第七話

 僕が目を覚ますと、そこに義妹はいなかった。


 それはそうだ。


 一対一で食事をしていた相手がいきなり酔い潰れて眠ってしまったら、誰だって気を悪くして帰ってしまうだろう。


 グラス一杯ぐらいなら大丈夫だろうとまるで根拠のない自信を抱きながら、彼女の薦めるままに白ワインを飲んだのだけれど、やっぱりダメなものはダメだった。


 僕は寝ぼけた頭をポリポリと掻きながら、義妹にきちんとお礼らしいお礼も言えなかった事を悔やんだ。


 休暇でしばらく日本にいるらしいから、そのうち改めて感謝の気持ちを伝えなくてはいけないなと思った。


 そう、義妹のおかげで、どうやら今度は本当に深い絶望の穴の中から這い上がってこれたようだった。

 

 清潔な空気。

 温かな風呂。


 そして美味しい家庭料理。


 彼女の手によって部屋の全ては清められ、僕に憑りつく邪気も払拭された。


 本当に僕にとって彼女は神の遣わした聖なる天使のように思えた。


 義妹との会話は心から楽しかった。


 無口ではにかんだ女の子のイメージしか持てなかった彼女が、あんなにもお喋りで、あんなにも表情を豊かにしながら話をするとは知らなかった。


 久しぶりの人との会話だったけれど、おかげで僕は苦も無く話しをすることができた。


 言葉の端々に見え隠れする愛くるしさや、ふとした仕草の艶っぽさなどはとても魅力的で、もう立派な一人の大人の女性として義妹はそこにいた。


 僕なんかよりもよっぽどしっかりしていて、どちらが年上なのかわからない位だった。


 そして、そんな義妹の佇まいは僕に妻のことを思い出させた。


 正直、二人の顔だけを見れば殆ど似ていないと言った方が正しいかもしれない。


 どちらも美人である事は一緒なのだけれど、妻は義母に似てはっきりとした目鼻立ちをしていたし、義妹は義父に似てしなやかな顔立ちをしていた。


 背格好も違えば服の好みも全く違うし、性格だってまるで違う。


 赤の他人よりは似ているけれど一目見て姉妹だと断言できるほどには似ていない、その位二人から受ける印象はそれぞれ異なっていた。


 しかし、やはり姉妹なのだ。


 髪を上げたうなじの感じだとか、掃除機をかける後ろ姿、食事をした食器を洗っている時の横顔や笑った時の目元など、彼女から醸し出される雰囲気みたいなものがことごとく妻にそっくりだった。


 きっとこれが血縁というものの強みなのだろう。


 決して我が物顔して前に出てくるわけではなく、とても微妙で小さくて、普段は奥の奥の方に控えている本当にささやかなモノなのだけれど、奥にあるが故に環境の変化や過ごしてきた人生の違いにも決して損なわれることなく何代にも亘って残り続けた、まさに血に刻み付けられた記憶なのだ。


 だから僕が義妹を思い出そうとする時、必然的に妻の顔までも一緒に思い浮かんできてしまう。


 妻か……。


 その問題にもちゃんと向き合わなければいけないな。



 妻が出て行くと言った時、僕は引き留めることができなかった。


 僕が悪いのだろうと自分を責めたというのもあるし、彼女が思いつきや勢いだけで飛び出して行くような浅はかな人間ではない事を知っていたのもある。


 それは何度も何度も彼女が考え、熟慮し、そしてようやく導き出した末での結論なのだ。もはや何を言ってもどう弁解しても、彼女の想いは揺るがないだろうと諦めた。誰よりも彼女の性格を知っているが故に僕は身を引いた。


 しかし、今僕は考える。


 妻は僕の傍から離れるという意志を示したけれど、僕自身の意志はどうなんだ?と。


 彼女が出て行きたいから、その決意が固いからといって黙って見送ったけれど、それは僕の本意なのか?


 僕の意志はどうしたいのだ?と考える。


―― ……もう優しくしないで ――


 妻は最後にそう言った。


 思えばいつもそうだった。


 僕は決して優しさから自分を卑下したわけではないし、もちろん荒ぶる彼女をなだめ賺(すか)すためにワザと下手に出たわけでもなかった。


 彼女の言う通り、痴漢の犯人にされたのも僕がボンヤリとしていたせいだろうし、その時パニックになどならずに強く反論していたのなら、状況はもっと変わっていたかもしれない。


 子供ができないことだって、彼女が言ったように、簡単に医者の言葉を受け入れて待つなんて言わず、もっと他の病院を回って納得がいくまでとことん原因を調べれば、あるいは今頃、僕らは可愛らしい子供をこの腕に抱いていたのかもしれない。


 妻の言った言葉は本当にみな正しかった。


 僕は少し受動的に過ぎるのかもしれない。


 僕は少々鈍感に過ぎるのかもしれない。


 僕は……彼女の愛に甘え過ぎていたのかもしれない。


 彼女が愛してさえくれればそれでいいのだと僕は満足し、自分を向上させようとする努力を怠っていた。


 何も考えず、幸福感に包まれたまま呑気気ままに楽をして毎日を過ごしていた。


 彼女はそんな僕に日々不満を募らせていたのだろう。


 それがいよいよ我慢できなくなり、ああいった形で一息に吐き出され、そして僕の傍から去ることを決意させた。


 妻に限った事じゃない。


 僕はいつだって相手の意志や思惑に身を任せてばかりで、自分の頭で考えるのをずっと放棄してきたのかもしれない。


 相手がしたいようにすればいい。


 誰かが思うままにすればいい。


 起こったことは起こったことだし、起こらなかったことは起こらなかったことなのだ。


 それで全てが丸く収まるならば、世界がうまく回ってくれるなら、それでいいと思っていた。


 そこに例え僕の意志などなかったとしても。


 例え僕などいなかったとしても。


 「さて……」


 僕は呟いた。


 そろそろ自分から行動を起こすべき時だ。


 自分の意志で、自分のやりたい事をやらなければいけない時がやってきたのだ。


 問題は山積していた。


 新しい仕事を見つけなくてはならない。

 役所に行って納税証明書を見せて督促状の取り下げをしてもらわなくてはいけない。


 隣人とキチンと話し合わなくてはならないし、義妹にももう一度会ってちゃんとお礼を言わなければならない。


 そして妻ともゆっくりと話をして、僕の意志を彼女にぶつけなければいけない。


 それがどういう結果をもたらすのかはまた別の話として、とにかく僕がどうしたいのか、彼女に伝えなくてはいけいない。


 他にも考え出せば色々と問題が浮かび上がってきた。


 こんなにも沢山の問題をうやむやにしてきたのかと思えば、自分に少し呆れてしまう。


 さて、まず手始めに何をやらなければならないだろう?


