第2章
第12話 桃鈴、出産するってよ
「妊娠した?」
いま聞いたばかりの言葉に
頭の中のあらゆる「ニンシン」という単語を引っ張りだし、やがて行き着いた先でその言葉を発した
そう。
目の前の、この100歳はとうに超えた老婆を。
「ババア。良いことを教えてやるネ。世の中にはボケという言葉があってだな」
「ぶっ殺すぞクソガキ。アタシじゃなくてエリオンヌだよ!」
彼女が飼っているペットの名前が出てきた。
金の毛並みが美しい、
頭がおかしくなったわけではないことを確認し、桃鈴がほっと息を吐いた。
「エリオ…?」
「正確にはそのつがいだけどね。ほら、最近拾ったヴェロニカ」
「あァ、この黒いの…」
銀の持つリードの先には2匹の犬のような生き物。
金色の方はエリオンヌで、最近追加されたもう1匹は黒く艶のある毛並みをしている。
桃鈴が撫でると、額の宝石が輝き、パタパタと尻尾を振った。
「ベロっていうのかァお前」
「略すな。最近様子が変だと思ってたら、どうも妊娠したみたいでね。金も時間もあるしまあ育てるつもりなんだけど」
「時間て銀婆、お前あと何年生きるつもりカ」
「
「マジでカ…」
その言葉に軽い恐怖を覚える桃鈴を置いて、銀は2匹を連れ背をむける。
「今度から、お前に預ける時に数が増えるからね。宜しく頼むよ」
手を振り、彼女は1階へと降りていった。
「…はァ…」
桃鈴も玄関を閉め、のろのろと部屋の椅子に腰かける。
机の上には葉書が1通、内容は行きつけの集会所が旅行の為休業するとの告知。
「…クジャラも可愛い奥さんと楽しくハネムーンだし…」
深い深いため息をついて、桃鈴が頭を抱える。
「ペットでさえも恋人どころか子供が出来たって言うのニ…」
そのまま滑り落ちるように、ごつんと机に額をぶつけた。
口を開けて呻く。
「ワタシときたら…」
そう落ち込む桃鈴は先日誕生日を迎え、25歳となった。
体は健康そのもので仕事も上々。
目立った事件も変わりもなく、不自由はない毎日を送っている。
そして未だ、恋人はできない。
「そうなんだ!それはおめでたいね」
領主の屋敷。
執務室でフィオが手を合わせニコニコ微笑んだ。
対する桃鈴は死んだ目で答える。
「そうネ…。まさか動物に先を越されるとは思ってなかったヨ…」
「それは気にしすぎなんじゃないかな!桃鈴てば…」
「フィオ様」
がちゃりと扉が開いて、エリオットが姿を現した。
自分の主人に向かって口を開く。
「次の選挙総会の衣装に関して、仕立て屋が到着しました」
「あらあ。重なっちゃった。今日は寸法を測るだけだから先に行ってきて良いかな?お茶でも出すから、エリオットとふたりで待ってて」
「あいヨ」
「赤ちゃんきっと可愛いんだろうね~。仕事でお世話になってるし、お祝いに何か渡そうかな」
楽しそうに話しながら消えるフィオを見送って、エリオットが頭に疑問符を浮かべた。
「…え?赤ん坊?」
「あァ。妊娠したんだよネ。ワタシ、」
この時、何の因果か、フィオの指示通りお茶を出そうとしたメイドが手を滑らせた。
つるつるの床に叩きつけられたカップが割れる音は、それはもうよく響き渡り。
桃鈴の発言の後に続いた「の下に住んでるペットが」の部分が見事に聞こえなかった。
つまり彼の耳には事実とは異なる内容が届いていたのである。
(桃鈴が…妊娠した…!?)
「……」
エリオットが動揺のあまり停止した。
「申し訳ありません!すぐに片付けて新しいものをお持ちします!」
「あいヨ。片付け気を付けてネ」
メイドと桃鈴の会話になんとか意識が戻ってくる。
(な、何でそんなことに…!?)
