Act.3 露見
ミリアが入学を果たしてから、もうすぐ半月が経過しようとしていた。
未だ魔術の授業には悪戦苦闘しながらも、どうにか食らい付いているミリアではあったが、そんな彼女に追い討ちを掛けるかの如く、更なる難関が訪れようとしている。
そう、中間試験である。
『竜識学』、『史世学』、『魔導機学』の三つの筆記試験と、遠征地にて『騎士科』と『魔術科』の合同で行われる実技訓練が、中間試験の内容とされている。
筆記試験の範囲は各授業毎に開示されるので、きちんと勉強しておけば特に問題はない。しかし、実技訓練の方は話が別だ。
なぜなら実技訓練の詳しい内容が、試験当日の一週間前になるまで明かされないからだ。
どこへ向かい、どのような地形、環境下で何をするのか。情報が開示されるまで対策が打てない以上、生徒達は実に肩身の狭い思いを強いられる事になる。
無論、ミリアもその一人だった。
しかも彼女の場合、共に試験を受ける相方が相方だけに、普通の生徒達に比べて悩みの種が多いと言えるだろう。
(前途多難だよなぁ……。魔術も全然上達しないし……。このままじゃエルクに迷惑掛けちゃうよ……)
合同の実習や試験がある時は、必ずパートナーを組んだ相手と一緒に受ける。
そういう決まりがある以上、ミリアの相方はあのエルク・ディアフレールであり、何か特別な事情でもない限り、変更される事は有り得ない。
自分のパートナーが、未だまともに魔術を操れない半端者だと知ったら、あの少年はどう思うだろう。そんな風に考えると、ミリアは気落ちせずにはいられなかった。
もちろんミリア自身、きちんと努力はしている。初日の授業での失敗を糧に、放課後などにも練習を続けた結果、あの時のような暴走を起こす事はなくなった。
しかし、どうやらミリアは精製した魔力を術そのものに変換するのが不得意らしく、ここ最近は新たに『不発』という問題に直面している。
せっかく魔力を精製したのに、呪文詠唱の途中で術が消えてしまったり、発動する段階まで行けたと思ったら、今度は攻撃があらぬ方向へ飛んでいってしまったりと、努力に反して結果が伴わない状況が続いている。おかげで授業中、他の生徒達に笑われる事も少なくない。
果たしてこんな状態で、間近に迫った試験を無事乗り切る事ができるのだろうか?
(エルクに相談……しても結果は目に見えてるよね……)
確かに彼は、相棒と呼ぶべき存在――のはず――だが、魔術に関する悩みを『騎士科』の人間に相談した所で、良い解決策が見つかるとは思えない。第一、あの無愛想な朴念仁が親身になって話を聞いてくれている姿など、一体誰が想像できると言うのか。
(……とりあえず、今日は筆記の方に力を入れよ。あんまり実技にばっかり片寄っちゃうのもよくないし)
軽く頬を叩いて気持ちを切り替えるミリア。近頃は放課後になると、自室でバネッサ、セシリーと共に試験勉強を行っているのだが、今日は少し気分を変えようと思い、筆記用具片手に書庫を目指して歩いている。
校舎の二階、西棟の一角に設けられている書庫には、区画毎に作業机が設置されている為、生徒達の多くは読書だけではなく、勉強部屋としても利用している。
さすがは天下の『
初めて書庫を利用した際、ミリアもその本の多さには度肝を抜かれたものだった。
事実、もう何度も足を運んでいるというのに、書庫の扉を潜ると、自然と感嘆の息が漏れてしまう。
柔らかな山吹色の灯りに照らされた広い空間には、所狭しと本棚が置かれていて、まるで迷路のような雰囲気を醸し出している。
先客として、早くも勉強に没頭している生徒達が多数いるのだろう。水を打ったような静寂に紛れて、時折筆の走る音が聴こえてくる。
(――あれ?)
