第7話 暇をもて余した貴族の遊びはえぐい
「
レオナルドが悲鳴に近い声をあげた。
彼含め、獣人という生き物は嗅覚が鋭い。
その性能たるや、視覚に頼らずとも匂いだけで人や物の区別がつくほどである。
そんな彼の鼻は、目の前の人物は間違いなく桃鈴であると言っているのだが。
「どうしたんだ!?胸が皆無じゃねえか!」
「……」
着替えている最中だったのか、彼女の上半身は、肚兜と呼ばれる背中が大きく開いた下着1枚だけ。
その胸の部分が、それはもうガチガチの直線を描いていたのだ。
「元々死ぬほどペタンコなことは服の上からでもわかってたけど!本当に男みたいだぜ!」
「……」
「でも安心しろ!俺はお前の強さに惚れたんだ!なにより、胸が断崖絶壁なことぐらい前から知ってたしな!気にしねえぜ!」
レオナルドがそう言って、自分の服に手をかける。
「さあ!桃鈴、下も脱ぐんだ!交尾しよ、」
「喧嘩売ってんのカァア!」
怒声と共に、壁を突き破って彼の体が外に飛び出た。
「全く…男みたいなんじゃなくて、今は本当に男なんだヨ」
そうため息をつく桃鈴の体は、いつもよりひとまわりほど大きく筋肉質で、髪も短い。
「ああ、今日はそっちかい」
「
大きく開いた壁の外から、1階の老婆が顔を出した。
おおかた今日の修繕費を見積もりに来たのだろう。
「…がめついババアね」
「覚えときな。歳をとると数字に敏感になるんだよ。それにしても…いつもより完成度が高いね」
「だロ?今季の男化薬は出来が良いらしいヨ。一昔前は酷いもんだったけどネ。ちゃんと髪も勝手に短くなるし、声も低くなってるヨ」
そう言って、桃鈴が薬缶を取り出した。
男化薬。
読んで字の如く、男性に化ける薬である。
幻術や変化に頼らずとも見た目を変えることができる為、桃鈴は重宝している。
ちなみに効果は24時間。
今朝飲んだので、明日の朝には元に戻るだろう。
薬の容器には花の絵が描かれている。
「やっぱり値段は張るけどアネモネ印の薬がいちばん信用できるネ…何だヨババア」
いつもならその呼び名に敏感に反応してくる筈の老婆は、しげしげと桃鈴を眺めた後、唇を舐めながら呟いた。
「こうして見てると…セックスの相手はアンタでも良い気がしてくるね」
「…万が一そういう状況になったら舌を噛み切るネ」
さて、今回なぜわざわざ性別と名前を変えたかと聞かれれば。
この業界では、女であるよりも男である方が依頼を受けやすい場合がある。
例えば男だけのパーティでダンジョンに入る時などは女の介入は嫌がられることが多いし、相手に圧力をかける場合も男の方が向いているだろう。
「俺の天使に…触るんじゃねえ!!」
ふたつの拳が纏っているのは火。
(炎術ネ…)
それを跳ねて避けると、攻撃は背後にあった荷車に当たる。
轟音と共に車がまっぷたつに割れ、続いて地面にごろんと筒の付いた玉のようなものが転がった。
「!」
「
次の瞬間視界が真っ白になり、外野で見ていた少女が悲鳴をあげる。
(発煙弾…)
「……」
確かに敵の姿を見失ったものの、桃鈴はその場から動かない。
冷静に煙の流れを目で追う。
風に流されていく粉塵、その一部がわずかに歪んだ。
「死ねぇええ!!」
「お前がヨ」
煙を割って突っ込んできた巨体を駆け上がり、桃鈴が男の顎に向かって蹴りを出す。
当たった瞬間、彼は白眼を向いて、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
「これに懲りたら、オレの女に付きまとうのはやめるネ」
桃鈴が着地する。
この業界では、女であるよりも男である方が依頼を受けやすい場合がある。
今回のように、彼氏役を演じるような事例も当てはまるだろう。
「この筒の中に炎術で火を発生させて、煙を発生させる仕組みかァ…。器用な奴ネ」
桃鈴が興味津々で発煙弾を見ていると、彼女の偽名を呼ぶ声が響いた。
「黎明さん!わあ!すごいすごい!どんな人に頼んでも倒せなかったのに!」
そう嬉しそうに飛び付いてくるのは、先程の大鬼との戦闘を見守っていた少女だ。
ハレミナと名乗った彼女は、今回の依頼人である。
「討伐対象は大鬼のストーカー…これで一応、仕事はこなしたネ」
「うん!ありがとう」
花が咲くように笑った彼女は、報酬を出す。
桃鈴が受けとると、恥ずかしそうに口を開いた。
「ねえ。お礼も兼ねて、僕と一緒に夕飯を食べに行こう?」
