第18話 もう子供じゃいられない


「ウーン…」


ベアトリクスとの戦闘から一転。

ダリア家当主殺害を目撃した可能性が浮上した桃鈴タオリンは現在、船の上で呻いていた。

まわりには一面海景色が広がっており、遠くにうっすらと陸が見える。


「うう…気持ち悪い…」


その横には同じく呻き声をあげながら、ぐったりと甲板の縁に身を預けるエリオットの姿。

黎明リーミンが申し訳なさそうにふたりに話しかける。


「まさかそこまで船が苦手だったとは…すみません」

「いや…これも公務だから大丈っ…!」


ちっとも大丈夫じゃないエリオットが口を抑え、船から身を乗り出した。

桃鈴も傍でうずくまっており、彼のその背を撫でてやる余裕もない。


人魚セイレーンが出る海域まではあと少しなので…今回は調査が目的ですし、無理はしないでください」


人魚セイレーン

人の姿はしているものの、思考を持たない魔物である。

たかだか動物と侮るなかれ。

彼らの最大の武器はその歌声。

強力な魅了術を乗せたその旋律を聴くと、どんなに力の強い者でも取り憑かれたように弱体化する。

その間に船に乗り込み頭から食べてしまうというのだから、船人の命を脅かす何とも物騒な海の厄介者である。


「普段は耳が良い亜人を配置することでいち早く気付くようにしてるんです。けれど最近この近辺で急激に数を増やしまして…対策が追い付かなくなってきたものですから、領主様に対処して頂きたいのですが…」


その実情を調べるために、今回ふたりに打診があったのだ。

これも黎明が長を務める船であり、彼の背後では複数の船員が忙しそうに動き回っている。


「エリオットさんなら魅了術に耐性があるし、姉さんは効かないしでちょうど良いと思ったんだけど…」


黎明がちらりと助っ人に視線を送る。

まだ1度も人魚に遭遇してはいないのだが、ふたりともすでに満身創痍である。


「エリオ…。お前それで歌が聴こえたらどうなるネ…。魅了術のかかった音を聴くと、お前気持ち悪くなっただロ…?」

「だ、大丈夫だ…なんとかする…。君こそだいぶ顔色が悪いぞ…ウッ」


エリオットが呻いて、もう一度海を向いた。

桃鈴は桃鈴で船酔いをしているわけではないのだが、精神的な原因で具合が芳しくない。

普段よりぼうっとする頭で、空を飛ぶ海鳥を見上げた。

(思い出さなきゃいけないことがあるのに…ワタシは何をしてるネ…)

あれから数週間経つにも関わらず、このどうにもならない状況と、そして心もとない記憶を持つ自分自身に深いため息をついた。






『そう…ベアトリクスが当主殺害を示唆する言葉を…』


エリオットの報告に、椅子に座るフィオはゆっくり目を閉じた。


『ダリア家当主…彼女は当時、私の協力者として和合の林檎を追っていた。だがかなり近づいたところで…消息を絶ったんだ』

『そんなことが…。犯人に始末されたのでしょうか…?』

『多分ね。ダリア家はかなり前からスイーツ事業なんて可愛らしいビジネスを始めている。軌道に乗っているとは聞いていたけど…ベアトリクスはそれを利用して和合の林檎を流通させるつもりだったんだろう。二重の意味で姉が邪魔になったのかもしれない』


ダリア家には現在調査が入っている。

当主の失踪と和合の林檎、ふたつの事件に関する立ち入り検査の為に事業も一時的に止まっている筈だ。

そしてその原因となった、当主代理の彼女は未だ意識が戻らない。


『…ベアトリクスが自分自身にかけた呪術は通称“眠り姫”。とうの昔に失われた古代呪術だよ』

『眠り姫…?』

『恐ろしい術さ。かけられた者はその寿命が尽きるまで眠り続ける。現代の呪解術では解けない上、死んでいるわけでもないから回復術や蘇生術も効かない』


古代呪術の恐ろしさは、それぞれ決まった解法でしか解けないところにある。

一度発動すれば普通の方法で解除することは実質的に不可能。

その為長きに渡って禁忌とされてきた術である。


『まあ彼女は呪術師シャーマンの一族だから呪術にも耐性がある筈だ。一生眠ったままということはない…けれど直ぐに覚醒することもないだろうね』

『そうですか…』


そうなればベアトリクスから共犯者を辿ることはできないだろう。

(鍵を握るのは…)