 ……そうだ、まずは。

 


      *  



 『摩擦熱によってコーヒーの香りが飛んでしまわぬように、ゆっくりとミルのハンドルを回していく。とは言え、その速さはあまりゆっくり過ぎてもいけない。挽くのが遅いと豆に対して圧力や不可が過分にかかってしまう事になり、これもまた香りを損なう大きな要因となってしまう。遅すぎず早すぎず、豆の動きに合わせてその速さや力を微妙に加減していかなければならない。そう、こちらが豆を挽くのではなく、豆がこちらに挽かせるという事をまず貴方は理解しなければならない。決して挽き潰す痛みに悲鳴を上げさせてはいけない。一撫でごとに快感で悶えさせ、喘がせなければいけない。こんな些細な心の持ちよう一つで貴方のコーヒーの味は大きく変わる。貴方のコーヒーと向き合う姿勢一つでその一杯は究極の一杯へと変わる。他にも豆の選別やドリップの仕方など、それぞれの行程にはそれぞれ胸に抱かなくてはならない心持ちがある。あるいはコーヒーを淹れるという事はコーヒーと会話をするという事だと置き換えられるかもしれない。目を合わせ、耳を澄まし、時に押し、時に引き、相手の機嫌を窺い、呼吸や周波数を合わせながら己をとことん受動的にしなくてはならない。コーヒーというものは本当に奥が深い。それは女性を口説き落とすのと相通ずるものがある。この場合……』


 と、終始玄人ぶった物言いで書き連なれたコーヒー豆の通販のパンフレットを読みながら、僕は黙々と豆を挽き続けた。


 耳を澄ませたところでバリバリと言う音しか聞こえなかったし、豆の発する周波数なんて多分、宇宙開発機構のレーダーでもキャッチすることはできないだろう。


 この店の豆は確かに素晴らしいのだけれど、一昔前の高級な寿司屋や天ぷら屋みたいに、能書きやうんちくやこだわりが少々耳障りに感じる時があった。


 別に大トロから食べ始めようが、塩ではなく天つゆをつけて食べようが、こちらの勝手じゃないかと思う。


 そもそもそれ程にこだわるのなら何故ネットショッピングのモールになんてわざわざ出店しているのかなと思ったりもするけれど、まあ、いい豆であることには変わりがないので、僕はなんだかんだ言って長年利用し続けている。



 コーヒーメーカーに豆をセットしてドリップが終わるまでの僅かな時間、僕は目を瞑った。


 決して眠ろうとしていたわけじゃない。


 僕はただ頭の中を少しだけ空にしたかっただけだ。


 考えることをやめ。

 想像することをやめ。


 男であることも人であることも一つの生命体であることですらもやめてしまい、僕は今、ただの名もなき無となりたかった。


 そうする事が必要だった。


 ほんの束の間でいい、洋上を漂う一片の古びた木の板のように、大空をさすらう小さな白い雲のように、ただ時間の流れに身を預け、自分が自分であるということのスイッチを少しの間だけオフにして、何者でもない、そんな別の次元の中で静かに休みたかった。


 誰にも何にも犯されることのない、そんな次元の片隅で……。



 「……さて」


 僕は目を開けて呟いた。


 「さて、いかがいたしましょう」


 猫刑事が言った。


 不敵な笑みを浮かべながら、手始めに片づけなければいけない問題が僕の目の前に立っていた。

 


                 ***



 「ご無沙汰しております、カシワギ・タケシ様」


 猫刑事は言った。


 「何度もチャイムを鳴らしたのですがお出にならなかったものでして。ドアノブを回すと施錠もされておらず、何事かあったのではとご無礼を承知で勝手に上がらせて頂きました。いやいや、本当に申し訳ございません」


 チャイムか……確かに僕の無心の世界の中にチャイムは鳴り響かなかった。


 多分、さすがの猫刑事にも踏み込んでいけない領域みたいなものがあるのだろう。


 例えば、ただの名もなき無となった人の心だとか。

 

 「いえ、構いません。ちょうどあなたを待っていたんです」


 僕は尋ねた。

 

 「ほう」


 猫刑事は大げさに驚いてみせた。

 

 「あなたとキチンと話し合わなければいけないと思っていたんです」

 

 「ほうほう」

 

 「あなたとの問題を片づけなければ僕は前には進めない」

 

 「ところで、良い香りですね」

 

 「……居間の方で待っていてください、今、コーヒーを持って行きますから」

 

 「お構いなく」


 と言って猫刑事は居間に向かって行った。


 義妹が買ってきてくれたクラッカーをお茶請けに出そうか迷ったけれど、多分、また手を付けられずに湿気って終わるのがオチだろうと思って止めた。



 それじゃはじめようか、猫刑事。

  


           ***



 「やはり美味しいコーヒーです」


 一口すするなり、猫刑事は言った。


 「すいません、新鮮な豆のストックがなかったもので、真空冷凍していた緊急用の豆なんですけど」


 「いえいえ、本当に美味しいコーヒーです。お世辞でいう訳ではありません、あなたは確かに美味しいコーヒーを淹れる才に恵まれているのだと思いますよ、カシワギ・タケシ様。もちろん豆の良し悪しはコーヒーの良し悪しを左右する最も重要なファクターであるのかもしれませんが、あなたのコーヒーからはそのような理屈などを軽く跳び越えた何か不思議な魅力を感じます。その一つの何かが有るのか無いのかが、他のコーヒーとあなたのコーヒーとを決定的に分け隔てているような気がいたします。一体、何が違うのでしょう、カシワギ・タケシ様?一コーヒー好きとしてとても興味があるのですが」


