Act.4 呪いと秘薬と取引
瞬間移動によって学園の正門前に飛ばされたミリア達を待っていたのは、事情を知っているであろう教師数名と守衛。そして何と、学園の長であるオズワルド・ヴァレンティアだった。
何らかの騒動に巻き込まれた事は一目瞭然だったらしく、詳しい経緯を説明する前に、ミリア達は学園の中へと通された。
意識を失ったエルクが運び込まれたのは、『治癒室』と呼ばれる怪我人の介抱などに使われる部屋だ。広い室内にはベッドが八つ、等間隔に置かれていて、一つ一つが白いカーテンで仕切られている。壁際の薬品棚には包帯や湿布の他に、見た事もないような薬がいくつも収納されている。
エルクが横たえられているのは『治癒室』の一番奥、窓際のベッドだ。彼の容態を診た治療師の先生は、今のミリアにはとても真似できないような高度な魔術で治療を施した後、学園長に報告してくると言って部屋を出て行った。
ベッドの傍にあった木製の椅子に腰を掛け、ミリアは静かにエルクを見つめている。
治療師の先生は部屋を出る際、
「無断で学園を抜け出した事は褒められないが、キミが選んだ
と、優しげな顔で言ってくれた。
だが今は、素直に喜ぶ気にはなれない。あまりにも色々な事が起き過ぎたからだ。
(……魔術師、なんだよね。エルクも……)
真相を聞き出す暇がなかったとはいえ、確定事項なのは間違いない。
ただ、そうなると新たな疑問が涌く。
なぜ彼は、素性を隠してこの学園に入学したのだろう?
魔術師であるのなら、騎士を志望する必要はない。あれだけの力量があるなら、最初から『魔術科』に入ればいいはずだ。
だが彼はそうしなかった。まるで自分を、死地に追いやろうとするかのように――
「……ここは……」
「! エルク……! 具合はどう?」
ぼんやりと考え込んでいたミリアは、微かな声を聞いて跳ね起きるかのように椅子から立ち上がった。
目覚めたエルクは、やや疲れた表情でミリアを見つめ、次いで周囲に視線を巡らせてから、浅く溜め息を吐いた。
「そうか……。学園に戻ってきたのか……」
現状を把握したらしいエルクは、ゆっくりと上半身を起こし始めた。
手伝おうとするミリアを、エルクは右手で制す。そんな、どこまでも人を頼ろうとしない少年の姿に、ミリアは自然と胸が痛くなるのを感じた。
聞きたい事も、問い質したい事もたくさんある。
だが何から聞けばいいのか、どう問い質せばいいのか、ミリアには判断が付けられない。
結果、互いに何も口にする事ができないまま、ただ時間だけが過ぎていった。
「――失礼する」
一体どれくらいの間、重い沈黙が室内を支配していたのかミリアにはわからない。だからこそ、その凛とした声は、驚くほど強く響き渡ったように感じられた。
二人からは死角になっている位置から姿を現したのは、やけに神妙な面持ちのリンディだった。彼女が現れたという事は、ミリア達が持ち出した『
エルクが目覚めていた事に少々驚いた様子で、彼女は口を開く。
「気が付いていたのか。身体の調子はどうだ、ディアフレール」
「……問題ありません。ご迷惑をお掛けしました」
軽く頭を下げ、謝罪の言葉を口にするエルク。
途端、エルクを見つめているリンディの目が、ほんの少しだけ細められた。
「迷惑になるとわかっていて学園を抜け出したのか。随分と質が悪いな、新入生」
「……」
「……とにかく、目覚めていたのなら丁度良い。今から私に付いて来てもらおう。もちろん二人共な」
まだ来たばかりだというのに、リンディは事務的な口調で告げると、踵を返して出て行こうとする。
「先生、一体どこに……?」
問い掛けるミリアと、無言でベッドから降りるエルクに対し、リンディは静かにこう返答した。
「ヴァレンティア学園長がお呼びだ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「失礼します」
