第六話

 「……猫刑事ってホント怖いですよね」


 彼女は私と夫が暮らしていたアパートの近所にあるコスメショップの店員。


 私は適当に手に取って買ったマニキュアを彼女にその場で塗ってもらい、それが乾くのを待つ間、何気ない風を装って猫刑事の話題をふってみたのだけど、そうしたらこちらの思惑通りに彼女は食いついてきてくれた。


 店員の女の子は私のオレンジ色に塗られた爪を見つめながら静かな声で語り始めた。


 「実は、私の仲のいい友達の話なんですけど、バイトの帰りに夜道を歩いて帰ってたら、会っちゃったんです、猫刑事に。普段から街灯も少なくて暗い道で、いつも怖いなぁって思ってたらしいんですけど、その子のアパートまではその道を通らないとすごく遠回りすることになっちゃうし、それ程長い距離でもなかったんで、びくびくしながらもその道を通ってたんですって。……嫌だなぁって思いながらも通らなきゃならないって、それもかなり怖いですよね?」


 「……え、あ、そうだね。怖いよね」


 話に神経を集中しすぎて尋ねられているのがわからず返事が遅れてしまったけど、彼女は全く意に介さずに続けた。


 「ある日、その嫌な感じが現実になっちゃったんですよ。その夜もやっぱりそこをさっさと抜けようと下を向きながら早足で歩いてたんです。何か楽しいこととか、少し前の合コンでいい感じになった男の子のこととか考えながら。そしたら突然、前の方に気配を感じたんですって。ほら、風の流れが変わるとか、空気が変わるとか、目で見なくても誰かがそこにいるのがわかるっていう感覚ってあるでしょ?その気配を感じて、彼女立ち止まったんです。もし、こっち側に歩いてくる人ならそのまますれ違うんだろうし、あんまり早足過ぎて、前を歩いていた人に追いついちゃったのなら少し止まってその人が行き過ぎるのを待とうって思って。……だけど、違うんです。その気配は全然動く気配がなくて(?なんか変な言い方ですけど)、その場でじっとしているんです。そしてどうやらこちらを見ているような気配があったんですって。視線を感じたっていうんですかね、気配の視線の気配です」


 「ふうん……それでその子、怖いながらも顔を上げて見ちゃったんだ」


 「そうなんです。だってそうでしょ人って?怖いもの見たさって本当にあるんです。見なきゃよかったのにって後で絶対後悔するのがわかってても、あの時見ておけばよかったのになっていう後悔の方が絶対にしたくないんです」


 「絶対って事もないだろうけど……」


 「いや、絶対です。少なくともアタシはそうです」


 私の爪から視線を上げて、彼女は力強く言い放った。


 多分、妹の栞よりもまだ年下だと思う。


 言葉遣いや顔には、濃い化粧でも隠しきれない、少女のようなあどけなさがあった。


 きっともう少し歳を重ねれば、色々なものが落ち着くところに落ち着き、納まるところに納まり、ようやく一端の大人になれるのだろう。


 ……私はどうだ?


 ちゃんと落ち着き、納まっているのだろうか?


 ……いまいち自信はなかったけど、とりあえず今は彼女の話に集中しなければならない。


 「とにかく、その友達、顔を上げて見ちゃったんです。そしたら……いたんです。噂のアイツだったんです。『猫刑事だよぉ』って言ってニッタリと厭らしく笑ったと思ったらコートの前をバッって開けて、そしたら何にも着てなくて……その裸の体を誇らしげに彼女に見せつけてきたらしいんです。あの子、怖すぎて悲鳴をあげることも逃げることもできなくて、呆然と立ち尽くしてその猫刑事の、その、アレを黙ってずっと見続けたんです。見たくなかったのに目を逸らせなかったんですって。……どれくらいの間そうやって見ていたのかはわからないんですけど、そのうち猫刑事の方が『つまんねえ女』って舌打ちして立ち去っていったんです。女の子がキャーキャー言う顔が見たかったんでしょうね、意味わかんないけど。……そのあと、そいつどこか他の場所で同じことして、あっさり捕まっちゃいましたけどね。その相手の女の子が気の強い子だったらしく、思いっきりアレ蹴り上げて、110番してって感じで。……だけど、アタシの友達はそんなに強くはなくて、その時のショックのせいで今でも男性恐怖症に悩んでるんですよ。もう、ホントに許せない……あ、ごめんなさい、お客様に向かって何言ってるんだろ?」


