奇跡の人

 *奇跡の人――猫刑事の語る陳腐な話の続き――*


 とある時代のとある村。

 

 とある家屋のとある仄暗い寝室にて、『村田むらた』青年は薄い布団を被りながらも目を見開き、静かに天井の木目を見つめながらある考えに思いを巡らせていた。


 眠れなかった。


 季節は夏の盛り、風通りのいい造りになっている彼の住まいは例え熱帯夜でも快適に眠れるようにはなっていたが、それとは関係なく、眠気というもの自体が根本的に湧いてくる兆しがなかった。


 妙に気が高ぶっていた。


 ここのところ気持ちは一日中高揚して騒いでいた。


 しかし今夜ほど心が落ち着かない夜はなかった。


 まるで彼の生物としての本能が何か良からぬモノの接近を無音のうちに告げているようだった。


 村田青年が横を向くと、そこには若く美しい妻と、愛らしい寝顔をこちらに向けた二歳になる息子が穏やかな寝息を立てていた。


 どんな危険も厄災も、この十畳間にだけは降りかからずに過ぎて行くように思えた。


 それだけこの空間には平和と調和、そして何よりも幸福が満ちていた。


 兵士として戦場で死と隣り合っていた頃の記憶は、まるで誰かの頭で見られた夢の話ででもあるかのように遥か遠くで霞んでいた。


 ―― 俺は今、幸せなんだよな ――


 頭の傷跡が何か答えようとするかのように少し疼いた。

 


              ***



 村田青年の命が助かったのは奇跡としか言いようがないと、彼の治療にあたった若い医師は興奮を隠しきれない様子で言った。


 村田青年が何も覚えていないと知ると、医師は次々と村田青年が聞いてもいない事を話し始めた。


 「いいですか村田さん、銃弾はあなたの左のこめかみから右の側頭部にかけてをキレイに貫いていたんです。頭を突き抜けたんですよ、普通なら十中八九即死しているような傷です、本当に。だからそんな遠目からもタダならぬ深手だと認識できる程の傷を負ったあなたがフラフラと自陣のキャンプに歩いてくるのをみて、お仲間たちは本当にびっくりしたみたいですよ。何があったのかと急いで駆け寄ってきた人達を見てあなたはきっと安心なすったんでしょう、誰が何を聞く暇もなくあなたはその場で力尽きて倒れてしまった。誇張して言うわけではありませんが、その場にいた全ての人があなたは死んでしまったと思ったそうです。だって頭に穴が開いているんですもん、当然ですよね。だけど、運がよかった。いえ、運なんてものじゃ済まされません、まさに奇跡です、これは。貫いた弾の形状や撃ってから命中するまでの距離や速度、命中した場所や微妙な入射角の具合、その場で施された処置の的確さ、ひいては気温や湿度や天気うんぬん、などなどなど、とにかく考えうる限り様々な都合のいい条件が重なったおかげでこの奇跡は起こったんです。その確率と言ったらもうもうもう……考えただけで気が遠くなっちゃいますね。あ、医者が卒倒してたら世話ないですね、ハハハ」


 高笑いと共に若い医師の舌はどんどん拍車がかかり、熱を増してきた。


 「それらの要素がどれか一つでも欠けたりズレたりしていたのなら、あるいは村田さんの命はここにこうしてなかったかもしれません。まあ、けっこうな血も流しましたし何より脳をかすめたわけですからね、あなたは丸二年の間、息はあれども意識のない、植物状態でこのベッドに寝ていたのです。生命を維持するために最低限の体の活動をしてね。傷が傷ですからそれ位は否めません。もうナースやご親類の方々から聞いてご存知かとも思うんですが、我が国は戦争に敗れました。あなたがここに運び込まれた直ぐ後の事です。敗戦直後は食料も衣服も、医療物資でさえも相手方の管理下にあって思ったような治療もできませんでした。今だから言っちゃいますけど、ここだけの話、あなたをいっそ薬を使って安楽死させてしまおうかなんて会議を開いたこともあったんですよ。いつ目覚めるかもわからないあなた一人に回すベッドがあるなら他にもっと助けなければならない命があるのではないか、なんてね。もちろん僕をはじめ多くの医師たちは猛反対しましたよ。確かにあの人達(主にあなたが所属していた元の陸軍の人達です)の言う理屈もわかるんですけど、やっぱり医者がそんな勝手な都合で人の命を奪ってはいけないと思うんですよ。いや、もはや人間としてのモラルの問題ですね、ここまで行けば。ベッドが足りない?あんた方の無駄にでかい屋敷に余ってる布団やシーツを全部運び込めば立派なベッド幾つできるんでしょうね、とか、薬が足りない?あんた方がお昼に食べた豪勢なお重の弁当を闇市に持って行けば薬なんて幾らでも手に入るじゃないですか……っていう感じにね、僕らも絶対に引きませんでしたよ。あなた達兵隊さんは僕ら国民みんなのために、僕らを守るために危険な戦場で戦ってくれた。そしてそこで致命傷的な深手を負いながらも強い生命力でもって必死で生きようと頑張って帰って来たんです。僕ら医者がその生きようとする命を助けないでどうするんですか。何のために僕らは医者になったって言うんですか。そこで幸いに、本当に幸運なことに理解ある占領軍の偉い人があなたの話をどこからか聞きつけて、必要な薬品や器具をいくらでも無償で提供してくれたんです。もう戦争は終わりました。もはや敵も味方もないんです。その相手さんの態度を少しはこっちの偉いさんも見習ってほしいものです。……いやいや、そんなわけであなたは本当に類まれなる強運の持ち主ですよ、村田さん。一度ならず二度までも命の危機から脱したんです。多分、神様か仏様かはわかりませんが、あなたには生き続ける意味があるのだ、生き続けなければいけないんだと救いの手を差し伸べてくれたのかもしれませんね。あ、すいません、実は今、回診中だったんですよね。すっかり話込んじゃいました。そろそろ他の患者さんも回らないといけません。……またちょくちょく様子を見に来ますから、多分、もう少しでベッドから起きて歩行の訓練なんかも始められると思うんですけど、まあ、みんなで頑張っていきましょうね、村田さん。それではお大事に」


