第19話 アンナとカーボ(または氷の家と嘘つき)


 汚れても、それでも生きていけるものだろうか。乙女で男な彼女が聖なるものとされているのも、よく考えると不思議なものである。


 珍しい。アンナさんとカーボさんが一緒にいる。

 よいしょっと。

 あ、こんなに濡れてたんだ、気付かなかったなあ。


 今回も、彼と彼女に出番がある。聖女の考えだけではそれも不明だ。補足なければ氷が溶けるかどうかも、判らない。




 アンナはそれなりに、凹凸に溢れた人生を送ってきたと思っている。苦の味は舌に残る程親しみがあった。だがしかし、それでも世の中で自分は幸せな方だと薬毒は理解してもいる。生まれに、見目に、能力。その全てが突出したものであれば、ある程度の幸は約束されたようなもの。主な窮地をそれらでくぐり抜けてきた自負のある彼女は、そう思う。

 ただ、優れていればそれだけ、平穏は遠ざかるもの。騒動の種は常に身近にあって、気を抜く暇などこれまでなかった。


「それを思うと、今はそれなりに幸せ、なのかしらね」


 ドードー鳥の鳴き声が遠くに響いて、青空に雁が模様を作る。眼下には、少年少女が無警戒に遊んでいた。

 今までにない、平凡な日常に埋没しながら、アンナは呟く。人に紛れるために用意した仕事に身分。騙すために行っているそれらが、存外心地良い。ましてや、気を張る必要のない子供達を見つめるばかりの日々は意外と面白いものだったから。


「でも、それは本物ではない。ずっと偽物のままでは、何も生まれないでしょうね」


 だが、それが本来によるものでなければ、それは元に戻る際に消え去ってしまうもの。続けて頂くには、自分の本当と天秤に掛けた結果、平凡を取らねばならないだろう。

 だがしかし、アンナは生来の自分に、誇りを持っている。故に、この状態は砂上の楼閣。何時かなくしてしまう、夢のようなものであると分かってはいた。


「果たしてこれは、いい夢なのかしら」


 アスクの騒動の結果、今までよりずっと近くに居ることが許されたために、遊ぶパール等らの、その表情までが見て取れるようになっている。その楽しそうな様子に、知らず自分の口の端が上がっていることに気づく。

 彼らが楽しんでいるのは、ただの日々。元来のアンナにとっては、唾棄すべき停滞。痛苦なき、真っ平ら。向上の余地は、そこにはない。

 だが、日常こそ心を育むものとも、アンナは判じていた。聖なる所以は、人々を愛せるほどに日々隣にあるからだろう。自分の胸元にも、僅かながら彼らを愛する心が芽生えているのが分かった。

 それが、思ったよりも心地いいのが、困ったところ。


「はて、さて。このままだと好きになってしまいそう。そうなると……大事を壊そうとしたアスクには痛い目を見て貰わないと、気が済まなくなってしまうわね」

「あらあら。好きでもないのに、見つめていたのですか? 物好きですね」

「カーボ……それは駄目かしら?」

「ふふ。それじゃあ、私と一緒になってしまいますよ」


 その時、達した察知を掻い潜り何時接近したのだろう、青空の下に仄暗いアンナの元へ、粘って動かない心を持ったカーボが訪れた。異形な心が二つ並んで、微笑み合う。

 正直なところ、アンナは自分よりもどうしようもない、そんなカーボを見てからずっと気になっていた。これは何か、と。肉が付きすぎてしまったようだが、しかしその昔は大層美しかったのだろう一児の母に、彼女は質問をする。


「ねえ、貴女はパールをどう思う?」

「何も。ただ、彼女の周りは幸せそうだな、とは考えますが」


 笑顔のままに、上からの質問に対し、カーボは本音で答えた。ベビーシッターとして昔から誰よりも優しく母のように接してくれている彼女の、こんな言葉を聞いたらパールはどう思うか、アンナは少し思う。きっと聖女は良い風に捉えてしまうのだろうが、薬毒はそうは考えられなかった。


「カーボ。貴女は救えないのね」


 静かに地獄に囚われたままのカーボは、幾ら日常に身を置こうとも、幸せに染まることが出来ない。天の助けすら、彼女に歓喜を呼び起こさせるものではないのだろう。アンナでさえ、いや未だ彼女は夢見る少女であるからこそそれを、哀れに思うが。


