第五話

 部屋のチャイムが鳴った。


 僕は立ち上がるのも億劫で、居留守を使おうとしたのだけれど、何度も鳴らされるチャイムの方がそのうちもっと邪魔くさくなり、しぶしぶ僕はドアを開けた。


 もしかしたら……とは思っていたけれど、案の定だった。



ボリュームを下げてください

とてもうるさくて眠れません

わたしはあまりロックミュージックがすきではないのです

                   ○○○号室・田中



 ドアを開けるとそこに人影はなく、こんな文章が黒く細い文字で書かれた小さなメモ用紙がアパートの廊下の床に置かれていた。


 ○○○号室……僕の隣の部屋だ。


 またかと思いながら僕は頭を掻いて、その隣の部屋のドアを見つめた。


 廊下は極端に静まり返ってどの様な物音も聞こえず、『田中たなか』という表札が掲げられた部屋のドアもここ何世紀もの間、一度も開かれた事はなかったぞとでも言いたげに固く冷たく閉ざされていた。


 僕はこの田中という隣人の顔を知らなかった。


 僕らがここに越してきた時には空き部屋だったのだけれど、気付けばいつの間にかこの○○○号室の表札は『田中』になっていた。


 引っ越しの挨拶に来るわけでもないし、廊下ですれ違ったこともない。


 性別がなんなのか、若いのか年配なのか、一人なのか所帯持ちなのか、どんな仕事をしてどんな生活を送っているのか等々、とにかく『田中』についてはあらゆる情報が不足していた。


 僕にとって隣人とは実体も虚像もない、何者でもない存在だった。


 僕だってうるさいだけのロックはあまり好きじゃない。と言うよりも僕はそもそも音楽を好んでは聞かない。


 別に嫌いなわけではないし、何気なく街で耳に入ってきた曲が良い曲だなと思うことだってある。


 だけど、家にいてまで聴きたいと思うほど音楽に魅力を感じないし、そこまで歌の力を信じてもいない。

 

 従って、僕の家にはオーディオプレーヤーもCDもない。


 フルボリュームにロックを鳴らして誰かに嫌がらせをしたいと思っても、そもそもその術が根本的になかったのだ。


 隣人の訴えは濡れ衣以外の何ものでもなかった。


 妻が出て行ってしまった辺りだろうか、こんな感じの言いがかりが始まったのは。


 チャイムが鳴る、僕がドアを開ける、誰もいない、何事か記された紙がある……。


 その都度紙に書いている内容は違ったのだけれど、そのどれもが一貫して隣人としての僕の態度を厳しく批判するものであり、そのどれもが言いがかりもはなはだしいものばかりだった。


 名前まで書いて嫌がらせをしてくるなんて随分好戦的だ。


 何度も文句を言いに行こうかとも思ったけれど、ちょうど色々と立て込んでいた時期でもあったし、今日にしたってそんな面倒くさい隣人と話し合うような気分でもなかった。


 とりあえず少し気は滅入りはするけれど、直接的に何かをされたわけでもないし、僕は黙って自分の部屋へと戻った。


 ……そう、今、色々と僕は忙しいのだ。



 猫刑事が現れ、そして去って行ってからのこの一週間、穏やかで静かな日々が続いた。


 妻に出て行かれ。


 会社から全く身に覚えのない横領の嫌疑をかけられて懲戒処分を受け。

 

 払ったはずの地方税の督促状が届き。


 隣人からあられもない言いがかりを付けられ。


 原因不明にけっこうな高熱を出し。

 

 食欲は失せ。


 激しい耳鳴りに悩まされ。


 身も心も疲れ果てていたそれまでの一か月間がまるで嘘のように、本当に穏やかな時間だった。


 そしてそれら幾つもの問題たちから被った多大なるダメージの数々は、もはや僕の中にかさぶた一片残すことなく消え失せてしまっていた。


 このままのペースで世界は回っていけばいいのにと僕は本気で思った。


 これ位静かにゆっくりとした世界の中なら、僕は人並みに色んな物事をうまくやれるのに。


 その世界の中の僕はきっと会社で認められていることだろう。


 そこの僕にはきっと督促状が届くことはないだろう。


 そこの僕にはきっと変な言いがかりをつけてくる隣人もいないだろう。


 そこで僕はきっと身も心も至極健やかなまま、静かに生きているのだろう。


 そう、その世界の中なら、決して誰も僕の傍から離れて行ったりはしないだろう。


 「さて……」


 ソファーに横になりながら僕は独り言を言った。


 言ったはいいけれど、なんのための『さて』なのか自分でもよくわからなかった。


 何かをしようと思ったのだろうか?


 確かに何かをしなくちゃいけない。

 このまま日々の穏やかさに甘えてばかりではいられない。


 何か行動を起こして何かをしなくちゃいけない。


 ……でも何を?


 そもそも何で何かをしなくちゃいけないんだ?


 ……頭が混乱してきた。


 混乱してちゃいけないな。

 そんなのは体に悪いだけだ。


 だから今は何も考えないようにしよう。


 うん、それがいい。

 その方がいい。


 それが僕には一番いいことなんだ。


 それがいい……それがいい……。



 こうして前の一週間とまるで同じような一週間が過ぎていった。


 そしてまた同じような一週間が始まろうとしていたその日、誰かがまた僕の暮らすアパートのチャイムを高らかに鳴らした。


       ピンポーン


 どうせまた壮大な被害妄想を抱いた隣人だろうと思いながらも僕はドアを開けた。しかし、案の定というものはそう何度も続かない。


 「あ……」


 そこには例の紙切れではなく、驚いたように目を丸くさせている若い女性が立っていた。


 長く真っ直ぐな髪と少し潤んだ大きな瞳が黒。


 そしてそれらと相反するような真っ白なコートとセーターとショートブーツという出で立ちで、唯一垣間見る彩色はスカートのチェック柄に入った赤だけだったけれど、それすらもどちらかといえば黒色に比重を置いた暗めの物。