 医師は満足げに病室を後にした。


 数日前に長い昏睡から目覚めたばかりでぼんやりとしたままの頭に、熱くなった若い医師の言いたいことがぎっしりと凝縮された長い話など殆ど入ってはこなかった。


 しかし、唯一彼が口にした『生き続けなければならない』という言葉が、村田青年の意識の琴線に触れた。


 もちろん医師が意図して言ったわけではなかったろうが、村田青年の耳にはその言葉にどことなく不吉な響きがあるように聞こえた。



 頭を打ち抜かれても生きていた奇跡の人がいる、というニュースは瞬く間に世間に知れわたった。


 病室にまで新聞の取材が押し寄せ、一時院内は患者よりもカメラとペンとノートを持った記者達の数の方が上回った事もあった。


 なかなか陰鬱な敗北感が払拭されず、どことなく重たく沈み気味だった世間は、どんなものでもいいから明るい話題が欲しかった。


 復興に向けての糧となる、国全体を根底から盛り上げてくれるような英雄の登場を皆は求めていたのだ。


 まさに『奇跡の人』は、そんな彼らが長らく渇望してきたヒーローとして申し分がなかった。村田青年は一躍時の人となった。


 時の人にあやかるべく、当時の内閣の大臣が慰問に訪れた。


 マスコミも同席した大臣の表向きは、何か表彰するだとか国として見舞金を出すだとかいう旨を伝えに来たというものだったが、それは不安定になった政権の支持率を上げるべく行ったただの派手な政治的パフォーマンスであったと誰の目にも明らかだった。


 そして占領軍に解体された旧陸軍の人間まで病室にやってきた。


 当時の軍の幹部クラスがことごとく軍事裁判にて裁かれ、タナボタ的に昇進を重ね、彼は今、ある新設の団体の代表をしていた。


 こちらの方はというと大臣とは対照的にお忍びで御付の者数人だけを従えて訪れ、堅苦しい謝辞を述べるだけに留まった。


 雑な握手を交わし、二つ三つ軍の除籍に関わる事務的な話をし、二言三言世間話をした。


 それだけだった。


 慌ただしい面会の帰り際、例の作戦の事は決して他言してくれるなと、男は上官が部下に命令する時のように語気を強めて釘を刺した。


 それは殆ど脅しに近かった。


 どうやらこの言葉を告げたいがために出向いてきたようだった。


 その時の男の目にはどうして黙って死んでくれなかったのかという気色が浮かんでいたが、別段それを隠そうともしなかった。


 そしてその中には怒りのようなものも多分に含まれていた。


 さも、あの作戦の失敗が我が国の敗北を決定的にしたのだとでも言いたげだった。しかし、男は言葉を飲み込み、ぷいと踵を返して去って行った。


 公表すると何か都合が悪い事があるのか、彼の口ぶりから言って、国はどういう訳かあの作戦自体を歴史から完全に抹消してしまおうとしているようだった。


 村田青年は打ち捨てられた同胞たちの命を思った。


 誰かの下らない保身や何かの建前のために、葬られることも供養されることもなく風雨にさらされたままの仲間たちの骨のことを思えば、自然に涙が流れた。


 彼らは英雄だった。


 ただお国の明日を守るために命を捧げた本物の勇者だった。


 このような扱いを受けていいはずはないのだ。


 村田青年の心に言い知れぬ怒りが込み上げた。

 

 国に対し、軍部に対し。


 そして一人生き残ってしまった自分に対して彼は憤慨と悔しさが込み上げた。


 そうやって頭に血が上るとひどく傷が痛み、激しい眩暈がした。


 しばらく横になり、やがて冷静さを取り戻すと今度は、それはもはや自分にはどうしようもできないことだという諦めと無力感に捉われたが、彼は首を振った。


 これではいけない。


 与えられた命、みんなの分まで強く生きていかなければならない。


 彼は涙をこらえ、悔しさをこらえ、前を向いた。強く、強く……。



 村田青年の生命力は本当に強かった。


 彼の体力はみるみるうちに戻っていき、医者の組み立てたリハビリのプログラムを軽々と追い越してしまいそうなほどの圧倒的な回復ぶりを見せた。


 言語中枢が少し傷ついてしまったのか言葉を話す時に幾らか苦労はしたものの、四肢も正常に機能して目立った障害も見られず、驚異的な早さで彼は退院した。


 退院の日、医師や看護師から大きな花束を渡される、英雄の躊躇いがちに微笑む顔の写真が中央・地方含め全ての新聞の一面を飾った。


 村田青年、二十一歳の時だった。

 

 そしてその足で田舎に帰った彼は、周囲の勧めもあって父親の元で大工の修行をすることとなった。


 医療費は補償金や病院側の計らいから殆どかかりはしなかったが、病院まで片道二時間の悪路をボロボロの自転車にまたがって毎日のように通い、おまけに妹や弟たちを男手ひとつで育てていた父親は、村田青年が昏睡している間にすいぶんと老け込み、やつれていた。


 長男が帰ってきたとあらば、一刻も早く跡目を継ぎ、父親を楽にさせてあげなければと、村の年寄達は緊急に開いた寄合の席で、村田青年に殆ど脅迫じみた強固な口調で言い放った。


 彼もまた改まって言われるまでもなくそのつもりで帰ってきたと言い、事はすんなりと決まった。


 反抗してくるだろうと思っていた年寄たちは多少、面喰いはしたが、青年の凛々しい立ち姿に至極ご満悦だった。


 「昔は喧嘩っ早くてどうしようもない荒くれもんじゃったが、ほれ、ずいぶんと丸くなったもんじゃ。怪我の功名ってやつかの」


 誰かがそう言ったのにどっと笑いが起きた。青年は恥ずかしそうにしながらも目には固い意志の炎が滾(たぎ)っていた。

 

 もともと手先の小器用だった村田青年はみるみる大工としての頭角をあらわした。


 強固な決意は不良少年の人となりをがらりと変えてしまった。


 弛まぬ勤勉と覚えのいい頭であっという間に辺りの若手衆を越え、古参の先輩達を越え、やがては当代一の呼び声高い腕を持った父親すらも簡単に越えていった。


 誰もがその実力と熱心な仕事ぶりを認めた。

 