エリオットは部屋の隅をちらりと見て続ける。


『ベアトリクスは桃鈴が情報を握っているような話もしていまして…ただ彼女は記憶にないようなのですが』

『ああ…だからあんなことになってるんだ』


フィオが納得したように視線を執務室の隅へ送った。


『思い出すネェエエエ!!』


そこには逆立ちしながら叫ぶ桃鈴の姿。

脳をひっくり返せば思い出せるかもしれないと相当単純な思考が辿り着いた末の行動である。


『まあそんなに必死になると余計に出てこないから落ち着いて…』

『お前が良くてもワタシが嫌ネ!モヤモヤするヨ!!』


フィオが制止するが、それも瞬時に跳ね返した。

逆立ちを止めず桃鈴がギリイと噛み締める。

自分の記憶が思い出せないとはなんとも歯痒い。


『ヌォオオ!この痒いところに手が届かない感じがムカつくネ!』

『先は長そうだね…』


更に曲芸まがいな姿勢に挑戦し始めた彼女から視線を逸らして、フィオがエリオットに視線を戻す。


『何にしても良くやってくれた』

『いえ、僕はそんな…』

『君は良い部下だよ』

『へ…!?』


その一言に、一拍遅れてエリオットの顔が真っ赤になった。

彼は礼はすれどそうそう褒めるような人物ではない。

実際エリオットも褒められるような部下ではないと自己認識していたので面食らった。

驚いたまま顔を上げると、彼の主人はいつもよりほんの少しだけ真剣に微笑んだ。


『信頼してるよ。桃鈴のこと、宜しくね』






「雨が降ってきたネ…」


ぽつりぽつりと船室の窓に当たる雨粒を、桃鈴が指の腹で撫でる。

外側に存在するそれは手につくことはなく、そこにあるのに触れられないとまるで自分の記憶のようで嫌になる。

あれからそれはもう様々な体勢に挑戦し、最後には屋敷の使用人達から拍手とおひねりを貰う程度には物理的に脳を揺らしたが、何一つ記憶は掴めやしなかった。

思い出したのは誰かが殺される一瞬の光景を、ほんの一瞬だけ。

その映像もすぐに記憶の彼方へと消え去ってしまった。

その場所がどこかも時間も犯人も、被害者が本当にダリア家当主本人なのかも分からない。


「ウーン…でも有り得ない話なんだよなァ…」


9年前と言えば、桃鈴がこの領地に来たばかりの時期だ。

フィオと知り合いこそしたものの、来てすぐに格闘家モンクとして修行するため山奥の寺院に入っていたわけで、当時の彼女が貴族の当主などと関係を持つことは不可能に近い。

(それに…本当に見たとして、人が目の前で殺されたのに、そんな大切なことを何でワタシは忘れてるネ…)


「何で船が苦手なんだ…?」


出すものを出したので多少楽になったのか、そばで横たわるエリオットが顔を上げずに声をかけてきた。

桃鈴が船を嫌う理由は、船酔いや水嫌いとは違うところにある。


「ずっと前に…この国に不法入国した時に、事故に遭ったって言ったロ?覚えてるカ?」

「ん?ああ…そういえば…」

「あの時こっそり無賃乗船してた船が沈んで…それから船はダメなんだよネ…」

「む、無賃乗船…よく助かったな…うっ、やっぱりダメだ。少し揺れが激しくなってきた気がする…」


呻くエリオットに濡れたタオルと桶を渡してやる。

少し形は違うが、今日のこの船と同じような貨物用の木造船だった。

(それで何とか陸にたどり着いたらフィオに会って…あれが不幸の始まりだった気がするネ…)


