第四話

 猫刑事が帰った後も、僕はしばらく座ったソファーから腰を上げることができなかった。


 テーブルの上には猫刑事がキレイに飲み干したコーヒーのカップと、最後まで手を付けられることなく打ち捨てられたお茶請けのクッキーがそのまま置いてあった。


 僕はそれらを見つめながら何を考えていただろう。


 いや、何も考えてなんていなかった。


 ただ僕の意識は、猫刑事が物語った長い話の中にどっぷりと頭から浸かっていた。




 「…………だった。……ご清聴ありがとうございます。さて、ここまでの話はおわかりになられたでしょうか、カシワギ・タケシ様?」


 全てを語り終えたとき、猫刑事は僕にそう尋ねた。


 唐突に名前を呼ばれてびっくりしたのだけれど、僕はその驚きに準じた反応を示すことができなかった。

 

 体がうまく動かなかった。


 意識と体との間に結構なズレが生じているようだった。


 「ふむ、どうやらわかり過ぎる程にわかっておられるようですね」


 猫刑事は言った。


 そして猫刑事はすっくと立ち上がって、帰ります、と続けた。


 その顔にはどんな表情も浮かんでいなかった。


 「あなたは物語や思考世界の中に浸りやすい体質だとお見受け致します、カシワギ・タケシ様。色々と拝見させていただきましたが、やはりあなたは見込み通り、無垢で強靭な魂の持ち主であるようです。……彼と同じような、ね」


 言いたいことや聞きたいことがたくさんあった。


 突然家に押しかけ、一方的に話を捲し立て、そして物語だか思考世界だかの中に僕一人を取り残したまま勝手に帰ろうとしている猫刑事に文句の一つも言ってやりたかった。


 しかし、体がどうにも動いてくれなかった。


 辛うじて目だけは猫刑事の方に向けることができたけれど、鈍い眼光しか放てない力のない眼差しに、何の意味があるだろう。


 「美味しいコーヒーをごちそうさまでした。また近いうちにお会いする機会があるとも思いますが、その時はどうぞよろしくお願いいたします。いやいや、しつこいようですが本当に美味しいコーヒーでした。お店を開いてみたらいかがです、カシワギ・タケシ様?及ばずながら私、あなたのコーヒーのファン一号として通い詰めさせていただきますよ」


 そう言う猫刑事の顔には竹馬の友にでも向けられたような、とても親密な笑みが浮かんでいた。




 結局、猫刑事の目的は何だったのだろう?