 「受動的」


 僕はきっぱりと言い切った。


 「ジュドウテキ?」


 猫刑事はよくわからないといった風にオウム返しに言った。


 「コーヒーとの向き合い方の問題です。とことんこちらが受動的になることが何よりも大事なんです」


 「……なるほど」


 さすがに勘の鋭い猫刑事だけあって、僕の言わんとしていることを即座に理解してくれたようだった。

 

 もしかしたら言ってみた当の本人の方がよくわかっていなかったかもしれないというのに。


 「コーヒーに詳しいんですか?」


 僕は尋ねた。


 「いえいえ、決してそんな事はありません。ただコーヒーが好きと言うだけの話で」


 「自分で淹れたりはしない?」


 「そうですね、私はもっぱら飲む方が専門です」


 「ところで、つかぬ事をお伺いしますが……」


 「いいえ、こう見えても猫舌ではありません」


 「……なるほど」


 本当に猫刑事の勘の鋭さには敵わない。



 しばらく僕らは無言でコーヒーを飲み続けた。


 僕は何も考えずにただカップを見つめ、ときどき思い出したように一口すすり、またカップを置いてそれを見つめた。


 猫刑事は猫刑事で僕よりももっと遅い間隔で同様のルーティーンを繰り返した。


 やはり何も考えてはいない様子で、僕に対して例の搾取をしたり、感情を刺激したりなどの力を働かせてはいないようだった。


 この前とはまるで違い、互いにとてもリラックスして相対(あいたい)していた。


 少なくとも僕の方では肩ひじ張らずに構えることができた。


 不思議と恐怖心も猜疑心も警戒心もなく、あれ程のことをされたというのに憎しみ一つ湧いてこなかった。


 「この前お会いした時よりもだいぶお元気そうに見受けられますが、カシワギ・タケシ様?」


 ようやく猫刑事が話し出した。その声に恐怖や猜疑や警戒を煽るような響きは何もなかった。


 「義妹のおかげです」


 「ほう、義妹様?」


 「彼女がいてくれなかったら僕はきっとあのまま、あなたの思惑通り絶望に吞まれていたことでしょう」


 「なるほど、なるほど。あなたを絶望の淵に追いやるのが私の思惑だったと言うわけですね、カシワギ・タケシ様?」


 「ええ、そうです。猫刑事、あなたは僕を絶望させ、貶め、壊そうとしました」


 僕は先ほど無心の世界の中で見出した僕なりの自論を展開することにした。


 ただの仮説とあてずっぽうを寄せ集めただけの頼りない物だったけれど、それでも僕は自分の考えを、自分の意志を猫刑事に示さなくてはならないんだ。


 「まずあなたは僕の心の隙間を見つけるところから始めました。こんなしがない人間ではありますが、心の隙間を晒して歩き回るほど無防備ではないですからね。事前に僕の周囲の人たちを揺さぶり、物事を揺さぶり、そうすることで間接的に僕を揺さぶってあなたは僕の警戒の錠を少しづつ緩めていきました。ただ一人、ただ僕一人だけを標的にしてテレビや雑誌なんかのメディアや世相までをも大々的に操って揺さぶりました。ずいぶんと大仰な話です。結果、おかげさまで僕の心の隙間はいとも簡単に見つかってしまいました。そしてあなたは見つけたその隙間を押し広げながらこじ開け、侵入し、いつの間にか僕から色々なものを奪っていった。……搾取していったと言う方が正しかったでしょうか?」


 「どちらでも」


 猫刑事は肩をすくめた。


 「続けて下さい」


 「あなたはその搾取した後にポッカリと空白になって残された場所に、とある物語を植えつけて行った。村田という青年兵士の話です。あなたを模したような猫が現れ、死んでしまうはずだった村田青年を助け、その対価として心を奪って行く……そんなあらすじの話です。どこまでが本当でどこまでが創作なのかは解りません。どれもが実際に起こった出来事であるかのような生々しい感触がありました。しかし、どれもがフィクションであるかのように突拍子のないリアリティーに欠けるものばかりでもありました。どちらにしても、正直、あなたが語り出しに言ったように陳腐で滑稽であまり出来の良くない物語ではありましたが。……ともあれ、話の筋や出来栄えはあまり関係がなくて、問題はその物語の中に含まれる何(、)か(、)だった。登場人物の台詞や背景の中、匂い、質感、温度、陰影、光彩、とにかくそういった色んな些細な物に、あなたは何かしらトラップを仕込んでいた。そのトラップにあっさりと引っ掛かった僕を、ゆっくりと、じわりじわりと染みこむように絶望が侵食していきました。僕は自分を侵していくそんな絶望に気が付きもしなかった。むしろ日々に安泰すら感じていたくらいです。僕はあなたが僕の前に現れるまでもひどい絶望の中にいたつもりでいましたが、あんなものは絶望でもなんでもなかった。本当の絶望と言うものは音も姿も気配もなく人の全てを掌握し、僕という存在そのものを上から隙間なく塗りつぶしてしまう恐ろしいものでした。……もう二度と、あんな思いはしたくありません、絶対に」


 そこまで言い終えると、僕は一拍置くようにコーヒーを一口すすった。


 それにつられるようにして猫刑事もまたコーヒーカップに手を伸ばした。


 少し冷めて苦みが前に出始めてきていたけれど、コーヒーの香りはそれでも僕を慰撫してくれるように芳しかった。


 猫刑事にとってはどうだっただろう?