 長い脚を包む秋冬用とおぼしき厚手のストッキングもまた黒かった。


 白と黒を基調とした色合い的にはメモ用紙とあまり変わらなかったとはいえ、この女性の方はなんだかとてもまぶしく見え、僕は思わず目を細めた。


 それは僕が久しく人を見ていなかったからなのか。


 それとも本当に彼女が後光の差す神聖なる神の使いだったからなのかはわからない。


 どちらにしてもさっさと用件を済まして帰ってもらうのが得策だなと思った。


 もしかしたら猫刑事の仲間かもしれない。


 あんな面倒くさい輩に引っ掛かるのはもうたくさんだ。


 「何かご用でしょうか?」


 「ええと……お義兄さん……ですよね?」


 お義兄さん……そう言われたところで僕は初めて彼女の顔に見覚えがある事に気がついた。


 彼女は気が触れた隣人でも麗しき天女でも猫刑事の仲間でもなく、妻の五歳違いの妹だった。


 「ああ、しおりちゃんか」


 「やっぱりお義兄さん。あの、お久しぶりです。すいません、なんというか……前にお会いした時からだいぶ雰囲気が変わってしまっていて」


 そういう彼女の雰囲気もだいぶ変わっていた。


 最後に会った時彼女はたしか大学生で、まだ二十歳にもなっていなかったはずだ。


 妻の実家に結婚の挨拶へ行った時も、年賀の挨拶に行った時も、終始あどけなさの残った顔でハニカミ、あまりきちんと会話を交わすことはできなかった。


 それから彼女はすぐにアメリカの大学へ留学、ややあってから正式に編入したとかいう話を妻の口から聞いた。


 「私と違ってデキる娘なのよ」


 と、誇らしげに。


 大学課程を修了した後、この義妹がそのまま日本にも支社のある、有名なアメリカの商社に入ったというところまでは知っていたけれど、それからの消息は雲散霧消、僕の知る由もなかった。


 彼女が就職をしたと聞いた時、あの恥ずかしそうに伏せていた少女のような顔から一線でキャリアウーマンとして働いている彼女の姿がうまく想像できなかったのを僕はよく覚えている。


 しかし、今、目の前に立っている義妹からそんな尖った少女らしさはすっかり消え去り、代わりに成熟した大人の女性の色香がそこにまとわれていた。


 装飾品や着ている衣服の一つ一つ、そして彼女自身から醸し出される雰囲気や佇まいそのものからは遠い異国の香りが漂っていた。


 それもスタイリッシュに洗練された都会の香りだ。


 もしかしたらその世界経済を回すビジネス街の中心にドンと自社ビルを構える本社にでも所属しているのかもしれない。


 それでもやっぱりピンと来ないのは、一歩づつ進んでいった彼女の成長の階段を三段くらい飛ばして見てしまったせいだからなのだろう。


 その高低の差に僕はまだうまく順応できていないのだ。


 微かな面影だけを残し、本当に別人と見まがうばかりの変貌を遂げたこの義妹と街ですれ違ったとしても僕は多分、気が付くことはなかっただろう。


 「姉はいますか?連絡もせずに突然来てしまったんですけど」


 と何も事情の知らないらしい義妹は言った。


 「うん、ちょっと今……旅行に行ってるんだ。うん、旅行」


 「ああ、旅行ですか……」


 僕はぼんやりとした頭をそれでも一生懸命に巡らせて考えた。


 妻が出て行ったというということは、そのうち離婚だとかなんだとかいう話になる。


 だから隠してみたところで親類である彼女にはいずれ解ってしまうのだろうけど、今はまだ何も言える段階じゃなかった。


 それになんとなくこんな玄関先で軽々しく語られていいような問題ではないような気がした。


 ……それならばどこでなら?


 とも考えてしまったけれど、それ以上はもう頭が限界だった。


 「旅行って一人ですか?」


 と義妹は聞いた。


 「いや、二人。仲のいい友達とね」


 「お義兄さんを置いて?」


 「そう、僕は留守番。仕事だって簡単には休めないからね。去年からもう共働きじゃないのは知ってた?」


 「はい、それは聞いていました。それで……お義兄さんは今どんな仕事をされているんです?」


 「うん、変わらず普通の営業だよ。企業向けにコピー機を売っているんだ」


 「昨今の景気はどうですか?今あまり日本にいないものですからイマイチわからないんですけど」


 「まあ、このご時世だからね。ギリギリもってるってところかな。栞ちゃんは確か……」


 「すいませんでした、お義兄さん。お休みのところお邪魔しちゃって。電話一本入れればよかったんですけど、たまたま近くに用があったもので、その合間に姉の顔をちょっと見に来ただけなんです。本当に突然ごめんなさい。そのうち改めて出直して来ますから」


 義妹は慌ただしく頭を下げ、そそくさと足早に帰って行った。


 一刻も早くこの場から逃げ出そうとしているかのようにも見えなくもなかった。



 「さて……」


 僕はそう呟くと無意識に少しむず痒かった顎をさすった。


 するとそこには、この何週間、ずっと剃ることを放棄されてしまった無精髭が繁茂していた。


 顎だけじゃない。


 ハッとして駆け込んだ洗面所の鏡に映った僕の顔は、なにがし原人のそれのようにあちこちから無法状態に延びた体毛で全体が黒々と覆われていた。


 そしてメタルフレームの眼鏡の中にある目は虚ろ気に落ち窪み、緩んだ口元の端はだらしなく垂れ下がり、頬はこけていた。


 そこには生気というものが壊滅的に欠落していた。


 義妹の言うように確かに僕の雰囲気は変わっていた。


 それも何年前だとかいうレベルではなく、つい一か月ほど前の僕と比べてみても、まるで違う人の顔が鏡の中にはあった。


 彼女が驚いたのも、早足で帰って行ったのも頷ける。


 どう見てもこんなの企業を営業してまわるような顔じゃない。


 僕は大きなため息を吐いた。


 何が穏やかな日々だ。


 ただ一日中ソファーの上で寝転んでだらしなく時間を消費していただけじゃないか。


 居間のテーブルの上には大量のカップラーメンの容器とミネラルウォーターの空のペットボトルが汚らしく転がり、固く閉じたカーテンは日光を遮り、籠った空気にはたっぷりとネガティブが溶け込み、台所の生ゴミは腐敗して悪臭を放っていた。


 今日が一体、何月何日の何曜日なのか、朝なのか昼なのか夜なのかもわからなかった。


 「さて……」


 僕は途方に暮れた。


 僕はどうしてしまったのだろう?

 何でこんなことになってしまったのだろう?



