第八話
とりあえず、これで猫刑事の問題と隣人の問題は片付いた。
やればできるじゃないかと僕は誇らしげに胸を張った。
だけどすぐに、僕自身は別に何もしていないなと気づいたので、少し恥ずかしくなって一人で苦笑いを浮かべて頭を掻いた。
そして、一つ解決した途端、まるでドミノ倒しのように次々から次へと問題は終息の方向へと傾いた。
横領の嫌疑で懲戒解雇され、起訴も辞さない構えだと言っていた元の勤め先だった会社の社長と上司である課長が、連絡もなく菓子折りを持って家にやってきて、訳を聞く間もなく、いきなり土下座をして謝ってきた。
真犯人が見つかったのだそうだ。
特に直属の上司だった人は床に額を擦り付けるようにしながら何度も何度も僕に謝り続け、何度も何度も「よかった、よかった」と言った。
社長が言うには、課長は僕が横領なんてするはずはないと終始庇い続け、まるでテレビの二時間サスペンスのように素人の彼自身が単独で捜査の真似事のようなものをし、それが遂には本当の犯人を捕まえるまでに至ったとのことだった。
いつも厳しかった上司が僕のためにそこまでしてくれたのだと思ったら僕は感動してしまって、ありがとうございますと僕の方も手と頭を床に付けてお礼を言った。
そして課長は恐縮してしまってそんな僕よりも少しでも頭を低くしようと、更に体を低くし、それに恐れ入った僕がまたそれよりももっと……。
人から頭を下げられるといつもこうだ。
逆に僕が会社を訴えることもできるのだと社長はウソ偽りなく言ってくれた。
僕にはそれだけの権利があるのだそうだ。
だけど僕はそんな権利を行使したいとは思わなかった。
こんなに僕を思ってくれる上司がいるのだから、会社に戻してもらえればそれでいいと本心を包み隠さずに言った。
社長は否々と首を振り、上司はうんうんと涙ぐんだ。
それから幾らか押し問答のような形にはなったけれど、結局は僕の意見が尊重された。
詳しい日程はともかく、僕は晴れて非情な世界と理不尽な社会の中の一員として復帰ができる。
次の日には役所から媚びへつらったような声で電話が来た。
手違いで僕のところに税の督促状が届いていないか?ということだった。
僕は届いていると言った。
電話口の向こうで土下座でもしているのではないかと言うぐらいに心底申し訳なさそうに役所の職員は謝った。
昨日、こちらが気の毒に思うほどの平身低頭を見てしまったばかりだったので、なんだかもう誰にも僕のことで謝って欲しくはなかった。
逆に僕が相手に意地悪をして苛めてでもいるような気分になってしまうのだ。
だから間違いを正してくれればそれでいいからと言って、僕は無理やり固定電話の受話器を置いた。誰かに謝られるのはしばらく懲り懲りだった。
それにしても、また僕が労せずとも物事があっさりと処理されていった。
続けざまに僕の手の中で儚く崩れ落ちていった全てのものが、巻き戻すようにあれよあれよと元通りに修復されていく。
妖しげな力が働いているような、いないような……。
その順調さを訝らずにいる程に僕は楽観的な人間ではなかった。
しかし、訝りを長く引きずって素直に幸運を喜べない程に疑り深い人間でも決しなかった。
そのうち、まあそんなこともあるかと思うようになった。
「さて……」
僕は頭を掻いてそうひとりごちた。
すっかりこの言葉が口癖になってしまった。
だけど、この言葉はあやふやなものばかり抱え込む僕にとっては何かと使い勝手がいいみたいだった。
ピピピピ ピピピピ
今度は携帯電話が鳴った。
妻からの電話だった。
僕は少しの間、その妻の名前が表示された液晶画面を見つめ、そしておもむろに通話のボタンを押した。
だけど、半ば潰れ加減だったボタンは何度押しても手応えがなく、そうこうしてるうちに電話が切れてしまうのではないかと焦ってしまい、余計に携帯が手に付かなかった。
だけど、僕の心配と焦りをよそに、電話はいつまでも鳴り続けた。
僕の部屋に鳴り響く電話の無機質な着信音からも、妻の並々ならぬ決意みたいなものが窺い知ることができた。
さて、次の問題はちゃんと自分で解決しないとな
@@@
「あ、お帰り」
と、夫はまるでこの二か月間、世界には何一つとして変わった事は起こらなかったのだという風に、さらりとそう言ってのけた。
電話を掛けてこれからそちらに行くからと言ったはいいけど、いざアパートに辿り着いてもドアの前でしばらく悩み、躊躇い、そしてようやく意を決してドアを開ける事ができた、私のあの迷いの時間はなんだったのだろうか。