空いている作業机を探してしばらく歩き回っていたミリアは、その時ふと、とある本棚の前に佇んでいる青い髪の少年を見つけた。
腰にロングソードを下げている所を見ると、どうやら実習帰りらしい。熱心に本の頁を捲っているエルクは、ミリアがいる事に気付いていないようだ。
「やっほー、エルク! 何読んでるの?」
それは、ミリアが声を掛けた瞬間だった。
よほど集中して本に見入っていたのか、エルクはまるで、何かに弾かれたように顔を上げ、やや乱暴に本を閉じた。
なぜか少々焦った様子で手にしていた本を棚へと戻し、ミリアに視線を送る。
「……何か用か?」
「えっ? いや、別に用って程の事は……。エルクがいたから声掛けてみようと思っただけ――ってどうしたのその包帯!?」
会話の途中で何気なく視線を下げたミリアは、エルクの右手首に包帯が巻かれている事に気が付いた。
制服に隠れて見えないが、どうやら包帯は肘の辺りまで巻かれているようだ。
自分の右腕を一瞥し、仏頂面を浮かべてエルクは口を開く。
「……別に、大した怪我じゃない。さっきの実習で当たった相手が、やたらと馬鹿力の大剣使いでな。攻撃を受け流し損なってこのザマだ」
馬鹿力の大剣使いと聞いて、そういえば自分の友達にも一人、腕っぷしが強くて大剣を振り回している娘がいたなぁと思うミリア。具体的には、やや短めの茶髪に紫黒色の瞳が印象的な、男勝りを絵に描いたような活発な少女で……。
という所まで考えてしまったが、軽く頭を振って逸れ掛けた思考を元に戻す。
「動かしたりして大丈夫なの?」
「すぐに治癒魔術をかけてもらったから問題ない。二日もすれば治る」
「そっか。良かった……」
安堵の息を深々と吐いてから、視線を感じてミリアは顔を上げる。すると揺らめく水面のような蒼い双眸が、不思議そうにこちらを捉えていた。
「えっと……、どうかした……?」
「…………………………何でもない」
「?」
珍しく、どこか気不味そうな表情を見せるエルク。何かおかしな事を言っただろうかと首を捻っていると、彼はポケットから徐ろに懐中時計を取り出し、文字盤に視線を下ろす。
「悪いな。用がないならもう行く。居残りするのはいいが、あまり遅くまで掛からないようにしろよ」
「う、うん。わかった……」
ぶっきら棒な口調で事務的に告げると、エルクは足早にミリアの許から去っていった。
遠ざかる無愛想さんの背中を見つめ、ミリアはそっと肩を落とす。
(うう……、相変わらず反応が冷たい……。結構話し掛けてるのに、打ち解けてくれそうな気配が全然ないもんなぁ……)
授業初日の昼休みに、意を決して話し掛けて以降、見掛けたら遠慮なく声を掛けるようにしようと決めたミリアは、いつかエルクが心を開いてくれる事を願って積極的に接している。
が、結果は見ての通り大惨敗。
或いはその積極さが仇になっている可能性もあるのだが、残念ながらミリアは、そこまでの考えには至っていない。人間関係というのはどこまでも複雑で、面倒で、難しいものなのだ。
浅く溜め息を吐き、その場を後にしようとしたミリアは、しかしふとある事が気になって足を止めた。
大した事ではないのだが、それでも自然と、ある一点に視線が吸い寄せられてしまう。
(そういえば、何の本を読んでたんだろう?)
ちょっとだけ背伸びをして、少し高い位置にある目的の書物を本棚から取り出す。
それは先程まで、エルクが読んでいたと思われる茶色い表紙の分厚い書物。相当な頁数を誇っているであろう事は、わざわざ開かなくても容易にわかる。
書物を手にし、背表紙と表紙に記されている題名を目にしたミリアは、思わず首を傾げてしまった。
一体なぜ、『騎士科』に所属しているエルクが、こんなものを読んでいたのだろう?
「……『魔草薬学』?」
それは、薬草を用いた治療薬などの精製方法や、多種多様な薬草に関する情報が記載されている薬学辞典。
『騎士科』の人間が興味を持つにしては、些か特殊な内容の本だった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
書庫に籠って試験勉強を続けている内に、気付けば夕食の時間が近付いていた。
筆記用具を仕舞い、取り出していた書物を本棚に戻して、生徒の姿が少なくなった書庫を後にする。
(寮に荷物を置きに行ってたら時間掛かっちゃうし、このまま食堂に向かおうかな)
お腹の虫が結構うるさく鳴いているので、少しでも時間を短縮しようと、ミリアは食堂へ直行する事を選んだ。
書庫の入口からすぐ近くの階段を一階まで下り、廊下を進んで東棟の端を目指す。すでに半月近くもこの学舎で過ごしている為、すっかり道順も覚えてしまっている。
あとは昇降口のエントランスを横切って、またしばらく廊下を進めば、温かい料理が振る舞われる食堂の入口が見えて――
(――ん?)
今日の晩御飯の献立を予想しつつ、エントランスを横切った直後だった。
何気なく廊下の窓から外を眺めてみると、陽がほとんど沈み、薄闇が支配し始めた中庭の噴水付近に、見覚えのある後ろ姿を見つけたのだ。
(エルク……だよね?)