桃鈴に恋人や夫ができたような話は聞いていないし、そもそもほんの少し前までキスのひとつさえ経験がなかった筈だ。
自分を数えなければだが。
「…と言うことは、」
男運は皆無、さらには愛に飢えている桃鈴が、騙された挙げ句に責任もとってもらえず捨てられた可能性。
(あり得る)
愛を欲する余り「安全日だから」と騙して妊娠したは良いが、よくよく調べれば相手が既婚者で絶望した可能性。
(すごいあり得る)
想像したシナリオにエリオットの心が悲しみで溢れた。
「そ、そんなに追い詰められていたなんて…。いや、待てよ…!妊娠ということはまさか…肉体関係を持ったのか!?」
「肉体関係…?まァ、交尾はしただろうネ」
「こっ…!?」
エリオットが膝から崩れ落ちた。
「…どうしたネ、エリオ」
「いや…余分なことを聞いてしまった自分が嫌になっているところだ」
「……?」
やたらと情緒不安定だったり動物の交尾を肉体関係と言ったり、今日のこいつなんかキモいなと桃鈴は思った。
その横で、四つん這いになった彼は落ち込む心をグッと引き上げる。
(いやダメだ…僕は桃鈴の幸せを応援すると決めたんだ)
彼女が決めた以上は、部外者は四の五の言わずに温かく見守るべきだろう。
震える足で立ち上がり、複雑な顔で祝いの言葉を述べる。
「その、何と言って良いか…。おめでとう」
「ン?ああ。伝えておくヨ。ありがとうネ」
少し違和感を覚える物言いだが、今のエリオットには気にならない。
(お腹の中の赤子に伝えると言うことか…)
「いつ頃が出産予定日なんだ?」
「確か来週ぐらい」
「そうか…来週…。ら、来週!?」
エリオットが愕然とし、桃鈴に視線を向けた。
彼女の腹部を観察するが、すとんと落ちた服に凹凸はない。
ため息を漏らしながら思わず呟いた。
「…見かけだけではわからないものだな…」
「ワタシも言われるまで気が付かなかったしネ。太ったかなぐらいに思ってたヨ」
「そうか…。悪阻が酷くなくて良かった。…性別はどちらが良いとかあるのか?」
「あァ。それが、正確な数は分かんないけど、5匹ぐらいいるんじゃないかって話ヨ。だから両方産まれるんじゃないカ」
「ごっ…!?5ぉ!?」
エリオットが再び桃鈴の腹部に視線を戻した。
(あり得ない…あり得ない、が…)
何せ彼女はこの国発祥の種族じゃない。
妊娠形態がエリオットの常識と違っても不思議ではないのだ。
さらには相手の種族によっても変わってくるだろう。
「き、聞いても良いのかわからないが…父親は誰なんだ」
「?」
桃鈴は一瞬ぽかんとして、続いて衝撃的な答えを口にした。
「だからエリオヨ」
「…えっ」
(僕…!?)
彼の背中を滝のような汗が流れていった。
いや、神に誓って心当たりはない。
ところが彼は同年代の青年に比べ素直で、またこの時は軽いパニック状態に置かれていた。
(まさか、あの時のキス…!あれで妊娠…!?)
