第11話
瑠璃が長い眠りから目を覚ましたのは、夜のとばりが降りた頃のことだ。おそらく、睡眠時間はとうに十時間ぐらいは経っているだろう。
「おはよう……兄さん」
「おはよう。だが、もう夜だぞ」
「――え?」
朝寝坊をしてしまった学生のような驚きをした瑠璃が、窓の外に視線を配る。
「ほんとだ。私、朝から晩までずっと寝ていたの?」
「ああ、そうだよ」
「雨もまだ降ってる……」
「ずっとこの調子だ。あれから一度たりとも止みやしない」
「梅雨に入ってるのかな?」
一日の流れは現実と同じだが、この気象だけはどうにもおかしいような気がする。瑠璃の言う通り、梅雨なのだろうか。いまの時点では見当もつきそうになかった。
「思いのほか、十分な休息を取れていたみたいだな。顔色もだいぶ良くなっている」
「あ、そうね。うん。いまは全然調子いいみたい」
体内に潜んでいた病原菌は根こそぎ消えてしまっているようにすら見え、瑠璃の額に手を触れて体温を感じ取ってみる。すると、あれほどの灼熱を帯びていた身体はすっかり冷めていた。
「兄さんが看病してくれたから、元通りになっているでしょ」
生気に満ちた表情から安心してよさそうだ。
「食欲はあるか?」
「あら、ひょっとして……兄さんが何か用意してくれたの?」
「いや、そこの冷蔵庫に出来合いの物が用意されているんだ。一応、俺が先に喰ってみたが、味の方は大丈夫そうだ」
異世界の食事は外国の飯を喰っていると思えばなんてことはない。
「そうなの? じゃあ、何か食べようかしら」
ベッドから立ち上がった瑠璃は冷蔵庫の中身を物色し始める。料理の入った容器を開けては、中身を味見し、蓋を閉じる。それをしばらく繰り返していた。
「兄さんはお腹空いてないの?」
「……少し、減ったな」
最後に食事を取ったのはおそらく昼過ぎぐらいか。一日中、暗雲が立ち込め続けた空では時間の感覚も掴めない。
「じゃあ一緒に食べましょ! それじゃあね、えっと……何がいいかしら」
画像が添付されたメニュー表を眺めるようにして料理を選び始める瑠璃。その姿は自宅でいつも冷蔵庫とにらみ合いながら、何を作ろうかと献立に悩んでいた瑠璃と重なる。
瑠璃の食事選びは傍からみて楽しそうに見えた。あんな姿を見るのは異世界にきて初めてのことだった。
「あ! 兄さん……私が見ていない間に偏った食事をしてたでしょ。ダメよ、バランスよく食べないと!」
瑠璃は肉類の入っている容器だけが他と比べて極端に減っていることに気づいたようだ。
ほとんど手が付けられていない野菜類と比較して、俺が肉類ばかりに手を出していたことは明白だったかもしれない。
それにしても、初めにどれだけの量が入っていたのかも知らないくせにずばり当ててくる辺り、兄妹だからこその為せる技といえよう。やはり、瑠璃の目は誤魔化せないようで素直に謝っておいた。
「もう、仕方がないんだから……」
「バランスの良い食事と言われても、俺にはよく分からないな」
「やっぱりこういうことは私がしないとダメね。放っておくと兄さんは栄養失調で倒れてしまうかもしれないわ」
そう言った瑠璃の顔は綻んでいる。久々に家事紛いのことが出来ることに喜びを感じているのかもしれない。
家事全般は瑠璃が担当。対して、俺は日々殺しの仕事をこなしている。
俺に出来ないことは瑠璃がこなし。瑠璃に出来ないことは俺がこなす。こういったところでも俺たちは二人で互いの欠点を補って生きている。
やがて、夕食を選んだ瑠璃はいくつかの容器を抱えて机に広げた。
「今日の献立は、野菜を中心にしてみました!」
瑠璃はどちらかというと野菜の方が好みだ。それは知っているのだが、量が多すぎるような気がするぐらいに出されている。これも瑠璃の言うバランスのいい食事なのだろうか。
「異世界の野菜って美味しいわね」
BGMとして流れる激しい雨音とともに食事を進める。
こうして屋根の下で食事を取るのは異世界に来て初めてのことだ。現実世界では当たり前のようにしてきた生活がいま、蘇っている。
瑠璃はよっぽど腹を空かしていたのか、いつもより早いペースで食べきってしまう。
