第一話 不幸な男


「やはり今日は厄日だ。」


蒸気機関車の硬い木製の座席で袴姿の男が目を覚ますと、手には血塗られた刀が握られていて、通路にはその刀の餌食になった人物が死体となって横たわっていた。もちろん殺したのは自分ではない。しかし、周りの乗客の視線は誰が犯人なのかを示している。

そんな視線を浴びながらどうしてこうなってしまったのか必死に頭を回転させるが、誰かを殺した記憶は全くない。だが、この蒸気機関車に乗った記憶だけはたしかに存在していた。





─1890年 某日


伊東いとう 敢志かんじは横浜駅から蒸気機関車で新橋駅に向かわなければならなかった。そこから馬車鉄道でさらに日本橋まで行くと彼の店があるのだ。その店で売る商品の仕入れの為に横浜へ来ていたのだが、いつもの問屋で帰り際に足止めを食らってしまった。

「伊東の若さん、まだ時間はあるかね?」

「若さんなど、よしてください。もう二十と八にもなるのですから。」

年齢で世辞を取ろうとする問屋の主人に裏があるのはお見通しだ。しかし、これからも商売で世話になる手前、無下にもできず草履に伸ばした手を引っ込めて客間へと逆戻りした。日本家屋にとって付けられたような西洋の客間の長椅子に座った途端、問屋の主人が自分の娘を呼ぶ。

「ほれ、お房。」

最初から計画されていたのだろう、お房と呼ばれた娘は盆に何やら菓子を乗せて表れた。

「お久しゅうございます伊東様。」

丁寧に頭を下げたお房が盆の上の菓子を敢志の前に置く。見たこともない菓子に敢志が顎を掻いていると主人が手を差し出しクイクイと動かす。

「西洋菓子だよ、君の口にも合うと思うがね。」

敢志は眉を顰め、頬を痙攣させた。

「西洋?」

「大英帝国のクッキーという焼き菓子でな。なかなか芳醇な味がするのだよ、ほれ一枚。」

目の前のクッキーと呼ばれた甘味に殺気にも似た視線を敢志が放った為、一瞬お房がたじろく。

「遠慮しておきます。どうも自分は異国の甘味と相性が悪いみたいで。」

過去に何かあった事を匂わせるが主人は引こうとしない上にお房も退席しようとせず、父親の後ろで身を潜めて立っていた。これはまた例のアレだろうと気が付き、無理矢理焼き菓子を押し込み「馳走になった。」と乾燥しきった口内を動かしながら部屋を出ようとすれば手首を掴まれる。

「まあまあ、もう一枚。」

この西洋の焼き菓子を売り込みたいのか、それともやはり例のアレなのか?が、主人の思惑など知ったことではない。こうなればさっさと胃袋にすべて流し込んで帰ってやるとやけくそになった敢志が最後の一枚に手を伸ばした時、部屋の空気が代わり本題に入った。

「ところで若さん、世帯を持つ気はないのかね?」

手にした焼き菓子が指圧で割れる。

やはり例のアレ─婚約の件だ。

「全くありません。」

はっきりと言う。いつもこう伝えているのに主人は、娘のお房と敢志を結婚させたいと企んでいた。

結局日が暮れても甘い焼き菓子と甘い話を交互に出され、気がつけば帰りの足がなくなる時間帯に差し掛かっていた。それを理由にそそくさと退散し、ガス灯が灯る横浜の街を駅まで駆け抜けた。

しかし、

「今日は厄日だ。」

大英帝国からやってきた「陸蒸気」こと蒸気機関車は、黒い煙と敢志を一人残して新橋へと向かってしまった。文明に取り残された敢志は生暖かいため息を盛大に吐きながら結われた黒い長髪を翻す。

そして探していたものを見つけ目を細める。指でなぞりながら時刻表を確認すると、あと一回だけ希望が残っていた。

「どっこいしょ。」

安心感と疲労感任せに乗り場に座り込み、もう一つの厄である焼き菓子のせいで膨らんだ腹を撫でる。

「大英帝国…」

そう呟きながら…


そして夜風に当たること一時間と少しばかりで再び黒い煙を吐き出しながら蒸気機関車が入ってきた。最後尾の客車へ乗り込み空いている席へ座る。


そしてゆっくりと蒸気機関車は新橋へ向けて出発した。


この時はまだ《蒸気機関車に乗り遅れた不幸な男》のはずだった。

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