「桃鈴」


ひとりごちる桃鈴に声が降ってくる。

その掠れた声に小さく返事をした。


「ジオ」

「…お前の身体を勝手に使って悪かったな」

「あァ」


ジオが言っているのは、ベアトリクスの呪術を跳ね返した時の話だ。

桃鈴は呪いが鏡で跳ね返せることなど知らなかった。

あの時鏡を投げた人物は桃鈴だったが、実際にはジオが彼女の身体を借りて行ったというのが正しい。


「あ、イヤ…実際助かったネ。助けてくれたのは初めてだロ?…お前はそういうことに口や手は出さないんだと思ってたヨ」

「…お前と同じ理由さ。桃鈴」


その言葉に桃鈴がぱちぱちと瞬きをして、やがて合点がいったように大きく頷く。


「あァ。乳がデカくてムカついたのカ」

「お前と一緒にするな」


あっさり否定され、なら何だと聞こうとした桃鈴の背後で閃光が走った。

続いて響き渡る轟音と振動。


「な…雷が落ちたのか!?」


エリオットが立ち上がり、慌てて外に出ていった。

(雷…)

そのあとに続いて桃鈴も甲板に出る。

いつの間にか雨は強く降りしきり、そして後方のマストは完全に根本から引き裂かれるように折れ黒く焦げていた。

エリオットがあちこち指示を出す黎明に声をかける。


「大丈夫なのか!?」

「ええ、マストが1本折れましたが残りの2本だけでも十分運航は可能ですし…部品も積んでありますから修理もできます。問題ありませんよ」

「お、おお…さすがだな…」


返ってきた声は落ち着き払っており安心する。

そしてエリオットのその横を、ふらりと通る影があった。


「桃鈴?」

「そうネ…」


折れたマストを呆然と見ながら、桃鈴が呟く。

霞んでいた記憶が鮮明になっていく。

そう、“あの日”も彼女は船にいた。

(全く同じヨ…。こうして雨が降ってきて…雷が落ちて、)


「マスト…」

「?」


領地に入った後の記憶を引っ掻き回しても、思い出せないのは当然だ。

あの日殺された彼女と出会ったのはここに到着する前、船の上だったのだから。


「メインマストの上ヨッ!」


彼女の声を掻き消すように轟音が鳴る。

天から降りた稲妻が中央のマストに直撃したと思った瞬間、船中を電気が走った。


「…っ!」


エリオットをはじめ、黎明や全ての船員がその場で凍りついたように固まる。

身体中を駆け巡る痺れと、一歩も動かせなくなるこの感覚。

(これは…!雷術…!?)

その名前の通り雷を扱う力。

そしてここまで使いこなす術者を、エリオットはひとりしか知らない。


「あに、うえ…っ!?」


舌が痺れて上手く呂律が回らない。

それでも誰よりも近くで見てきたこの術は間違いようがなく。

折れたマストの上に立つ、大きな人影は彼の兄だった。

ユーリ・カサブランカ。

聖騎士パラディンとして活躍する彼が扱う術式は聖術と雷術。

そして彼の種族は雷神族トールである。


「……」


まわりにばちりと閃光が走り、その音が合図だったかのようにユーリが動いた。

彼の目的を目で追い、エリオットが慌てて声を出す。


「たっ、桃鈴!」


名前を呼ばれ、目の前の様子を食い入るように見つめていた彼女が我に返る。

それと同時に剥き出しの剣を持ったユーリが突っ込んだ。


「っ…!」


もうもうと煙が立つ。

電気が走り煌めく刀身のすぐ真横に、桃鈴はいた。

寸前で軌道を逸らしたが脇腹を掠めたせいで血が舞い、背後の木箱に刺さった剣がミシミシと嫌な音を立てる。

ユーリが静かに口を開いた。


「何故動ける…?雷術の効きが悪かったか…?」

「このッ…!」


放った蹴りはあっさり腕で防がれるが、本命はそちらではない。

(右足は囮…!この隙に拳を叩き込んでやるネ!)

左足で踏ん張り握った拳を前へと突き出そうと顔を上げた瞬間、桃鈴が固まった。


「エ…」


雨の水滴や血の飛沫が空中でぴたりと止まって目に映る。

迷ったのはほんの一瞬だったが、その時間があれば十分だった。

巨大な手が彼女の首元を掴む。


「!」


乱暴に引き寄せられ、口にユーリの唇を押し当てられる。

その行為を疑問に思う間もなく、彼女の喉をごくりと何かが伝った。






「桃鈴!」


幼少の頃から何度も受けてきたせいか、動けるようになったのはエリオットがいちばん早かった。

駆け寄った時にはすでに彼の兄は倒れており、そしてそのすぐ手前には胸を押さえる桃鈴の姿。


「桃鈴!?」


エリオットの呼び掛けに反応し、苦しそうに息を吐く。


「っ…!はっ、何か、飲まされたッ…!」

「毒か…!?」


ユーリを見れば彼の大きな身体には幾何学模様の黒い痣のようなものが出現している。

袖から覗く桃鈴の腕にも、まだうっすらではあるが同じような紋様が浮き出てきていた。

(聞いたことがある。一度投与されれば身体を蝕み、その為に回復術も蘇生術も効かなくなる毒があると…)