「ウーン…」
普段ならばいざ知らず、桃鈴は男として来ている上、彼女に本当の性別は知らせてはいない。
ハレミナは何かを期待する表情になっているが、それには応えられないだろう。
あいにく欲しいのは彼女ではなく彼氏で、更には仕事関係の恋愛では過去に痛い目を見ている。
このような誘いは普段ならば謝絶一択であるものの、悩む理由が桃鈴にはあった。
「ダメ…?僕のお願い聞いてくれない…?」
何故なら、ハレミナは可愛いからだ。
白い肌に花緑青色の髪、大きな目はまるで硝子のように輝いている。
まさに美少女というやつで、さらに話を聞けば何とまあ、ハレミナは生まれてこのかた男を切らしたことがないらしい。
先ほどの男も、彼女に恋慕するあまり悪質な付きまといになってしまったとのこと。
(どうやったらそんなにモテるのか知りたいネ…)
さすがに見た目はそうそう変えられないが、彼女の仕草や言動に何かヒントがあるかもしれない。
同時に、彼女はお得意様になりそうな香りもするので、あまり余計な感情は持たれたくはないのも事実である。
なにせ彼女はどこかのお嬢様なのか、金払いがとんでもなく良い。
(ウーン…)
「…お前、どれぐらいモテるカ?」
桃鈴の頭の中で、天秤が大いに揺れている。
するとハレミナは可愛らしく首を傾げて、その小さい口を開けた。
「月イチぐらいで求婚されるかな」
「師匠。夕飯何食べたいネ」
天秤が大きく傾いた。
なんなら振り切れすぎて折れた。
(ちゃんと家に帰せば問題ないよネ)
それにこれほど愛され体質な女ならば、例え桃鈴が失恋の原因になったとしても直ぐに次の男が現れるだろう。
「黎明ってば変わってる!ずっと男にモテる秘訣を聞いてくるんだもん」
街灯がぽつぽつと点在する夜道に、酔ったハレミナの可愛らしい声が響いた。
そんな彼女に付き添いながら、桃鈴は冷静に言葉を返す。
「今日はちゃんと帰るヨ。送って行くから」
「えー…」
ぶーと頬を膨らませる彼女とは対照的に、桃鈴といえば今すぐにガッツポーズをとりたい気分だった。
(どうしてハレミナがモテるか分かったネ…。それは…弱いからヨ!!)
3時間にわたる観察の末、発見した。
その華奢な身体は伊達ではなく、彼女は虫にも悲鳴をあげていた上、大型生物用の門も開けられないほど非力だ。
(噂には聞いたことがあるネ…。男は守ってあげたくなるような脆弱な女が好きト…)
「つまりワタシも弱くなれば誰かに愛してもらえるってことネ…弱くなるヨ…!」
「弱くなる…?」
その言葉に反応し、隣の彼女がうつむき地面を見た。
「ハレミナ?」
「強くないなんて…そんなのダメだよ…黎明…」
小さく呟きながら、ぎゅっと桃鈴の服を掴む。
そしてハレミナが思いきったように顔を上げた。
「もう我慢できないの…しゃぶらせて?」
「……ハ?」
とんでもない発言を聞いた気がして、思わず彼女に視線を向ける。
ところがそこには、もっととんでもないものがあった。
「…ウッ、ウワァアアアアア!!離せェエエエ!!」
スカートを履いているハレミナの股関のあたり、本来ならばつるんとしているはずのそこは、何故かテントが張っている。
明らかに、何か知っているものがある。
なんなら今は桃鈴にも付いているものだ。
それを視認した瞬間、全身にぶわっと鳥肌が立ち、大慌でその小さな手を振り払う。
「ごめんね、びっくりさせちゃった」
自分の指をぺろりと舐めて、ハレミナは微笑んだ。
「フフ…僕ね。本当は男なんだけどね、あんまりにも男にモテるから、言い寄ってきた奴ら同士で戦わせて、いちばん強い人と付き合うことにしてるんだ」
「ひ、暇をもて余した神々の遊びかヨ…趣味悪いネ…」
ほんの少しだけ羨ましいと思ってしまったのは秘密だ。
そんな楽しみを話す彼の笑顔は相変わらず可愛らしいが、言っている事は間違いなく頭がおかしい。
「そのうち強い男にしか魅力を感じなくなってさ…。弱くてもダメ。女でもダメ。ずっと探してたんだ、黎明。君のような強い男を」
彼の目は瞳孔が開き、目の前の標的に熱視線を送っている。
それにぞわぞわと鳥肌を立てながら、桃鈴が叫んだ。
「愛されたいのはお前じゃないヨ!この変態がァ!大体ワタシ、はッ…!?」
悪寒とは違う感覚が桃鈴を襲う。
ふらりと立ちくらみが起き壁に寄りかかると、体の中心部から妙な熱が広がってきていた。
(な…なにこレ…)
「どう?効いてきた?」
