第二話 現れる客車

 横浜駅を出発してしばらくすると《蒸気機関車に乗り遅れた不幸な男》に更なる災難が訪れる。

「うっ…」

膨らんだ胃を撫でていた手を口元に持っていく。喉に力を込めて焼き菓子をどうにか食い止めたが、少しでも気を抜けばここで汚物をぶちまける羽目になるだろう。

もちろんこれは問屋の主人の仕業ではないし、敢志が菓子嫌いというわけでもない。それに彼は菓子屋を営んでいるため、むしろ菓子は大好物だ。

「大英帝国め…」

原因は大英帝国―詳しく言えばたらふく詰め込まれた大英帝国の菓子と、激しく揺れる大英帝国の乗り物にある。そして敢志は大英帝国の人間が大嫌いだった。その単語を聞くだけでも青筋が立ち、殺気を放ってしまう。

今自分がその単語を呟いた事ですらあの事件を思い出させ、更に胃袋に刺激を与えてしまう。

「くそ。」

客車に一人きりなら手ぬぐいにでも嘔吐してしまいたいが残念ながら一人ではない。通路を挟んだ反対側の席にはシルクハットを被った男性が座っている。進行方向に向かって座席が並んでいる為、前列の様子は分からないが声が聞こえる。もういっそ窓から嘔吐しようとも考えついたが、あの独特の嗚咽の音を消す術は思いつかず、早く新橋駅に着くことだけを祈った。

そして必死に耐える敢志の身体が自然に前のめりになる。

「…?!」

新橋駅まで止まることのない蒸気機関車が停車したのだ。窓から外を確認するも、木々と夜の視界、そして黒い煙が車体の上ではなく横に流れている為、煤汚れた闇が広がっていた。乗客はどよめいているが、外から「定期点検」という野太い声が聞こえ、車内は落ち着きを取り戻していった。

逆に揺れがなくなり、敢志は今のうちに体力の回復を図ろうと目を瞑り深く腰掛ける。この後、日本橋まで馬車鉄道に揺られなければならないかと思うと、耳の奥では馬の鳴く声と蹄の音が聞こえ更に気が滅入る。

「おお動いたぞ。」「早く着かないかしら。」と声が聞こえ始め、再び蒸気機関車は出発した。ちょうど同じ頃、通路を歩く足音がして敢志が目を開けると書生姿の男が横を通り過ぎた。そのまま客車後方の扉、つまり客車の出入り口から外に出て行った。風にでもあたりに行ったのだろうか、扉のすぐ近く、最後方の座席に座っていた敢志は扉から出て行く男の険しい横顔まではっきりと見えた。しかし、これがいけなかった。

「ううう。」

揺れる客車内で不用意に顔を上げたことで、胃袋の中の焼き菓子が暴れだす。まだ男が客車に戻ってきてはいないが、もはやこれまでかと仕方なく立ち上がり自身もその扉からデッキに出た。そして全てをぶちまけるつもりだったのに、焼き菓子は綺麗さっぱり胃袋に納まってしまった。

「どうして…」

敢志は確かに横浜駅で最後尾の客車に乗り込んだ。しかもすぐに降りられるように客車の最後方の座席にも座った。しかし今、敢志の目の前には最後尾の客車からは決して見ることのできない光景が…もう一つ連結された客車の姿があったのだ。

「どうして客車が増えているんだ。」

敢志はデッキでこの不可思議な光景に立ち尽くした。客車なのに明かりの類が漏れていない、しかし窓がついている形状から貨車には見えない。そして、あの書生姿の男の姿もない。まさかこの真っ暗な客車に乗り移ったのだろうか…しかし何故?今度は込み上げる好奇心に喉をゴクリと鳴らす。そしてデッキの策に手と足をかけ、突如として現れたもう一つの客車に窓から侵入した。

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