第9話 聖女と薬毒


 薬に毒。それは二人分の彼女にも効くものだろうか。聖女は彼女と出会う。


 よろしくお願いしますね、アンナさん。

 何だかすっごくいい匂いがする。

 あわわ……って、大体バジルって一緒の部屋で寝てるよ?


 あわわ、修羅場?

 二人共、喧嘩はやめてー。



 それは静かに注入される。しかし気付けない彼女の代わりにも、補足は必要だろうか。




 今日は、休日。患者の入りや、パールの具合などを鑑みて不定期となっているそんな一日ずつの空白に、入り込んできた人物が一人。急にも、彼女は生活圏へと現れる。

 長い赤髪を腰元で弾ませて、黒い瞳を柔和に細めた年齢不詳の女性は、パイラーに連れられて、この借家の住人パールにバジル、そしてしばらくの間泊めさせて貰っているグミを目の前にして、自己紹介をした。


「はじめまして。今回は、宿泊場所にこの家を使わせて頂けるということで、嬉しいわ。私はアンナ。見ての通りのか弱い女性で、交易商をやっているわ。年齢は、秘密。……あ、荷物の大部分は然るべき場所に預けてあるから、安心してね。いたずらに場所を取ってしまうことはないから」


 にこりと、何時もの怜悧さを曲げて場に溶け込まんとしている女性、アンナは三対の視線を十分に集めたことに満足する。誰かの白い目すら喜んで、彼女は何も知らないフリをした。


「唐突のことで申し訳ありませんが、そういうことです。アンナさんはクラーレ地域の生まれ。つまりは私と同郷でして知り合いなのです。その縁から、街中で偶々お会いしたアンナさんに、もし宿にお金を使われるのがお嫌でしたら、宿泊にここはいかがかと紹介したのです。黙っていたのは……少し、勝手でしたね」


 アンナに合わせて、パイラーもすらすらと嘘をつく。坊主頭の少年から自分に向けられた強い視線を無視して、申し訳ありませんねと、心にもない言葉すら口にした。


「元々、ここは神官様のお家ですから気兼ねすることはありませんよ。私、パールです。よろしくお願いしますね、アンナさん」

「ええ、よろしくね。パールちゃん」


 隣に並んでいた少女二人は、バジルの視線など知る由もなく。ただ、優しげなお姉さんを歓迎する気持ちになる。まず、パールが先んじて、手を伸ばした。細い指先同士が、絡み合う。

 結ばれた二つの手をキツい視線でバジルは見つめるが、しかし無事にそれらは離れて。むしろ、それから怪しいアンナではなく、パールの方が謎の行動を取り始めた。周囲の空気を大きく吸い込んでから、彼女は疑問を呈す。


「何だかすっごくいい匂いがする……香水を付けているのですか?」

「香水? 少し前に焚いた乳香を浴びていただけ、なのだけれど……」

「お洒落ですねー……わ」

「乳香! くんくん。ホントだー。ボクは、グミ・ドールランド。ボク王都以外で、初めて乳香の匂いを嗅ぎましたよ。お金持ちなんですねー」

「お仕事で使うから偶々、手持ちがあって贅沢に使ってみたの。少し、教会にも送らせて貰ったから、機会があったら、皆で楽しんでね」

「わーい」


 諸手を挙げて喜ぶ、グミ。良い芳香を好む、その気持の理解は半々に、パールはただ少女の喜ぶ様を微笑んで嬉しがる。

 そんなパールの純真をくすりと笑い、残った会話を交わしていない一人に向かってアンナは薄いニセモノの表情を向けた。絶対零度の視線を浴びて尚変えることなく、むしろ嘘を深めてから、毒を秘めた彼女はバジルに向かって口を開いた。