 同僚の言うとおり、猫刑事は僕の心に生じた僅かな隙間を寸分の狂いもなくピンポイントにねらってきた。


 そしてあの物語を通して僕の中にある何かを探っていた。


 つまんだり、なでたり、引っ張ったり、いいようにほじくり回されたような胸やけにも似た妙にムカムカとした感覚が残っていた。


 それでもとりあえず、何かを搾取され、何かを失ったような感じはしなかった。


 あまり自信はなかったけれど、多分、猫刑事が訪れる前までの僕と何も変わっていないとは思う。


 ……多分。


 どれ位の間そんな風にしていただろう。


 気が付けば日はとっぷりと暮れ、部屋の隅々にまで夜が満ちていた。


 そして空腹感が僕を捉えていた。

 本当に強い空腹感だ。


 そういえばしばらくまともな食事を摂っていなかったよなと思ったら、なおさらお腹が鳴った。


 僕は反射的に目の前のテーブルに置かれたクッキーに手を伸ばして口に入れた。


 からっぽの僕の身体に仄かなバターの風味がまんべんなく広がっていった。


 少し湿気ってはいたけれど、とても美味しかった。

 感動的と言ってもいいくらいだ。


 なんだか体に元気が戻ってきたような気がした。


 「さて……」


 その芳香に力をもらった僕は、重たい腰をソファーから引き剥がすようにして上げ、一つ体を大きく伸ばした。


 うん、大丈夫。

 なんとか無事、精神と肉体のズレは解消されたようだ。


 僕はもう一枚クッキーをかじり、そして財布と携帯電話をズボンのポケットに押し込め、厚手のジャケットを羽織って急いで外に出た。


 思いっ切り肉が食べたかった。


 頭の中では大盛りの牛丼がいかにも艶めかしい湯気を立てて僕に色目を使っていた。


 玄関の鍵を閉めたと同時に部屋の中で電話が鳴った。


 妻の親戚が電話会社にいて、その付き合いもあって仕方がなく取り付けた固定電話だ。


 どうしようかと一瞬迷ったけれど、結局、牛丼の誘惑の方が勝った。


 用件があれば留守番電話に吹き込んであるだろうし、何か急用なら携帯の方にかかってくるはずだ。


 僕は足早に自転車を止めてある駐輪場に向かった。


 自転車にまたがり、しばらくペダルをこいで進んだところでふと思い出した。


 そう言えば今日の昼ごろまで僕は人生に絶望していたんじゃなかったっけ?と。


 自転車を止め、僕は首を傾げた。


 僕の絶望は一体どこに行ってしまったんだろう?


 晴れやかとまではいかないまでも今、気持ちはすごく軽かった。


 たとえ一かけでも絶望が残っている人の心が、こんなに軽いはずがない。


 ……まあ、いいか。

 それよりも何よりもお腹が減った。


 少し風のある、長く寒い秋の夜、僕が今求めているのは人肌でも明るい未来でもなく、一杯の温かな牛丼だった。


               @@@



 合鍵を使って部屋に入ったけど、やっぱり夫はいなかった。


 自転車もなかったし、きっとどこかに出掛けたのだろう。


 彼に会いには来たものの、実際に顔を合わせる事にならなくて良かったとホッとしている自分がそこにいて、少しだけ嫌な気持ちになった。


 留守番電話には私がメッセージを吹き込みもせずに切った着信がそのまま残っていた。


 その履歴を消去しながら私は、あの人はいつになったらケータイを取り換えるのかしらと呆れた。


 物持ちがいいのは良い事なのだけど、ちょっとしたショックですぐに電源が切れてしまうような不便なケータイなんて一つも携帯電話の体を為してはいないではないか。


 何回もかけたっていうのに。


 あちこち塗装がはげ、何か所もボタンが潰れた彼のボロボロの携帯電話を私は簡単に思い浮かべる事ができた。

 

 その本体のあちらこちらについた細かいキズの一つ一つだって、なぞろうと思えばなぞれた。


 だってそれは、私たち夫婦と長い間一緒に生活を共にしてきた大切な思い出の一部なのだ。


 ふと居間のテーブルを見ると、来客用のコーヒーカップと数枚のクッキーが乗った皿があった。


 誰か来ていたのだろうか?

 まさか、女でも連れ込んだ?


 と思うのと同時に私は首を振った。


 今更、私は何を嫉妬しているんだ。


 彼の元を去ろうと決めたのは他でもない、私自身じゃないか。

 


            ***



 結婚してからのこの九年間、問題らしい問題なんて何もなかった。


 もちろん元は赤の他人同士、おまけに殆ど正反対と言ってもいいくらいに性格も趣向も違う二人が毎日を供にするのだから、些細な諍いやちょっとした食い違いは多々あった。


 夫がコーヒー好きなのは知っていたし、何度も美味しいコーヒーを淹れてもらって飲んでいた。


 だけど、まさかわざわざどこからか豆を取り寄せるまでにこだわっていたとは一緒に住むまでわからなかった。


 私がビールを好きなのは夫も知っていたけれど、そのメーカーや種類が少しでも変われば全く飲めなくなってすぐに気持ち悪くなってしまうというのを結婚後に知って、夫はびっくりしていた。

 