 と、それまで熱しながら話していた彼女は急にしおらしく顔を伏せ、私に謝った。


 「昨日久しぶりにその子に会ったんですけど、ずいぶん雰囲気が変わっちゃって。明るくて可愛い子だったんですけどね。なんというか、その子の人生の全部が、そんな下らない変態のおっさん一人のせいで奪われちゃったみたいで、ホントに許せなくて。……お姉さん、美人で凛としてて強そうだったから、ああ、あの子もこの人みたいだったら、きっと猫刑事なんかやっつけちゃったんだろうなって思ってしまって」


 確かにお客に対するには随分くだけた調子だったけれど、それだけ彼女は友達の女の子の事を心配しているのだろうというのが伝わってきた。


 「私はそんなに強くはないよ」


 と私は落ち込む妹を励ますみたいに優しく言った。


 栞がほんの小さな頃、私がよくそうしてあげたように。


 「私は全然大した人間じゃない。いざ私が同じ状況に陥ったとして、やっぱり私だってお友達みたいに怖くて怖くて何もできずに立ち尽くすかもしれない。いつまでもいつまでもその黒い影に怯えて生きていくのかもしれない。だけどね……」


 ―― だけどね、いつまでも逃げてばかりじゃいけないのはちゃんとわかってるの ――


 と私は心の中で呟いた。


 そう、私はわかってる。いつかはちゃんと黒い影と正面から対峙し、決着をつけなくてはいけない事を。


 「だけどね、うん、とにかくその女の子はあなたの大事なお友達なんでしょ?」


 「超がつく大親友です」


 「それじゃあ、その超がつく大親友を、超がつく愛情であなたが包んであげて。彼女の人生をその変質者から取り戻すには結構な時間がかかるのかもしれない、もしかしたら人生って一度奪われてしまったらもう二度とは取り返せないのかもしれない。だけど、とにかく、全力で愛してあげて。人生を失ったうえに誰からも愛されていないなんて思っちゃったら、それこそ彼女の人生は終わってしまう。だから、あなたに出来る事はただ一つ、とことん愛してあげる事、もう相手が嫌っていう位まで思いっ切りぶつかってあげなさい。あなたに大親友と呼ばせるその子ならきっとあなたの気持ちを全部受け取って立ち直ってくれるはずだから。……でも、男相手にそんな事絶対しちゃだめよ。あいつらワガママだから、向かってくる女には煙たがるだけで興味なんて一切持たないんだから。ちょっとぐらい連れなくして、常に男の方から向かってこさせる微妙な距離感を意識して保つ事が、男をおとす時の秘訣ね、経験上」


 「……わかりました、頑張って思いっ切り気持ちをぶつけてみます。ああ、なんだか話を聞いてもらって

スッキリしました。本当にありがとうございました」


 そして彼女は嬉しそうにニッコリと笑った。


 笑うと更に子供っぽさが際立ち、また私は妹の事を思い出した。


 長らく会っていないけど、元気でやっているだろうか?


 「……それにしても、このマニキュアって流行ってるんでしょうか?」


 と店員の女の子は私に尋ねた。


 「さっきも同じ物を買って同じようにここでつけて行った人がいたんです。お客様に負けないくらいキレイな人でした。そんな続けざまに売れるだなんて珍しいからちょっと気になっちゃって……何か雑誌で紹介でもされていたんですか?」


 「……そうなの、この秋のトレンドみたいよ」


 適当に合わせた話を、彼女は心底納得したように大きく頷いた。


 店員に言われ、改めて自分が何の気なしに買ったマニキュアを見て私は少しだけ驚いた。


 このブランドのオレンジ色のマニキュアは、昔、ハワイ土産に栞に渡したのと全く同じ物だった。


 妹の事を考えながらそれを自分も塗ってもらっていただなんて、こんな偶然もあるのだ。


 ……彼に聞かせてあげればきっと私と同じように驚きを共有してくれるんだろうなと思って楽しい気持ちになったと同時に、そんな生活を取り戻すためにも私はもう少し頑張らないといけないなと今一度気を引き締めた。