思わず立ち止まり、窓辺に近付いてもう一度確かめてみる。
明らかに食堂とは別方向へと歩いていくその後ろ姿は、間違いなくエルク・ディアフレールのものだ。
すでに食事を終え、寮の自室に戻る途中なのかとも思ったが、違う。進行方向から察するに、寮を目指していない上、彼はなぜかまだ腰の剣帯にロングソードを下げたままだ。
ふとミリアの脳裏に、いつぞやの早朝の出来事が蘇る。
(やっぱり、どこかへ出掛けようとしてる……?)
内心で膨れ上がる疑問が、知らない内にミリアの背中を後押ししていた。
すぐさまエントランスへと引き返し、中庭に繋がる扉を潜って、噴水の傍まで早足で歩み寄る。
また見失ってしまったかと思ったが、辛うじてエルクはまだ目の届く範囲にいた。薄闇に紛れて歩いていく姿は、まるで人目を避けているかのような慎重さが窺える。進む足取りに迷いが感じられない。
なぜか早くなっている左胸の鼓動を抑えつつ、ミリアは気付かれないように、慎重に後を付け始めた。
(こっちの方向って、確か……)
校舎西側の外れ。あともう少し進めば、『
『
全長一メートル、幅三十センチの鉄板の後部に、『
数日前、『魔導機学』の実技の授業で初めて操縦したミリアは、その便利さに大層感激したばかりである。
学園と『教団』の関係者以外は使用できない決まりになっているらしく、改めて入学できた喜びを噛み締める一方で、恩恵に預かれない人が大勢いるという事実に、ミリアは少なからず戸惑いを覚えたものだった。
授業時の記憶を呼び起こしつつ、前方の少年に視線を戻す。予想通り、彼は近付いてきた保管庫の扉へ向かって、真っ直ぐ歩いていく。
切妻屋根を支える高さ五メートルほどの建物。入口となる扉は鉄製で、左右に押し開ける事ができるようになっている。
物陰で立ち止まり、エルクの様子を窺っていたミリアは、そこでふとある事が気になった。
(あれ? でも『
軽く辺りを見回しても、教師どころか人の姿は見当たらない。仮に許可をすでに得ているとしても、保管庫は施錠されているはずだし、いかに生徒からの進言とはいえ、教師陣が不用意に鍵を渡すとは思えない。
まさか、とミリアは思う。
忍び込み、勝手に持ち出すつもりなのか。
そんなミリアの不安を嘲笑うかのように、しばらく扉の前で佇んでいたエルクが、右側の扉だけを押し開けたのだ。
鉄の擦れる音が少しだけ響き、僅かに開けられた保管庫の扉。その隙間を通って、エルクの姿が内部へと消え去る。
(嘘……! ホントに入って行っちゃった……!)
とんでもない現場を目撃してしまったと、ミリアは今更ながらに慌て出す。
こういう場合、自分は一体どうすればいいのだろうか。
今すぐにでも保管庫に飛び込んで、規則を破ろうとしている同級生を止めるべきか。はたまた職員室へ直行して、今起きた出来事を全て教師に話してここまで同行してもらい、彼の愚行を叱ってもらうべきか。
ただどちらを選んでも、自分がここにいた理由を問われた時、上手い言い訳を答えられる自信がない。何しろ保管庫は校舎から少々離れている為、『偶然通り掛かった』などというお決まりの文句は通用しない。
お前の方こそ、こんな時間にこんな所で何をしていたんだ?
そんな風に問われてしまったらそこまでだ。ミリア自身も、何かしらの罰則を受ける羽目になってしまうかも知れない。
逡巡が逡巡を呼び、その場から一歩も動けなくなってしまうミリア。何もできないまま、時間だけが経過していく。
そんな尻込みを続けてしまった結果、事態がより悪い方向へと動き出す。言わずもがな、エルクが保管庫から出て来てしまったのだ。
扉を閉める彼の右脇には、『
この瞬間、エルクが無断で『魔導機』を持ち出したという既成事実ができあがってしまった。
(……こうなったら、もう自棄だよ!)