 朝の歯磨きは朝食の前か後か、そしてその朝食はお米がいいのかパンがいいのか。


 観たい映画は邦画か洋画か、そしてそのジャンルはアクションなのかサスペンスなのか……。


 数え上げれば限りのないあまたの不一致を時に妥協し、時に固執しながら夫婦というのは生きて行かなくてはいけない。


 いや、夫婦だけじゃなくそれらは社会における人間同士の交わりにおいて当然の摂理だ。


 問題なんかじゃない。


 私はそんなたくさんのスレ違い達を、むしろ新鮮だと楽しんでさえいたかもしれない。


 私の目線と価値観では決して見ることのなかった世界を夫は私に見せてくれた。


 自分の中にいる見たことのない自分を見出してくれた。


 ……そう、夫と私との間に問題なんてなかった。


 だけど、そんなミスマッチばかりの二人にも、数少ない意見の一致があった。


 そしてその貴重な貴重な一致が、唯一考えられる問題らしい問題の原因だった。



 私たちはどちらも子供が好きだった。


 それはキチンとした恋人関係になる以前から、まして結婚なんて全然意識していなかった頃から、それとなく互いに仄めかし合ってきていた。


 将来子供を産むとして(とりあえず誰との間にという事は置いて)男の子と女の子ならどちらが欲しいのか、何人くらい欲しいのか、そしてその順番はどんなのか等々、気心の知れた同士が交わす他愛もない会話という体(てい)の中で確かめあっていた。


 だから結婚した時、本当にコウノトリがそっと私たちの前に赤ちゃんの入った揺り籠を運んで来てくれるかのように、労せず自然に子供はできるだろうと思っていた。


 一つまみの疑念も不安も有りはしなかった。


 ……だけど子供はできなかった。


 懐妊の兆しすらも訪れなかった。


 この九年間、コウノトリはいつも私たちの家の前を何食わぬ顔で通り過ぎて行った。


 私たちは焦った。


 結婚して二年が経ち、さすがにおかしいぞと私たちは産婦人科で体に問題がないか検査をしてもらう事にした。


 しかし結果は、私にも夫にもこれといった異常は見つからないというものだった。


 医者が「本当に妊娠に積極的ですか?」と真顔で尋ねてきたくらいだった。


 夫も私も医師でさえも困った顔をした。


 それならば何故妊娠しないのだろう?


 三者で体外受精や不妊治療も視野に入れた話し合いを重ねてみたけど、互いの生殖細胞に異常がないのならばやはり自然に妊娠するのが好ましかろうという結論に至った。


 私はその協議の間中、私たちの健全で健康な精子と卵子の結びつきを、どこからかひょっこりと現れた誰かが意地悪く邪魔をしているような、そんなイメージのアニメ―ションがずっと頭に浮かんでいた。


 ドタバタと忙なくて、どこか愛嬌のあるコミカルな動きをしているのとは裏腹に、その誰かが面白おかしくやっている行為は、命を弄ぶという非道以外の何ものでもなかった。


 誰が何のためにそんな事をしなくはならいのだろう?馬鹿らしいとは思いつつも、私はそのイメージを最後まで払拭する事ができなかった。


 最後に医師は……


 「こういうのは何と言っても巡り合わせだから、その時がやって来るのを気長に待ってみましょう」

 