  


                   ***



  コスメショップを出て次に向かう場所へと歩いていると携帯電話が鳴った。後輩からだった。


 「もしもし」


 「あ、センパイ。どうです、そっちの方は順調ですか?」


 「ええ、とりあえず今日行く予定のリストの七割くらいは回ったわ。飛び込みだし、怪しむ人も何人かいたけど、なんとか粘ってちゃんと話は聞けた」


 「ホントですか?大したもんですね」


 電話の向こうで彼女は本当に感心しているようだった。


 「アタシとセンパイがコンビを組めば、もしかしたら無敵かもしれませんね」


 「あなたのタバコとカップ麺に彩られた素敵な生活を間近で見てるんだもの、記者になるなんて絶対にごめんよ。私はただ猫刑事についてもっと知りたいだけ。手伝いも今回だけだからね」


 「……居候の分際でずいぶんな物言いですね」


 電話の向こうできっと後輩は苦笑いを浮かべているのだろう。



 後輩は猫刑事の記事を書き、それが各方面から激しくバッシングを受けたがために会社を辞めたのだと教えてくれた。


 もちろん、掲載の許可を出した上司にも責任があり、辞表を出すまでの事はなかったのだけど、それとは別に、彼女のジャーナリストとしてのプライドが許さなかったのだという。


 そしてそこまで負けず嫌いの彼女がそのまま黙って引き下がる訳もなく、今もなお正体を暴かんと一人で地道に猫刑事を追いかけ続けていた。


 彼女から猫刑事の話を聞かされて、それまで一度もその名前を聞いたことがなかった事に私自身も驚いた。あらたまって見てみると、新聞でも雑誌でもインターネットの掲示板でも、猫刑事に関する噂話は本当に溢れかえる程に多かった。


 それの一つたりとも私の目に入らなかっただなんて事があるだろうか。


 ……私はそこに何か不吉な第三者の力が強く働いているような気がしてならなかった。


 いつか私の妊娠を妨げている悪意ある何者かの存在を感じた時のように。


 だから私は彼女の取材の手伝いを買って出た。


 私の直感だか霊感だかが、猫刑事が何かしら私の中のモヤモヤとしたものに関係していると言って疼いていた。


 全く見当違いの事をしているのかもしれない。


 それでも、このまま黙って引き下がる訳にはいかない。


 そう、後輩に劣らず、私も相当な負けず嫌いの性格なのだ。



 「センパイ、ホントにいいんですか?」

 

 後輩は言った。


 「何度もいいますけど、こんな事を続けたって猫刑事の正体が掴める保証なんてありませんからね。アタシは時間があるし、意地だってあるからやってますけど、センパイは何も無理する事ないんですから」


 私は今、ネットで噂や目撃談を語った人のうち、住所や居所がわかり、なおかつそこがなんとか私たちの足で行ける範囲の場所であるという条件で絞ったものをリストアップし、片っ端から訪ねて回っていた。


 後輩の言うように、溢れかえる膨大な情報の中からそんな限定的な狭い範囲で探してみても、結局手間と資金の浪費をするだけで、ただの徒労に終わってしまうのではないかと思いもするけど、とにかく、何でもいいから実際に動いてみなければ物事は何も解決はしない。


 経験上。


 「時間と意地なら私にもあるわよ。おまけにあなたにはない、愛想の良さだってあるの。見ず知らずの人に聞き込みをするならきっと私の方が上手くいくと思う。だから、もう少しだけ、私が納得いくところまでやらせてもらえる?」


 「センパイがこの世で唯一アタシより頑固な人間だって事をすっかり忘れてました。……それでですね、ちょっと考えがあって今電話したんですけど」


 「考え?」


 「例のお爺さんにもう一度話を聞こうと思うんです」


 「お爺さんって……あの記事に載った?」


 「そう、村田さんです」

 