             ***


 

 人は僕のことを鈍い人間だと言う。

 頭の弱いやつだと馬鹿にする人だっている。


 例えば誰かにそんなことを、冗談を越えた悪態として嘲弄まじりに面と向かって言われたとしたら、あなたは一体どうするだろう?


 もちろん腹が立つだろう。

 当然文句も言うだろう。


 もしかしたら条件反射のようにすぐさま手を上げてしまう人だって中にはいるだろう。


 表現の形はともかく、よっぽど寛容な心を持った懐の大きな人ならばまだしも、そんな風に怒る人が大半を占める事になると思う。


 もちろん僕だってそんな御多分に漏れず、腹も立つし、文句だって言いたいし、場合によっては相手を殴りつけてやりたくもなる。


 しかし僕の場合、いかんせん、子供の時からそういう気持ちが込み上げてくるのが御多分の人達よりもだいぶ遅かった。


 言われた直後には特に何とも思わず、適当に軽口を返したり、言葉が思いつかなければただニコニコして誤魔化したりして大概はその場をやり過ごして終わってしまう。


 誰かは誰かの行く方に向かって歩いて行くし、僕は僕の行く方に向かって歩き出す。


 そしてしばらく後になってから僕はふと思い出す。


 ある時は家に帰ってシャワーを浴びている浴室で。

 またある時は夜に眠ろうとウトウトしかけたベッドの中で。


 ひどい時には次の日の朝目覚めた起き抜けでふと一連のやりとりを思い出す。


 ああ、僕は馬鹿にされたんだ、と無性に腹が立ってくる。


 言われた言葉に怒りが込み上げる。


 言い返さなければいけなかった言葉が次から次に頭に浮かんでくる。


 そして行き場を失ってしまったその言葉達が今度は僕を責めはじめる。


 僕は悔しくなる。

 なんであの時言えなかったのだろうと本当に悔しくなる。


 けれどやがて仕方がないと思うようになる。


 もう手遅れなんだと今度は諦めが心の実権を握る。


 僕は一つ大きなため息を吐く。


 なんでいつもいつもこうなんだと自己嫌悪に陥る。


 けれどそのうち仕方がないと思うようになる。


 僕はこういうやつなんだと思う。


 そして諦める。


 そしてこの世に新しい無が生まれ出でる……。



 ただでさえ感じるのが遅い上に、僕の怒りは大体いつもこんな感じに何枚ものフィルターでろ過され、やがて害もないけれど特に何の滋養にもならないただの無へと変わっていく。


 だから人に向かって怒りや憎しみや文句を思い切り投げつけたくとも、大きく振りかぶっている間に持っていたはずのそれらの感情はどこかに消えてしまい、結局僕は徒手空拳をぶんぶん振り回すばかりだった。


 人は僕を鈍い人間だと言うし、頭の弱い変な奴だと言う。だけど僕に彼らを責めることはできない。


 僕だって多分、ドッチボールのコートの中でボールも持たずにただただ腕を振り回してばかりいる人を見たら、この人は変な人だなと思うだろうから。



 けれどただ一人、そんな僕を変人としてではなく、寛容な心を持った懐の大きな人間だと言って聞かない人がいた。


 それが妻だ。


 「あなたは優しい人」


 事あるごとに妻は言った。


 まるで聞き分けの悪い子供を穏やかに諭すように。

 まるでデキの悪い子供を優しく励ますように。


 そして僕はその度に否定した。


 「僕は優しくなんかない」


 妻の言葉に添えられた枕詞のように、僕は必ずそう言った。


 そこまでが一セットだった。


 そんなやりとりを何度繰り返しただろうか。


 結婚する前もした後も、それは答えの出ない永遠の命題として二人の間で交わされてきた。


 妻の方ではそれを楽しんですらいるようにも見えた。


 僕はある日、意を決して僕に備わる大掛かりで回りくどい例のろ過装置の話をしてみた。


 込み上げるのは遅いにしてもちゃんと怒りの感情はあること。


 人並みに苛立ちもすること。


 僕は彼女が思っているような人間なんかじゃないのだということをわかって欲しかった。


 正直そんな訳のわからないシステム、出来れば誰の目にも晒したくはなかったのだけれど、この先ずっと僕という人間を誤解されたままでいられるのが嫌だった。


 なんだか彼女を騙しているような気がして罪悪感があったのだ。


 「ふーん、便利じゃない、それ」


 僕が話し終えた時、彼女は事もなげにそう言った。


 「でも、ありがと。幾ら夫婦でも、そうやってキチンと言葉にしなくちゃ伝わらない事ってあるものね」


 僕はそれ以上言葉が継げなかった。


 僕の気持ちの全てを理解して、わざとそんな風に呆気らかんと言ってくれたのか。


 はたまた一つも解らずに全然見当違いのことを言ったのか、今にして思えばそこの所をもっとはっきりさせておけばよかったのかもしれない。



 僕たちは似合いの夫婦だった。


 何をやるにも人より遅いカメのような僕のお尻を彼女がたたいて前進させてくれないと、忙しなく過ぎていく日々に僕はあっという間に取り残されてしまっただろうし。

 

 脱兎のごとく前にばかり進もうとして生き急ぐ腕を僕が掴んで引き留めてあげないと、彼女は過ぎ行く日々の景色の美しさをいつまでも知らずに生きていたことだろう。


 互いが互いの欠点をうまく補いあっていた。


 互いが互いの美点を平等に分け合っていた。


 互いが互いを心から必要としていた。互いに深く愛し合っていた。


 互いに幸福な結婚生活だった。


 ……少なくとも僕は幸せだった。


 そう、妻が出て行くと言ったあの瞬間も、僕はまだその幸福を一つも疑ってはいなかった。


 



 「あなたの事を愛してる」


 妻は確かにそう言葉にして伝えてきた。


 いつもの快活さはなりを潜め、終始俯いて目を合わせてはくれなかったけれど。


 「僕だって愛してる」


 「ええ、それは解ってるの」


 「だったらそれでいいじゃないか?何も問題なんてないよ」


 「でもダメなの……。もう、私はあなたの傍にはいられない」


 「もしかしてこの間のケンカのことを気にしてるの?それなら、全然……」


 「ケンカなんかじゃない!」


 彼女はその時はじめて顔を上げ、真っ直ぐに僕を見た。


 荒げた口ぶりとは裏腹に、疲れ果てたような、憂いにも似たとても哀しい顔をしていた。


 彼女のそんな顔、それまで見たことがなかった。


 「あんなのケンカでも何でもない……。私が一方的にあなたを責めただけ。ただ理不尽に喚き散らしただけ。ケンカなんかじゃない。あなたは何も悪くない。悪いのは私、問題は私の方にあるの」