「こんにちは、バジル君」

「……少しぶり、ですね」

「ふふ。他の子もそうだけれど、敬語は使わなくても構わないわよ。特に私とバジル君二人の仲なら、ね」

「……はっ、一夜だけの関係で、何言ってやがる」

「わー、大胆発言だー」

「あわわ……って、大体バジルって一緒の部屋で寝てるよ? 何時そんなことが?」


 苛つきが高まりすぎたのか、珍しく、自ら誤解されかねないような言葉をバジルは発した。それに驚き、グミとパールは混乱を来す。

 あまり理解しないで反応しているグミは兎も角、思春期を二つ繋げてしまっているパールはピンクな想像をしてしまったが、しかしよく考えれば寝室が一緒なバジルが他所で泊まっているようなことはないことに気づく。あれ、と首を傾げて銀髪を揺らす少女の横で、注意が飛んだ。


「こら、バジル。なんて口のきき方を……」

「大丈夫よ、パイラーさん。むしろ、少しの間だけ、自由に喋らせて貰えないかしら」

「はぁ。アンナさんが、よろしいのでしたら……」


 親代わり、ならば目上に対するキツい放言を許すわけにはいかなかった。だが、相手に笑顔で許されてしまっては、パイラーも鉾を収めざるを得ない。そも、全てを知っている彼がアンナに逆らうことなど、出来ないのだが。


「ふふ。何だか勘違いさせちゃったみたいね。ただ少し前に、夜の散歩がかち合った際に二人でお話をしただけ。そうでしょ、バジル君」

「そうだな。今日は護身具、持ってきていないのか?」

「ええ。何しろ、こんなに優しい場所に、危険があるはずもないのだから」

「よく言う……」


 言葉を交わす、二人の距離は近く。視線で意まで交換しているバジルとアンナは、傍から見れば深い関係であるようにすら見えた。

 グミはその僅かな胸元を押さえながら、弟分の普段見ない態度に困惑しているパールの目を見て、小さく溢す。


「うう、何かボク、ドキドキしてきたよー」

「すっごく仲いいよね……これはもしかしたらもしかする? あ、でもそうだとしたらユニちゃんが可哀想!」


 たまらず、きゃー、と奇声を上げる、パール。うっとうしそうに姉貴分の無様を横目で見つめたバジルは、弁解をした。


「聞こえているぞ。仲がおかしく思えるだろう理由は、オレがコイツに遠慮をしていないからっていうただそれだけだ。その必要がないから、な」

「信頼だと、受け取っておくわ」

「その逆だがな」

「ふふ。聞こえないわー」


 耳を押さえてそう言うユーモラスなアンナを見て、パールとグミはただバジルがツンデレをこじらせているだけだと、勘違い。安心して、彼女らは笑みを交わす。

 そして、何やら周囲を見回し始めたアンナに、パール等は首を傾げた。


「そういえば、飼っているというブタちゃんはどこかしら? 彼にも、挨拶をしておきたいのだけれど」

「えっと、その子は……」

「大丈夫です。トールのことは既に話しています。魔物であることも、承知ですよ」

「なら、人が来るっていうから隠しておいた意味、なかったね。出てきていいよー」


 パールの呼び声に反応して、床の一部が、揺れる。

 トールは土色の魔物。魔法使いと同じく、自分の色と似通ったものを自由に出来る彼は、土による迷彩も可能であった。伏せて、地面の膨らみのように化けていた彼は、自分に付いた土を弾いて現れる。


「ぶぅ」


 と、彼はアンナをつぶらな瞳で睨みつけながら、鳴いた。そして、とてとてと彼女の足元まで寄っていく。


「ふふ、中々愛らしい魔物ね……実は飼われている魔物、何匹か見たことがあるのだけれど、主人の言をあれほど守れるくらいに従順な貴方みたいなのは中々居ないわよ?」

「ぶぅ!」


 目を細め、イヌブタを見つめるアンナを、パールは和やかに認めた。これなら仲良く出来そうだな、と。

 だが、実はトールは足元で、怪しい相手に向けてしゃくりをしようと狙っていたのだ。だが、その隙もなく、ただ上から下に動物を見るばかりのアンナにそれを行うのは無理なことだったが。