最早あれこれ考える事を放棄したミリアは、せめて心を落ち着かせようと、ゆっくり息を吐いた。
エルクがその場から離れるのを待って、ミリアも保管庫へと向かう。
幸いな事に、扉の鍵は外れたままになっていた。エルクがどうやって鍵を開けたのかはわからないが、開けたままにしておいてくれたのはミリアにとって好都合だ。もしかしたら彼自身、後をつけてくる人間などいないと高を括っていたのかも知れない。
ほんの少しだけ開けた扉を、滑り込むかのように潜る。
内部には、一台ずつ『
ミリアはすぐ傍の棚に近付き、抱えたままだった筆記用具を足許に置いた。その代わりとばかりに、専用の固定具で斜めに立て掛けられている『
大きい見た目に反して、ミリアのような華奢な女の子でも運べる程、この乗り物は軽量化されている。
本来なら動作確認などを行わなければならないのだが、今は悠長に普段通りの手順を踏んでいる暇はない。急がなければ、またエルクを見失ってしまう。
落としたりぶつけたりしないよう、しっかりと右脇に抱え、保管庫から抜け出す。扉を閉めた所で施錠する方法がない事に気付くが、今更どうしようと大差はないと思い直し、その場を後にした。
『
それに正門横に設置されている『
……と、そこまで考えてから、改めてミリアは疑問を感じる。
(あれ……? でも待って。もう夕食の時間は過ぎてるから、正門って閉められてるはずだよね……)
深夜の学園内を警備する役目は、ゴーレムと呼ばれる、魔術によって作られた人型の動く石像が担っている。
自動制御されている彼らが守衛の人間と交代する時刻は、日付が変わる頃なので、正門の受付にはまだ守衛の人間がいるはずだ。こんな時間に生徒が一人、『魔導機』を抱えて外に出ようとすれば、間違いなく不審に思われる。
一体エルクは、どうやって正門を潜るつもりなのだろうか?
疑問に思いつつも、とりあえず追い付かなければ話にならないと考え、先を急ぐミリア。無論、自分も誰かに見つかる訳にはいかないので、校舎の外側を通って慎重に正門を目指す。
やがて正門へと続く石畳の道に出たミリアは、再度辺りを警戒しながら、エルクの姿を探した。
その途中、進行方向の左手に視線を送る。すると巨大な正門から程近い位置に、正方形の白い台座が設置されている。あれが『
傍らまで近付いて確認してみるが、当然ながら起動した形跡はない。仮に使えたとしても、転移の瞬間には強い光が発生する為、この時間帯だとかなり目立ってしまう。エルクは人目を忍んで行動しているのだから、どちらにせよ使うのは正門の方に違いない。
再び正門に意識を向けた所で、ミリアはまたある事に気付いた。
薄闇の中、目前まで迫った巨大な正門は、確かに固く閉ざされている。だが右側の隅にある夜間専用の小さな扉が、ほんの少しだけ開いているのだ。
まさかエルクは、本当に守衛の目を盗んで通り抜けたのだろうか? でも一体どうやって?
不思議に思いながら、扉のすぐ傍にある受付に近付き、恐る恐る中を覗き込んでみる。
(……って、ええっ! 眠っちゃってる!? 何でこんな都合良く……)
守衛を勤めている四十代後半の男性は、受付となる個室の中で椅子の背凭れに身を預け、いびきを掻きながら眠っている。まだ夜間勤務に切り替わったばかりのはずだが、居眠りにしてはやけに盛大な寝落ちを披露している。
これも、エルクの仕業なのだろうか。だとしても、この短時間で人を眠らせる方法があるとは思えないのだが……。
(…………………………)
とにかく、余計に気になるのはエルクの行き先だ。例え姿が見えなくても、彼が『魔導機』を使用しているのなら、後を追い掛ける方法はある。
気持ち良さそうに眠り続ける守衛の男性に、無意味な謝罪を挟んでから、ミリアは扉を潜って学園の外に出た。
西の空はまだ微かに赤みを帯びているが、陽は沈んだと言っていいだろう。まもなく夜が訪れ、雲の少ない天空には、銀灰色の優美な月が顔を覗かせるはずだ。
案の定、エルクの姿は確認できないが、焦る事はない。魔術を操る者として、今日まで授業を受けてきたミリアには、『
瞳を閉じ、意識を集中させ、一切の雑念を取り払う。
やがて平原を吹き抜ける風の音すら意識からは遠退き、無音の闇がミリアの五感を支配した。
その中に一点、蛍火のような淡い光が、ふわふわと浮遊しているのがわかる。光は徐々にだが、確実にミリアから遠ざかり始めている。
(見つけた……!)