 「幾つかわからないことがあります。聞いてもいいでしょうか?」


 僕は改めて切り出した。


 「ええ、なんなりと」


 猫刑事は言った。


 「何故僕にそんなことをしたんでしょう?」


 「何故あなたを精神的に追い詰めなくてはならなかったのか、という事でしょうか、カシワギ・タケシ様?」


 「そうです。どうしてあなたは僕にねらいを定めたのか?そして何故絶望させなければいけなかったのか?幾ら頭を絞って考えてみても、これといった説得力のある仮説はたてられませんでした」


 「ほうほう」


 「とりあえずあなたの目的はそれとなく僕に見せた物語の中で仄めかされてはいました。世界の真理を見つけること、そして自身の存在意義の証明……でしたか。それが本当に真の理由であるのかどうかまではやはり判断し兼ねますけど、あの話の中で猫は、自分の存在意義をずっと探していると言っていました。そしてその存在意義の証明のために真理を探し求め、その隠し場所の有力な候補を『心』と定め、ねらいを付けた人間の心を無遠慮にまさぐり、それに耐えきれなかった多くの人たちを図らずも廃人にしてしまったのだと。……もしそれが本当にあなたの目的を代弁したものであるとしたら、それはもはや達成されていたはずです。僕は簡単に心の侵入を許し、まさぐられ、掻き回され、そしてあなたは去って行った。とても鮮やかなお手並みで、至極あっさりと。あるいは鈍感で心の弱い僕であるからこそ、あなたはわざわざ僕を選んだのかもしれませんね。敏感で強い心を持った人であるならそう易々とはいかないでしょうから」


 「なるほど」


 「……だけどその後の行動が全く解せないんです。空っぽの僕にわざわざ置き土産のようにして絶望を残していった意味が本当に解りません。もしもあなたのことを他言しないように口封じするつもりであったなら、そんな回りくどいやり方をせずに直接命を奪ったりもできたでしょう。あなたが、ただでさえ心を壊されて廃人になりかけている人間に更に追い打ちをかけて嬲(なぶ)り、その様子を見て楽しむような悪趣味を持っているようにも思えません。……一体あれはなんだったんでしょうか?」

「なるほど、なるほど。やはりあなたは……」猫刑事はそう言って小さく微笑んだ。いつかのような厭らしそうな笑いでもなければ、ワザとくさい程に親しげなものでもなく、少しだけ哀しそうに見えたのは気のせいだろうか。そして猫刑事は最後の一口のコーヒーを大事そうに飲み干し、その香りの余韻を楽しむかのように目を瞑った。そして「どんな陳腐な物語にも必ず主人公がいます」


 と猫刑事はそのまま唐突に語り出した。とりあえず僕の問いに答えるつもりはなさそうだった。


 「私は確かにそう言いました」


 「……はい」


 「ではお尋ねします、カシワギ・タケシ様」


 「はい」


 「主人公とは誰でしょう?」


 「主人公?」


 「この物語の場合、主人公とは一体誰のことを指しているのでしょう?」


 「それは……」


 「それは?」


 「村田青年?」


 「猫です」


 「猫?」


 「はい、猫です。あの物語はムラタ・ショウゾウ様を主軸として進行して行きますが、本来の主人公は猫なのです。どこまでも陳腐な物語の主人公はどこまでも陳腐な力を持ったどこまでも陳腐な猫なのです」


 「そんなこと……」


 「そんな事あるのですよ、カシワギ・タケシ様」


 僕の言葉を食い気味に遮ってから猫刑事は目を見開き、真っ直ぐに僕を見つめた。


 それまでのリラックスした様子とはまるで異なり、目にはとても力が込められていた。


 それも特殊な能力や僕を抑圧しようという暴力的なものではなくて、猫刑事本人の中から湧いて出た固い決意を表したような純粋な力強さだ。


 「猫の力はとても強いものです。生や死を司り、人の感情や五感を自由に弄び、夢の中ですら好き放題に出入りすることが猫には可能です。そして何よりの強みは、とにかく猫には時間があるということなのです。目的の完遂のためならばどれだけ時間が掛かろうとも、急いたり焦ったりなどして取り乱したりすることはありません。何事もじっくりと時間を掛けて確実にこなしていきます。なにせ時間はたっぷりあるのです。いや、正しくは時間という概念など猫にはまるでない、と言った方がいいでしょうか。決して時間や期限に束縛されることなく、ただ目的へと向かって猫はノロマな亀のように地道に歩を進めていきます。……さて、そんな猫の向かうべき目的とは一体何だったのでしょう?そうそれは、ただ真理と呼ばれるモノを探して人の心の中に入り込んでは壊し、また次のターゲットを探しに行くだけです。ただそれだけです。それ以上のことは望みませんし、それ以下のことで収まるつもりもありません。しかしです。そもそも何故に猫は真理などという曖昧で不確かなモノを探さなければならないのでしょう?仮にそれを見つけ出したところで彼はどうしようというのでしょうか?見つけられればそれで満足なのでしょうか?その後に彼という存在はどうなるのでしょうか?さあ、それらの謎の答えはいかに?……そう、答えはありません。肝心なその説明が全く為されていません。真意はわからないだとか、何故だか定められているルールだとか、暗示的要素の欠片もない丸投げするような物言いで簡単に済まされて終わります。答えは鬱蒼と生い茂るマタタビの群れの奥深くに隠れて出てくることはありません。他でもない、その辺りの設定の曖昧さがこの物語を三流のファンタジーやSFの枠から出ることのできない稚拙な話にしてしまったのです。動物や空想上の生き物が現れて人と会話をする、あるいは特異な能力を駆使して人の心を操る、マンガやエンターテイメント小説、演劇やSF映画の王道と言えば王道の設定です。ある者はその力で世界の危機を救おうとします。ある者は反対に世界を危機に陥れようと企みます。あるいは人との共存を望みますし、反対に人を強く拒み続けたりもします。善なるモノにもなれば悪なるモノにもなります。なんにせよ、方向性の違いこそあれ彼らの最終的な目的は明確に示されていますし、それぞれに然るべき形で然るべき結末が訪れます。……しかし、あの猫の目的には明確なものがありません。向かうべき方向を完全に見失い、何の裏付けもなくとりあえず与えられた力を使って与えられた使命を右から左に履行しているだけです。決してその主人公像に斬新さはありません。一かけの芸術性もありません。何かへのメッセージでもアイロニーでも、暗示めいた隠喩でもありません。猫はただただそこにいます。この物語は作者が怠惰や諦めのため、自ら威勢よくばら撒いた多くの謎や仄めかしの回収をせずに未完成のまま打ち捨てた、救いも教訓もないただの駄作であるのです」