食後、病み上がりでもある瑠璃は再びベッドへと横になる。見掛けでは万全に見える瑠璃の体調だが、万が一のこともあるため、今日は一日ここで休んでおくべきだろう。
急がなければいけないことは分かっているが、瑠璃の体調を気にかけてやる方が俺の中では優先だ。
時間は有意義に使うべきだ。この世界にやってきてからは日々、戦いに明け暮れる毎日だった。ゆっくりと何かを考える時間なんてものは今しか取れないだろう。
まず、気になった異世界人の武器とも言える存在。瑠璃はもしかしたら、ちゃんと見ていなかったかもしれないが、ここの主が使用したチェーンソーのように変化した円盤。
俺が触れたところでやはり何も起こらない。奴らの魔法によって発動する仕組みなのは明白だ。
「なぁに? それは……」
「奴らが使っていた武器だ。チェーンソーのような力を持っている」
もの珍し気に俺の持つ円盤について尋ねる瑠璃に対して、俺は実際に見たことを話した。
「魔法を動力として動くチェーンソー……ね。たぶん、それもこの世界における独特の文化じゃないかしら」
「文化?」
「異世界にやってきて気づいたことなのだけど、おおよそこの世界には科学のような物が存在していないのよ。その円盤もそうだけれど、大抵のことは魔法によって成り立っているわ」
言われてみればそうなのかもしれない。まるで何世紀も昔の文明、科学が発達する前の日本だ。
瑠璃が異世界の様相をみて、「タイムスリップしたみたい」だと感想を漏らしていたことを思い出した。
「大昔の日本を時代背景に魔法という力がある世界。それがこの異世界の文明ね」
なるほど。時代錯誤に思える城が建っているのも時代背景からすると納得がいく。さすがは瑠璃だ。
「この世界のことが分かったが、魔法に関してはどうにかならないものなのか。特に、あの俺たちや日本刀を呼び出した魔法。現代の俺たちの世界に干渉する魔法など、一体どういうカラクリなんだ」
「……それは私にも分からないわね」
「瑠璃のよく読む本に似たようなことはないのか? それが分かれば何か対策でも――」
「あれはお話し。フィクションよ。兄さんだって言ってたじゃない。作家の妄想を押し付けてるだけだって」
その通り。所詮は嘘を並べ立てただけの産物だ。しかしまるで空想上のようなこの世界に限っては、その嘘が役に立つのではないのだろうか。
「おとぎ話のような世界なんだ。作家の嘘が役に立つかも知れんぞ」
「そうは言っても、ここは紛れもなく現実よ。創りものが役に立つなんてことはないわよ。私たちが見て、体験していることは夢でもなんでもない。本当に本当の現実なのよ。ありのまま起きていることを認めなくちゃダメよ」
「魔法は、実在しているとでも?」
現実にオカルトじみた要素が混じっているなどにわかに信じられない。しかし、瑠璃は事もなげに首を縦に振った。
「そうよ。魔法は実在した。私たちは実際に異世界に呼ばれる魔法を体験しているじゃない」
庭で突如として光に包まれ、身体が宙に浮かび上がる現象。その刹那だった――俺と瑠璃が異世界へと迷い込んだのは。
「現実だとは信じがたいな」
「でも、信じるしかないわよ。異世界の住人だって遭遇したじゃない」
「奴らか……。俺からすれば、エイリアンとでも言われた方がまだしっくりとくるがな」
獣の耳と尻尾。加えて謎の言語。そう断定してしまっても構わないぐらいの材料が揃っている。
「それは、ちょっと違うと思うわ。だって、それならば私たちを呼んだ魔法は、いわゆるワープの一種になるじゃない」
「そっちの方がまだ現実感があると思うけどな」
ワープ。おおいに結構。無重力空間を味わったのもワープだとするならば、納得も出来るものだ。
「仮に兄さんの言う通りだとすると、ここは現実世界のどこかにある惑星ってことになるのよ。私たちの暮らす地球とほとんど同じ環境を持つ惑星に飛ばされる方こそ現実感が掴めないわよ」
話が壮大になってきたようだ。だが、瑠璃の言うことももっともだ。別の惑星に飛ぶ、つまりここは現実世界となってしまう。
魔法も獣のような姿をした人も現実にいる。