そうでなくとも彼女には術が効かない。

桃鈴の身体を抱えながら、エリオットが黎明を振り返る。


「黎明!桃鈴がまずい!一刻も早く解毒しなければ!陸に戻れるか!?」

「メインとフォア…マスト2本が根元から折られているんです!修理をしなければなりません!こんな天気じゃ空も飛べない!」


黎明が唇を噛んで、ユーリを見やった。


「っ…!この状況…あの男も…死ぬ気なのか!?」


彼も全く同じ毒を摂取している筈だ。

さらにわざわざ逃げ道を断ち自身を追いやった。

ユーリは自ら命を捨てたのだ。


「兄上…どうして…」


そう呟きながら呆然と触れた桃鈴の頬があまりにも冷たくて、エリオットの手がびくりと震える。


「船長!人魚だッ!」


ユーリの襲撃のせいで注意が疎かになっていたが、いつの間にか歌声が船中に響き渡っていた。


「っこんな時に…!まずい…!」


ゆるりと、甲板の縁から生えたのは真っ白な手のひら。

艶かしく光っておりその様子に背筋が凍る。

濡れた手はゆっくりと縁を掴み、続いて女体が現れた。

その爛々と光輝く瞳に存在するのは説得など通じない剥き出しの本能。


「エリオットさん!姉さんを中に!」


真っ暗な海から、彼らは次々と乗り込んでくる。

(多い…!)


「エリオットさん!」


黎明の声やあたりの喧騒は、エリオットの耳にはどこか遠くに聞こえていた。

彼の脳を支配したのはただひとつ。

(桃鈴が、死ぬ)

歌のせいか頭が内側から殴られたようにガンガンと痛む。

それなのに妙に思考は冷静で、エリオットの脳は居もしない架空の人物に助けを求めた。

(誰か、)


「誰か…助けてくれ…」


彼の声は雨の音やまわりの騒ぎに掻き消される。

それでも彼の頭の中に、フィオの言葉ははっきりと甦った。


『桃鈴のこと、宜しくね』


(誰か、じゃない)

噛み締めた奥歯がぎしりと鳴った。


「黙れッ!!」


その恫喝が行き届いた瞬間、一斉に歌声が止んだ。

人魚達の動きもぴたりと止まって、そして直接向けられた訳ではない黎明の頭さえどこかピリピリと痺れるような感覚。


「これは…魅了術…?」


黎明が息を飲む。

(けど…人魚の術を乗っ取り返すなんて聞いたことがない…)

そもそも彼らは原始的な生物としての側面が強く、説得どころか言葉が通じるような相手ではない。

それなのに辺りはしんと静まり返り、人魚の侵攻も止まった。

そして有り得ないことをやってのけた彼は顔を上げて先を続ける。


「十二華族の聖騎士が一族。僕の名はエリオット・カサブランカ」


視界の悪い雨の中でも、彼の瞳だけは碧く光り輝き一切の翳りを寄せ付けない。

冷たい暗がりに浮かぶ燦然と輝くエリオットの姿、それは身の毛がよだつほど美しい光景だった。


「僕が主人だ。命令を聞け」


その一言を合図に、人魚達が一斉に跪く。

彼らの中央でエリオットは静かに呟いた。


「…誰かじゃない」


(僕が、君を守る)