 「でもさ……」


 「あなたは黙って私の言葉を受け止めただけ。……いつもそう、私ばかりが何かを言って、あなたばかりがそれを聞いて、それで事が丸く収まって……そんなのどう考えても理不尽じゃない?……ホントいつもそう。あなたはいつもそうやってニコニコしているだけ。システムだかろ過だか知らないけど、何で言い返してこないの?何で私が間違ってるって言ってくれないの?」


 「それが間違いじゃないからだよ。君が言ってることの方がいつも正しいから、僕は何も言い返す言葉がないだけなんだ、本当に。何も理不尽なことはないよ、ホント」


 「……もう私に優しくしないで」

 

 妻はそう言って締めくくり、そのまま部屋を出た。


 彼女が最後に言い放った台詞に、僕は何も言い返す言葉が思いつかず、結局ただ立ち尽くすばかりだった。

      

                   ***



 僕はまたソファーの上で放心していた。


 絶望も失望も通り越して何だか色んなことがどうでもよくなってきた。


 もうこんなに複雑で忙しく疲れるだけの人生なら、いっそ猫刑事に搾取でもなんでもされてしまって、キレイさっぱり消え失せた方がいいのにと思った。


 そう、僕は猫刑事を待っていた。


 猫刑事が物語の続きを聞かせにやってきて、僕はまたその物語の中に入ってしまいたかった。


 そして、もう二度とそこから出ることはなく、青年兵士の人生を一緒に見て行きたかった。


 何も考えず。

 誰にも犯されず。


 どんな責任も負わずにただただ彼の人生を傍観していたかった。


 目も当てられないという、その人生を。



   ピンポーン

 

 玄関のチャイムが鳴った。


 きっと猫刑事だ。

 

 待っていたよ猫刑事。

 さあ僕をどこかに連れて行ってくれよ猫刑事。

 さあ僕を救ってくれよ猫刑事。

 

 「お義兄さん……」

 

 ドアを開けると、そこには猫刑事でもメモ用紙でもなく、淡雪のように白く美しい天からの遣い人が立っていた。

   


                  ***



 義妹は中に招き入れもしないうちに、ボンヤリと立ちすくんだままの僕を押しのけて部屋に上がった。

 

 姉さながらのとても断固とした足取りだった。


 彼女はその足取りを緩めることなく居間まで進んでくると、ざっと部屋全体の状況を見てとり、その視線を延長させて今度は僕の全身を一見した。


 そしてぷいと振り返ると台所の方に向かい、シンクの上に両手に持っていた近所のスーパーの袋を置き、それからコートを脱いで居間のコート掛けに掛け、セーターの腕を捲くり、長い髪を後ろで一本に結った。

 

 「ちょ……栞ちゃん?」


 何事が起こっているのか全く理解できずに戸惑っている僕を頭から無視し、義妹は浴室に行き、ざっと浴槽を洗ってから湯を溜めはじめた。


 そしてその間に、寝室から居間から長く閉めきられたままだったカーテンを引き、全ての窓を全開に開けた。


 そこからまるで天女の魔力に導かれるようにして真昼の陽光と冷たい秋風が部屋の中に入り込み、鬱々とした空気をみるみる浄化していった。


 あれだけ重たかった空気は爽やかな日和の中ににべもなく飲み込まれ、もはや跡形もなかった。


 次に彼女はテーブルの上や周りに散乱した空のペットボトルや容器類を撤収し、雑巾を水で濡らしてテーブルを拭いた。


 そうかと思うと、今度は冷蔵庫に張られたゴミの回収日をよくよく確認してから、僕のサンダルを履いて腐った生ゴミを外のゴミステーションまで出しに行き、そこから戻ると、そのまま義妹は納戸から出してきた掃除機をおもむろにかけ始めた。


 寝室に始まり、居間のカーペットや台所、玄関や廊下に至るまで、1LDKの部屋の中を実に熱心に掃除機をかけて回ると、間髪入れずに。


 「お風呂の準備が出来ました。ゆっくり入っていて下さい、お義兄さん」


 と彼女は僕に向かってそう言った。


 僕は相変わらず物事の展開の早さに呆然としていたけれど、それでも抗い難い程に力強い義妹の言葉に操られるようにして頷くと、脱衣所に行って服を脱ぎ、シャワーも浴びずにそのまま温かな湯の中に肩まで浸かった。


 それは僕にとって、実に二週間ぶりに入る風呂だった。


 そんな当たり前の日常生活ですら送れない程に精神が困窮していたのかと改めて思って自分でもビックリした。


 この二週間、風呂に入らなければ、という考えが一瞬たりとも過りはしなかった。僕の頭から風呂に入るという概念そのものが消え失せていたようだ。

 

 風呂に限ったことじゃない。


 食事や睡眠、生や死といった概念ですらも、僕の頭にはなかった。


 そしてそれを危ういと思ったり疑問に思ったりする想像力だってなかった。


 そう、そこには何一つなかった。


 僕は何も考えてはいなかった。


 概念も思想も生活も、そして心でさえも僕にはなかったのだ。


 ……これが猫刑事の搾取というものなのだろうか?