開眼すると同時に、抱えていた『
手甲の前腕部に付いている速度計を確かめつつ、掌にある速度調整のボタンを押し、『
シュオンという音と共に、微かに身体が浮遊する感覚がして、魔導動力機から推進力となる風が生み出されているのがわかった。
察知した魔力の流れを辿るように、『
夜の帳が下りる中、秘密の追い掛けっこが始まった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
(――っとと! まだちょっとバランス取るのが難しいなぁ……)
学園を離れ、しばらく走行し続けても、まだエルク自身の姿は捉えられない。
初めて『
現在地は、学園よりかなり東に進んだ地域というくらいしか、地図を持っていないミリアにはわからない。
進行方向の右手には渓谷、左手には林という、目印になるようなものが見当たらない風景ばかりで、自分が今どの辺りを進んでいるのか見当が付かず、時間が経つほど不安になっていく。
いっその事、エルクの名前を叫びながら探してみようかと思い始めた、まさにその時だった。
前方から感じ取れていた魔力の流れが、突然消え去ってしまったのだ。
(えっ? あれ? 何でだろ!? まさか私、気配をちゃんと辿れてなかった!?)
あまりの事態に混乱し掛けたミリアだったが、ふとある事を思い付く。
魔力の流れが途絶えたという事は、単純に魔力が発生しなくなっただけなのではないだろうか。つまりは、エルクが『
とりあえず、魔力が途切れた地点まで走行しようと、若干速度を上げるミリア。周囲の景色は相変わらず、代わり映えのしない風景が続いている。
(この辺りのはずなんだけど……)
魔力消失の地点が近付いてきた為、ミリアは速度を緩め、注意深く辺りを見回してみた。
すると進行方向の左側。林の中の太い幹を持った木の根元に、『
『
恐らくエルクは、この林の中のどこかにいる。しかも徒歩に切り替えたという事は、それほど遠くへは行っていないはずだ。
一体彼は、こんな所に何をしに来ているのだろう?
改めて疑問に思ったミリアだったが、そこでふとある事を思い出した。
夕方に書庫で見掛けた際、エルクが熱心に読み耽っていた『魔草薬学』の本。あれには確か、様々な『魔草』の名称や効能に加えて、群生地の情報も記載されていたはずだ。
という事は……。
(もしかしてエルクがあの本を読んでたのって、ここで何かの『魔草』を探す為……?)
草木を避けながら林の奥へと進みつつ、一つの推論を導き出すミリア。だがそうなると、気になるのはやはりこんな方法を選んでいる理由だ。
『魔草』を手に入れたいのなら、何も人目を避ける必要はないし、安い物なら『央都』の市場で買う事もできる。規則を破ってまで探しに来なくても、他に良い方法がいくつもあるはずだ。
出会った当初から、つくづく『なぜ』や『どうして』が多い少年である。物静かな性格も相俟ってか、その辺りがやけに強調されているように思う。
そんな謎に満ちた少年を、こんな所まで追い掛けてきているミリア・クロードライトという少女も、変わり者という点では似ているのかも知れないが。
(――いた!)
『
ミリアは林と野原の境界線辺りで茂みに隠れ、バレないように様子を窺ってみた。
件の少年は、その野原の中心付近に膝を折り、自生している色鮮やかな花を、一つ一つ確かめるように観察している。
あれが何の花なのか、そもそも『魔草』なのかどうなのかすら、ミリアにはわからない。だがエルクの横顔は真剣そのもので、一見ただ花を愛でているようにも見えるあの作業が、彼にとっては重要な事柄なのだという事が、ひしひしと感じられた。
やはり興味本意で後をつけるべきではなかったのではないか。
そんな思いが、胸の内から湧き上がってきた時だった。
「そこで何をしてる、クロードライト」
「――っ!」
鋭い声で名指しされ、ミリアは思わず肩を震わせた。
まるで陽炎のようにゆらりと立ち上がって振り向く姿は、押し潰されそうな威圧感に満ちている。
一体いつから気付かれていたのだろうか。月明かりの下、エルクのやや剣呑とした眼差しが、こちらを捉えて離さない。
「……人を尾行した上に覗き見か。見た目に反して趣味が悪いな」
明らかに苛立った様子で、いつも以上に声が低い。規則を破っているのは相手も同じなのに、全部お前のせいだと言われている気さえしてくる。
普段から冷たい冷たいと感じていたが、今この瞬間の冷たさは次元が違う。一歩間違えれば、敵意とさえ呼ばれかねない。
目の前にいるのは、本当に自分を助けてくれた少年なのだろうか?