桃鈴の様子を、顔をほころばせてハレミナが見ている。
首からネックレスを取り出して、それを翳した。
「僕の名前はハレミナ・アネモネ。十二華族の
アネモネの花を象った紋章。
桃鈴が使っている男化薬、その容器に描かれていたものと同一である。
それを睨み付けながら、桃鈴が唇を噛んだ。
「…魔女ってことは…これ、薬カ…」
「よくわかってるね。夕食に盛らせてもらったよ。魔女こそ、この国いちばんの製薬師の一族。僕よりも詳しい奴はそうは居ない」
「く、来るナッ!」
すり寄ってくるハレミナを必死で遠ざけようとするが、頭はぼんやりと霞がかり、手足にうまく力が入らない。
「やめロッ…!男の体で男なんかと致すなんて嫌だヨ…!」
「大丈夫…。初めはみんなそう言うんだ。でも僕の薬とテクニックなら、1日で虜になるよ」
「ッ…!」
その言葉と首筋にかかった息に、桃鈴の背中をこれ以上ないぐらいの寒気がかけめぐる。
「ほら…。僕に任せて…」
「ふ…ふざけんなァッ!」
桃鈴が叫び、懐から発煙弾を取り出した。
筒の部分を石壁に押し当て、勢い良く振り下ろす。
「!」
火花が散った瞬間、白煙が上がった。
同時にハレミナが突き飛ばされ、尻餅をつく。
煙が晴れると、桃鈴の姿はなかった。
「そっか…あの薬に抵抗できるんだ…。しつけ甲斐があって良いね…逃がさないよ」
立ち込める噴煙の中、ハレミナの興奮した瞳だけが輝く。
そして桃鈴は、転びそうになりながら路地裏を走っていた。
「まだちゃんと付き合ったこともないのニッ…!掘られて…いやワタシが掘るのカ?いやどっちもしてたまるカ…!このま自宅に…」
言いかけて止まる。
このまま逃げ帰って、万が一追いかけてきたハレミナに自宅の場所を知られたら一貫の終わりだと気が付いたからだ。
なにせ相手は権力のある変態である。
桃鈴の自宅に押し入ることなど簡単だろう。
さらに言えば下の階のババア、めっちゃ人のこと売りそう。
(下手なところに逃げても、権威のあるアイツはどこにでも入れるネ…)
せめて、男化薬の効果が切れ女に戻るまで、ハレミナが安易には入れない場所に逃げるべきだ。
例えば、彼と同等以上の家柄を持つ者の邸宅。
フィオの屋敷はここからでは遠すぎる。
(十二華族…)
自分の屋敷、私室にてひとりでエリオットが明日の予定を確認していた時のことである。
突然ガシャンと、自室の窓が割れた。
「!?」
剣を手に取り、足音を立てないように窓際に近づく。
「っ!誰だ!」
「…はっ、」
バルコニーの上、部屋からの光に照らされて浮かび上がったのは人影。
エリオットの姿を確認すると、ほっとしたようにその場にうずくまった。
「……?」
性別も見た目も声も違うが、彼の雰囲気には妙な既視感がある。
恐る恐る声を投げ掛けた。
「…た、桃鈴か?」
「っは、え…エリオ…」
息も絶え絶えに返ってくる呼び名に、間違いなく彼女だと確信する。
何故男になっているのかは不明だが、顔を真っ赤にさせて汗だくな桃鈴は明らかに普通の様子ではない。
「これは、毒…いや薬の類いか…!?君は薬は効くのか!?待っていろ!すぐに誰か呼ぶから、」
「ま、待っテ…追われてるから、騒ぎになるとマズイヨ…」
立ち上がろうとしたエリオットを、桃鈴が止めた。
ハレミナと同じ十二華族とは言えど、他の貴族と衝突してなんの影響もないことは考えにくい。
「ワ、ワタシがいることは秘密にしたほうが良いネ…」
「わ…わかった。とりあえずベッドに…」
「エリオット様!どうされました!?」
扉を叩く音と共に、男性の声が廊下から聞こえてくる。
これは執事のヒイラギのものだ。
「だ、大丈夫だ!騒がなくて良い。水と何か拭くものを持ってきてほしい!」
「どなたかいらっしゃるのですか!?」
「い、いいから持ってきてくれ!」
主人の異常事態を察したのか、今にも開けて入ってきそうな剣幕である。
必死で牽制しつつ、その時エリオットが体勢を変えるために伸ばした手の先が、桃鈴の身体を掠めた。
「ひゃん!」
「えっ」
「!?」
名誉の為に言っておくと、エリオットは決して変な場所を触ったわけではない。
なので意味が分からず、大慌てで口を塞ごうと彼女に手を伸ばした。
「桃鈴!頼むから静かに…」
「そっ、そんなこと言われてモッ…いま触られたらやっ、アッ!あんっ!」
一体何が起こっているのかと固まるが、彼女自身も半泣きで驚いている。
(これは…媚薬か!)