 自然と信頼や人望もついてきた。


 黙々と仕事をこなす彼の背中には風格すらあった。


 彼が父親の跡目を継いで棟梁になる事に異議を唱える者はいなかった。

 

 その直後に可愛らしく気立てのいい女房をもらった。


 すぐに玉のような男の子が生まれた。


 その子の命名にあたって尊敬していたあの将校の名を頂くことにした。


 少尉のように勇ましい男になって欲しいという意味があったのだが、そこには彼を守ってあげられなかったことに対しての償いの意味も存分に含まれていた。


 せめて息子が彼の名を背負って生き続けることで少尉も少しは浮かばれるのではないかという気がしたのだ。


 そんな村田青年の新しい人生は誰の目か見ても順風満帆だった。


 死の淵の更にその末端から無事に生還し、人並み以上に幸福で豊かな人生を手に入れた奇跡の人として、その後末永く幸せに暮らしましたとさ、めでたし、めでたし。



 ……とはならなかった。


 

       

 当の村田青年本人だけは素直にめでたい気持ちにはなれなかった。


 実は生還してからのこの数年間、彼の心には常に何かが黒く大きな影を落としていた。


 命が助かった。

 奇跡だと皆が称えた。

 念願だった英雄になった。

 親孝行もできた。


 嫁ももらい、子も出来た。物心ついた時から傍に寄り添い共に育ってきた死への歪んだ憧憬は、幸福の強い光の下に跡形もなく焼き払われ、今は、あれ程どうでもいいと思っていた命の尊さ、生きることの尊さを身に染みて感じていた。翳りなど何もなかった。あっていいはずがなかった。


 それにも関わらず、彼の心が満天に晴れ渡るということはなかった。


 彼が幸福になればなるほど、未来が明るく開けていけばいくほど心の端の方に不気味に居座り続ける影は黒さを増し、より濃淡をはっきりとさせて存在感を強めていった。


 自分は本当に幸せなのだろうか?やがて影の存在はこんなあてどもない不毛な問いを彼に何度も繰り返させるようになった。


 それは誰に向けられたものでも、答えをもとめるためのものでもない、ただの心の独り言だった。


 彼は不安だったのだ。


 その影がいつか心の全てを覆ってしまうのではないか、そしていつか彼の元から全てを奪い去ってしまうのではないか、そんな不安がいつでもどこでも付いて回った。


 仲間たちと酒を酌み交わしいても、嫁と愛を確かめ合っていても、我が子の成長を見守っていても、常にその視界の隅には黒い影がちらつき、せっかくの幸福感を削いで台無しにしてしまった。


 心の底から人生を謳歌することができなかった。


 自分は幸せか?


 一見、順調に見える人生の裏側でそんな疑念に村田青年は人知れず苛まれ続けていた。


 どうにかしたかった。




 ―― 俺は今、幸せなのか? ――


 彼はまたそう心の中で呟いた。今夜だけで何度同じ事を呟いただろう。


 「ええ、幸せなのではないでしょうか?」


 とはじめて誰かが答えてくれた。

 


               ***



 黒い猫が彼の枕元に悠然と座っていた。


 夜の暗闇をそのまま切り取って体に張り付けたかのように濃密な黒い毛並みを持った猫だった。


 僅かに差し込んだ月明かりが照らさなければきっと夜の中にすっかり溶け込んでしまって見えなかったことだろう。


 陰影をつけて照らされた体は殊のほか大きく見えたが、月の角度と雲との微妙な兼ね合いによっては小さく見えたり、まるで見えなくなったり、決して一定してはいなかった。


 ただ、仄かに蒼白く発光した二つの大きく丸い瞳だけがその空間に縫い合わせられてでもいるかのように微動だにせず、じっと村田青年を見据えていた。あの猫に間違いなかった。


 「おまえ……」もちろん村田青年は驚いた。


 しかし、取り乱す程ではなかった。


 彼はゆっくりと横たえた身を起こし、布団の上に正座して猫を正面から見つめた。


 いつかまたこうやってこの猫と顔を突き合わせることになるだろうという確信は常々抱いていた。


 なにせ他でもない、このおしゃべり好きな黒猫が始終脳裏にチラついて離れないあの影の根源だったのだから。


 「ご無沙汰しております、ムラタ・ショウゾウ様」


 猫が言った。


 「立秋の候、いかがお過ごしでしたでしょうか?いやいや、立秋とは名ばかりで本当に連日暑い日が続いておりますね。小まめに水分補給はしていますか、ムラタ・ショウゾウ様?お仕事柄、屋外での作業が殆どかと思いますが、くれぐれもご自身のお身体の強さに慢心なさらず、きちんと休む時は休み、動くときは動く、その静と動のメリハリを意識して下さい。何せ体はどんな事をするにも一番の資本なのですから。……しかしこのお部屋はずいぶん涼しく過ごし易いものですね。私、恥ずかしながらその道の知識にはあまりあかるくないものでして、建築学的に何がどう作用しているのかは皆目見当も付きませんが、ところどころ緻密に計算され、効率良く風を取り込む事ができているのですね、いやはや、御見それいたしました。こちらの分野に才能がお有りだったのですね、ムラタ・ショウゾウ様?少なくとも小銃を構えて敵を打ち殺すよりは、あるいは自らの肉体を盾にして誰かを庇おうとするよりは、よっぽど向いておられるようにお見受けいたします」


 猫がしゃべり始めても、横にいる妻と子にはまるで起きるような気配はなかった。


 寝返りどころか体をピクリと動かすようなことすらもせず、相変わらず穏やかで健全な眠りの中で静かに寝息を立てていた。


 夢……という訳でもないだろうが、おそらく二人の耳には何一つ聞こえていないのだろうなと村田青年は思った。


 「いいえ、何と申しますか、奥様とお子様には私たちの声は確かに届いております。しかし、起きて騒がれるとなるとゆっくりお話しができないのではと思いまして、少しお二人の聴覚に干渉させていただきました。耳から脳へ送られる信号を束の間ブロックさせていただいております。まあ、とは言え実質的には聞こえていないのと同じ事ですね。ですから心置きなく語り合おうではありませんか、ムラタ・ショウゾウ様?……ちなみに確かにこれは夢ではありません。現実の世界で繰り広げられているお話です。あの時とは違います、根本的に」


 やはりあの時と同じように猫は彼の心の声が聞こえていた。


 猫にとってそこが夢でも夢ならざる場所でも大して変わりがないようだった。


 聴覚に干渉?

