同じ色。

意識を失った表情も、目が覚めればあの男たちの様に悪に満ちた笑みを浮かべるかもしれない。同じ人間とは思えないその存在は数年間敢志の心に憎悪と殺意を芽生えさせていた。

しかし、もし目の前の異国人があの老人であった場合、彼は恩人だ。

あの絶体絶命を救ってくれた人物なのだ。その相手に対してこのような仕打ちをするような男に敢志は育った覚えはない。

閉じられた瞼の下に眠るガラス玉の様な瞳を思い出し、敢志の心も波が退いていくように穏やかになる。

そして正義感や仁義の熱い波が返ってくる。

敢志は一歩前へ踏み出した。

「この人は。」

大股で迷いなく異国人を小突く警察官へ歩き、その腕を握りしめた。

「窃盗犯じゃありません。」

事の状況が理解できていない警察官にもう一度はっきり告げる。

「この異国人は犯人ではない。そんな扱いをするのは止めてください!」

そう言い放った途端、足元で端正な顔の口角が上がった気がした———いや、上がったのだ。

「?!」

誰もが目を見開いた。

後ずさる警察官、松世と文は口元に手をやり、敢志も息を呑む。

驚く全員の目の前で、気絶していたとは思えないほど、軽やかに異国人が上半身を起こした。

「ふう。」

そしてシルクハットの影になっていない瞳は一点を見つめながら、口を開いた。

「ありがとう、青年。」

老人とは思えない軽い声がした。

「君たちの言うとおりだ。私は日本人でもなければ老人でもない。そして勿論……。」

ゆっくりと立ち上がる異国の男。

「窃盗犯でもない。」

ガラス玉のような瞳が強く輝く。

シルクハットはもうない。

だが、まるでそこにあるかのように前髪を人差し指で弾く。

「初めまして。私の名前はジョヴァンニ・ギルバーツ、以後お見知りおきを。」

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