ここに来てエリオットが気が付いた。
だが、思い出して欲しい。
今期の男化薬は優秀である。
身体や髪が男性的になるのはもちろんのこと、声まで低くなるという徹底ぶりだ。
つまり、この時桃鈴の口をついて出たスケベな声は、どう聞いても男のものだった。
「……」
身体中の毛穴という毛穴から汗を噴出させるエリオットに、ヒイラギは急に静かになった。
「……エリオット様。我らは貴方様が貴族というお立場に慢心することなく、常に努力を重ねてこられたことを知っております」
「え?あ、ああ…」
突然の話に戸惑う。
ヒイラギはほんの少しだけ扉を開け、その隙間から水の乗ったお盆を差し出してきた。
床に置き、にこりと慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
「例え、夜な夜なメンズに媚薬を摂取させ遊興に耽るような、特殊な娯楽に目覚められたとしても、我々は何も言いませぬ…」
「!?ち、ちがう!これは、その…」
大きな声で否定したいが、桃鈴の言葉を思い出し押し黙った。
何をどこまで説明して良いものかわからない。
「と、とにかく違うんだこれは!」
「ご安心ください。このことは他言致しませんから…どうぞお気をつけてお楽しみくださいませ…」
ヒイラギは意味深な言葉を残して、その場を去っていった。
(一体どうして…こんなことに…)
意識を失った桃鈴を目の前に、エリオットは暫し茫然と佇んだ。
「……」
桃鈴は、雲のように柔らかいベッドの上で目が覚めた。
大きな窓からは朝日が差し込み、軽快な鳥の鳴き声が聴こえる最高の瞬間だが、何故か目の前にはエリオットの顔がある。
その金の睫毛がぴくりと動き、眠そうな碧眼が彼女を捉えた。
「…目が覚めたのか。桃、」
「ホァッタアアアッ!!」
次の瞬間、エリオットは吹き飛んだ。
美しい装飾が施された壁に激突し、もうもうと煙が立った。
「乙女に手を出すなんて信じられないヨォ!このケダモ…、ノ?あれ、ここはどこカ…?」
そう言って桃鈴がベッドの上からきょろきょろとあたりを見回す。
ベッドの脇には椅子と水、振り向けば割れた窓。
そして未だ男のままの自分の身体。
それらを全てに目を通してから、桃鈴はゆっくりと息を吸い込んだ。
「……ゴメン」
「…全くだ。一晩中看病して…やっと眠れたと思ったのに、こんな仕打ちを受けるとは…」
エリオットは吹き飛ばされた時のまま、床に座ってジトリと睨む。
「エリオット様…!?一体何が…」
続いて歪んだ扉から部屋に入ってきたのは執事のヒイラギ。
ベッドの上の桃鈴と、ボロボロのエリオット、さらには半壊した部屋を順番に見て、正解を導きだした。
「もうすぐユーリ様がお戻りになる可能性があるので、苛烈なプレイはお控えいただいた方が」
「違う!すごい違う!桃鈴ー!貴様のせいだぞ!」
「ご、ゴメンって…さすがに悪かったと思ってるネ」
「ところで…アネモネ家のハレミナ様がいらしているのですが…」
控えめにヒイラギが口を挟む。
その言葉に、エリオットが眉を潜めた。
「…ハレミナ?奴とは同期だが…何故ここに…?」
「…さて。ワタシはそろそろお暇するヨ」
「待て!今度は何したんだ!」
こそこそと部屋を出ていこうとした桃鈴の首根っこを掴む。
「違うネ!ワタシは何にもしてないヨォ!あいつが勝手に人の竿を握ろうとしてきたネ!」
「……ハレミナは男だが?」
「あい。もしかしたら握らせようとした可能性もあるヨ。このまま出たらワタシ確実に襲われるネ」
そう話す桃鈴の表情は真剣そのもので、なんなら自分の身を案じて冷や汗さえかいている。
妄言を言っているようには見えないし、そもそもそんな嘘をつく理由はない。