 信号をブロック?


 やはり言っている事の意味はさっぱり理解出来なかったが、頭を打ち抜かれた人間を助けられるのだから、それ位この猫には造作もない事なのだろうと村田青年は思った。


 「決してあなたがお思いになられる程に簡単な事ではないのですよ、ムラタ・ショウゾウ様?コツさえ掴んでしまえばそれなりに苦も無くできる事はできますが、そこまでに至るのに一朝一夕で済むものかと言われれば、いえいえ、そんな事はありません。然るべき訓練、弛まぬ日々の努力のたまもの……」


 「まずはだ」


 村田青年が猫のあてどないお喋りを遮るようにはじめて口を開いた。


 少し喉が渇いてもいた上に、あまり自由とは言えない今の自分の言語能力に自信がなかったが、思っていたよりもしっかりした声が出てきたので彼は迷いなく後をついだ。


 これも猫のせいか、不思議と彼の舌はこの上なく滑らかだった。


 「まずはおまえにずっと礼を言いたかった。何がどうしてこうなっちまったのかはよくわからない。きっと何かを遮断だかブロックだか努力だかしたんだろう。だけど確かに言えることがある。俺の命を救ってくれたのは医者でも運でも、まして奇跡なんかでもなくおまえだってことだ。それについては本当に感謝している、ありがとう」


 「恐縮です」


 猫は珍しく言葉少なに言った。


 「この通り嫁さんをもらって子供までできた。腕はまだまだだが大工っていう誇りを持てる仕事にもつけた。おまえの言う通り、生きるか死ぬかの血生臭いやり取りをするよりも、トンカチ一つ持って木材と向かい合っている方が俺の性には合ってたみたいだ。俺は今、幸せだ。もしもあそこであのまま死んでいたとしたら、こんな幸せを味わうことはできなかった。だからこそ感謝しているんだ、おまえに。……あの頃俺は毎日死ぬことばかり考えていた。敵を次々になぎ倒して大活躍し、最後には誇り高い軍人のまま戦場のど真ん中で大の字になって死にたかった。そんな死に方がしたかった。親父も仲間たちもお国もみんなが俺の死を悼み、称え、涙するんだ。英雄だ軍神だと祭り上げてな。そんな事を毎日考えては武者震いしていた。そして毎日毎日、今日も生き残ってしまった、今日もまた死ねなかったって、生きていることを恥じていた。命なんて早く捨ててしまいたかった。そんなもの持ちながら軍服着て銃剣構えて軍人面している自分が本当に恥ずかしかった。軍人は死んでこそ価値があるもんだと疑わなかったんだ。……それにも関わらず、あの時、頭が痛くて痛くて、本当に死ぬほど痛くて仕方なくなって、ああ俺はこのまま死んじまうんだなと意識した瞬間、俺は生きたいって思ったんだ。それも、それまでずっと死にたいと言い続けてきた想いなんかよりもずっと強く、俺は生きたいって思ったんだ。軍人の誇りもお国への忠義もくそもない、ただ自分の命が恋しくなっちまった。どんだけカッコつけてても、本当は死ぬのが怖かったんだろうな。……結局俺は誰も守れなかった。少尉殿も軍曹殿も他の仲間も、みんな死んじまった。しかも上の連中はそのことを俺に忘れろって言ってる。埋めてやることも骨を拾ってやることも許さず、みんなをあんなチンケな森の中に放り捨てたままにしていやがる。聞いたところによると軍の他の連中、一緒にキャンプを張ってた他の隊の奴らにさえ、俺らの隊が突然消えちまった理由をロクに説明もしなかったんだぞ。おまけにあいつら残された遺族になんて話したと思う?隊のど真ん中に敵の爆弾が落ちました、何もかも全部キレイに木端微塵になりました、だから遺品も骨も肉も、髪の毛一本ですらも残りませんでした、残念でしたね、で簡単に済ませやがった。命を懸けて戦った勇敢な十九人の英雄達の死を、そんな身も蓋もないアホみたいな作り話をでっちあげて誤魔化したんだ。なんでそんなゴミみたいな、いや、ゴミよりももっとひどい扱いを受けなくちゃならないんだよ。……そして俺は何なんだ?ただ一人生き残ったからってだけで世間からちやほやされて、英雄気取りやがって。何が奇跡だ、何が幸せだ、俺は何もしちゃいないし。俺には何もできなかった。そしてこの先ももう俺には何もできやしない。俺が何か言ったりしたら今の生活が全部壊れちまう。あいつらは絶対に壊しに来る。俺には何もできない。俺は悔しい。本当に、本当に……俺は悔しい……」


 村田青年はそこまでを熱しながら一息に捲し立てると、力が抜けたように布団の上にガクリとうな垂れた。


 この数年で募り募った怒りや不満、そして彼が自分でも思ってもみなかったような言葉が猫に向かってぶちまけられた。


 そんな醜態を誰かに晒すつもりなどなかった。


 ましてやそんなもの猫相手にぶつけたところで、何が変わるわけでもないのを、彼も話していながら重々わかっていた。

 

 それでも彼は止められなかった。


 彼の意志とは関係なく、何かに無理矢理引きずり出されるようにして湧いて出た感情のあまりの勢いに、心の堰は壊れ、彼の口からは烈しい言葉がほとばしり、目からは大粒の涙が次から次に溢れ出た。