扉を数回ノックし、丁寧に開いたリンディは、ミリアとエルクを室内に招き入れると、後ろ手に扉を閉めた。
部屋の両脇には本棚や収納棚が立ち並んでいる。作業机の背後には大きな窓があり、中庭を一望できるようになっているらしい。
「学園長。ミリア・クロードライト、エルク・ディアフレールの両名を連れて来ました」
二人の背後から報告するリンディに対し、椅子に座しているオズワルドは、「ご苦労様」と労いの言葉を掛けた。
机の上で両手を組み、ミリアとエルクに視線を向ける。
「すまないね、大変な思いをしたばかりだというのに。どうだい、少しは落ち着けたかな?」
「……はい」
「……俺も、特に問題ありません」
「そうか。それは何よりだ」
ニコリと微笑むオズワルドだったが、その笑顔が建前である事はわかる。こうして学園長室に呼び出されている時点で、談話が目的ではないのは明白だ。
「どうしてキミ達二人をここへ呼んだか、すでにわかっているとは思うが一応確認しておこう。『
「……はい」
やや俯き加減で返事をするミリアとは対照的に、エルクは無言のまま真っ直ぐにオズワルドを見据えている。
返事をしないエルクに憤る様子も見せず、学園の長は続ける。
「違反をした以上、罰を与えるのが道理というものだが、私はまず理由を知りたい。なぜキミ達が規則を破ったのか。なぜ破ってまで、あんな場所へ行く必要があったのか。……その辺りの事は、どうやらキミに尋ねるのが正解のようだね、エルク・ディアフレール」
「……わかりました。なら、結論から言わせてもらいます」
意を決したように、エルクは一歩前へと進み出た。
揺らぎのない瞳でオズワルドを見つめ返し、真剣な口調で続ける。
「俺は、魔術師です。……いや、正確には『元』魔術師、と言うべきかも知れません」
紡がれた魔術師という言葉に反応し、ミリアは思わずエルクに視線を送った。
ミリアの視線に気付いたのか、エルクは微かにこちらを見たが、すぐに視線を前へと戻してしまう。
「『元』、とはどういう事だ?」
背後の入口付近に佇んでいるリンディが尋ねると、エルクはしばし瞑目した。
やがて、ゆっくりと双眸を開くと、静かに語り始める。
「俺は幼い頃、実の両親に捨てられ、孤児として彷徨っていました。行く宛てもなく、途方に暮れていた時です。俺が魔術師に――師匠に出会ったのは」
自らの過去を語る少年の声はいつもと違い、どこか優しげで、同時に儚げだった。
彼が孤児だったというのも中々に衝撃だが、かつて魔術師に救われたという共通点がある事に、ミリアは内心驚いていた。
決して楽しい事ばかりではなかっただろう。だがそれでも、話している内に自然と懐古してしまったらしい。エルクから発せられる覇気が、若干弱まっていく。
「流れの魔術師だった師匠は根無し草で、気紛れに大陸の各地を転々としている人でした。そんな師匠に拾われて、一緒に大陸中を
彼が一旦、言葉を区切った時だった。それまで穏やかだったエルクの表情が、瞳が、揺らいだのだ。
その理由をミリアが察するより早く、ほんの少しだけ顔をしかめたエルクが答えを口にする。
「今から五年程前です。師匠は、魔術師に殺されました」
「!」
思いがけない言葉を耳にして、ミリアは自然と息を呑んだ。
エルクにも何か暗い過去があるのではないかと、想像した事はあった。
だが彼とミリアでは、決定的に違う点がある。それは、死をもたらした存在が竜ではなく、人間だという事。意思の疎通も、会話も成り立つはずの相手が、憎むべき仇だという事。
悲しみや憎しみの重さは同じでも、エルクとミリアでは種類が違う。それは僅かな違いなのかも知れないが、その僅かな差が、ミリアには計り知れないものだと感じられた。
語り手たる少年は、やや視線を下げながら続ける。