「…君はどうしてそう…変態を引き寄せるんだ…」
「ワタシも聞きたいヨ…」
「何の用だ。ハレミナ」
エリオットの声に、来客用の椅子に座っていた人影が振り向いた。
その愛らしい顔を歪めて、口を尖らせる。
「…何で君が出てくるの。なんか小汚いし。ねえ、ユーリ様は?」
「…兄上は禁止薬物の売買組織の根城を発見したとかで、そこに向かっている」
「ああ。ヤダヤダ、あんなセンスのない物。薬って言って欲しくないね。ところで、ここに黎明って名前の男の子来てない?」
「来てない」
「本当かなあ?僕の手下のひとりが入っていくのを見たって聞いたんだけど。
その言葉に、エリオットがぴくりと反応する。
「…学生時代からずっと思っていたが、貴様、僕のこと嫌いだろう」
「ん?大嫌いだよ。弱いからね」
「…えっ」
あまりにもあっけらかんと言われ、固まった。
そんな彼を置いて、ハレミナは鬱憤を晴らすかのようにズケズケと続ける。
「好かれてると思った?冗談。なれっこないのに未だ聖騎士を目指してるところも、親の七光りで領主様の側近に就けただけなのに偉そうなところも嫌いだよ」
「な、なれないと決まったわけじゃない!」
「なれないよ。何で未だに聖騎士を名乗ってるの?諦めなよ。次期当主はユーリ様で決まりだ。君があの人に勝てるわけない」
「うっ五月蝿い!貴様には関係ないだろ!黙れ!」
強がってはいるがエリオットは半泣きである。
その様子を、ヒイラギは目にハンカチを当てて見守っていた。
「エリオット様…。お痛わしい…愛する方を守ろうと、その身を削る貴方様はもう立派な青年ですね…」
ヒイラギの脳裏に、昨夜見つけた『
あの教本も、おそらくはあの仕事仲間だという男性に使う為に読んでいたに違いない。
(男性3人のトライアングルとは異色ではありますが…。坊っちゃまが久々に恋をされたのです…)
「私は応援するのみ…。あとは、そうですね。ユーリ様に知られなければ…」
ヒイラギがそっと懸念を口にする。
(ですが、男性ならば…恐らくは大丈夫でしょう)
「エリオが気を引いてくれてる今のうちに…ア」
その頃ちょうど、桃鈴は女に戻っていた。
薬の効果が切れたのだ。
服がぶかぶかになり、目線が低くなる。
「しばらく黎明の仕事は受けられないなァ…。けど掘ること…いや掘られるカ?まあそれには代えられないネ」
ハレミナは女には興味が無く、桃鈴の本当の性別も名前も知られてはいない。
とりあえずは、これで一安心だろう。
「フィオもそうだけど…貴族には変態が多いネ。やっぱり金と暇を持て余すとろくなことにならないヨ」
屋敷の門が開き、外から馬車が入ってくる。
その横を通って桃鈴が出ていこうとすると、ふいに呼び止められた。
「すみません」
「ン?」
声のした方を見れば、馬車の窓からこちらに向かって話しかける、ひとりの男の姿。
彼は微笑んで口を開いた。
「見ないお嬢さんですが…どなたでしょう?」
「桃鈴ヨ。エリオ…じゃない。エリオットさんの…ええと、知人ネ」
「そうでいらっしゃいましたか。どうぞお気をつけて」
「あい」
軽く頭を下げて、桃鈴がその場を後にする。
(妙な迫力のある人だったヨ…)
精悍な顔立ちに優雅な仕草、そして何よりも堂々とした雰囲気には威厳があった。
お坊ちゃん感の強いエリオットとはまた違った意味で、貴族という肩書きが似合っていた。
「ユーリ様。おかえりなさいませ」
「ああ」
馬車から悠然と男が降りる。
彼は唇の端を吊り上げて、独り言のように呟いた。
「…懲りないな。エリオット」
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