「ご……ごめんなさい! エルクが一人で学園の外に出ていくのが見えたから、どこに行くのか気になって……。それで、その……」
勢い良く茂みから飛び出し、謝罪しながら頭を下げるミリア。
だがエルクの態度が軟化する気配はない。目をさらに鋭く細めながら、冷気のような言葉を投げ掛けてくる。
「理由なんてどうでもいい。これ以上俺に干渉しようとするな。この際だからハッキリ言うが――」
「……っ」
「目障りなんだよ、お前」
本当に容赦なく突き付けられた冷淡な言葉が、残響のようにミリアの鼓膜を刺激し続けた。
ここから立ち去ろう。そして彼の言う通り、二度と関わらないようにしよう。だって、嫌われても文句は言えないような事をしたのは、自分の方なのだから。
自然と後退る両足は、微かに震えている。だが止まる訳にはいかない。これ以上彼に迷惑を掛けるのは、嫌だ。
「……その、ホントにごめんね、エルク。余計な事してごめんなさい……。もうあなたには関わらないし、今日の事は、誰にも言わないから……」
弱々しく告げた所で、踵を返して歩き始めるミリア。粘り付くような後悔が足取りを重くさせるが、早くここから離れるんだと自分に言い聞かせる。
「――クロードライト」
背後から呼び掛けられた気がしたが、振り向く必要はない。多分聞き違いだろうし、今更エルクが自分を呼び止めるはずがないではないか。
「おい、クロードライト……!」
それよりも、学園に戻った後の事を考えなければならない。今頃は抜け出した事がバレて騒ぎになっている可能性がある。
こういう場合、上手い言い訳と呼べるような嘘は、どんなものにするべきだろう? 急な用事で里帰りしてましたとか、或いは――
「馬鹿、伏せろッ!」
「えっ?」
やけに鬼気迫る口調で馬鹿呼ばわりされたなと思った次の瞬間、ミリアは背後から強引に押し倒されていた。
地面に生えている草のおかげで衝撃が和らぎ、怪我を負う事はなかったが、重要なのはそこではない。
エルクがミリアを伏せさせた瞬間、彼女の頭の上を何かが横切ったのだ。
今のは一体何だ、と視線を投げた途端、ミリアは心臓を鷲掴みにされたかのような息苦しさに襲われた。
数メートル先で、今まさにこちらを振り返ろうとしている、二足歩行の化物。全長三メートルほどの体躯を覆う薄緑色の鱗は、月の光を受けて僅かに煌めいている。頭部の角や強靭な牙、鋭い鉤爪を備えた前足を見ていると、否が応でも人間の血肉を引き裂く場面を想像してしまう。
あの化物を……『竜』の名を知っている。寒気がするほど覚えている。
地竜種、ディノドラゴン。
入学式の日に遭遇したものと同種の、人類の天敵だ。
「立て。ここから離れるぞ」
つい数分前までのやり取りを感じさせない頼もしい声で、エルクはミリアを立ち上がらせる。
その直後、ミリア達を捉えたディノドラゴンが、耳をつんざくかのような鋭い咆哮を上げた。
「シィギャアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
異変は、すぐに訪れた。
辺りに響き渡った不快な音に反応するかのように、周囲の林の中で、何かが蠢き始めたのだ。
「くそ……っ、囲まれてる……!」
「? どういう――」
問い掛けようとした所で、ミリアも遅れて気が付いた。
林の中に潜んでいるのは、狐でも狼でもない。
竜だ。両手の指では足りない数の竜が、獰猛な唸り声を上げながらミリア達を取り囲んでいる。
あまりの事態に愕然としたミリアは、今更のように思い出した。以前授業中に教科書で竜の事を調べた際、備考欄に記載されていたではないか。
稀に大規模な群れを成して行動する場合がある、と。
どこから現れたのかは全くわからない。だがこの状況の原因は、どうやら最初の一頭にあるらしい。もしも『あれ』が、この群れの長なのだとしたら。
「仲間を引き連れて復讐しに来たのか。執念深い奴だ」
竜を見つめ、皮肉げに呟くエルクの意図が、一瞬ミリアには何の事かわからなかった。
しかし、群れの長たる竜の姿を注視してみて気付く。左の肩口に、斜めに走った生々しい傷跡がある事に。
(嘘……っ! まさかこの竜……、入学式の時の……!?)
相手との意思疏通が図れない以上、確かめる方法はない。単なる偶然だと言われればそれまでだ。
だがミリアには、そして恐らくエルクにも、軽々しく否定する事などできなかった。目の前にいるのは、間違いなくあの時の竜だと、確信してしまう自分がいた。
どうやってミリア達の居場所を突き止めたのか定かではないが、あの傷を付けた少年が口にした通り、恨みを晴らしに来たという事なのだろうか。
(どうしよう……。どうしたらいいの……!?)