 「お湯加減はどうですか?」


 浴室の外から義妹が僕に声を掛けた。


 それと同時に洗濯機が回る音が聞こえた。


 きっと僕の脱ぎ捨てた服や下着を洗ってくれたのだろう。


 少し恥ずかしい気もしたけれど、素直にありがたいなと思った。


 「うん、調度いいよ。すごく気持ちいい」


 「そうですか、よかった」


 「洗濯までごめんね」


 「いえ、いいんです。それよりもちゃんと髭も剃って下さいね。お義兄さん、ひどい顔してるから」


 「うん、わかったよ。……ねえ、栞ちゃん……


 」何でこんなにしてくれるの?と僕は聞こうとしたけれど、もうそこに義妹はいなかった。


―― ひどい顔か…… ――


 しっかりしなくちゃな、そう思うが早いか、僕は目を閉じて大きく息を吸い、ざぶりと思い切りお湯の中に潜った。


 少々、自分の体から出た垢や脂が浮いていて決してキレイなお湯とは言い難かったけれど構いはしなかった。

 

 その時僕には潜ることが何より大事だった。


 一度リセットボタンを押し、改めて体勢を立て直すためには、何かそういった象徴的な行動、便宜的な儀式のようなものが必要だったのだ。


 目を閉じた湯船の中の世界はまるで宇宙を連想させた。


 体はふわふわと無重力の中を宛てもなく漂い、視界はどこまでも暗く、僕はどこまでも孤独だった。


 そこには酸素もなければ、僕の求める答えや救いも見つかりはしなかった。


 しかし、僕は一つも怖くはなかった。


 僕を包み込むお湯はこの上なく温かくて、慰撫するように優しかった。


 絶望の中で固く凝り固まってしまった僕の肉体や精神は、ゆっくりと解きほぐされ、こびりついていた虚脱感や喪失感は垢とともに静かに洗い流されていった。


 大丈夫、僕はまだ大丈夫だ。


 しっかりしなくてはいけない。

 しっかりと前を向かなくてはいけない。


 猫刑事になんて負けてはいられない……。



 長い風呂から上がると、昼下がりの太陽に照らされた部屋中が光輝いていた。


 彼女が雑巾を持って隅々まで磨いてくれたようだ。


 今は閉じられているけれど、直前まで窓が開けてあったのだろう、風呂上がりの体を少しだけヒヤリとした空気が撫でて僕は思わず身震いをした。


 生え散らかった髭を剃り、髪の毛や体を時間をかけて洗い、熱いシャワーをゆっくりと浴びて気持ちをスッキリさせた僕を、義妹はまた値踏みするような目付で頭からつま先まで眺め、そしてニコリと微笑んだ。


 どうやら出来栄えに満足してくれたようだった。


 「ちょっと遅くなりましたけど、お昼ご飯の用意ができました。一緒に食べましょ、お義兄さん?」


 テーブルにはご飯とみそ汁、煮物にお浸しにお新香に焼き魚と、素朴な家庭料理が美味しそうな香りと湯気を立てて並んでいた。


 そしてそのどれもが昼食に食べるにしては些(いささ)かボリュームがあり過ぎるようだった。


 僕の思いを察してか「すいません、ちょっと張り切り過ぎちゃって……」と義妹は恥ずかしそうに顔を赤らめて下を向いた。


 それこそが僕の知っている彼女の顔だった。


 「大丈夫、大丈夫。これ位ペロリといけちゃうよ。なんせ今、はらぺこで死んじゃいそうなんだ」


 社交辞令で言ったわけじゃなく、その時僕は本当に激しい空腹感を抱え、そのためにこのまま死んでしまうのではないかと本気で危ぶんでいたのだ。

      


                   @@@



 いつかお姉ちゃんが言っていたように、お義兄さんは本当に優しい人だった。


 確かにお腹が空いていたのだろうけれど、それにしたって作り過ぎた料理を、頑張って無理して全部食べてくれた。


 それも何度も美味しいと言ってはニコニコして、本当に美味しそうに食べてくれた。


 久々の料理で多少自信なさげな顔をしていた私に気を遣い、社交辞令で言ってくれたのかもしれない。

 

 だけど、自分の作った料理を褒められるのがこんなに嬉しい事だなんて思ってもみなかった。


 大学時代、外国人のルームメイトや友達に幾度となく手料理を披露してきては褒められてきたけれど、ここまで作った甲斐があったと喜ばしく思ったことはなかった。


 そんなお義兄さんと向かい合って食事をし、害のない雑談を交わして笑い合いながら私は、お姉ちゃんの結婚生活ってこんな感じのものなのかなと、ふと思った。


 優しい旦那様と楽しい会話と温かな料理。


 とても穏やかで柔らかくてゆったりと心地の良い時間がこの空間には満ちていた。


 毎日毎日、忙しい仕事や大都会の喧騒に揉まれて常に神経を張り詰めている私にとって、それは本当に久しぶりに心からくつろいで休める、止まり木のような安息の時間だった。


 せっかちな性格のお姉ちゃんだから、きっと私が今抱いているこの気持ちと同じような感覚を持っている事だろう。


 お姉ちゃんがお義兄さんをパートナーとして選んだ理由が少しだけわかったような気がした。


 それにしても……。


 ―― お酒が飲めないならそう言えばいいのに…… ――


 酔ってそのままソファーで寝てしまったお義兄さんに、寝室から毛布を持ってきて掛けてあげながら私は呆れ半分にそう思った。


 私が食材と一緒に買ってきた白ワインを食後に勧めた時、お義兄さんはなんの躊躇いもなく私のグラスを受け取った。


 断るのが悪いとでも思ったのだろうか。


 そういえば私の実家に来た時もお父さんがどんどん注いでいく盃を顔色一つ変えずに全部受けていたはずだけど……無理をしていたんだ。


 ―― 本当に優しい人……っていうかただのお人好し? ――


 と思って私は思わず微笑んでしまった。


 だけど私はその微笑みを直ぐに奥へと追いやり、代わりに軽く唇を噛んだ。


 お人好し……。結局お義兄さんはこの爪のマニキュアを見ても何も気付いてはくれなかった。

 


      ***



 少しだけ体調を崩し、それならばと初めてまとまった休暇をもらって何年かぶりに日本に帰ってきた。

 

 日頃から働き過ぎなのだと言って上司も同僚も皆、快く私を送り出してくれた。


 確かに入社以来、私はずっと寝る間も惜しんで一心不乱に働いてきた。


 どちらかというと全体的にフランクな社風で、規模の大きさのわりに利益至上主義の気色が薄い企業ではあったけれど、それでも各国から選りすぐられた一流のビジネスマンばかりが集まった集団の中で、私は振り落とされまいとするのでとにかく必死だった。