「一体どこの誰だったのか。何が目的だったのか。あの魔術師に関しては、今でもわからない事の方が多い。その最たるものが、魔術師が俺に掛けた『呪い』です」
「『呪い』……?」
訝しげに眉をひそめるオズワルドに対し、エルクはブレザーのボタンを外して脱ぐと、シャツを捲って左胸の辺りを露わにした。
オズワルドの傍まで移動したリンディも、驚いたように目を瞠る。
あくまで騎士として鍛えられた上半身の、ある一点。丁度心臓と重なるくらいの位置に、禍々しく波打った形をした、刺青のような黒い紋様が刻み込まれている。
まるで、人間を嘲笑う悪魔の顔にも見えるそれに、エルクはそっと右手を当てる。
「これを刻み込まれた事で俺の身体は、一定量以上の魔力を練ろうとすると、病魔に冒されたかのような症状に襲われるんです。もし今の状態で『呪い』を受ける以前の本領を発揮すれば……間違いなく、俺は死にます」
「……!」
やけにハッキリと言い切るエルクの様子から、ミリアは途徹もなく嫌な想像をしてしまった。
彼はまさか、『呪い』がどれ程の影響を身体に及ぼすのか試したのでないか? それも中途半端にではなく、本当に死にそうになる所まで。
「それ程までに、この『呪い』は強力で厄介な代物なんです。この五年間、自分が知り得る限りの解呪法をいくつも試してみましたが、どれも効果はありませんでした」
「ふむ、確かに奇妙な話だね……。キミの師匠は、その魔術師に関する事は何も?」
思慮深げなオズワルドに尋ねられ、エルクは瞑目しながら首を左右に振り、答える。
「確かめられるような状況ではありませんでしたし、あの時の俺には、そんな余裕もありませんでした」
「……そうか。まぁ、無理もない」
軽く息を吐き、オズワルドは椅子の背凭れに身を預けた。すると傍らに立っているリンディが、彼の代わりとばかりに口を開く。
「その魔術師の件、『教団』には通報したのか?」
「……いえ、していません」
「なぜだ? 殺人を犯した人間が野放しになっているんだぞ? 捕まえようとは思わなかったのか?」
「何の手掛かりもない子供の与太話を、あの『教団』が信じると思いますか?」
ややきつい口調で詰め寄るリンディに、エルクは冷静な態度で質問返しをした。
仮にも相手は学園の教師であるというのに、エルクは一歩も引こうとしない。落ち着いているようには見えるが、明らかに熱が籠り始めている。
「手掛かりが全くない訳ではないだろう。現にキミの師匠は殺され、キミの身体には『呪い』とやらが刻まれているんだ。それらをありのまま通報すれば、彼らも――」
「動きませんよ、あいつらは」
リンディの言葉を遮ったエルクの声は、恐ろしいほど冷たかった。まるで冷気そのものを発しているんじゃないかと、ミリアは疑ってしまいそうだった。
黙する教師二人に追い討ちを掛けるかの如く、エルクは容赦なく発言する。
「竜に関わる事以外で、あいつらが動く訳がない。それは俺なんかより、先生方がよくご存知なんじゃありませんか?」
「――」
反論が返って来ないのは、彼の言う通りだからなのだろうか。
例え十割的中ではなかったとしても、オズワルドやリンディに思い当たる節があるのは間違いない。そうでなければ、ここまで黙り込んでしまわないはずだ。
「――話を戻すが」
随分長い沈黙が続いた後、オズワルドは仕切り直すかのように背凭れから身体を離した。
無論、先程の質問に答えようとする気配はない。
「つまりキミは、その『呪い』を解く方法を探る為に、この学園に入ったという訳か。あくまでも魔術師としてではなく、騎士として」
「はい。魔力を精製しようとさえしなければ、日常生活には影響がありませんから」
「では今回の一件で『
「……そうです。『魔草薬学』方面の知識は、この学園に来てから得たものだったので、まずはそこから試してみようと……」
「なるほどね。そしてあの場所に行った所で、竜の群れに遭遇したという訳か」