 僕は返す言葉がなかった。


 そこまで言わなくてもと思ったけれど、おそらくその作者であり主人公であろう猫刑事本人がここまでバッサリと切り捨ててしまったら、僕に擁護する余地などなかった。猫刑事は話を続ける。


 「お察しの通り、あの物語を作ったのは私です。私は私自ら作り上げて編纂(へんさん)した、我が子のように愛おしいこの作品を、百パーセントの偏見を持って否定します。元来、このように読者やオーディエンスなどの第三者の想いを頭から無視して自己完結的、自己満足的に尻切れる無責任な作品は私の好むところではありません。確かにあえて核心的な言及を避け、全体を曖昧模糊(あいまいもこ)というボンヤリとした膜で被うことで、結論なり結果なりを第三者の想像力の赴くままに任せるという手法で巧みに作られた秀作があることは否定しません。文学に然り、絵画に然り、音楽に然り、その作品の可能性は見る人や聞く人の違い、場所や時代や季節や気分などの違いによって無限の広がりをみせ、人々の好奇心を萎えさせる事を知りません。優れた芸術とはむしろこのように褪せることなく誰かに永遠の謎を投げかけ続けられる強い力、『永遠の曖昧さ』を持ったものなのかもしれません。……芸術にはお詳しいですか、カシワギ・タケシ様?」


 「いえ、あまり……」


 何を言ってるんだ、猫刑事?


 「私もです」


 猫刑事の舌は止まらない。


 「私に芸術はわかりません。いえ、わからないというよりも、わかりたくもないのです。曖昧さや謎といった不確かで危うくて誠実さに欠けるものが美として賞賛され、尊ばれてしまうような不確かで危うくて不誠実な世界のことなど私はわかりたいとも思いません。訳知った顔で『未完の美』や『虚無性の有』などと言って論評し合う醜い人たちの仲間になどなりたくもないのですよ、カシワギ・タケシ様。そんなものにしか想像力を向けられない低能な人々と肩を並べていたくはないのですよ、カシワギ・タケシ様」


 猫刑事の体は戦慄(わなな)いていた。顔は心持ち青ざめ、声も若干震えていた。


 今までの掴みどころのない態度からは全く想像が出来ない程に、猫刑事の精神は乱れていた。


 どうしたんだ猫刑事?


 感情も心も偏見も趣味・趣向も何もなかったんじゃないのか猫刑事?


 そう何もない


 何者でもない

 何者でもない?


 何者でもない存在?


 ……

 ……


 そうか、そういうことだったのか猫刑事……


 やれやれ、我ながら本当に鈍い


 「私の物語は曖昧です。しかし何の力はありません。私が嫌悪し、それでも強さだけは認める『永遠の曖昧さ』はありません。それは私が未熟なストーリーテラーであるからなのかもしれません。しかし、私は事実にとても忠実で真面目な作者となってあるがままを描き出したに過ぎません。台詞の一文一句、背景の細部、匂い、質感、温度、陰影、光彩、その他物語を構成する全てのものを私は忠実に反映させたつもりです。カシワギ・タケシ様、あなたはこの物語には生々しい感触が有ると評してくれましたが、それは本当に作者冥利に尽きる言葉でした。しかし、反面でリアリティーに欠ける突拍子のないものとも表現なされました。もはや私に反論の余地はありません。あなたの評論が私の物語の全てを表しています。そして、それは……」


 「もう一つ質問です」


 今度は僕が猫刑事の言葉を遮った。


 猫刑事は手振りも交えて熱しながら話していたのだけれど、僕が横やりを挟むと、拳を中空に振り上げたままの姿勢で固まってしまった。


 ぽっかりと空いた猫刑事の口の奥には底の知れない虚空がどこまでも広がっていた。


 「あなたはロックミュージックがお好きですか、猫刑事?」


 「……」


 無言。


 「僕はあまり好んでは聴きません。と言うか、音楽自体あまり聴きません。別に嫌いという訳ではないんですけど、この世から無くなったとしてもさして困りはしません」


 「……」


 無言。


 「あなたの言葉や態度を見て、たった今わかりました。すごく恥ずかしいんですけど、僕がさっき仮説を立てたり想像をしたりして導き出し、胸を張ってあなたにぶつけた自論はまるっきり的外れなものだったみたいですね」


 「……」


 猫刑事はなおも黙っていた。


 顔色は相変わらず青ざめ、目はぎょろりと見開かれていたけれど、それでも猫刑事はただ静かに僕を見つめた。


 僕に何かを期待しているようだった。


 そして同時に怯えてもいるようだった。


 僕がこれから示そうとする反応や発言を巡って、心は期待と不安の狭間で激しく揺れ動いているのだろう。


 さながら判決を待つ被告人のように、叱られるのか褒められるのか理由も告げられぬまま突然先生に呼び出された子供のように。


 「あなたは猫刑事ではないですね、田中さん」


 「……はい」


 田中という隣人はあっさりとそう認めた。

 


               ***



 「よく、おわかりになられましたね」


 猫刑事だった人物は言った。

 

 「ようやくわかった……と言った方がいいかもしれませんね」


 と僕は苦笑いした。

 

 「いえいえ、ようやくだなんて滅相もないです」


 猫刑事だった人物は言った。


 心なしかホッとしているようにも見えた。


 少なくとも先程までの鬼気迫るような様子はもう見られなかった。

 

 「いえ、本来もっと早くに気付かなければいけなかったのだと思います。田中さんがどうだという訳じゃなく、隣に住んでいる人の顔も解らなかった僕が一番悪いんです」

 

 「いえいえ、引っ越しのご挨拶にも伺わなかったこちらが悪いのです、本当に申し訳ありませんでした」

 

 「いやいやいや、僕が……」


 そんな不毛なやり取りが結構長い時間続いた。


 