「ハレミナちゃん。久しぶりね」


イリナは花が咲くような笑顔で自室に彼を迎えた。

そっと手を合わせ期待を込めた瞳を向ける。


「何しにきたの?ひょっとしてまた見せてくれるの?」

「やぁだ、イリナさんってば!すっかり癖になっちゃって~。彼とは別れましたし今日は違う用事ですよ!」

「そうなの…」

「やっぱり1日に10回以下しかできない男じゃ僕は満足できませんから!」


異常性癖が満たせずあからさまに意気消沈するイリナに、同じく異常な彼は努めて明るく声を発した。


「今日来たのは、先日の…ダリア家の件で専門家の意見を聞きたくてですね」

「ああ…。当主ではないとは言え十二華族の中から逮捕者が出たものだから、皆てんやわんやしてるわね」


紅茶を受け取った後、イリナが合図を出し人払いをする。

部屋の中にいた複数の使用人が残らず出ていったことを確認して、ハレミナは口を開いた。


「現在ベアトリクスはアネモネ家で保護しているのですが、そこで少し気になることがあったんですよ」

「あら、わざわざあなたの家で?」

「ええ。発言と言動からベアトリクス自身も和合の林檎に冒されている可能性があると…フィオ様が判断して」

「…実際にそうだったの?」

「はい。彼女は“あの人”なる黒幕を崇拝するような発言をしていたらしいし、魅了術が効かなかったとの話も出てきました」


魅了術は相手が自分に対し少なからず好意を抱くことが前提にある。

それが効かないという事実は、彼女自身が他に一切目をくれないほど誰かに深く心酔していた証拠である。


「このベアトリクスの状態が…今までの被験者とは違う感じがして…。イリナさんはどう思いますか?」

「そうね…。あなたはどう思ったの?ハレミナちゃん」

「…僕は質が違う印象を受けました。僕が今まで出会したものより、ずっと強力な和合の林檎があるような。例えば、経口摂取ではなく心に直接植える、とか…」


そこで言葉を切って、ハレミナはため息をついた。


「ただダリア家から押収されたものに関しては今までと同じタイプの和合の林檎しかありませんでしたから…これは予測に過ぎないんですけど」

「…そう」


イリナが渡された資料に目を通す。

ベアトリクスの証言が記載された頁でふと動きを止めた。


「『あの人の為なら何でもできる』ね…。まるで魅了術のようだわ」

「魅了術?でもあれはここまで大層な真似はできないでしょう?」


魅了術で惚れさせると言っても一時的なものだ。

芸能活動をするイリナのような人物はその一環で使うこともあるが、あくまで補助に過ぎない。

そこから相手を誘導することはできても、傀儡術と違い完全に思い通りにできるわけではないのが実情である。

ベアトリクスのように全てを捨てさせる真似などできない筈だ。


「普通ならさせたくてもそこまではできないのよ。辿り着けないから。浅く使っているうちは単純に相手に思慕を抱かせる術だけど…その真髄は支配にある」


イリナは優雅な仕草で紅茶を飲んで、美しい唇を開ける。


「本当の魅了術は強烈よ。自らこの人の為なら何でもしたいと心の底から願うようになる。それが幸福なのよ。…そういう意味ではただ操る傀儡術よりも強いかもしれないわね」

「……?」


ハレミナと言えば、まるで経験したことがあるような彼女の物言いに、頭上に疑問符を浮かべていた。


「イリナさんに魅了術って…効かないでしょう?」


力が強ければ強いほど、同系統の術は効き辛くなる。

彼女に術をかけるとすれば少なくとも彼女より強力な術者でなければならない筈だ。

ところがイリナと言えば魅了術の第一人者。

この領内で彼女に掛けられる者など居はしないというハレミナの発言も最もだった。


「私に魅了術をかけられるほど力の強い人は…今までにふたりほど会ったことがあるの」


ところがイリナはあっさりとそれを否定した。


「へ…?」

「大切な友人と…あと、彼女の息子よ」


そう言って微笑むイリナはほんの少し寂しそうで。

ハレミナが詳しく聞こうとした瞬間、扉が激しくノックされる。

返事を待たずに開いた先にいたのは、アネモネ家の者である。


「ハレミナ様!至急で解毒の要請がきています!」

「はぁ?僕を指名するとか随分良いご身分だね。強くて素敵な男性じゃなきゃタダじゃおかないんだから…場所は?」

「至急で港に来て欲しいと…」

「はぁ!?港!?雨降ってるのに!?もう!イリナさんすみません、また来ますね!」


ハレミナはばたばたと騒ぎながら出て行く。

残された部屋でイリナはカップを置き、誰に伝えるでもなく呟いた。


「それだけ大きな力を持っていても、本当の愛には到底敵わないと言うのが…彼女の口癖だったけれど」

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