 「どうしてまた?インタビューするのにかなり手こずったって言ってたじゃない?」


 「ええ、そうなんですけどね。……センパイ、これまで歩いて聞いて回って、正直手応えってありましたか?」


 「手応えかぁ……」


 正直なところ、どれだけ猫刑事の事を聞いて回ってみても、手応えらしい手応えはなかった。


 それは変質者であったり妙な宗教団体の偶像であったり、なんと表現しようか、そのどれもが私の抱くイメージとはかけ離れたものばかりだった。


 ただ世間的に有名になった猫刑事という名前を借りて悪さや金儲けをしているだけのような気がしてならない。そう後輩にも言った。


 「それはアタシもずっと思ってました。昔からこの世界、便乗犯っていうのが必ず出てきますから。まあ今回、猫刑事自体は犯罪を犯しているってわけでもないので正確な意味での便乗犯ではないのかもしれませんけどね」


 「でもその便乗犯の中に本物が紛れていないとも限らないからこうやって今地道にローラー作戦を仕掛けてわけだけど、どうして突然、あのお爺さんが出てきたの?」


 「どうしても、あの村田さんが大事なキーパーソンになっているんじゃないかっていう考えが拭えないんですよね。直接インタビューしたアタシだからわかるんですけど、あの人が語った猫刑事の像は、他のどんなものとも違う生々しさがあったんです。本当にその息遣いまで聞こえてきそうなくらいに。もしかしたら他の百人に聞くよりも、あのお爺ちゃん一人を攻めた方がより真相に近づけるかもしれません」


 「それもジャーナリストの勘なの?」


 「もちろん。今のアタシには勘しか頼れるものはないですから」


 「……追い詰められた女は強いもんよね」


 「それはセンパイだって同じでしょ?」


 追い詰められた女……自分で言っておいてなんだけど、少し胸に刺さる言葉だった。


 そうだ、私だって失うものなんてないじゃないか。


 今、私はその失ったものを取り戻すためにもがいているところなんだ。


 勘でも霊感でも第六感でもいい、何かに導かれるまま、納得いくまでもがいてみようじゃないの。


 「……わかった、行ってみましょう。でも突然押し掛けたら迷惑じゃないの?」


 「ええ、もちろん今からキチンとアポ取りますよ。突撃取材をするのには少し懲りましたからね」



 確かにアポイントメントを取るのに老人ホームへ電話をしてよかった。


 四十分ほどかかって私が後輩のアパートまで戻ると、彼女は先程電話で話していた時とは明らかに違う、とても深刻そうな様子をして待っていた。


 あまりいい予感はしなかったけど、まさしくその通りで、やっぱり今の私の勘は冴えわたっているようだった。


 村田老人は二週間前に、急性のくも膜下出血で亡くなっていた。


 電話対応した老人ホームの女性(取材の時も付き添っていた中年の介護士)が話してくれたところによると、村田さんは痴呆の気合いはあれども、毎年施設で行っている健康診断の結果も至極良好で、普段から風邪一つ引かない健康体だった。


 後輩が取材した直後はしばらく気が高ぶって荒れていたらしかったのだけど、それもすっかり落ち着き、また変わらぬ害のない老人として日々を穏やかに過ごしていた。


 それが亡くなった当日の朝、老人は妙な事を口走った。


 『もう充分だろうが……』


 それは職員が老人の体をお湯で濡らしたタオルで拭いてあげている時だった。


 もちろん職員は自分に言われたものだと思い、もう少しで全部拭き終るから我慢してくださいね、と言った。


 しかし、それでも村田老人は。


 『もうこれ以上、俺にどうしろっていうんだ。もう充分だろ』


 と繰り返した。


 その言葉がどうやら自分に向けられたものではない事に気がついた女性職員は少し怖くなり、常駐の医師と看護師、そして他の職員を呼んだ。


 すぐに駆け付けた医師が何度も話かけてはみるのだけど、村田老人は一向に反応を示さず、相も変わらず正面の白い壁をボンヤリと見つめながら何事かを呟くばかりだった。


 女性職員曰く、その様子は自分達には見えない『何か』と会話のやりとりをしているようにも見えたらしい。


 そのうち医師も話しかけるのを断念し、誰も何も出来ないまま、部屋には老人がブツブツと小さく囁く声だけが響いた。


 『もうこれ以上俺の何を知りたい?俺から何を搾り取るっていうんだよ。嫌っていう程おまえにやってきただろ。俺にはもう何も残っちゃいないんだ。家族も未来も心だってなくなったんだ。もういい加減終わりにしてくれ。もう疲れた。もうたくさんだ』