 と、歯切れの悪い笑みを浮かべながら、全く医者らしからぬ抽象的な励ましを言って締めくくった。


 私の下らないイメージの方がよっぽど現実的で説得力があるように思えた。


 私は露骨に大きくため息を吐いて首を振った。


 当然、事実をそう簡単に受け入れられはしなかった。


 原因不明だとか期が熟すのを待つだとか、そんな曖昧なもので済ませてほしくはなかった。


 もっとはっきりとしたものがほしかった。


 できるならできるで頑張るし、できないならできないなりに諦めがつくというのに。


 私は苛立っていた。


 心は日に日に荒んで行き、目に映る全てのモノが苦々しく見えた。


 そしてどこにもぶつけようがなく内包した苛立ちは、やがてパートナーである夫の方に向けられた。


 些細な諍いにいちいちムキになった。

 ちょっとした食い違いに敏感に反応するようになった。

 愛おしいはずの夫の全てを否定した。


 それは八つ当たり以外の何ものでもなかった。


 そんな自分の理不尽さを知っていたために余計に私は苛立った。


 出口なんて……どこにもありはしなかった。



 腹が立つこともあったろう。

 面倒くさいと投げ出したくもなっただろう。


 だけど夫は腹を立てることもなく、私を投げ出しもしなかった。


 何をされても何を言われても、それでも夫は私の八つ当たりの一つ一つにしっかりと向き合ってくれた。


 私が色々な事を納得し、様々な事を受け入れて消化できるまで、気長に待っていてくれた。


 最初、そんな寛容な夫の態度は苛立ちを煽った。


 本当に嫌だった。

 本当に腹が立った。

 

 そして不満が大爆発した。


 何を余裕ぶって笑っているの?

 どうしてそんなに簡単に諦める事ができるの?

 どうして受け入れちゃうの?

 どうして許しちゃうの?

 どうして私の身勝手な振る舞いに我慢ができるの?


 ……なんでそんなに優しいの?


 「……なんでそんなに優しいの?」


 「優しいわけじゃないんだ」


 泣き出しそうな私を夫はそっと抱き寄せた。


 「ただ、なんだろう。うん、僕は君の旦那だし、全部、僕に吐き出せばいいよ」


 「なんでなの?……なんで……なんでよ……」


 うまく泣けない私の体を夫は躊躇いがちに、されどとても力強くずっと抱きしめ続けていてくれた。


 泣きたくはなかった。

 絶対に弱くはなりたくなかった。


 だって私は長女だし年上だし先輩だし、何も知らない彼の教育係なんだから。


 ……だけど今だけは甘えてもいい?あなたの優しさに?


 しっかりしなくちゃと思った。

 

 いつまでもこのままじゃいけない、いつまでも彼の優しい心に甘えて好き勝手してちゃいけないと気を引き締めた。


 夫のためにも、そして何より私自身のためにも。


 私はもう二度とこの話題を口にするまいと誓った。


 彼の横で、彼と共に、静かにその時が来るのを待ち続けよう、そう誓った……そのはずなのに。

 


               ***


 

 本当にどうしちゃったんだろ?



 あの日、彼の元に結婚式の招待状が届いた。


 高校の同級生なのだそうだ。


 懐かしむように遠い眼をしながら、彼は共に青春を過ごしたこの同級生との数々の思い出を楽しげに話してくれた。


 私はスーパーに買い出しに行った物を冷蔵庫にしまいながらそれを適当に相槌を挟みながら聞いていた。


 話の内容よりも、まるで高校生にでも戻ったかのように顔をニコニコさせ、珍しくおしゃべりになった彼を見て、私も楽しい気持ちになった。


 私まで一緒にクラスメイトとしてその思い出を共有してきたような気分になった。


 そしてそのまま私が夕食の準備に移っても彼の話は続いた。本当に高校生活が楽しかったのだろう。


 「これで僕が仲の良かった友達はみんな結婚したみたいだね。コイツなんか高校の時から本当に女の子にモテてさ、あっという間に結婚しちゃうんだろうなと思ってたけど、それがなんと一番最後、三十を前にしてようやくだもん、解んないもんだね」


 「あなたは何番目だったの?」


 「実は一番最初なんだ」


 「ホント?確か二十一になる年だったよね?」


 「そう、二十歳と七か月。僕は昔からこの通りだったから色恋にはてんで縁がなかったんだ。みんな驚いてたよ、まさか僕がそんなに早くってね。なにせ結婚どころかまともに恋愛なんてできるのかって本気で心配されてた位だから」