 大学の恩師が執り成してくれなかったら、こんなぽっとでのの未熟な私がいきなり本社勤務になどなれるはずはなかった。


 期待してくれた恩師のためにも、周りの優秀な人達の足を引っ張らないためにも、私は働くしかなかった。


 だけどやっぱり体は正直なもので、とうとう悲鳴を上げてしまい、今に至った次第だ。


 日本に向かう飛行機の中で私は窓の外に広がる果てしのない雲海を見ながら、仕事を休んでしまった不安よりも、数年ぶりに両親に会える喜びよりも、ある一つの小さな迷いに心を奪われていた。


 それはお姉ちゃんのところへ……と言うよりもその旦那さんのところに行こうか行くまいかという事だった。


 ―― なんであんな事しちゃったんだろ ――


 今でも理由らしい理由が見つからなかった。


 ―― ……キチンとあの日のケジメを付けなくちゃ ――




 季節は秋の一番深いところ、ちょうど今と同じくらいの時期だ。


 あの日、私は朝から何だか頭が重く、こめかみの辺りが痛かった。


 風邪でも引いたのだろうかと体温を計ってもごくごく平熱で、看護師の免許を持っている母親に簡単に診てもらっても特に異常は見当たらなかった。


 受験勉強に励んでいた時期でもあったし、少し疲れとストレスが溜まっているのだろうと母は言った。

 

 私もその意見に別段、異論を唱えるつもりはなかった。


 月経が少し遅れていたのも何か関係あるのかもしれないと思い、とりあえず市販の頭痛薬を飲み、悪化するようなら早退してくればいいやと軽い気持ちでいつものように家を出た。


 しかし、そんな軽率な考えはあっさりと踏みにじられた。


 学校に向かうべく乗り込んだ電車の中で頭痛が段々とひどくなってきたのだ。


 電車が進んで行けば行くほどその痛みは増していき、ついには激しい耳鳴りと寒気までも伴なってきて、私は思わず吊革を持った腕にもたれかかり、顔を歪めて目を瞑った。

 

 疲れとストレス……母の言葉が激しく痛む頭の中にこだました。


 変に反発して波風が立つのも嫌だったから言わなかったけれど、どうにも私はその理由が今一つしっくりとこなかった。


 特に勉強に根を詰めていたわけでもなかったし、そもそも私は昔から勉強する事は全然苦にならないタイプだった。

 

 おかげで小さな頃から成績を常に上位にキープしてこれたわけだけれど、それがプレッシャーになったり、ストレスと感じたりした事は一度だってなかった。


 だったらこれは一体何なの?


 ……私にわかるわけがなかった。



 しばらく顔を伏せていると、僅かではあるけれど頭の痛みは楽になったようだった。


 それでも悪寒に体は震え、私はピーコートの襟を合せ、マフラーを鼻が隠れるくらいまでたくし上げた。


 いつまでもこうしているわけにもいかないと目を開けると、少しゆとりのあった車内がいつの間にか混み合っていた。


 事情を説明して座席を譲ってもらおうかとも思ったのだけれど、この混雑の中ではそれも容易な事ではなかった。

 私はそこで学校に行くのを諦める事にした。


 次の駅までなんとか我慢してそこで降りよう、そしてキチンと病院で診てもらおう……そう心に決めた時、ふと隣の吊革に掴まる若いスーツ姿のサラリーマンが目に入った。


 極々、普通のサラリーマンと言った風体だった。


 背は高いけれど細身のようで圧迫感はなく、スーツもネクタイもビジネスコートもショルダーバックも、そして彼自身でさえも真新しく見え、どれも清潔そうに整われていた。


 どことなく全体的に温和そうな雰囲気を漂わせた男性だった。


 その柔らかそうな佇まいを人によっては鈍重と表現するのかもしれないけれど、私の目には、この混雑した通勤電車の張りつめた空気の中にあって、彼一人だけが他人を思いやれるだけの心の余裕を持っているように映った。


 この人に自分の辛さを訴えてみようかと思った。


 それで私の頭の痛みがなくなるとはもちろん思っていなかったけれど、少し弱気になっていた私の心はそれでも誰かに心配されたり同情されたりするのを求めていた。


 誰でもいいから私の辛さを一緒に共有して欲しかった。


 誰でもいいから私の痛みを理解して欲しかった。


 優しくされたかった。


 そしてこの人ならば、きっと私のそんな想いをわかってくれるはずだと妙に自信があった。


 しかし、彼の方に伸ばしかけた私の手はピタリと止まった。


 突然、その男の人が小さく微笑んだのだ。


 窓の外を眺めてはいるけれど、その眼はもっと遥か遠くの世界の風景を見ているのだというが私にもわかった。


 実に幸福と安らぎと愛情に満ちた微笑みだった。


 何か幸福と安らぎと愛情が存分に満ち満ちた出来事でも思い出しているのだろう。


 その瞬間、私の心に言い知れぬ程巨大な憎悪が込み上げてきた。


 いや、正確に表現すれば、込み上げるというよりか、私の心が見えない弾丸で打ち抜かれ、そこから止めどなく血が流れ出してくるみたいに憎悪や怒りや嫉妬などの黒い感情が次々に溢れ、あっという間に私の全てを支配した。


―― 私がこんな意味不明に辛い思いをしているのに、何をへらへらしているの! ――


 もはや頭の痛みも何も関係がなかった。


 私はとにかくこの人を理不尽な程に憎んでいた。


 その幸福が、その安らぎが、その愛情が本当に妬ましく、腹立たしく、とことん不愉快だった。


 この場で、この電車の中で今すぐ首を絞めて殺してやりたいとさえ思った。


 電車……そこで私はふと、今朝テレビで観た痴漢の冤罪のニュースの事を思い出した。


 とある女子高生二人組が遊ぶ金欲しさにインターネットの掲示板に載っていた手順通り電車内で痴漢被害をでっち上げ、サラリーマンや大学教授などを脅して恐喝したとかいう話だった。


 そうまでしてどんな遊びをしたいのだろうと、同じ年頃の女の子として私は少し呆れながらそのニュースを観ていた。


 しかし、今そんな事を思い出す必要はなかった。


 そもそもそんな下らない事、私の属する平和な世界とはまるで関係のない、全く別の次元で繰り広げられる種類の話なのだ。


 ……そう私には本当に、全く、全然関係ない……。


 「この人痴漢です!」


 気が付いたら私はそう叫びながら、彼の腕を掴んでいた。



 もう頭の痛みも寒気も耳鳴りもなかった。

 

 理不尽な苦痛はやってきた時と同じような唐突さで勝手にスッと引いていった。


 頭は妙に冴えていた。

 冴え過ぎている位だった。


 そして冴えたその頭でまず真っ先に考えた事は、私がその日の朝まで属していた平和な世界はもはや永遠に消滅してしまったという事だった。



      

 その時の記憶は、私を長らく苛み続けた。


―― 本当にどうしちゃったんだろ? ――



 何度そんな風に自分に問うたかわからない。


 魔が差した?