 その場にいた一同は食い入るように成り行きを見つめた。


 老人がここまで長いセンテンスの言葉を、というよりもまともに会話として成り立つように話す言葉を初めて聞いたのだ。


 女性職員は何とか老人の見ているものを見定めようと目線を追ってみたのだけど、そこにはやっぱり変わり映えのしない部屋の壁があるばかりだった。




 「誰一人、一歩もそこから動けなかったそうです」


 後輩は続けた。


 「怖いもの見たさ……なんていう次元を跳び越えて、ただただ目を離せずに釘付けになってしまったようです。その空間の均衡を、村田っていう老人とその彼が見ている『何か(、、)』が展開する世界のバランスを、彼女達は無断で乱してはいけないように思ったらしいです」

 

 「……村田さんと猫刑事との世界?」

 

 「それはわかりません。ただ私たちは猫刑事の事で村田さんを見知っているから、そう関連付けて思ってしまうのも仕方がないですよね。その職員の人も取材の時に同席していた一人ですから、彼女ももしかしたらって思っていたんでしょう。それが証拠に、猫刑事うんぬんなんて知らない医師や看護師はその時にはもう脳が血液で圧迫されて、幻覚を見たり幻聴が聞こえたりしていたのだろうと現実的な見解を述べていたそうです。……ま、こちらの方が存分に説得力はありますね。何せハッキリと死因は重度のくも膜下出血って出てますから」



 確かに、それから何か不思議な事や神掛かった出来事が起こったわけでもなく。


 間断なく喋り続けていた村田老人がふと口をつぐんだと思った瞬間、老人は静かにベッドの上に倒れ込んだ。


 要するに均衡が破られたわけだ。


 一同はキツイ金縛りが解けでもしたかのような解放感に捉われたのだけど、その余韻に浸る間もなく慌てて村田老人の元に歩み寄った。


 医師が大声で呼び掛けながら意識と脈拍の確認をした。


 定期的な問診では頭痛などの前兆は見られなかったのだけど、それまでのよくわからない言動や、半世紀以上も前に戦争で打ち抜かれたらしい古い頭の傷跡。


 それらを鑑みて何かしら脳卒中が起こったのではという閃きがあり、とりあえず体を横にし、弱々しい呼吸が少しでもし易いように気道を確保した。


 この施設ではそれ以上専門的な処置を行う設備が足りなかったので、看護師は救急車を呼びに電話まで走った。


 女性職員はもう一人の介護士を伴って老人を迅速に運ぶべくキャスターの付いた担架を取りに部屋を飛び出した。


 誰もが自分の出来る事を最大限、目一杯に行った。


 ほどなくして駆け付けた救急車が村田老人を運び去って行くのを見送りながら、常駐の医師は『……難しいかもな』とポツリと言った。


 女性職員は反射的に自分の腕時計を見た。


 永遠にも思える程、長い時間をかけて一連の出来事は起こったと感じていた彼女は、実際に老人が何事か呟き始めてから救急車に乗せられるまで、ほんの十数分しか経っていなかった事にとても驚いた。


 常駐の医師が言ったように、数時間後、病院まで付き添った職員から助からなかったという電話が施設に入った。


 先程の救急車の到着に騒がしくなった他の入所者の対応に追われていた女性職員も、その知らせを受けた時ばかりは忙しい手を止めて目を瞑り、静かに黙とうを捧げた。



 「さて、どうしますかね?」


 全てを話終えた後輩はタバコを一本咥えて火を点け、天井に向かって一つ大きく煙を吐いた。


 白い煙は私の言うべき答えを待つかのようにしばらく天井に留まり、やがて音もなく散っていった。


 「……これ以上、何をやっても無駄に終わるような気がします」


 と返事に窮する私の代わりに後輩が言った。

 

 先程まで、全国各地の情報をしらみつぶしに当たってやると本気で意気込んでいたのだけど、どうやら村田さんの死は、そんな私の想いまでも一緒に死の世界へと持って行ってしまったようで、張りつめ続けてきた神経が緩み、どっと疲れが体中にのしかかってきたようだった。


 なんだか、もう私たちなんかの手には負えない問題なのだと、猫刑事が警告を出していると思うのは考え過ぎなのだろうか?