 結局のところ、田中という二十代前半の脚本家志望の男性が僕のところにやってきた猫刑事の正体だった。


 半年ほど前に僕のアパートの隣室に引っ越してきたのだけれど、極度の人見知りのせいで引っ越しの挨拶に行こうか行くまいかと足踏みしている間にすっかりタイミングを逃してしまった。

 

 そのうちに契約社員として勤めていた会社から業績不振の立て直しのためという名目で有無も言わせず契約を解除されて無職になり、それに追随するかのように、満悦と自信を込めて応募したシナリオの新人賞から落選の通知が届き、ばたばたとしている間に時間が流れてしまったということだった。


 昨今の日本の経済事情と彼の少し大人し過ぎる気合いのある性格のためか、なかなか次の職に有りつけず、今はとりあえず深夜のコンビニのアルバイトとそれまで貯めていた僅かな貯金を切り崩して食い繋いでいるのだそうだ。


 しかし、日々、悶々と世界の非情や社会の理不尽、自分の作品を認めようとしない業界に対する不満が募り募っていき、ただでさえ細い精神を窮々と絞り上げ、彼は完全に躁鬱状態になっていた。


 そんな時、たまたま見かけた隣に住んでいる幸せそうな夫婦(僕たち)を見当違いだとは判りつつも恨めしく思いはじめ、いつしかその思いは明確な憎悪とすり替わって彼の心を蝕んでいった。


 ちょっと困らせてやろうとして僕に対するあのメモを使った幼稚な嫌がらせを始めたのはその辺りからだ。


 けれど、僕は一向に反応を示さない。


 あっさりと無視されてしまったことに彼はとても腹を立てた。


 頻度を増やし、わざわざ名前まで書いて嫌がらせを繰り返した。


 こうすれば嫌が応でも相手をせざるをえないだろうと、ねじれ歪んだ想いはよりそのねじれをより増して、彼を懸命に無意味な行為へと駆り立てた。


 しかしそれでもまるで手応えはなく、僕は怒鳴り込んでくるわけでもやり返してくるでもなく、彼の想いが込められた渾身のイタズラを完全に黙殺した。


 彼の表現をそのまま引用すれば、彼は心にポッカリと穴が開いたような気分になった、のだそうだ。


 その時、鬱々とした彼の頭に閃いたものは、自分はこの世界の誰にも必要とされていない、自分のことなど誰も見てはいないのだという圧倒的な孤独感だった。


 その穴の存在感の強さが、その穴のあった部分に本来備わらなければいけなかった何かの致命的な欠落が、彼の心を絶望と失望の混ざり合う、どす黒い感情で覆い尽くした。


 そしてその黒い感情の強すぎる力に煽られるようにして、くすぶり始めていた彼の物語への創作意欲が再び燃え上がった。


 これも彼の表現の通りなのだけれど、自分が物語を紡いでいるというよりも、物語が自分の手を利用してこの世界へと飛び出そうと疼いているかのような感覚を彼は感じていた。


 その疼きに自分は絆(ほだ)されただけなのだと。話のベースは、その時ちょうど巷の噂がピークに達していた『猫刑事』にすることにした。


 たまたまインターネット上の記事で見て面白いと思ったのもあったのだけれど、何よりも、それにしなくてはいけないと物語自身が彼の耳元でそう囁いたような気がした。


 数限りなく囁かれていた様々なエピソードを参考に、その猫刑事から得たインスピレーションと自分の心の空虚感や孤独感を融合させ、村田正造という人物と猫の対峙を軸としたオリジナルのストーリーを作り上げた。



「いつかはドラマや映画の脚本を書きたいと思っています」


 と猫刑事だった男は言った。


 「昔から映画を観るのが大好きで、自分でも映画を撮りたいなと漠然と思うようになり、それがいつしか脚本を書くんだという明確な夢となっていました。前に勤めていた会社もそういった映画製作のちょっとした下請けをしているところでした。脚本を書いたり構成を考えたりとは、ほとほと縁遠い仕事ばかりでしたが、それでも自分が映画を作り上げる一端には一応触れているのだと思えば頑張ることができました」


 「だけどそこをクビになってしまった」


 「はい。所詮、契約社員なんてその程度の扱いしか受けられないのです。それなりにお給金は頂いておりましたけれど、賞与もなければ退職金もなし、いざクビを切るのは誰だとなればいち早く切られるのはもちろんボクたちのような契約社員や派遣社員なのです。どれほど正社員の人たちよりも優秀であったとしても。……と、こんなことばかりを言ってはおりますが、私はお金や名誉や地位などにはまるで興味がありません、嘘ではありません、本当です。私はただ純粋に物語を書いていたいだけですし、演者や演出家の手によって命を吹き込み、物語を自由に歩かせてあげたいだけなのですよ、カシワギ・タケシ様。それで最低限食べていけるだけのお金をもらえれば私は他に何もいりません、それで満足なのですよ、カシワギ・タケシ様。それだけだというのにも関わらず……」


 「……猫刑事になってる」


 「あ、申し訳ありません、興奮してしまいまして」


 「君の言い分はすごく解るよ」


 また新しく淹れたコーヒーを一口すすりながら僕は言った。


 「僕だってちょうど……ちょうどっていうのもあれだけど、最近会社をクビになったばかりなんだ。君とは違ってキチンとした正社員で、高卒で入ってから十年以上も勤めた会社だった。大してデキた社員ではなかったけれど、僕は僕なりに一生懸命働いてきた。四十度の熱を出したって、ウイルス性胃腸炎になったって這いながらでも出社したし、遅刻だって殆どしたことはなかった。同僚のみんなは待遇が悪いだとかなんだとかよく文句を言ってたけど、僕は全然不満なんてなかった。ただの営業だったけどそれなりにやりがいだって感じてた。……ちなみに奥さんに出会ったのもそこだったしね」


 「社内恋愛ですか?へえ、なんだか素敵ですね。ボクのいた職場にはそんな愛だの恋だのが許される雰囲気なんてなかったですから。そうそう、奥様の方にも謝っておいていただけますか?多分、怖い思いをさせてしまったと思うので」