それでも私は夫の変わらぬ柔らかな笑顔を見た瞬間、それまでの迷いも悲哀も空白の時間も一息に跳び越えて、心の底から安心した。
キチンと話し合わなければいけないなと決心して、色々と頭の中で私が語るべき事の要点をまとめたり、話す台詞を何度も復唱したりしていたのだけど、この勢いよく溢れ出た夫への想いを前に、全ての言葉は完全に無へと帰した。
……いや、気取った言い方をして照れ隠しするのは止めよう。
もっと素直に、もっとシンプルに、私は彼の事が愛おしくて愛おしくてたまらなくなって、なりふり構わず彼の胸へと飛び込んだ。
ただいま……。
ただその一言でさえ言えないくらいにしゃくりあげながら、私は大泣きに泣いた。
その間もずっと、彼は黙って私の頭を撫で続けてくれた。
彼の手の平はとても温かく、改めて私の安らぎの場所はここにしかないんだなと思った。
やっぱり一人で冷蔵庫に向かって泣くよりも、彼の腕の中で泣いた方が何倍も心地良い。
「今までどこに行ってたの?」
私が落ち着いたところで彼がそう尋ねてきた。
「うん、高校の後輩のところに転がり込んでいたの」
「ああ、あの一緒に部活のマネージャーをしてたっていう娘(こ)?新聞記者だかなんだかをやってるっていう?」
「週刊誌」
私は訂正した。
「週刊誌の記者をしていたの。でも色々あってそこを辞めちゃったんだけど、それでも『私のジャーナリズムの理念は永久に不滅よ』なんて言って、今は孤軍奮闘、フリーのジャーナリストとして頑張ってる」
「へえ、立派なもんだね」
「……あなたはどんな風に過ごしてた?」
私たちはソファーに隣り合って腰かけた。
そして彼は私がこの家を出て行ってからの一か月半を語ってくれた。
とは言え、生活には改まって語れる程に殆ど変化らしい変化はなかったのだそうだ。
ちょっとだけ高い熱を出したとか、少しだけ食欲がなかったとか、彼がそれだけをひねり出すのにだいぶ苦心していたので、私はそれ以上聞くのを止めた。とりあえず少し痩せたようではあったけど、確かに目立ったような変化は何も見られず、彼は彼のままだった。
それに安堵したような、少しだけ寂しかったような、なんとなく複雑な気持ちがした私は不謹慎なのだろうか?
彼は私がいなくなったって別に構わないのかな……。
「私の方はね……」
と私が俯き気味に話を始めようとすると、彼は「ちょっと待って」と言った。
私は驚いて顔を上げた。
彼が私の言葉を遮ってまで自分の話をしようとした事なんて、これまで一度もなかった。
「確かに変わった事は何もなかったよ」
彼は私の手をそっと優しく握りしめながら言った。
「うん、本当に何もなかった。全部、君が出て行ったあの時のまま、何一つ変わってないよ。君への愛情も、君といつまでもずっと一緒にいたいと思う気持ちも、何一つとして変わってない。僕は君なしでは生きていけない」
「……」
「香里(かおり)、もう二度と僕の傍からいなくならないで」
「……」
私は何か言わなくちゃと言葉をあれこれ探した。
私も彼と同じ気持ちなのだと、私も……あなたの妻である柏木香里もあなたをとても愛しているのだと、うまく言葉にして伝えなくちゃ。
だけど何から伝えよう?
どうしよう、あなたに伝えたい想いが多すぎて、結局私の口からは何も出てこないの。
ううん、違うの、伝えたい事がないわけじゃないの。
本当にあなたを愛してるの。
あなたのように、ちゃんと言葉にして、ちゃんとあなたに届くように愛してると伝えたいの。
だけどね、だけど……だけど……どうしよう……。
私はとっさに、彼の手が重ねられた自分の手に力を込めた。
そうしなければ、彼がこのままどこか遠くに離れて行ってしまうのではないかというひどい不安に駆られたのだ。
言葉にしなければ人の想いは伝わらない……私がいつも言ってきた事ではないか。
「ありがとう」
と彼は言った。
その一言は、私の想いも愛情も、そしてそれがどれくらい大きなものであるのかもちゃんと届いているのだと、充分私に伝わってくる言葉だった。
「ありがとう……」
私はようやくそれだけを言えた。
この人が傍にいてくれる限り、私はもう大丈夫。
何か得体のしれない大きな力に私の心が揺れ動き、飲み込まれてしまいそうになったとしても、彼がきっと私の手を強く握って救い出してくれる。
そうそれが例え噂の猫刑事みたいな強大な力を持ったものが相手でも。
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