 知らず知らずのうちに自分はこんなにもたくさんの想いを内にため込んでいたのかと思うと、よりそれらの発露は勢いを増した。


 自分の流した鼻水やよだれの饐えた匂いを不愉快に感じた。


 そしてその匂いの隙間をぬって漂ってくる、植物系の青臭さを伴った甘いとも酸っぱいとも言い難い不思議な香りに、心は余計にかき乱されるようだった。



 ……どれ位そうしていただろう。


 そんな村田青年が嗚咽するのを猫は静かに見ていた。


 得意の饒舌を披露し、感情豊かに顔の表情を忙しなく変えていた猫が、不気味なほど静かに村田青年を見つめていた。


 相変わらず仄かに蒼白く光る二つの瞳は、そのまま中に吸い寄せられてしまうのではないかという位、大きく魅惑的だった。


 そして実際、村田青年は自分の中から今度は吸い上げられるようにして怒りや悔しさ、吹きすさむ激しい感情の揺れが段々と引いていくのを感じた。


 空気やガスが抜けていくように、感情の高ぶりがスッと体から抜けていったのだ。


 涙も嘆きも自然と止まった。後にはただただ茫漠とした空虚さだけが残された。


 村田青年は反射的に顔を上げた。


 そしてまともに猫と目が合った瞬間、彼の頭に鋭い閃きが走った。


 それは、イの一番に首を傾げてもよかったようなものの、不思議とそれまで一度も考えた事などなかった一つの素朴な疑問だった。


 「……何で、俺を助けたんだ?」


 猫は耳まで裂けそうな程、大きくニタリと笑った。

 


                ***



 「いやいや、あなたは私の見込み通り、強靭で無垢な魂をお持ちのようですね、ムラタ・ショウゾウ様?」


 猫は言った。


 愉快で堪らないといった様子だった。


 「あなたは決してあの時死を怖れてなどいませんでしたよ、ムラタ・ショウゾウ様。及ばずながら、それはお傍でずっと見続けていた私がこの小さく薄い胸を精一杯に張って請け負いましょう。生きたいと思った、それは死への恐怖を裏返したものではなく、生への渇望がどんなものよりも勝った、というだけの話です。あなたは戦場において、最初から最後まで勇猛な兵士であったのですよ、ムラタ・ショウゾウ様?命を粗末にするのが軍人の仕事だと言うつもりはありませんが、自らの命を惜しまずに前に進めるというのは、確かに兵士としての強みです。私の見たところ、理由はどうであれ、あなたはあの戦場において誰よりもその強みをお持ちになられていたと思いますよ、ムラタ・ショウゾウ様」


 「……何で俺を助けたんだ?」


 村田青年はもう一度聞いた。


 「あなたが強い心を持っておられるからです、ムラタ・ショウゾウ様」


 「答えになってない」


 「あなたの心が私の知るうちでは世界中の誰よりも強かった、強くて純粋で汚れのない心をあなたがその大きく厚い胸に抱いていたからですよ、ムラタ・ショウゾウ様」


 「……意味がわからない」


 「言葉の通りの意味なのですが……おわかりにならない?ふむふむ、それは少々、なかなか困った事ですよ、ムラタ・ショウゾウ様。まあ、いいでしょう。ご所望とあらば私、労を惜しまず、喉を擦り減らし、舌を回してご説明いたしましょう。例えこの身が朽ちてなくなろうとも」


 「ご託はいい。おまえの目的は何なんだ?」


 「真理です」


 「何?」


 「真理です、ムラタ・ショウゾウ様」


 「シンリ?」


 「はい、真理です。真実の『真』に理(ことわり)の『理』、文字通りこの世界の全てを構成する…真実の理を私は長らく探求しております」


 「真理……」


 「はい、真理です、ムラタ・ショウゾウ様」


 「それで……その世界の理とやらは見つけるのと俺とでどんな関係がある?」


 「心です」


 「は?」


 「心ですよ、ムラタ・ショウゾウ様」


 「……」


 村田青年は二の句を継げなかった。話がどんどん突拍子もない方向へと飛んでしまい、思考が全く追いついてこなかった。


 真理?

 心?


 何を言っているんだコイツは?


 元来からあまり頭脳作業を得意とする方ではない村田青年ではあったが、猫の話している言葉が理解できずに混乱しているのは何もそればかりが原因ではなかった。


 「私は一体何者なのでしょう?」


 戸惑う村田青年を置き去ったまま、猫は語り始めた。


 「私は一体どういう存在なのでしょう?確かに今は猫の姿をしています。性別はどうやらオスのようです。耳の先から尻尾の末端まで全身を混じりけのない黒い毛で被われています。四本の脚のそれぞれには形の整った、この上なく柔らかな肉球が付いています。及ばずながら、そのどれもに私は自信を持っております。自分で言うのもおこがましい事ですが、なかなかの美男子だという自負を抱いております。この通り、暗闇の中に立てば目が光ります。群れるのも馴れ合うのも好みません。毛づくろいするのが癖になっています。鋭い爪があります。立派な牙だって持っています。私はどこからどう見ても猫です。上からでも下からでも横からでも皮を剥いで裏返して見てみても、私は猫以外の何者でもありません。しかし、同時に私は猫ではないのです。絶対に猫などでは有り得ないのです。……どこか哲学的な香りのする物言いになってしまいましたが、おわかりになられるでしょうか、ムラタ・ショウゾウ様?いいえ、わからないでしょう。あなたは何もおわかりになられてはいないのです、ムラタ・ショウゾウ様。私を理解する事など決しておできになられないでしょう。いえいえ、責めているわけでも、侮辱しているわけでもありません。おそらく、これはあなたにも私にも、誰にもわからない事なのです。あるいは答えなど始めからないのかもしれません。答えがない、理解が出来ない、何者でもない、それが私です。それでも考えてしまうのですよ、ムラタ・ショウゾウ様。ただの猫がこんなにも人の言葉を話しますか?ただの猫がどうして人の脳内の信号を操る事ができるというのです?普通の猫が人の夢に入り込めますか?一介の猫が即死の人間を助けることができますか?いいえ、できません。猫は本来それ程多芸でも器用でもありません。せいぜいネズミや小鳥を獲るくらいが関の山です。猫はあまりにも非力です。猫ならばもっと無力でなければいけません。猫はもっと猫らしくいなくてはなりません」