 猫刑事だった男は言った。


 本当に彼は猫刑事だった時とは比べ物にならない位にくだけた調子だった。


 人見知りと言っていたけれど、僕とは話しやすいのか特に緊張した風でもなかった。


 僕と妻との出会いに殊更感心した様子の彼の顔は、猫でも刑事でも猫刑事でもなく、どこにでもいる普通の青年だった。


 「とにかく」


 妻が出て行ったことをわざわざ言っても仕方がないと思い、僕は一つ咳払いを挟んで仕切り直した。

 

 「うん、君が会社や社会に不満があるのもわかる。そして脚本や物語を書くのが好きなのも十分伝わってきたし、もしかしたら才能だってちゃんとあるのかもしれない。だって、すっかり僕は君の話の中に引き込まれちゃっただろ?確かに僕が単純過ぎるのもあるんだろうけれど……。だけど、やっぱり人をからかったり、いたずらしたり、世間への憂さ晴らしのためにあんなことをしちゃいけないと思う。自分の才能が認められない、自分の能力を正当に評価してくれない、性格が控えめだからいけない、時間がない、暇がない、世間は世知辛い……そうやって誰かや何かのせいにしてたら何も前進しない。君は何も変わらない。一生そうやって隣の部屋の人を憎んだり世間を憎んだりして、嫌がらせをする事や物語を語ることでしか自分の意志を示せない寂しい人間のままだ。君自身が言ってたんじゃなかったかい?自分の物語は自分一人で完結させなければいけない、誰も巻き添えにしてはいけないって。それともあれはただ猫刑事の台詞の一つだっただけなの?自分でなんとかしなくちゃいけないっていう君の想いは込められてはいないのかい?」


 「本当にすいませんでした……」


 猫刑事だった男は少しションボリとした。


 「そもそも、なんでわざわざ猫刑事を装わなくちゃいけなかったの?」



 さて、作り上げた物語をどうするのか、彼の頭はそれを僕に披露するという考え一つで占められていた。僕に物語を語り、自分がどれだけ深い孤独を僕のせいで味わったのかを伝えなければ気が済まないと思っていたのだそうだ。


 けれど、ただ紙に書いたストーリーを手渡すのではつまらない、そしてそれを物語る語り部として猫刑事になりきれば、きっと彼の物語はもっともっと深く僕の心に刺さるのかもしれないと考えた。


 話の根底に流れているのはそもそも猫刑事の話だったわけだし、都合よく妖しく謎めいた存在として世間で認知されている猫刑事であるならば、きっと彼の物語の奥行きを更に押し広げてくれるかもしれないと信じて疑わなかった。


 ……今にして思えば、どうしてそんな回りくどくて面倒なことをしなければならなかったのだろうかと、彼は首をひねった。



 「それでもその時は、絶対にそうしなければと頑なに思い込んでいました」


 猫刑事だった男が腕を組んで首をひねったままそう言った。


 「実際に自分の口からすんなり『猫刑事と申します』と出てきた時には正直、自分の声には聞こえませんでした。それからはもう、自分は猫刑事なのだとずっと思い込んでしまって……夢中で喋っていました」


 「おまけに僕はその一言目であっさり信じちゃったしね」


 「ええ、まあ、その、何と言いますか」


 猫刑事だった男は返答に窮した。


 「今日は最初から謝るつもりでお邪魔したのです、本当は。ですが、その、すっかりボクの事を猫刑事だと思い込まれていたようでして……その、お待ちになられていたと言って頂いたので、もしかするとボクの言いたかったことをわかってくれたのかなと思ってみたり、物語の感想はどうだったのだろうなどと思ったりして、あなたが話すのを少し聞いてみようかなと……すいません、悪いと思いつつも演技を続けてしまいました」


 「いいんだよ、さっきも言ったけど僕は単純なんだ。猫刑事についてあれこれ関心を持っていた頃でもあったし、本当に一つも疑わなかったよ、君の姿はまるで噂の猫刑事像そのものだったから。あるいは脚本を書くよりも、俳優をやる方が向いているのかもよ?」


 「ふむ……なるほど」


 彼は僕の冗談を真に受けてその可能性について少しだけ考え込んだ。


 「……まあ、また何か心が鬱々しだしたら僕のところにくればいいよ。大して力にはなってあげられないとは思うけど、美味しいコーヒーならいつでも淹れてあげるからさ」


 「あ、はい、是非お願いします。ありがとうございます、こんなボクなんかのために」


 そう言って猫刑事だった男はニッコリと大きく笑った。


 本当は真面目な青年なのだ。



 新しいコーヒーを淹れ直し、それから僕らは他愛のない会話を楽しんだ。


 アルバイト先の必要最低限の言葉は別として、久しぶりに誰かとまともに話をしたと彼は言った。


 僕も僕で義妹は別にしてこんなにのんびりとした気持ちで他人と話すのは本当にしばらくぶりだった。

 

 好きな映画の話、コーヒーについてそれぞれが自信を持って抱く自論、季節の話、世間の話……話題に事欠くことはなかった。


 「……しかし、本当のところはどうなのでしょうかね?」


 宴もたけなわになり、そろそろ解散しようかという空気になったところで、猫刑事だった男は言った。


 「本当のところ?」


 「はい、猫刑事とは本当に何者なのでしょうか?物語を構築するために色々と八方調べてはみたのですが、結局最後までその実像が見えずじまいでした」


 「全ては生い茂る猫じゃらしの向こう側だったっけ?」


 「マタタビです」


 元・猫刑事はすかさず訂正する。


 「冗談だよ。猫刑事の正体か……僕にもよくわからないよ」


 「そうですか……」


 猫刑事だった男は妙に真剣な顔をした。


 「やはり誰にもわからないのですね」


 「そうみたいだ」


 「そしてそのようなよくわからないモノを皆は敬ってみたり、恐怖してみたり、受け入れたり、受け入れなかったりと騒いでいます。……『私には(、、、)』それはとても危ういことのように思えて仕方がありません」


