ミニマム級のパンチ

「いいかー? ここテストに出すから覚えとけよー」


 教室には間の抜けた中年男性の声。

 俺の額には滴り落ちる冷たい汗。視界に映るのはクラスメイトの背中と、脹脛ふくらはぎ。姿勢は匍匐前進に近い。が、腕を動かし、脚を動かし、前に進む俺がいる。


 クラスメイトは前方の黒板を凝視して、最後尾の机の背後を這う俺の姿には誰も気付かない。あとは、教卓に立つ、教師からの目視に気をつけるのみ。


 教師が視線を逸らすと、俺は縦にズラッと並ぶ机の背後を這って進む。

 一つ、また一つと、無数の机が織りなす通路を越えて、目的の場所へと近づいていく。


 そして、目的の場所がある列へ。


 ここからは、どう足掻いても、人の目についてしまう。諦めるか、否、前進あるのみ。


 なぜ、そこまでするかって?

 そんなの、決まってんだろ。


 アイツを、あのクズを、ぼっちにさせないためだ。


 ささささ。っと、机の間をかき分け、机を三つほど進んだところで、透き通るような白い足が目に止まる。

 顔を上げ、見上げると、凛と美しく咲く花ような美少女が、こちらを蔑むような目で睨んでいた。


「キモ」


 キーンコーンカーンコーン。


 チャイムが鳴り、教師が号令をかける。

 一斉に動く椅子。物音や足音が、床に伏せているからか、地鳴りのように耳に響く。が、俺の目的は達せられた。


 俺は勢いよく立ち上がり、開口一番、


「お望み通り授業中に四つん這いして、授業終わった瞬間に声を掛けてやったぜ? 千歳!」


 今日一、いや、月一の笑顔で言ってやった。


「クラス全員が奇異の目でお前を見つめていたがな」


「何!? 誰一人としてそんな素振りは……」


「優しさだな。下等生物の分際で人に気が遣えるとは、意外な発見をしたよ」


 千歳はため息を吐いた。

 なんか、ムカつく。


 千歳千李。

 顔はアイドルでもセンターを張れるくらいに可愛いのに、性格がゴミ。控えめに言ってクズ。だから親しい友人も、恋人もいない。正真正銘のぼっちだ。


 少しムカつく奴ではあるが、俺と千歳は同じぼっちで、目指す場所も同じ。

 俺は仕方なく、このクズと絡んでいるに過ぎない。過ぎないのだ。


 かくいう俺達ははたから見れば『偽リア充』。この状況を利用してすぐに本物のリア充になろうという魂胆なのだが、いまいち偽リア充の恩恵を受けているか、実感がないのだ。


「……なあ?」


 そこで俺は聞いてみることにした。


「あ?」


「偽リア充をやっていて、効果はあるのだろうか?」


「効果?」


「いやその、目に見えた効果というか、偽リア充をしていて、リア充に近づけてる実感がないんだ。友達も増えないし」


 すると、千歳は小馬鹿にしたような笑いを浮かべる。


「いや、受けてるでしょ」


「例えば?」


「お前は友達いないから知らないだろうけど、最近クラスではこんな噂が回ってる。『千歳千李と西八尋は付き合ってる』って」


「あー」


 なんか、いつぞやのトイレで聞いたな、それ。


「それって凄いことだと思わない?」


「いや」


「だって。今まで西八尋といえば、ぼっちで関わりたくなくて童貞でキモくてゲイで、話題にも出したくないようなぼっちだったじゃない?」


「悪口の宝箱か、お前は」


「それが今じゃクラス中の話題の中心よ?」


 まっさかぁ!


 ……いや。


「さっきから俺への視線が、いつもの四〇倍くらいな気がする」


「それはお前が授業中に嬉々として四つん這いで這って彼女の元にやってきたから、みんな恐怖を感じているだけよ」


「なんてことさせてくれてんの!?」


「本当は彼女でもなんでもないのにね」


 千歳は笑って言う。

 やっぱり、千歳の笑顔は可愛い。


「何よ? 人の顔ジロジロ見て」


 すぐキレるのが、難点なんですけど。


「いや、なんか、言いづらいんですが……その、やっぱり可愛いなって」


「言われ慣れてトキメキもしないわ。あと、照れてんのがキモさをより一層引き立たせてるわよ?」


「……そんなこと言ってるから、ぼっちなんじゃないんすか?」


 すると、千歳の顔が真顔に、目が鋭く尖る。

 冗談で言ったつもりだったが、千歳の逆鱗に触れてしまったらしい。


「つまり? なに?」


 凍ってしまいそうなほど、冷たい声だ。

 つまり? って。分からないのか?


 この際だから教えてやるか。


「何がそんなに不満なんだ。お前の容姿ならいくらだって友達や彼氏くらい作れるだろ。要はお前次第じゃないのか? お前がもっと人に気をつ」


「──不満って……、不満があるのはそっちじゃないっ!」


 千歳は思いっきり机を叩いて、立ち上がる。


「えっ……」


 キツく睨むその目と、目が合う。少し、赤く、潤んだ瞳。


「西君なら分かってくれると思ってたわ……!」


 と、言い放ち、右の頬に、千歳の右拳がのめり込んだ。


「ぶごぉぅっ……」


 俺の体は吹っ飛び、机をガタンガタンと倒して、地面にへたった。

 頭がぼんやりする。何が起きたのか、理解できない。

 殴られた……?

 千歳に、殴られたのか……?


 そして、ジンジンと、頬が熱く、痛くなる。


 痛えぇぇぇええええ!!! 痛えぇぇぇええええよぉぉぉおおおお!!!


 顔を上げると、すでに千歳の姿はなく、千歳は走り去っていた。

 俺は机を掴んで、ゆっくりと体を起こす。すでに、教室内に千歳の姿はない。


「……ええぇ……」


 周囲の人間は何が起きたのか分からず、また、俺も何が起きたのかまだあまり理解できず、教室内にはただひたすらの沈黙が流れた。

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