ようやく得心がいったという様子で、オズワルドは頷く。
と、突然彼の視線が、長い事会話に加われずにいたミリアへと向けられる。
「ミリア・クロードライト。キミの方はどうしてあんな所にいたんだい? 彼の話を聞く限り、キミは事情を知っていたようには思えないのだがね」
今まで蚊帳の外だった分、少々気を抜いていたミリアは、内心焦りながら姿勢を正した。
「私は……何も知りませんでした。知らなかったからこそ気になったんです。エル――彼が、何か隠している事を感じていたので……。だからその……、彼の後をつけて確かめようとしたら……」
「今回の顛末に至った、という事か……。全く、随分と無茶をしたものだね」
「……すみません」
申し開きができない以上、平謝りに徹するしかないミリア。が、反省している事は伝わったらしく、オズワルドは追及しようとはしなかった。
(……って言うか私、今かなり凄い事してない? 学園の一番偉い人と普通に話しちゃってるし……)
一対一ではないのがせめてもの救いか、などと呑気な事を思うミリア。
その間にも、オズワルドは話を進めていく。
「キミ達の事情はわかった。だが内容が内容だけに、罰を与えてそれで終わり、という訳にもいかないだろうと私は思っている。――キミはどうだい? リンディ」
「罰を与えるのはもちろんですが、どのような方法を取るかは学園長にお任せします。今の所、私には良い案が浮かばないので」
「そうか。では一つ、私から提案したい事がある」
机の上で手を組んだオズワルドは、不敵な笑みを湛えながらこう切り出した。
「『
いきなり『魔草薬学』の授業のような質問をされ、ミリアは首を傾げてしまう。名称からして、恐らく魔術に関係する薬だろうと推測できるが、もちろん答えを知っている訳ではない。
黙して、自然とエルクに視線を送ると、彼は僅かに頷いた。
「……昔、書物で目にした覚えがあります。ありとあらゆる怪我や病魔を打ち消す超高難度精製薬であり、『神の霊薬』とも呼ばれるほどの代物だ、と」
「その通り。では、なぜ超高難度精製薬と呼ばれているのかはわかるかい?」
「必要となる希少な材料の中に、竜の身体の一部が入っているからです」
「ほう、流石だね。『騎士科』に入っているのが勿体無くなる逸材だ」
「……今はただの魔術師崩れですよ」
謙遜ではなく、本当にそう思っているような顔付きで、エルクは苦笑してみせる。
「そう。彼の霊薬が超高難度と言われる由縁は、竜素材を入手する困難さにある。キミ達も授業で習ったとは思うが、未だ解明されていない『灰化』という謎の現象によって、竜達の身体は死後数秒の内に灰となって消え去ってしまう。角や牙、鱗や骨どころか、流れ出た血液でさえ、全てが無に帰してしまうんだ」
オズワルドの言う通り、『灰化』現象についてはミリアも『竜識学』の授業で習った。それについさっき、その現象を自分の目で確認したばかりである。
エルクが魔術によって退治した、ディノドラゴンの群れ。あれらも生命活動が停止した途端、青緑の灰となって虚空の彼方へと消えていった。
まるで最初から、そこには何もなかったかのように。
「だが文献にも記されているように、稀に身体の一部だけが『灰化』せずに残る事があるのも事実だ。可能性は限りなく低いが、
面白がるように、ニコリと笑ってそんな事を言うオズワルド。
対してエルクは、戯れ言に付き合う気がないのか、拍子抜けしたような顔で切り返す。
「どうするも何も、俺にとっては夢物語に過ぎません。仮に運良く竜素材を手に入れられたとしても、その他に必要だとされている素材も、希少な物ばかりだったはずです。第一、肝心の精製方法がわからないのでは作りようが――」
「ああ、それなら心配はいらないよ」
やけに自信ありげにエルクの言葉を遮ったオズワルドは、続けてこう言い放った。
「実はね。本物かどうかはわからないが、精製方法はここにあるんだよ」