 心の病気?


 何度も問うたその度、結局答えは出ずじまいで、私はまた激しい罪悪感の咆哮を聞く事になった。


 警察官に泣きながら必死で頼み込んだおかげで、厳重注意を受けはしたけれどとりあえず今回の虚言は公にはされずに済んだ。


 そして一言あの男の人に謝りたく、毎朝同じ電車に乗って彼の姿を探したけれど、ついには見つけられなかった。


 もしかしたらあの騒ぎが原因で仕事をクビになったのだろうか?

 怖くてもう二度と電車には乗るまいと決めたのだろうか?

 私のせいで人生が変わってしまったのではないだろうか?


 そう思うと、尚更気が滅入った。


 誰にも相談できず、はけ口もなく溜まり続けた罪悪感を、私は勉強にぶつけた。


 それまでフラフラとのんびり構えていた姿勢を改め、志望大学のランクを数段階も上げ、息つく暇もなく一日の殆どの時間を勉強に捧げた。


 そうやって問題集に向き合っている間だけはあの記憶をどこかに追いやる事ができた。


 もちろんそれがただの現実逃避で、なんの解決にもならない事は知っていたけれど、それでも私はそうやって逃げ回るしかなかった。


 そうしなければどうにかなってしまいそうだった。


 大学に合格して温かな春を迎えても、何の喜びも湧かなかった。


 私の心はいつまでもあの晩秋の朝の中に留まっていた。


 だから、お姉ちゃんが結婚相手を紹介すると言って家に連れてきた男の人を見た時は本当に驚いた。


 ―― あの人だ! ――


 こんなドラマや映画みたいな偶然があっていいのだろうか。


 私は驚きのあまり言葉も出なかった。


 そしてその驚きと同じかそれ以上に私は安堵した。

 

 これでようやく謝る事ができる。


 許してくれるかどうかは全く別として、私の中でようやく一つ区切りが付けられると思った。


 償いも非難も甘んじて受けるつもりだった。


 と言うよりも、むしろ私に何か償いをさせて欲しかった。


 思い切り批難されたかった。


 そうする事で私自身を許したかった。


 しかし、お姉ちゃんや両親が常に傍にいるおかげで言い出すタイミングがなかなか掴めない。


 そしてその間も隙を窺うようによくよく観察してみたのだけれど、お義兄さんはどうやら私の事を見てもなんとも思っていない様子だった。


 ワザとに知らないふりをしているのではと訝って、更に一挙一動をつぶさに見ていたけれど、お義兄さんは私の視線に気が付くわけでもなく、かと言って何か演技をしている風でもなく、みんなとの会話をくつろぎながらとても自然体で楽しんでいた。


 マフラーで顔半分が隠れていたとはいえ、まさかあんなひどい目にあわされた人間の顔を忘れたっていうのだろうか?


 ……お義兄さんの考えている事がまるでわからなかった。


 結局、その日私たちは最後まで会話らしい会話をしないままにお義兄さんは帰ってしまった。


 後でお姉ちゃんから聞かされたところによると、お義兄さんは私がずっと恥ずかしそうに目を伏せていて可愛らしかった、と言って笑っていたそうだ。


 あの人は本当に何とも思っていなかったのだ。


 なんだか肩透かしを受けた気分だった。


 それから二回ばかり顔を合わせる機会があったけれど、やはりお義兄さんは、あの日電車の中で私が受けた第一印象そのままの温和で柔らかい物腰と優しい笑顔を浮かべるばかりで、私が痴漢の虚言をして自分を貶めた人間だとは露程にも疑っていないようだった。


 謝るタイミングをすっかり逃してしまったせいで、私の心はなんとも釈然としなかった。


 その後何度も謝ろうとはしてみたのだけれどうまくいかず、そのうち私のアメリカ留学と正式な編入が決まり、その縁でそのまま就職も決まり、それからは殆ど日本を離れていたので、ついにそれ以上、お義兄さんに会えはしなかった。


 お姉ちゃんとは度々手紙や電子メールで連絡を取り合っていたから、その時さりげなくお義兄さんの様子を伺ったりもしたけれど、とりあえずは幸せそうな毎日を送っているらしかった。


 その事だけが唯一、救いと言えば救いだった。


 しかし、それで私の罪悪感が薄れるわけではなかった。


 いつかキチンと話しをしよう。


 然るべき時、然るべき言葉で謝り、然るべき償いをしよう。


 そうしなければ、どんなに立派な肩書や成功を手中に収めても、私自身は決して前には進めないのだ。

 

 私はいつか勉強にはけ口を見出したように、今度は仕事に溺れながら、その然るべき時を待ち続けた。



 ……気づけば私の毎日は、常にお義兄さんと共にあった。




 お姉ちゃんから届いたエアメールの住所を頼りに辿り着いたこのアパートのドアを開けた時、出てきた男性がお義兄さんだとは全く信じられなかった。


 本当に毎日その顔を思い描いていたから、例え満員電車のカオスの中でだってお義兄さんを見つけ出せる自信はあったけれど、さすがにこの時は一瞬違う部屋のドアを開けてしまったのかと思ってしまった。


 そもそも前の年に、生活にも余裕があるからと言って仕事を辞め、気ままな専業主婦をしているのだと手紙に書いてきたから、お姉ちゃんがドアを開けるものだとばかり思っていた。


 そんなところにお義兄さんが、それも頭の中のお義兄さんとは別人かと見紛うばかりのひどい姿で出てきたのだから、心の準備も何もあったものではない。


 居た堪れなくなった私は、思わず適当に話を切り上げて直ぐに退散してしまった。


 何があったのだろう?