 猫はおもむろに身を起こすと、とても猫らしい柔らかな身のこなしで青年の方に近づいた。


 布団の上に手を付き、四つん這いの体勢のままだった村田青年と猫とは、殆ど鼻先を突き合す位の至近距離で対峙した。


 「私は何なのでしょう?」


 猫はまた問うた。


 それは村田青年がこの数年、何度も心の中で呟き続けたあの独り言のように、中身も宛ても何もない、答えを求めるわけでもない、ただの言葉だった。


 「私には性欲がありません。私は先程、自分はオスのようだと曖昧な言葉で表現致しましたが、それは男性器があれども、そこに宿るべき性への衝動がまるでないからなのです。メス猫を見てもオス猫を見ても他の何を見たとしても、それは同じです。性欲のないところに性別などなんの意味があるでしょう?同時に、食欲もありません。体内に胃や腸があるのは感じますが、それを働かすべき食への衝動がないのです。何せ私はエネルギーを消費するということがありませんから、栄養を摂取する必要がないのです。そして、ここまで来ればもはやおわかりになられるかと思いますが、もちろん睡眠への欲もありません。私は眠りません。朝も昼も夜も、眠りたいという衝動がありません。さて、後は何がないでしょうか。偏見もなければ趣味・趣向もありませんし、執着・固執もありません。……まあ、例え上げれば数限りなく、とにかく私には一切の感情もただ一かけの欲望もありません。それらを総じ、とどのつまりは『心』というもの自体が完全に欠落しているということなのです。骨も皮も肉も生殖器も内臓も一式が揃い、流暢に人の言葉を話し、老いや死すらも撥ね除けてしまえる程の強く特異な能力を持っています。ですがそこに中身はありません。肉体はその健全な機能を存分に持て余し、話す言葉に意味はなく、力を向けるべき矛先もわかりません。笑いを浮かべますが一つも愉快ではありません。困った顔をしますが何も悩みはありません。本来それらと伴わなければならない中身がまるでないのです。……私は探しているのです、ムラタ・ショウゾウ様。私は中身を探しているのです。私は私が存在する意義を探しています。私は一体どこの何者で何故このように存在し続けるのか、その意味や目的を探しています。あなたが生まれる遥か以前から、幾つもの時代を越えながら、私はずっと探し続けているのです」

 

 先程から、村田青年の頭はひどい混乱のために痛んだ。


 いや、混乱などではない。


 塞がれた古い傷跡が、銃弾がキレイに貫通していった二つの傷跡が、痛みと熱を帯びて脈打っているのだ。


 今にもその内側からあの日退けられたはずの死が、勢いよく外に弾けて飛び出してきそうな気配だった。


 「私はその答えを見つけるため、存在意義を見つけるために存在し続けなければなりません。矛盾しているようにも聞こえます。自分の尻尾を夢中で追いかけてグルグルとその場で回り続ける無知で滑稽な野良猫のようにも見えます。しかし、私は知りたいのです、ムラタ・ショウゾウ様。いえ、知らなくてはならいのです。それはもはや私の義務であり行動理念であり、空虚しか持たない私の中で唯一激しく脈打つ欲求なのですよ、ムラタ・ショウゾウ様。……おやおや、欲も心も無いと言った言葉を早々に覆すことになってしまいましたね、ハハハ。いやいや、誠に申し訳ありません。しかし、まあ、それとこれとはまた別次元のベクトルの問題だということをご理解下さいますでしょうか、ムラタ・ショウゾウ様。これは私が課せられた……大丈夫ですか、ムラタ・ショウゾウ様?ずいぶん辛そうだとお見受けいたしますが?」


 「……いたい」


 村田青年はようやくそれだけを口にする事ができた。


 あの時、死の恐怖を駆り立てた、猫が言うところの生への渇望を駆り立てたそれよりも、より激しい頭の痛みが彼を捉えていた。


 視界はぐにゃりと揺らぎ、もはや手を着く事さえもままならず、青年は頭を抱え、布団の上に倒れ込んで激しく喘いだ。


 「度々、申し訳ありません。私が先程、あなたの心底に眠る感情を少々刺激して表に出してしまったせいで、以前干渉した個所が共鳴して騒ぎ始めてしまったようです。なるほど、このようなケースもあるのですね。ふむ、実に興味深い、興味深いですよ、ムラタ・ショウゾウ様?」


 感情を刺激……やはり突然込み上げ、そして引いていった怒りや悲しみの感情は猫の手によって必然的にもたらされたものだった。


 本当にコイツはとんでもないなと、村田青年は薄れそうな意識の中で思った。


 何で俺がこんな風にコイツに生き死にやら何やら振り回されなきゃならないんだ。


 「そうでした、そうでした。何故あなたの命を助けたのか、説明の途中でしたね、ムラタ・ショウゾウ様?いやいや、またまた申し訳ありません。なにせ口数が少ない割に脱線が多いというのが私の悪い癖でして、常々気を付けているつもりではあるのですが、なかなかどうしてこればかりは……。そのご様子ならばあまり長くはお持ちになられないようですので要点だけ、本当に必要な部分だけを掻い摘んでお話申し上げます、よろしいですか、ムラタ・ショウゾウ様?」