「「はっ……!?」」
あまりにも唐突かつ馬鹿げた発言に、会話していたエルクだけでなく、ミリアも思わず口を挟んでしまった。
さすがに冗談だろうと思っていると、オズワルドは作業机の引き出しを開け、しばらく中を漁ってから一枚の古びた羊皮紙を取り出した。
丁寧に丸められ、紅いリボンで固定されているそれを机の上に置き、オズワルドは楽しげな口調で喋り出す。
「おまけに、ここに書かれている希少な素材達は、全て揃えられている。あと足りないのは竜素材のみ。それが揃えば、本物かどうかはわからないが、一応薬を精製する事ができるという訳だよ。――少々回りくどくなってしまったが、これが私から提案したい事だ」
両手を組み、再び不敵に笑うオズワルド。
どこか得体の知れない不気味ささえ感じてしまう雰囲気に、ミリアは微かな寒気を感じた。
「……条件は何です?」
「うん?」
「惚けないでください。薬の精製方法と材料を提供する為の条件は何なのかと聞いているんです」
勿体振っているオズワルドに苛立った様子で、エルクは会話を促そうとする。
しかし、学園の長は揺るがない。悦に浸るかのように、楽しげな笑みを浮かべる。
「
「……他に道はないでしょう。それとも、断れば見逃してもらえるんですか?」
「残念ながらそれは無理だねぇ。これは私からの提案であると同時に、キミ達に与える罰でもあるのだから」
「! キミ『達』……?」
オズワルドの発した言葉に引っ掛かったエルクが、訝しそうに眉根を寄せる。
するとオズワルドは、拍子抜けした様子で肩を竦めてみせた。
「何だいその顔は。まさか、罰を受けるのは自分だけだと思っていたのか、エルク・ディアフレール?」
「――!」
問われ、今更のようにこちらを振り向くエルク。ミリアを見つめるその表情は、冷静な彼には似つかわしくない驚きに満ちていた。
どうやら彼は本当に、ミリアまで罰の対象に含まれているとは思っていなかったらしい。
ミリアとしては、自分も当事者だと認識した上で話を聞いていたのだが……。
「あの……続けてください。私も、罰を受けるのは当然だと思ってます。だから気にせず進めてください。条件って、何なんですか?」
「――だそうだよ。キミのパートナーは物分かりがいいね」
「……」
余計な一言を付け加え、不服そうなエルクを牽制するオズワルド。傍らのリンディが咳払いをすると、彼はわざとらしく居住まいを正した。
「私から出す条件は二つある。一つ目は、素材の調達を必ずキミ達二人だけで行う事。我々教師陣の力を借りたり、別の人間に助けてもらうのも禁止する。そして二つ目は、二週間後に行われる中間試験で、五番以内の成績を修める事」
右手の人指し指と中指を立てた状態で、オズワルドは告げる。
先程までの笑みを消した、冷徹な表情で。
「この二つの条件が満たせなかった場合、キミ達にはこの学園から去ってもらう」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
(……面倒な事になってきたな)
学園長室を後にしたエルクは、やや落ち着かない気分のまま校舎内を歩いていた。浅く息を吐き、もう一度頭の中で冷静に現状を整理し始める。
素性がバレてしまった。
自分が魔術師である事が。身分を偽って学園に入学した事が。
とはいえエルク自身、元々学園に在籍する教師達を騙し通せるとは思っていなかった。
仮にも天下の『
だが現実は、彼が思っていた以上に過酷なものだったらしい。
(まさかこんなにも早く露見するとはな。我ながら情けない限りだ)
一体どこで選択を誤ってしまったのか。
自問すると思い浮かぶのはやはり、斜め後ろを歩いている少女の存在だ。
入学式の日。『
『央都』近郊は『教団』の監視が行き届いているとはいえ、竜が出現する可能性がない訳ではない。『
無視する事も、しようと思えばできた。