 「……猫刑事が村田さんを殺したと思う?」


 私はおそるおそるそう呟いてみたのだけど、後輩は何も言わずにゆっくりとタバコを吹かすばかりだった。


 彼女もうまく考えをまとめられないでいるのだろう。


 私だって別に答えを期待して聞いたわけでもなかったから、それ以上は何も追及しなかった。


 「まあ、なんにしてもです」


 しばらくして短くなったタバコを灰皿でモミ消しながら後輩は言った。


 「もう猫刑事を追いかけるのは止めにしましょう。負けたような気がして悔しいですけど……鍵を握っていると思っていた村田さんが亡くなってしまったのなら、これ以上前には進めないような気がします。それにその死に私たちには姿の見えない猫刑事が関わっているかもしれないだなんてちゃちなオカルト記事、今時どこの雑誌も買ってくれないでしょうからね」


 「でも、あなたはこれからどうするの?」


 「どうもこうも、また他のネタを探して一からやっていくしかないでしょう。意地だけではタバコもカップ麺も買えませんから」


 そう虚勢をはって細く笑う彼女の無念がこちらにもひしひしと伝わってきた。


 「センパイこそどうするつもりです?」


 「私は……」


 私はどうすればいい?


 猫刑事が私たち夫婦に割り込んで何かをしたかもしれないと思いここまで追いかけてはみたのだけど、何一つ収穫らしい収穫はなかった。


 でも結局それは、誰かのせいにしたかっただけのかもしれない。


 私自身の弱さを、彼との生活がうまくいかなくなった事を。


 他の何かのせいにしてしまって目を逸らしたかっただけなのかもしれない。


 猫刑事を一心不乱になって追いかける事で、自らに張り付く黒い影の存在を忘れられた。


 あるいはまた夫との穏やかで幸せな生活が取り戻せるのだと思う事でなんとか生きてこられた。


 ……だけど。


 ―― 頑張って思い切り気持ちをぶつけてみます ――


 私の励ましに、そう言って屈託のない笑顔を見せてくれたさっきのコスメショップの女の子の事を思いだした。


 そう、私は最初から自分が何をすべきなのかはわかっているはずだ。


 それは猫刑事の見えない尻尾をいつまでも追いかけ回したり、人の良い後輩の好意に甘えてばかりいる事では決してない。


 ただもう少しだけ、ほんの少しだけ勇気を出して自分と、そして夫と真剣に向き合う事なんだ。


 「……私、家に戻ってみようと思うの」


 「やれやれ、やっとその気になってくれましたか」


 後輩はニヤリと何やら厭らしい笑いを浮かべながらまたタバコに火を点けた。


 確かにヘビースモーカーのタバコ代を稼ぐためにも、これ以上彼女の仕事の邪魔をしてはいけないのかもしれない。


 「はじめからそんな風に素直になってればよかったのに」


 「はじめから素直で聞き分けのいい私なんかにあなたは憧れるの?」


 「いえ、そんな女、クソ食らえです」


 私たちはそう言って大声で笑い合った。




 猫刑事……あなたの正体が一体なんなのかは解らない。


 そもそも正体なんてないのかもしれない。


 だけどね、だけどもしもあなたが私と夫の心の繋がりを何らかの理由で断とうとしているのならば、諦めた方がいい。


 前に私たち夫婦が勝手に作った『ウサギとカメ』の話の結末を知ってる?


 ウサギとカメは互いの良いところと悪いところを補いながら、病める時も健やかなる時も、固く手と手を取り合い、どこにあるのかもわからない人生のゴールをいつまでも一緒に楽しく目指しましたとさ、めでたし、めでたし。


 ……どう?私たちの物語に猫が割り込む余地なんて少しもないんだから。






 さあ、どうでしょうか?



 

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