 傷跡の騒がしさがいよいよ限界にきていた。


 尋常ではない程に早まった鼓動が耳のすぐ後ろで鳴り響き、汗や涙やその他あらゆる体液が外に流れ出た。


 もう何も考えられなかった。


 死を意識する事も、生を渇望する事もできなかった。


 世界がけたたましい鼓動の爆音と共に崩れ落ちようとしていた。


 その時、かすれた村田青年の視界に、妻と子の姿が映った。


 彼が置かれている厳しい状況などまるで気づかず、二人は相変わらず平和な眠りに就いていた。


 楽しい夢でも見ているのだろう、あるいは日々の幸福が思わず滲み出ているのだろう、。


 妻も子も口元にうっすらと微笑みを浮かべていた。


 さすがは母子、本当にそっくり同じような笑い方をするものだと、村田青年は可笑しくなった。


 そして我が子の寝顔の中に自分の面影も確かに存在している事を見つけ、嬉しくなった。


 ああ、俺の子なんだなと改めて思った。


 同時に、一人生き残った自分の元に授かった新たな命、少尉殿や死んで行った他の多くの仲間たちの命も一緒に宿った、みんなの子なのだとも思った。


―― 俺の家族だ……俺の幸せだ……俺が……守る ――


 村田青年の両手が猫の方に伸び、その首にかかった。


 朦朧としてはいたが、村田青年は意識が飛んでしまう寸でのところで踏み留まっていた。


 家族や仲間への想いが土俵際で彼を支え、強い力を与えたのだ。


 「……本当にあなたには驚かされます、ムラタ・ショウゾウ様。よもやあそこから立ち直ってこようとは、さすがに予想をしておりませんでした」


 猫は首に掛けられた青年の手など意に解さず、真っ直ぐに彼を見つめた。


 そこにはもはや、どんな表情も浮かんではいなかった。


 「まさしく、そんな心の強さに私は魅かれたのです、ムラタ・ショウゾウ様。申し上げました通り、私に感情や心はありません。ですから、あなたが先程見せた激しい怒りや後悔の念、そして今、私のこの首にかけられた手に込められている深い愛情、そのどれもが私には理解ができないのですよ、ムラタ・ショウゾウ様。一体どんなものであるのか想像ができないのですよ、ムラタ・ショウゾウ様。当然のごとく心をお持ちになられているあなた方に、この気持ちはわからないでしょう。そこにあるのは何だとお思いになられます?虚しさ?寂しさ?哀しさ?きっとあなた方ならそう言った感情をお抱きになられるのでしょう。ええ、私も長い間色々な人達、様々な人達をこの目で見てきましたから、ある程度の予想はできるのです。ここで心のある人はああするだろう、こう思うのだろうというのを推察する事はできるのです。しかし、理解はできません。微塵もできません。なにせ私自身は何も感じられないのです。自らが何も感じないことに虚しさも寂しさも哀しさも感じられないのです。あるのは無です。果てしない無、際限のない無の繰り返しが有るだけなのです。そんなもの想像もできないでしょう、ムラタ・ショウゾウ様?私があなた方を想像できないのと同じように。……そしてもし、心を持っていれども決して強くない人達、脆弱で矮小な心しか持っていない人達(残念ながら殆どの人です)の前に、彼らが想像することのできない私という存在が現れたら一体どうなると思います?私が彼らの感情を少しだけ解放してみたり、その心の僅か一端にでも触れてみようものなら、あっという間に頭がパンクし、そして廃人と化してしまいます。実に効率が悪く、尚且つ後味も悪いものです、あれは。何度見ても慣れるという事がありません。いえいえ、私が好き好んで人を破綻させようとしているとお思いならば、それは大きな大きな誤解ですよ、ムラタ・ショウゾウ様。私にそんな酔狂な真似をできる程の道楽心はありません。私はただ課せられた義務を果たすべく力を尽くした、唯一にして絶対の探究心の趣くままに手を伸ばしてみた、その結果、彼らの全員が精神を完全に破綻させ、生ける屍となってしまった、ただそれだけの事なのです。ある人は私を妖怪だと言いました。またある人は悪魔だと言いました。真正面から私の力を受け入れたり、耐えたりできる程の精神力がなかったのです。そう、私を理解できるだけの想像力がなかったのです。彼らとは何一つまともに話ができませんでした。私はただ友好的に公平な取引をしようとしていただけなのですがね。……しかしムラタ・ショウゾウ様、あなたは彼らとは違います。私はあなたを見つけた瞬間、無いはずの心が思わず躍り出してしまいそうになったのを覚えております。ただの飾りにしか過ぎない性器が疼いたような気さえしました。あなたは彼らとは違い、強い心を持っておられます。やっと私は私の力に対抗できうる人に巡り合えたのです。私が求めてやまない世界の真理、幾つもの時代を跨ぎ、膨大なる時間を費やして八方探し回っても見つかる兆しすら見つからなかった世の中の理、私が私たるための目的……。もしも、それがあるとすれば人間の心の中ではなかろうかという閃きが訪れてから更に多くの月日を重ねてきました。『永遠』という二文字で簡単に済ましてしまうにはあまりにも途方もない時間です。そしてようやくです、ムラタ・ショウゾウ様。本当にようやく、図らずも強い干渉を与えてしまう私の力に耐えてくれそうな人物と出会えたのです、ムラタ・ショウゾウ様。これがどれ程すごい事なのかおわかりになりますか、ムラタ・ショウゾウ様?あなたは選ばれし人間です。悠久の時の流れの中で初めて私の眼鏡にかなった特別な人間なのです。そんなあなたのためになら命の一つ二つ、幸せの三つ四つ、私は喜んで与えてあげましょう。その代償として、心を少しだけ覗かせてはいただけないでしょうか、ムラタ・ショウゾウ様?ええ、ええ、本当に、本当に、少しだけでいいのです。ほんの僅かな隙間だけでもいいのです。心を開き、あなたというモノの中に私という虚空を自身の中に受け入れて真理を探させてくれればいいのです、ムラタ・ショウゾウ様。」


 村田青年は必死だった。

 

 もはや何も聞こえなかった。

 もはや痛みすら感じてはいなかった。


 意識らしい意識もなく、何も考えず、ただただ夢中で猫の首にかかった両手に力を込めた。


 本当に力が入っているのかどうかも怪しい程に、彼の意識のともし火は細く頼りなかったが、それでも村田青年は決して手を放しはしなかった。


 猫は何かをしようとしている、猫は何か家族や自分に害を及ぼそうとしていると彼の本能は告げていた。


 家族を守るため、この幸せを守るために伸ばされた温かな手は、猫の細い首を固く捕らえ続けていた。

 

 この手を決して緩めてはいけない、と。


 そんな喘ぎ震える村田青年を、猫は無表情で見つめていた。


 先ほどまで随分と興奮しながら自身の要求を饒舌に捲し立てていたはずなのだが、その口調とは似合わず、終始猫は感情のない様相を崩す事はなかった。


 おそらく本当に感情というものがわからないのだろう。


 喜ぶ真似はできる。

 哀しむふりだってできる。


 しかし、猫自身が言っていた。

 

 気が遠くなるほどの長きに亘って探し求めなくてはならなかった真理とやらの手掛かりになるかもしれないという可能性にようやく出会えたその本物の喜びという感情を、うまく表現する術がわからないのだ。