だがもしも……という不安と懸念が、自然とエルクの背中を押していた。
竜の恐ろしさは誰よりも知っている。
絶望の中に、一人取り残される恐怖も。
だから少女の後を追い、予感が的中していた事を悟った時は、自身でも驚くほど安堵したのだ。
魔術を制限されたこの身でも、下級の竜一頭くらいなら撃退できる。死の淵から、少女を助ける事ができる。
だが、それこそが間違いだったのだろうか。
あの時彼女を助けていなければ。
あの時彼女と知り合っていなければ。
こんな面倒な事態に、陥る事もなかったのではないか。
(俺みたいな人間が、今更人助けしようとした報い、なのかもな……)
自虐的な事を考えつつ、苦笑する。
たらればの話に意味などない。戻るものなどありはしない。それはエルク自身、過去の経験から骨身に染みてわかっている事だ。
後悔という名の甘言に縋る暇があるのなら、これからどうするかを考えた方が遥かに有意義だろう。
小さく頭を振り、思考を切り替える。
(……それにしても、気になるのは
あの人を喰ったような笑みを思い浮かべると、微かにだが眉間に皺が寄ってしまう。
真偽がわからないものとはいえ、『
学年主任リンディ・マーフェス。普段から軍人然としている彼女も、オズワルドの発言には驚きを隠せなかったようだ。
慈悲や情けで手を貸してくれている訳ではない事くらい、エルクも承知している。ならば学園の長を務めるあの男は、一体何を企んでいるというのか。
(……とにかく、今は目の前の問題に集中するべきだな。俺に与えられたのは『猶予』であって『許可』じゃあない)
腑に落ちない点はいくつかあるが、それに気を取られていては足許を掬われる。成績という結果を残せなければ、問答無用で学園を追われる羽目になるのだから。
成績と素材集め。現状では、果たしてどちらが得やすいものなのか……。
「――あの、エルク」
色々と考え込んでいたエルクは、背後から名前を呼ばれ、我に返って立ち止まった。
振り返ると、薄紅色の髪の少女と目が合う。
「……何だ?」
「さっきは、勝手に色々決めちゃってごめんなさい。関わるなって言われたのに、結局こんな事になっちゃって……」
申し訳なさそうに目を伏せる少女からは、普段の明るさが感じられない。どうやら、こんな結果を招いてしまった原因は自分にあると、反省と後悔を繰り返しているようだ。
正直、彼女に対して思う所がない訳ではないが、全てを彼女のせいにしてしまうのは筋違いだろう。
それに、謝る事ならエルクの方にもある。
「……別に気にしていない。それに、謝るのは俺の方だ。気遣ってくれた人間に対して、『目障りだ』は言い過ぎだった。……すまない」
「そんな! エルクが謝る事なんてないよ! 勝手に付いて行った私が悪いんだし、私が余計な事したから……エルクの素性が……」
尻すぼみに勢いをなくすミリアは、俯いて言葉を切った。
そんな殊勝な態度も取れるのか、と僅かに感心する一方、これでは話が進まないと思い直すエルク。
短く息を吐き、頭を切り替える。
「過ぎた事をいつまでも気にしていたって始まらない。とにかく、こうして関わる事になった以上、足を引っ張るのだけはやめてくれ。俺がそう易々とここを去る訳にはいかないように、お前もここを離れたくはないんだろ?」
「……うん。頑張る」
ようやく顔を上げ、力強い返事をするミリア。表情からも、幾分憂いが晴れたように感じられる。
だいぶ彼女らしさが戻ってきた事を確認しつつ、エルクが踵を返そうとした時だった。
「――あのっ、エルク!」
さっきと同じ呼び掛け方だが、今度のは声に込められた気合いが違っていた。再び制止されたエルクは、一瞬その違いを怪訝に思う。
が、再度目にした少女の表情から、エルクは何となく次の展開が予想できてしまった。
恐らくここで黙っていようといるまいと、厄介事を吹っ掛けられるのは間違いない。ならばさっさと済ませてしまった方が、時間を無駄にしなくて済む。