「ふふ。少しの間だろうけれど、仲良くしましょうね」

「ぶぅ!」

「あはは。元気な返事だね、トール」


 危険を嗅ぎ分けた結果、絶対に無理、と叫んだトールのイヌブタ語は、誰にも解読されることなく、虚しく響いた。




 それより、しばらく。歓迎されたアンナは、何を起こすこともなく、ただ笑みながらパール等の中に溶け込み続けた。皆でお昼御飯を食べて、そうして出先で行われた無駄にレベルの高いバジルとパールのちゃんばらを眺めたりして。

 アンナが、皆が食べ始めるまで中々食事に手を付けなかったり、牧場でリン爺さんがバジルに気をつけろよ、と耳打ちしたりする不穏はあったが、決定的な事態は中々起きなかった。

 そして、日が落ちて。これまで監視を続けるバジルの前で何が起きるようなこともなく。バジルとパール、そして現在はグミも居座っている彼らの私室にて、ベッドの上に座しながらアンナは、ただあくびを一つ行った。


「ふぁ。眠くなって来たし、そろそろ部屋に戻らないと。でもその前に、トイレ行きたいな……バジル君、付いてきてくれない?」

「はぁ? 場所は教えたし、男のオレより女同士の方が……」

「そう、ならパールちゃんと……」

「いや、やっぱりオレが付いていってやるよ」

「ぶぅ?」

「後は頼んだぞ、トール」

「ぶうっ!」


 そして、二人並んで部屋から出た彼と彼女は、窓ガラスの厚みに歪んだ月光に照らされながら、歩む。影法師は前後に二つきり、少しだけ揺れながら先へ先へと進んでいく。

 以前のような暗中でもなく、相手が武器を持っていないことは熱で確認済み。守るべき聖女も、部屋にて魔女等に守られているのであれば、もう無理に気を張ることはない。そう、バジルは考える。

 満月の下で、狂うものもある。果たして、彼のその判断は正しいものだったのだろうか。

 バジルは先頭を歩んでいたアンナが振り向いた際の、作られた笑顔の質が先程までと異なっていたことに、気付くことが出来なかった。


「バジル君」

「何だ?」

「ん」

「っ!」

「……ふふ、痛い、なぁ」

「汚えな。何、しやがる……!」


 唐突に行われたアンナのその行動に、バジルは激高する。あっという間に近寄られ、そして頬に触れられて、そして重ね合わされた唇。覚えてしまったその感触が、あまりに気持ち悪いものであり。

 バジルは、噛みちぎったアンナの唇の一部を吐き捨て、彼女を睨みつけた。


「キス?」

「何でそんなこと……っ」


 その手の水色が騒ぎ出す。だが、バジルが凍らしアンナを停めてしまう前に、彼女はまたこの上なく、彼に近づいて。そして、少年の唇をつん、と突いた。


「また接近を許しちゃった。そんなに簡単に人を信じていると……大切な聖女さんを守りきれないわよ?」

「てめえ!」

「日常はキミには、温か過ぎるわ」


 彼の間近、凍える温度の中で、アンナは断言する。聞き、バジルは苦味より苦いものを、嚥下した。



 そんなこんな。大体の事態を、聖女と魔女は見ていた。

 会話の仔細は聞こえずとも、見て取れたバジルのその剣幕だけで、驚くべきものがある。隠れてグミとピーピングをしていたパールは、口を押さえながら言葉を漏らす。


「あわわ、修羅場?」

「……一方的だし違う、かな」

「グミ?」

「何だか、ボクにはあの人、強めのお薬って感じがするよ……」


 悪い人じゃないといいのだけれど、とグミはぶるりと震えた。そんな、少女の恐れに、パールはなんと言えばいいか分からない。


 薬も強め過ぎれば総じて毒に変わる。そのことを、パールは知っていた。もしかしたら、そうなのだろうか。だが、そんな予想からは目を背けて、今にも喧嘩を始めそうな二人に走って近寄る。


「二人共、喧嘩はやめてー」

「……パールか」

「ふふ……」


 そして、聖女は事態が決定的にならないように奮闘した。強すぎるバジルの視線から庇うために背中の後ろに隠した彼女の笑みの甘さの毒々しさに、薄々気付きながら。


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