 そして、その無表情にほんの一瞬だけ翳りが差したように見えた。


 雲に遮られた月光の気まぐれなのかもしれない。

 単に夜が一層深くなっただけなのかもしれない。


 ただ「……やはり無理なのですか」と、もはやまともに聞く耳を持った者のいなくなった室内で呟かれた猫の声は、やはりどこか寂しげに、本物の悲哀を帯びた調子で響いた。


 「そうですか、そうですかムラタ・ショウゾウ様」


 だが、それもまた一瞬の事。


 猫はまた元の大きな笑いの浮かぶ、得意のとても狡猾そうな顔に戻って言った。


 そこに浮かんでいた翳りの形跡も、まして嬉々とした喜びの表情などどこにもありようにもなかった。

 

 「どうやら、あなたも私を受け入れてはくれないのですね、ムラタ・ショウゾウ様?それならば仕方がありません、もう少しゆっくりとお話をしたかった。そうすればお互いの事をもう少しわかり合えたのかもれませんが、もはや何も言わない方がいいでしょう。もう終わったのです、ムラタ・ショウゾウ様。全ては終わったのです。いやいや、誠に残念至極ではありますが、仕方がありません、ムラタ・ショウゾウ様。全くもって仕方がありません。……さあさあ、もっと力を込めてもいいのですよ、ムラタ・ショウゾウ様?そうすれば私は消えてなくなることでしょう。あなたの御望み通りこの場から、この神聖なる家族の寝室から私は消えて差し上げますよ、ムラタ・ショウゾウ様。いいえ、決して死ぬわけではありません。死という概念はいつも私の横をすり抜けていくのです。もちろん生という概念も然りですがね。しかし、普通の生物と同様に赤い血が通い、無数の細胞によって織り成された身体ですから、自然の摂理として首を絞められて呼吸を止められて酸素が不足すると、さすがに消えてしまわなければなりません。死も老いも朽ちる事もないという不自然この上ない存在のわりに、誰か第三者の手に掛けられるとその体は一度この世から消えなければならないらしいのです。それがルールです。そこら辺りが、ことごとく常識なり万物の法則なりを捻じ曲げた異端者である私と世界との間に交わされた落としどころらしいのです。もちろん天涯孤独の身でありますから、誰が教えてくれたわけでもなく、身を持って覚えたものですから『らしい』としか言えない訳ですが。……さて、今度はどんな姿になるのでしょう?私に選択権はありません。目を閉じ、そして開けた時に私は他(、)の(、)何(、)か(、)になっています。傾向としてタヌキやキツネやバクなどのわりと小さ目な動物のフォルムを要することが多いでしょうかね。しかし、こうやってようやく私の意に沿うであろう御仁を見つけられたわけですから、今後の接点を持ちやすいようにあなた方人間に近い形状へとシフトしてくれるのではないでしょうかね、ムラタ・ショウゾウ様?まあ、何に変わったところで同じです。私は必ずやあなたの前に現れます。お忘れになられてはいませんか、ムラタ・ショウゾウ様?我々は契約を交わしたのですよ。私はあなたの命を助け、あなたは私に相応の対価を支払う、その対価を私はまだ頂いておりません。本来ならばもっと別の形で、友好的な関係を築いて互いの理にかなった……ああ、いやいや失礼致しました。ついついボヤいてしまいましたね。ええ、ええ、大丈夫です。大丈夫ですよ、ムラタ・ショウゾウ様。これ以上私は何も言いません。ええ、本当に大丈夫です。何の憂いも滞りもなく、対価はキチンと請求させていただきますので、それで十分です。それがなんであるのか、もはや言わずともおわかりになられますね、ムラタ・ショウゾウ様?命と釣り合うだけの相応な対価……いつになる事か明確な日取りまでお約束できないのがとても心苦しいところではありますが、必ずやそれを徴収しにまいりますから。それまでは私の事など忘れて存分にあなたの幸せを謳歌してください。いえいえ、それくらいはサービスさせていただきますよ。先ほども申し上げました通り、あなたは特別な人間でしたので……ね」


 猫は最後にまたニタリとした厭らしい笑みを浮かべたかと思うと、そのままそっと瞼を閉じた。


 そして同時に村田青年もついに力尽きて意識を失った。


 辺りには例の不思議な青臭くて甘ったるい香りが、これまでで一番の濃密さで煙るように漂っていた。




 空白の時間

      空白の時間

           空白の時間 




 子「ねえねえ、おとーさん」


 村田「ん?どうした?」


 子「ボクね、ボクね、うふふ」


 村田「なんだなんだ、気持ち悪いな」


 子「やっぱいうのやーめた」


 村田「なんだよそりゃ」


 妻「あなた、お客さまです」


 村田「お客?誰?」


 妻「お客さまと言うか、刑事さんだそうです」


 村田「刑事?なんだ、事件?」


 妻「わからないわ。でもこの辺の人じゃないと思う。身なりもキチンとしてたし、街の方から来られたんじゃないかしらね」


 村田「街の刑事さんがなんでわざわざ?」


 妻「私に聞くよりも、早く御出でになって、ご自分でお聞きになって下さいな。玄関でお待ちになってもらっているんですから」


 村田「ふむ……」


 妻「まさか、あなた何かしたんですか?」


 村田「馬鹿言うな、どれどれ」



 子「おかーさん、ボクね。おおきくなったら、おとーさんみたいなすごいダイクさんになるんだ」


 妻「あら、そうなの。それじゃお父さんに言ってごらんなさい、きっと喜ぶわよ」


 子「うん、いおうとおもったんだよ。でもね、でもね、なんかはずかしくていえなかったの」


 妻「うふふ、それは困ったわね」




 村田「すいません、お待たせしてしまって」


 刑事?「いえいえ、こちらこそ長らくお待たせ致しました、ムラタ・ショウゾウ様」




 本日はお約束の対価を徴収しにまいりました




 その後の『奇跡の人』の人生には目も当てられない。


 あの時、奇跡など起こらなかった方がよかったのではないかと思うほど、その搾取は容赦のないものだった。

 

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