「ふふ。私なんて、救われなくても良いのです」


 だがしかし、ダイヤに成れなかった女性、カーボは感じず、笑顔で断言する。




「珍しい。アンナさんとカーボさんが一緒にいる……あ、カーボさんが手を振ってくれた」

「ま、しばらくアンナは伝手と自力を使って全力でオレ等を守る、って言っていたからな。こういうこともあるだろ」

「……カーボさん、ね。もう、二人共、手を休めたら駄目じゃない」

「悪い悪い」


 パールとバジルは、母親代わりの登場に、少し湧く。そのために遊びの手が止まったのを、グミは少し嫌がった。

 今回、休みの日を全部使って行おうとしている彼らの遊びは、少し大掛かりなものとなっている。教会の庭を用いて、バジルが魔法で氷を創って提供し、それをグミが二色で染めて、パールが運ぶ。そんな皆の働きによって、出来つつあるのは立派な氷の家。

 暑いから、ちょっとバジルの魔法で楽しもうよ、というパールの提案は、行き過ぎて家造りにまで辿り着いたようだ。因みに、設計を担当したミディアムは、ユニと一緒に買い出しに出掛けている。


「よいしょっと」


 そのための人手不足も、聖女さんのスーパーパワーで何のその。パールは自分より大きな屋根の一部を軽く持ち上げて、はしごを歩んだ。


「それにしても、パールは力強すぎだよね。ボク、欠片も持ち運べそうにないんだけど」

「オレも一緒だ。どうも、奇跡が影響して、馬鹿力が育まれたみたいなんだが……」


 大を小が自由にする。その美と相まって、正にパールは物語の中の生き物である。ひょいひょいと色付き氷塊を持ち上げ、サボり始めた二人を知らずに聖女は遊びに真剣になっているようだ。手袋越しでも感じるのだろう、つめたーいと溢しながら片手で自重の三倍以上ありそうな氷の柱を持ち上げた少女の姿を見て、グミもついつい苦笑いをする。


「ホント、パールって魔法要らずだね」

「……信じられるか? このパールよりも、モノの方が力持ちだったって」

「えー……」


 そして、そんな目の前のコミカルよりも尚伝説的な存在が、ここには確かに居たという事実。それに、グミはめまいすら覚える。ぷるぷる揺れる眼福を見上げてしまい、目を伏せてから、バジルは言う。


「バジルってどうしてそんなに力ないの、って言われた時の、オレの気持ちが、お前には分かるか?」

「男の子の自信ホーカイだね。可哀想なバジル……」

「はぁ。分かってくれたか……」


 好きな子に、本心から弱さを疑問に思われる。そんな災難は、少女であってもごめんだ。非力がトラウマになってしまっている、カツラを被れば女の子とすら見えてしまうバジルは、故にこそ英雄的な程男性なモノに勝てる気がしなかった。


「あー。バジルとグミ、遊んでちゃ駄目だよ! グミこそ、手を休めちゃ駄目じゃない」

「いやこれ、遊びなんだが……」

「パール、本気になっちゃったみたいだね。……あ、なんだかエッチだ」


 そして、ようやく小さな子たちの動きのなさに気づいたパールは注意をする。それが、少し的外れであったのは、ご愛嬌。そして、バジルが辺りを冷やすことを忘れたためにびしょびしょになっていた氷に触れたことによって、彼女は服を濡らして透けさせてもいる。密着した法衣に下着のラインが垣間見える、そんな姿はエロティックだった。


「おい、パール。そんな格好してると、ミディアムが見たらまた、鼻血出すぞ……」

「皆、冷えたら美味くなりそうな物を買ってきた……ぶ」

「ミディアムさーん!」

「遅かったか……」

「あ、こんなに濡れてたんだ、気付かなかったなあ」


 折り悪くそれを目にしてしまったミディアムの悲惨に気付かず、パールは少し自分を振り返る。だが、恥ずかしがらないのは、男性と一時混ぜこぜになってしまっていたからか。胸をただの脂肪と捉える、彼女の視点は残念である。



「……賑やかだね」

「お前は……」

「アスク」


 そんな騒動のおり。混乱の間にまた、彼女は現れる。今度はアンナも間に合いパールの前に立って守る格好を取り、バジル等も彼女を警戒した。笑顔でいるのは、それこそ聖女様だけである。