恐らく十を下回っていない数の竜を、一度に相手にするのに有効な魔術など、ミリアはまだ習得していない。この状況を切り抜ける方法など、思い付けないのだ。
「……クロードライト。お前、『
この状況に於いて未だ冷静な口調を保つエルクは、周囲を警戒しながら尋ねてきた。
緊急時に際し、脱出の為の瞬間移動を行う時に使われる特殊な鉱石の名は、もちろんミリアも知っている。遠征に出る際は学園側から支給され、それ以外の場合でも、申請すれば受け取る事ができる便利な物だ。
だがお互い知っての通り、今回は規則を破り、無断で学園外へ抜け出してきた身だ。申請する暇などなかったし、あったとしても、正当な理由がない自分達に支給してもらえたとは思えない。
首を左右に振ると、エルクはより険しい表情になって竜達を睨み付けた。
じりじりと、竜達はこちらへ歩み寄ってくる。一斉に襲い掛かって来ないのは、自分達の勝利を確信しているからなのか。
駄目だ。今度こそ本当に、終わりだ――!
固く両目を瞑り、全てを諦めるミリア。
結局『あの人』のようにはなれなかった。魔術も録に扱えず、パートナーにまで迷惑を掛け、挙げ句無様に竜に殺される。
笑い話にしたって笑えない。滑稽にも程がある。
所詮自分では――
「
「――!?」
紡がれた言葉を耳にした瞬間、ミリアは思わず目を瞠った。
部分的に違う所はあるが、今のはまさしく、魔術発動の鍵となる言霊。魔術師だけが唱えるはずの、自らの力を示す為の呪文。
それを一体、誰が口にした?
どうして
「我が剣は光の剣。我が右手は光の御手。我が下に集え、蒼白の閃光よ。結合し、決壊し、大地に轟く刃となれ」
恐怖とは違う理由で硬直するミリアを尻目に、エルクは詠唱を続けながら、腰に携えている鞘からロングソードを引き抜き、右手だけで器用に回して逆手に持ち替えた。
同時に、彼とミリアの周囲で発生する現象。それは、不規則に流動する青白い雷電だった。
まるで避雷針に雷が落ちるかのように、逆手に握られたロングソードの刀身には、脈動する蒼白い光が一気に蓄えられていく。
そして――
「
振り上げられたロングソードが、母なる大地に突き刺さった瞬間だった。
地面を放射状に走った無数の蒼い雷撃が、取り囲んでいた竜達の身体を一斉に貫き、生命活動を停止させる程の大穴を穿ったのだ。
断末魔の叫びすら上げる事なく、竜達は次々と地に伏し、青緑の灰となって虚空の彼方へと消えていく。
後に残ったのは蜘蛛の巣のように罅割れた地面と、その中心点に佇む少年少女だけだった。
「……」
現象が生まれ、消え去るまでには一分も掛からなかった。だが決して見逃した訳ではない。
流れるような挙動に、凄まじいまでの威力。それを行使した者が自分と同じ魔術師であったなら、ミリアもここまで驚かなかっただろう。
なぜ『彼』が、さも当たり前のように魔術を使っているのか。
率直な疑問はそのまま、唯一の答えになっていた。
魔術師、エルク・ディアフレール。
これこそが、恐らく正しい認識なのだろう。
彼が語らなかっただけで。周囲が察知できなかっただけで。彼は最初から、魔を操る術を持った人間だったのだ。
それならば全ての現象に説明がつく。保管庫の鍵が外れていたのも、正門の守衛が眠っていたのも、彼が何らかの魔術を使った結果だったのだと。
それにもしかしたら、入学式の日に竜を追い払ったあの手並みも、魔術による補助があったから成し得たものだったのではないだろうか。
「どういう……事なの……?」
呆然と問い掛けるミリアを真摯に見つめるエルクは、しかし、何の答えも返そうとはしない。
が、次の瞬間だった。
突然エルクが苦しそうに激しく咳き込み出したかと思うと、その場に力無く崩れ落ちてしまったのだ。
「……!? エルク……!?」
何事かと歩み寄ろうとするミリアの前で、口許を押さえている右手の隙間から、花弁のように紅い液体が滴り落ちていく。吐血しているのだ。
「エルク!? しっかりして! 大丈夫!?」
「何、でもない……。気に、するな……っ」
「何でもない訳ないじゃない!! どうして急にこんな――」
「がほ……ッ!」
更に盛大に血を吐き出したエルクは、今度こそ地面に倒れ込んでしまった。
呼吸が荒く、意識を失い掛けているのか、目が虚ろで焦点が合っていないようだ。