 行くあてもなく早足で街中を闊歩しながら、私はまず騒いだ気を静め、散らばった物事をキチンと整理整頓し、それらを色々な角度から冷静に分析し、思考力をフルに回転させて様々な想像や仮説や推測を組み立てた。


 ある想像はあまりに突拍子もなかった。


 ある仮説はあまりに凄惨過ぎた。

 そしてある一つの推測が一番しっくりときた。



 その推測が正しいかどうか、確かめなければと思い、私はクルリと踵を返してまた元来た道を戻った。

 

 途中、スーパーに寄って、多分必要になるだろうと食材やら日用品やらを両手いっぱいに買い込んだ。


 行きすがら、コスメショップの前を通りかかった時に、はっと頭に閃きが走ると、私は躊躇わずに店内に入り、とあるブランドのオレンジ色のマニキュアを買って、すぐにその場で塗ってもらった。


 お似合いですよ、と店の従業員は営業用なのだろうけれど、ため息交じりにそう言ってくれた。


 同じマニキュアを塗っていたあの日から十年……私もあの頃よりは化粧がきちんと似合うような年齢になったのだ。


 店を後にしてアパートに戻り、呆然とするお義兄さんを押しやって強引に部屋に上がった。


 私の推測は概ね当たっているように思った。


 見渡した部屋の惨状や、お義兄さんの発言や雰囲気から、お姉ちゃんはしばらくこの家に帰ってきていないだろう事が窺えた。


 その詳細な事情まではさすがに計りかねたけれど、お義兄さんの只ならぬ見た目を見れば、それが生半可な理由からきていないのは明白だった。


 私にこの人を救えるだろうか?


 ……いや、救ってみせる。


 私は断固とした決意を胸に抱き、お義兄さんを立ち直らせようとコートを脱いでセーターの袖を捲くりあげた。それが私なりの償い、それがきっと神様が贖罪(しょくざい)として私に課した大切な使命なのだと。

  


                ***



 私が胸に据えた強い想いなどまるで知らないお義兄さんは、ソファーに横たわって昏々と穏やかな寝息を立てて眠り続けた。


 私はその寝顔を、すぐ傍でひざまずきながらじっと眺めていた。


 お風呂に入って髭を剃り、シャンプーの香りを漂わせて清潔にはなっていたけれど、少し伸び過ぎた印象のある髪は、不摂生がたたってだいぶ痛んでいるようだった。


 努めて明るく振る舞っていたのとは裏腹に、こうやって無防備な寝顔になると、大きなクマや乾燥した肌、目元のシワなどが嫌でも目につき、心痛からくる消耗と疲労の凄まじさが顔全体に滲み出ていた。


 本当に、一体何があったのだろう?


 お姉ちゃんとそんなにひどい喧嘩をしたのだろうか?


 お義兄さんをこんなにしたものは何?


 確かに最後に会ったのは何年も前の事で、お互いそれ相応に歳を重ねていたから、ある程度の身体的変化はもちろん否めない。


 だけど、私は断言する。お義兄さんはこんな悲壮感が漂っていい人じゃないんだ。


 二、三度会っただけの私が偉そうな事を言えないのは重々わかっている。

 まともな会話だってさっき向かい合って食事をした時に初めてした位なのだから。


 だけど私にはわかる。誰よりもわかる。


 お義兄さんはそんなに弱い人じゃない。


 私があの日から、十年もの間ずっと心の中で苛んだり後悔したり詫びたりして毎日考えていたこの人は、どんな不幸にも、どんな絶望にも決して屈したりはしない心の強さを持っている。


 私がその穏やかな横顔や交わした数少ない言葉、曇り一つない微笑みをいつも胸の大事なところに置いて想い続けたこの人は、どんな邪悪な意志でも、どんなに理不尽で辛辣な悪意でも、全てを包み込んで受け入れ、許せる優しさを持っている。


 姉の愛したこの人は、少しのんびり屋さんではあるけれど、優しさという本物の強さを持った人なのだ。


 そう、姉の愛した、姉の夫。

 

 そして私が……。



                ◇◆◇



 秋の日暮れは早い。


 西側の窓から早々と夕方の陽が部屋に入り込み、彼の顔の上にかかっている。


 そんな陽光に照らされても彼の眠りは微動だにも揺るがない。


 彼は深い眠りの底に横たわり続けている。


 それは本当に深い深い眠り。


 誰もその眠りを邪魔する事はできない。



 「…………」


 私はそろりと腕を伸ばし、彼の頭を優しく撫でる。


 彼の眠りが何者にも犯されないようにと祈りながら。

 彼の世界が平穏を取り戻すようにと願いながら。


 力を入れずゆっくりと、私は彼の頭を何度も優しく撫でる。


 そして私は頭を撫でていない方の手の指を、そっと彼の唇にあてる。


 壊さないように、犯さないように、指をそっと彼の唇にあてる。


 上品なオレンジ色に塗られた爪が、彼の柔らかくて形のいい真っ赤な唇の上でよく映える。


 少し冷たいその指に、彼の温かな吐息がかかり、私の身も心も、何もかもを溶かしていく。


 溶けたうちの何かが両目から幾筋か流れ出る。それは涙だと言えなくもない。


 けれど、涙よりももっと崇高で純粋で、とても尊くて熱い何かがこぼれ落ちていると私は思う。


 「よく似合うって言われたのよ、これ。……ねえ、あなたはどう思う?」


 そう小さく呟き、私は彼の顔に自分の顔を近づける。


 そしてそのまま彼の唇に置かれた自分の指にキスをする。それは決してどこにも辿りつく事のできない、この世で一番固くて冷たい静かな口づけ……。


 こんなにも近くて、こんなにも遠い口づけ……。

  


             ◇◆◇



 非力な私にはもうこれ以上は何もできない。


 少しは役に立てたのだろうか?


 私の抱える問題も、お義兄さんの抱える問題も、何一つとして解決はしていない。


 もしかしたら私のした事なんてまるで意味をなさない、償いと言う都合のいい体裁の元に行われた、ただの自己満足でしかないのかもしれない。


 私は何一つお義兄さんを救ってあげられなかったのかもしれない。


 だけど信じよう。


 後はもうお義兄さん次第、お義兄さんの強さ次第です。


 でも大丈夫、あなたならきっと、乗り越えられるはずだから。


 だって最後に勝つのはいつでも、必ずノロマなカメさんなんだもの。


 ……あれ、勝たないんだっけ?お姉ちゃん?


 

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