「あ、アスクちゃんだ。結局、お父さんって何だったんだろ。父なる、とか言われてもよく分かんなかったよ」

「お前……毒で死にかけたってのに……」

「死にかけたのは、バジルだよ? それに、彼はもう許してるし、それなら、私も許しちゃうよ」

「お前はどうしようもないな、ホント……」

「あの人本当に、許しているんだ……」


 人の生け垣の内で、アスクに手を振るパール。バジルはたしなめたが、彼女は、これっぽっちも先の瀕死を気にしていない。その時、自分ではなかったために実感がないのもそうだが、そもそも今こそを大切にしている聖女は、単純に自分が見た毒使いの少女の姿を信じているのだ。

 前に居るのは、涙を堪えた独りぼっち。パールは痛く打たれたからとはいえ、それに石を投げるような人間ではないのだ。

 そんな甘さに、アスクは狂喜する。


「きゃはは! なら、良いんだね。許されるなら、あたし、何度でも繰り返しちゃうよ!」


 嗤う、哂う。果たして彼女は、何を笑っているのだろう。

 涙の跡にそれを知っている、彼はだから再び今をよっぽどと考えて、現れる。少女の目の色が僅かに変化したことに気づいたのは、遠く眺めていたカーボだけだった。


「……嘘つき。本当は、一緒に遊びたいんだろ?」

「ん、お前は……」

「……父なる人」

「あはは。もう、パパでいいよ。だって、アスクちゃんは多分、それを求めているんだろう?」

「違う! あたしは……」

「アスク」


 優しい声色におびやかされ、そしてアスクは自分の名を呼ぶ、姉の怜悧な視線によってびくりと震えた。次は何を言うのだろうと、口元だけ笑み内で泣きながら、彼女はアンナを下から見上げる。

 だが、予想に反して、姉の声は急に優しげなものになった。


「素直になりなさい」


 その短い言葉は、アスクの胸に刺さった。


「僕が素直だけどね!」

「お前は黙ってろ」

「あいた」

「きゃは……は、ぁ、あああああ!」


 そして、シリアスな中で吐かれた素直の下らない言葉に思わず笑んでしまってもう、アスクはあざ笑うことが出来なくなった。そう、姉と彼が自分を包んでくれたその幸せで、もう自分の不幸を笑えない。だから、少女は感情を爆発させる。


「ああああ、あたしを、あたしを、幸せにしないで!」

「何を……っ!」


 自虐すら出来ない幸福の中。アスクは地団駄を踏む。そして、悲鳴のように声を上げ続ける彼女が投じたのは、真鉄の鏃。魔法の通りがあまりに悪いそれは、バジルのマイナスを通り抜けて真っ直ぐに、聖女の眉間へ吸い込まれるように飛んでいく。

 同道の姉さえ遅れた速さのそれは。


「スナオ様っ」

「全く。危ないなぁ」

「ミディアムさん……」


 アンナが身を挺すその前に、ミディアムが止めた。彼は、水を含ませた糸を魔法で動かして、鏃を絡め取ったのだ。


「ふぅ。わたしにはこれくらいしか出来ないのだけれど、頑張って練習した甲斐があったよ」


 曲芸的な技術を披露したミディアムの額には汗。構えていたとはいえ、あの速さを捉える自信はあまりなかったようである。

 だがそんなことは判らないアスクは、自分の全力が止められてしまったことに、大きく狼狽した。


「なんで……なんで、皆邪魔するの。あたしを不幸のままにさせてよ! そうじゃないと……そうじゃないと……」

「そうじゃないと、もがいていたことが馬鹿みたい、かな?」

「カーボさん」


 そして、アスクの言葉を継いだのは、意外にもカーボだった。彼女は、少し寂しそうにして、しかし別段心動かすこともなく、それでも想って言う。


「大丈夫。怖くても、貴女は幸せになれるよ」

「お前……」


 何時かの誰かのように優しく、カーボはアスクを認めた。彼女は全部分かって語っている。それが、少女にも理解できた。

 先に光が垣間見え。だから、少し落ち着いて、アスクは言う。


「……お父さん」

「なんだい?」

「あたしは何時か、貴方の命を貰うから」


 それが嘘だと知って、しかし彼は糾弾することなく。


「楽しみにしているよ」


 素直は大騒ぎの中、暗器を用いて上手に逃げ行くアスクの笑顔を見ながら、そう言った。



「あ……」


 そして、一度振り返ってみると。氷の家は、何時の間にか溶けていた。


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