俺たちを呼んだ魔法をワープの一種だと捉えたが、だったらそれ以外の現象はなんだと言うのか。どう考えても説明のつきようがない。現実という仮定が成り立たないのならば、別の世界と説明した方がまだ理解が出来るか。
「もっと別の考え方をしてみましょう……例えば、そうね。ここは異なった歴史を歩んだもう一つの地球としたらどうかしら。ほとんど地球と変わらない環境やなじみ深い食材。異世界人だって、地球人に獣の耳と尻尾が付いただけで、あとはそんなに大きな違いなんてないわ」
俺たちが何度か食した異世界の料理。見た目は完全に洋風の料理だ。
環境のこともそうだ。数世紀前の地球の姿をしているが、生きていく上での自然環境そのものは現代と変わらない。違いがあるとすれば重力ぐらいだ。
「確かに俺たちの過去の歴史と似通った部分があるかもしれないが、だからといってあの獣の耳と尻尾。魔法もそれで説明が付くのか?」
「人間の血筋は遡っていくと獣に辿り着くのよ。そこから進化を遂げて今の形に落ち着いたわ。つまり、彼らの獣耳と尻尾は進化の過程で残ったものになるわ」
「魔法もそうなのか?」
「そう……でしょうね」
さすがの瑠璃もこればかりは常識離れしすぎているせいか、言葉を濁した。
「でも、彼らが現実世界の科学の力を目の当たりにすれば、私たちと同じで魔法だと思うんじゃないかしら。これも進化の過程で私たちと別れた部分と言えないかしら」
言葉を濁した割には、自分で納得した考えが思い浮かんだおかげか、続きの言葉を流暢に説明してくれた瑠璃。頭の回転が速いことはさすがというべきか。
「かなりの大昔に分裂したもう一つの地球……か」
「科学で発展した現実世界と魔法で発展した異世界。それこそがこの異世界の正体なのよ。きっと」
蜃気楼の如くぼやけていた世界の輪郭が形を帯びていくような感覚だった。
現時点でそこまで異世界について推測を立てられるとは思っても見なかった。俺の思考力はどうやら瑠璃に根こそぎ奪われたようだな。悪い気はしないが。
「なるほど。分かった。ここは現実であって現実でない世界。この世のどこにもない異なった進化を遂げた世界ということだな」
重力の違いも、その進化とやらでここの住民たちの都合がいいように組み変わっているのだろう。
俺の推測した別の惑星に飛ばされたよりは、遥かに理解が出来そうだ。
異なった世界。すなわちもう一つの地球なのだとすれば、窓の向こうで降り続ける雨も梅雨という現象に当てはめられるだろう。なんとも間の悪い時期に飛ばされたものだな。
俺はうんざりとしながらも雨を眺めていると、その大粒の滴の合間に閃光が走った。
刹那――窓ガラスが砕け、強風に煽られた雨が家内を瞬く間に侵食していく。どう捉えようとも自然現象で割れるわけがなく、襲撃によるものだ。だが、解せないことがある。
足元に転がっている異物。手に取って確かめてみたが、間違いなくこれは銃弾だった。
立て続けに轟く銃声に身をすくめて悲鳴を上げる瑠璃を抱きかかえ、俺は風雨吹き荒れる外へと飛び出した。
「今度は銃を手にしたというの?」
「そうらしいな。さて、どこに潜んでいる」
窓から覗いた位置からして、大体の目星をつけた場所をにらむ。その瞬間に閃光が走り、鎖鎌で銃弾を斬り落とす。即座に鎌を放して鎖に持ち替え、奴が潜む位置へと鎖分銅を叩きこむ。
手ごたえはなかったが、夜にうごめく影を目撃してしまっては、そこにいることは明らかだった。やがて、観念したのかそいつが黒光りする拳銃を持って姿を現す。――と、同時に俺たちは揃って驚愕した。
拳銃を手にした男には、異世界人の特徴とも言える獣の耳と尻尾が付いていなかったのだ。
「……嘘でしょう。どうして、人間がいるの?」
「俺たちの他にも異世界に呼び出された奴らがいたというのか」
特別おかしいことではない。俺たちだけが呼び出されるなど、そんなバカげた話もないだろう。いままで見かけなかった方が不思議なくらいだとも言える。
その男を皮切りに次々と気配がざわめき、夜の隙間から続々と人が姿を現し始める。どいつもこいつも異世界人の特徴がないことから、人間だと分かった。
「俺たちを迎えに来た、というわけではないな」