「どうしよう……っ。そうだ、回復魔術を……!」
不幸中の幸いなのか、つい数日前の授業で回復関係の魔術を一通り習っていたミリアは、即座に呪文を唱えようとした。
だが、倒れているエルクの身体に触れようとした瞬間、その手がピタリと止まる。
それは、まるで耳許で誰かに囁かれたかのような、不意に過った嫌な想像。
また以前のように、魔術を暴走させてしまったらどうしよう、と。
あの時は授業中で、リンディがいたから事なきを得たが、今回はそうはいかない。
助けてくれる人間はいない。もし自分が失敗すれば、最悪の場合、エルクを死なせてしまうかも知れない。
出来損ないの自分には荷が重過ぎる。所詮何もできはしないのだ。
どれだけ経っても、無力なままの自分には――
固く瞳を閉じ、絶望の闇に沈んでいきそうになった時だった。
チャリ、という微かな音が、胸許から聴こえてきたのは。
一気に意識を引き戻され、胸許に視線を下げてみる。
そこにあったのは、銀の鎖に繋がれている花形の銀細工。中央に紅い宝石が埋め込まれた、とても大切な宝物。
まるでミリアを見守っているかのように、月明かりを受けて、紅い宝石は静かに煌めいた。
大丈夫だよと、勇気付けられている気がした。
諦めるなと、鼓舞されているように感じた。
そうだ、一体何を恐れる事がある。『あの人』のように誰かを助けられる存在になる為、自分は今
その思いは、願いは、この程度で折れてしまうような半端なものだったのか。
――違う。そんなはずはない!
ならば立ち向かえ。己が意志を貫き通せ。
弱かったあの頃の自分と、決別する為にも。
「
右手で銀細工を握り締めるミリアの瞳に、燃え盛る炎のように力強い光が宿る。
その意志の強さに呼応するかのように、浮かび上がった四色の光玉は揺るぎなく辺りを照らしている。
必ず助けてみせる。絶対に死なせない。死なせてなるものか。
こんな自分を、二度も助けてくれたのだから。
「清浄なる青き輝きよ。穢れを払う高貴なる光よ。我が身の力を糧として、彼の者に癒しと慈しみを与えたまえ」
体内で精製した魔力を、言霊と共に倒れ伏す少年へと差し向ける。
直後、眩い光がミリア達を包み込んだ。
「
夜空を照らし出す光が、徐々にその強さを弱めていく。やがて全ての現象が消え去った所で、ようやくミリアは自身の行動の結果を悟った。
両掌に視線を落とし、呆然と呟く。
「……やっ、た……。発動、できた……」
ゆっくりと拳を握り、達成感に打ち震えるミリア。今が非常時でなければ、嬉しさの余り叫んでしまっていたかも知れない。
だが呑気に喜んでいる場合ではない。魔術は成功したが、それが本当に有効だったのか確かめる必要がある。
ミリアは恐る恐る、エルクの顔を覗き込んでみた。
完全に意識を失ってしまったようだが、吐血した直後に比べれば幾分顔色は良くなっている。
とはいえ、いつまでもここに横たえておく訳にはいかない。習ったばかりの治癒魔術では、応急処置がやっとだろう。根本的な治療を行う為には、是が非でも学園に戻る必要がある。
(でも、どうしよう……。私一人の力じゃ、エルクを抱えられないし……)
「クロードライト!」
背後から力強い声で呼び掛けられ、ミリアは思わず肩を震わせた。振り返り、声の主を見つけて目を瞠る。
「マーフェス先生……!」
軍人然とした厳格な魔術教師、リンディ・マーフェス。足早に近付いてくるその姿は、女性であるのが信じられないほど頼もしい。
ミリアの担任でもある彼女がここに現れたという事は、つまり……。
「先生、ごめんなさい! 私達、その……」
「落ち着け。大体の事情は掴んでいる。……が、ここで何が起きたのかは、お前達に話を聞く必要がある」
謝罪するミリアを責めようとはせず、リンディは倒れているエルクの容態と、荒れ果てた周囲の様子を素早く観察した。
「『
言いつつリンディは、腰に巻いた革製のポーチから青く透き通った鉱石を取り出した。それをエルクの胸の上に置き、ミリアにも握らせる。
「
発動の為の文言を口にし、その場から後退るリンディ。
直後、鉱石から発生した青緑の眩い光が、ミリアの視界を覆い尽くした。
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