エリオットの脳が夢見る少女のような結論を出す。
世の中は広い。
単為生殖ができる生物もいるのだから、口付けで妊娠できる種族もいる可能性は捨てきれない。
よもやあのペットと自分の愛称が重複していることなど、彼の頭からは綺麗に抜け落ちている。
「そ、その事実に間違いはないのか…!?」
「エ?ウーン…まァ、生まれてみたら一目瞭然だと思うヨ。金か黒の毛色の筈だからネ」
黒髪の桃鈴がそう言い、金髪のエリオットが震える。
「ど…どうして教えてくれなかったんだ!」
「…?イヤ、お前がそんなに興味津々だったとは知らなくて…」
「!?当たり前だろう!っ、だが…どうしたら…!」
エリオットが混乱しつつ口を押さえた。
何せ昨日まで自分の身を立てることさえ精一杯だったのに、来週から5児のパパである。
字面がヤバイ。
すると何がなんだかわかっていない桃鈴は、平然と口を開いた。
「で、今回の依頼は何か聞いてるか?エリオ」
「身重の状態で仕事を…!?そんな危な…」
言いかけて、エリオットが止まる。
(身重だからこそ稼がなくてはいけないんだ…!何せ5人も増えるんだ。働けるときに稼がないと…!彼女はすでに育児を見据えていると言うのに…僕は自分のことばかりで…)
「くっ…僕が間違っていた…。こんなことだから教えてもらえなかったんだ…!」
勘違いは進行し、エリオットの中に結論を出した。
(6人ぶんの命を抱える桃鈴に無理をさせるわけにはいかない…!僕が頑張らなければ…!)
「桃鈴!君に頼りきりだったが…それも今日で終わりだ。これからは死に物狂いで仕事をこなす!」
「エ?ウン。それは大いに頑張れだけど…なんでいきなり?」
「いや、あまりに急なことだから覚悟はできたと言えば嘘になるかもしれない…けれど僕も父親として、共に子供を育てていきたいんだ!」
「……?」
不審者を見るような目を向けていた桃鈴が、ハッと何かに気が付いた。
「父親…?ってお前それ…」
「ああ」
真剣な表情で頷くエリオットの襟を、両手で掴む。
そのまま、回るようにして彼の体を放り投げた。
「お前もかァ!!」
エリオットがめしゃりと床に食い込む。
「な、何故だ…」
「結婚とか妊娠とか彼氏できましたとかそういう幸せな報告はなァ!1日に1人までにしろォ!こっちの心がもたないヨォ!」
そう叫ぶ桃鈴は先日無事に誕生日を迎え、25歳となった。
体は健康そのもので仕事も上々。
目立った事件も変わりもなく、不自由はない毎日を送っている。
そしてやっぱり未だ、恋人はできない。
「っふ…」
そしてその頃、戻ってきていたフィオは、扉の前で崩れ落ちるように笑いを押し殺していた。
「あー…面白かった」
「……」
笑いすぎたあまり涙を拭くフィオを前に、エリオットは真っ赤になって震えていた。
桃鈴がじっとりと睨みつけてくる。
「…なんか話が噛み合わないと思ったら…。エリオ。お前はワタシを何だと思ってるネ」
「たまに抜けてるよねえ、エリオットは」
「……」
恥ずかしさのあまり黙っていると、フィオがまだ笑いを残しながらも椅子に腰かけた。
「ふふ、さて、仕事の話をしようか」
「はい…お願いします…」
「今回君たちに頼みたいのは、ある人物の救出だ」
差し出された資料には、簡単な絵が描かれている。
敷地をぐるりと囲む塀に高い塔、下に広がっているのは城下町ではなく木だ。
森の中に建てられた古城というところか。
「そこに私が頼んで潜入させていた者がいてね。その人物が少し逃げられない状況になってしまったんだ」
「その方は無事ですか?」
「うん。直ぐに身の危険が降りかかるような環境ではないんだけど、生憎うかうかしていられない事情がある。だから君たちには早めに助けて来てほしいんだ」
「……?」
黙って聞いていた桃鈴が、不思議そうにフィオを見る。
潜入者の、脱出できないのに身の危険はないという点も気になるが。
「何でワタシ達ふたりニ?そこまで怪しいと思ってるなら警備団なり騎士団なり踏みこませて救出した方が早いんじゃないのカ。領主ならそのぐらいの権限あるだロ」
「…私が嗅ぎつけたとはまだ知られたくなくてね。手の内はなるべく隠しておくべきだろう?」
「ふゥん…対象の特徴は?」
「それなら大丈夫」
手の平を合わせ、彼はにこりと微笑んだ。
「会えばわかるよ」
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