目の前の男からしてみても、俺たちを同じ人間だと認識できているだろうに、銃口を突きつけることを止めなかった。
他の連中も同様に、俺たちに明らかな敵意をぶつけてきている。そこから導き出されるただ一つ言えること。
どうやらこいつらは俺たちと事を構える気でいるらしい。そして、戦闘意欲に満ち溢れた人間が俺たちの前に立ちはだかる。
だが、一体なぜなのだ? 言葉で確認し合わずとも、疑問が俺と瑠璃の間で交わされる。
異世界には俺たち以外にも人間がいた。それはいい。良しとしよう。しかし、立ちはだかるとはどういうわけなのか。奴らは人間でありながら、異世界人に味方しているとでも言うのか。いずれにせよ、聞き出してみなければ分からない。
「貴様らは何者だ。異世界人……ではないだろう」
回答は沈黙で返される。無視を決め込むつもりなのか。何にせよ聞き出せずに帰す気はない。何が何でも吐き出させてやるぐらいのことはしてやるつもりだ。
うっとうしく降り続ける雨の音がいつまでも響き続ける中、今度は瑠璃が質問を投げかけた。
「あの、どうして私たちに敵対するのですか? 同じ人間なのでしたら、お互いに手を取り合って元の世界に戻りましょうよ」
瑠璃の提案には賛同する気はないが、あえて何も突っ込まないでおく。見ず知らずの人間とともに瑠璃を抱えて戦っていくことなど出来ない。俺たちにはあまり時間がないのだ。
それにこの人数だと、足を引っ張ってきそうな奴も出かねないことを考慮に入れると、俺たちだけで行動をする方が遥かに効率的だ。
俺の心情を知ってか知らずか、瑠璃はなおも問い続け、その努力が実を結び、ついに奴らは口を開く。
「―――――――」
俺たちは驚きを隠すことが出来なかった。
相手は人間だ。それだけは揺るぎない事実ではあるが、唯一異なる部分があった。
いま、奴らの内一人が発した言葉は日本語ではなかったのだ。思わず、瑠璃へと目線を送る。俺には理解できないが、もしかすると瑠璃ならば分かるのではないかと一縷の希望を抱いてのことだった。
「瑠璃。さっきの言葉を翻訳できるか?」
「う、ううん。分からないわ」
望みが絶たれてしまった。
さて、どうしたものだろう。せっかく同じ人間に出会えたのに、まさか言語が違うとは思いもしなかった。
よくよく奴らを見てみれば、白人や黒人など様々な人種が確認できる。道理で俺たちの言葉が通じないわけだった。口々に何語なのか分からないが、ささやくような言葉が連鎖していく。奴らも奴らで困惑でもしているのだろうか。
「困ったわね。英語ぐらいならところどころで聞き取れそうかと思ったけど、無理だわ。本場の英語ってこんなにも流暢に話すのね。まったく翻訳ができそうにないわ」
「瑠璃は悪くないさ。満足に教養を受けていないのだから、無理で当然だろう。気にする必要はない」
だが、実際にはこれは大問題だ。言葉が通じないのであれば、結局のところ異世界人と同じではないか。
「もしかして、彼らは異世界の軍人という立場になっているのじゃないかしら」
「まさか……いや、あり得るのか」
「異世界人に追われている私たちを助けるどころか、殺しにきているのよ。異世界人の味方をしていることは間違いないわ」
瑠璃が言うのなら、そうなのだろう。異世界人の軍隊では手に負えないと思い、同じ人間をぶつけようという算段なのかもしれない。
「なんにせよ、俺たちの邪魔をするというのなら、屍の上を踏み越えさせてもらうまでだ」
「気を付けてね、兄さん。どういう理由かは分からないけど、間違いなく言えることは、彼らが異世界に順応して生きていることよ。軍属になっているぐらいだから、きっと容赦なく襲ってくるわ」
その証拠に奴らはすでにそれぞれの得物を持ち始めている。こうして対峙してみて分かったことがある。こいつらは、全員武芸や何らかの特殊訓練を受けた連中だ。
一方は、いずれ劣らぬ高度な戦闘力を有した達人級の戦士。
一方は、人知れず裏の世界で名を馳せている殺し屋。
果たして、どちらの方が上なのか。
凄惨さを連想させる戦いの火蓋が切って落とされようとしていた。
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