目の前の少女が相手なら、特に。
「……何だ?」
「この際だからその、ちょっと協力してほしい事があるんだけど……」
前置きを挟みつつ、ミリアは意を決したような表情を浮かべて、改めて口を開く。
「私に、魔術を教えてくれない?」
我ながら、嫌な予感だけは外れた事がない。
真摯な表情の少女を見つめ、エルクはそんな事を思った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……思っていたよりも手厳しい少年だ。それなりの修羅場を潜っているからこその性格なのかもしれないが、相対する側にとってはやり辛い事この上ないね」
「本当によろしかったんですか?」
「ん? 何がだい?」
惚けて尋ね返すオズワルドに、作業机を挟んで佇むリンディは、冷やかな視線を浴びせてくる。
「彼らを擁護する訳ではありませんが、先程の条件、些か厳し過ぎるのではありませんか? 成績の方は努力次第で何とかなるかも知れませんが、素材の調達を彼らだけでとなると、身の安全も保証できかねます」
「そうかな? 現に彼らは竜の群れに襲われながら、ああして生きて帰ってきているじゃないか。つまり、やり遂げるだけの実力は兼ね備えているという事だろう?」
「それはあくまでディアフレール個人の能力であって、クロードライトはその限りではありません。危険な事に変わりはない! そもそも
やや乱暴に作業机に両手を置くリンディ。その表情から察するに、憤っているのは明らかだ。
「落ち着き給えよ。別に私は、彼らを死なせようとしている訳ではないのだから」
「詭弁だ、そんなものは」
「……やれやれ、埒が明かないな」
背凭れに身を預けつつ、オズワルドは溜め息を吐く。そして冷徹な表情を浮かべながら、戦いを挑むかのような口調で告げる。
「そんなに気に喰わないのならば、私を『教団』にでも突き出すかね? 『央都』のお偉方が、キミの話をまともに取り合ってくれるという自信があるのなら、私は一向に構わんが」
「……!」
青い髪の少年が指摘した通り、オズワルドは知っている。『騎士魔導連合教団』――通称『教団』は、竜関連の案件に対しては積極的な姿勢を示すが、それ以外に関してはその限りではない。
無論、無法者を放置するような真似をする訳ではないが、竜への対処を何よりも優先するが故に、他が疎かになっている感は否めない。
どういう経緯があったかは知らないが、あの少年もその辺りの事は理解しているらしい。
少なくとも、目の前の一教師よりは。
「……この件はいずれ他の生徒達にも露見しますよ。彼の様子から察するに、自身の素性を隠し通すつもりはないようですし」
どこか悔しげに話題を逸らすリンディに、オズワルドは追い討ちを掛けようとはしない。話題を逸らしてくれるなら、彼にとっても好都合だ。
「まぁ、そういった事は不器用そうだからねぇ、彼は」
「学園長とは正反対ですね」
「はて、何の事かな?」
あからさまな皮肉を聞き流し、オズワルドは涼しい顔で微笑んだ。
そんな彼の様子が気に喰わなかったのか、リンディは僅かに顔を顰めて呟く。
「……知りませんよ。この先何が起きても」
「心配しなくていい。何も起こりはしないよ」
複雑そうな表情を浮かべるリンディと、あくまでも余裕の表情を崩さないオズワルド。
両者の間にしばしの沈黙が流れたが、やはり軍配はオズワルドの方に上がった。不服そうなリンディは無言で一礼すると、足早に学園長室から出て行った。
リンディが立ち去り、室内に静寂が戻った頃。オズワルドは一人不敵に笑いながら、閉じられた扉に向かって視線と言葉を投げる。
「キミが懸念する程度の事は、何もね」
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