 「危うい?」


 また口調や声の質が猫刑事のようになっていたけれど、今度は僕も突っ込まなかった。


 彼がとても大事な話をしようとしているが解ったし、大事な話をする時は猫刑事のよく回る舌を借りて語った方がきっと彼も楽なのだろう。


 「例えば誰かが猫刑事の名を語って人々をあらぬ方向へと導こうと企てて声を挙げたとします。これだけ社会にカリスマ的に浸透した名ですから、おそらくは無条件でその歪んだ声に付き従うモノも多く出てくることでしょう。強き者にすがる弱き者。救世主の訪れだと言って涙を流す救いを求める者。先導者の言うままに先導される者。……実際、まだ小規模ではありますが、猫刑事の銅像を独自で拵え、それを人々に崇めさせる新興の宗教団体教団も発足しました。十中八九、怪しげなカルト教団ではあるのですが、猫刑事の名の下に如何わしい儀式や大仰な除霊などをし、集団心理を巧みに煽り立てて順調に信者を増やしているのだそうです。実像も正体もないまま、ついに猫刑事は神として崇められるまでになってしまったのです」


 「どう思うんだろう?」


 僕はふと思いついた事を言った。


 「はい?」


 「そんなに自分のことで熱狂する人達を見て、猫刑事はどう思うんだろう?」


 「……猫刑事はそれを見るのですか?」


 「自分が神様みたいに言われたり、想像で勝手に作られた変な像に手を合わせられてたりしてさ……マタタビの隙間からこっそり外の様子を覗いた時にそんな光景を見たら、猫刑事は多分、とても怖い気持ちになるんじゃないかなと僕は思う」


 「怖い……ですか?」


 「確かに猫刑事の正体なんて僕にはわからない。何故猫なのか、何故刑事なのかもわからない。刑事のふりをした化け猫なのか、単に猫みたいな顔をした名物刑事なのかもまったくハッキリしない。どれだけ頭をひねっても僕にはあんな見当違いな仮説しか見いだせなかった。やっぱり、猫刑事なんて実際には存在しないと言われればそれに反論する言葉なんて思いつかないし、かと言って実在するという明確な根拠だってありはしない、まあ、お化けや宇宙人の類と同様にね。……だけど、いるにしてもいないにしても、自分が勝手に無限の力を持った神様や厄災を齎す怪物みたいに言われたりしてるのを見たら、僕なら多分とても戸惑ってしまうし、すごく怖くなるような気がする。なんというか……独り歩きしてどんどん大きくなっていった、まるで自分じゃないような自分に、そのうち本当の自分が飲み込まれてしまうんじゃないか、噂や他の誰かが拵えたイメージの中に嫌が応にも吸収されてしまうんじゃないかってさ。ほら、『嘘から出た真』なんて言葉もあるしね。……あれだけ盛大に騒ぎ立ってる世間の反応を見たら、僕ならそんな風に不安になって怖くなってしまうよ、きっと」


 「……なるほど」


 彼は妙に嬉しそうにニコリと笑った。


 「それに……多分、猫刑事はそんなこと望んじゃいない。まして真理の探究だとか存在証明だとかいう高尚なものでもない。彼は独りで寂しいだけなんだよ。人間が好きで、人間に興味があって、でも仲良くなりたいと近づいて行ってもその存在の強さに殆どの人が中てられておかしくなってしまう。そんなことを何回も重ねていくうちに、きっと適当な距離感みたいなものがわからなくなって自分から孤独になろうと思ったんじゃないかな?大好きな人間を本当は傷つけたくない、もう人が壊れていく姿なんて見たくはないってね。……て、僕の中じゃもうすっかり猫刑事のイメージは君の物語の中に出てくる主人公クンの像と重なってしまっているみたいだ」


 「光栄なことです」


 猫刑事だった青年は、最後にもう一段階だけニコリとした笑みを大きくした。



 「ああ、そう言えば」


 彼の帰り際、玄関まで見送った時に僕はふと思い出した。


 「君が猫刑事として僕の前に現れた後、一度だけまたメモを置いたよね?あの時はまだ僕を恨んでいたのかな?」


 「メモ……ですか?」


 「うん、ロックは嫌いだとかいうやつ」


 「それは……わからないですね」


 田中青年は困ったような顔をした。


 「わからない?」


 僕も少しビックリしながら聞き返した。


 「はい、わからないです。なにせ、全てを語り終わり、捨て台詞まで吐いて帰ったのですが、自分の家に入ってドアをバタンと閉めた途端、スッと熱が引いて行くみたいに、猫刑事だった自分もあなたへの理不尽な憎悪も無くなってしまいましたから。そんな嫌がらせを続けるわけがありません」


 「……じゃあ」


 「確かにロックはあまり好きではないです。だけど何か勘違いなされてるんじゃないでしょうか?自分で言うのもあれですけど……そんな下らないイタズラを沢山しましたから。ボクが今日ここにお邪魔した目的はそのメモのことや猫刑事のフリをしたことをキチンと謝らないといけないと思ったからですし」


 「ああ、ごめんね。別に君の誠意を疑うとかそういうわけじゃないんだ。元々、僕が君のメッセージを無視したのも悪いんだし」


 「いえいえ、あなたは何も悪くなんてないですよ。一から百まで悪いのはただボク一人で……」


 「いやいやいや、僕だって少しは……」


 不毛なやり取りはまたしばらく続く……。

       


                   ***



 結局、あれだけ騒いでおきながら、僕の心は誰かに搾取されたわけでもないし、絶望なんてものに支配されてもいなかった。


 この一連の猫刑事の騒動は、僕の強い先入観と誰かの屈折した憎悪、そして数多あまたの面倒事やちょっとした誤解などの色々な条件が惑星直列のように重なったおかげで引き起こされた、陳腐な物語であり奇跡のような出来事だった。


 そう、それを人は決して奇跡と呼んではいけない。


 本来、奇跡というものは、頭を銃で打ち抜かれても生きているような類まれなる強運のことを言うのだから。

 

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