 「私がいなかったら今でも結婚なんてしてなかった?」


 「そうかもしれない」


 「私でよかった?後悔してるんじゃない?」


 私はまた彼に意地悪したくなって茶化すように言った。


 「そんなことないよ、ホント。うん、君でよかったと思ってる、本当に」


 彼は案の条少し困った顔をしながら慌てていた。


 そう、それはいつもしている、ただの他愛もない意地悪のはずだった。


 彼が困り、私が笑い、そして冗談よと言って愛情のこもったキスをし、それで幸福な気持ちになって終わり、ただそれだけのはずだった。



 ……しかし。


 姿なき小銃の引き金は音もなく引かれ、見えない銃弾が私の胸を打ち抜いた。



 その時、私の心を満たしていたのは溢れそうな程の愛情でも幸福感でもなく、圧倒的な嫌悪と憎悪だった。


 温かな気持ちを一瞬にして凍りつかせ、色鮮やかに咲き乱れた思い出たちをべったりと真っ黒に塗り潰してしまう強力な負の感情だった。


 何もかもが深い闇に包まれた。


 「あなた今、幸せ?」


 声が固く冷え切っているのが自分でもわかった。


 「……どうしたの急に?」


 彼も私の只ならぬ気配を察したようだった。


 「いいから答えて。あなたは私といて幸せ?」


 「幸せだよ、もちろん」


 彼は困った顔をより困らせて言った。


 突然の問いと私の凄味のある剣幕にひどく戸惑っているようだった。


 その気持ちはよくわかる。


 私だって彼と同じか、あるいはそれ以上に戸惑っていたのだから……。


 本当に私はどうしちゃったの、急に?


 でも、それからはもう止められなかった。

 頭が真っ白だった。


 私は彼を辛辣に責め立てた。


 痴漢騒ぎを蒸し返したり、不妊の問題への不満をまたぶつけたり、他にもありとあらゆる例えと言葉とで彼を傷つけた。

 

 滅茶苦茶に傷つけてやろうと思った。

 精神的にとことん追い詰めて殺してやろうかとさえ思った。


 ……あの時と全く一緒だ。


 そう、前にも一度、こんな事があった。


 それこそ彼が痴漢に間違えられた日だ。


 その時もこんな風に理不尽と言ってもいい位に激しい憎しみがどこからともなく込み上げてきた。


 だけど一晩寝たらそれは跡形もなく消えてしまった。


 結婚を決意したすぐ後だったし、一種のマリッヂ・ブルーみたいなものなんだろうという事にしてすぐに忘れてしまった。


 というより初めからそんなものなかった事にしようと無理矢理に追いやったという方が正しいのかもしれない。

 

 それがまた予兆もきっかけもなく突然、私の心の一番前に顔を出し、そして私の全てを支配してしまった。



 ……あとはもう、思い出したくない。



 やって来た時と同じように負の感情は突然引いて行った。


 スッと体から何かが抜けていくような感覚があり、頭はすっきりと冴えわたっていた。


 冴え過ぎているくらいだった。


 そしてそんな私の目の前には、顔を真っ青にしながらも必死で微笑もうとしている彼がいた。


 そんな彼を見た瞬間、すぐさま私の冴えた頭に一つだけ言葉が閃いた。


 ああ……もう、彼の傍にいてはいけない

    


                  ***



 残っていた数枚の湿気ったクッキーを食べてしまってから、それが乗っていた皿とコーヒーカップを洗い、キレイなふきんを棚の引き出しから出して水気を拭き、そして食器棚にしまった。


 私がこの部屋を出てからもうかれこれ一か月になるけれど、彼はその間も私たちのしてきた生活をそっくりそのまま維持しているようだった。


 食器の置いてある位置もふきんを入れてある場所も変わっていなかったし、掃除も行き届いていた。


 元々、家事全般を苦にしない人だったから今更格別に驚く事でもないけれど、私がいなくなっても不便なく暮らせているようだった。


 ふと冷蔵庫を覗くと食糧は何もなかった。


 多分、今その買い出しにでも行っているのだろうと思った。


 中に残っている物と言えば、ドレッシングやケチャップなどの調味料と水出しの麦茶、そして出て行く前に私が入れていた六本の缶ビールだけだった。


 彼は体質が合わないとアルコールの類を一切飲まない。


 この缶ビールたちはきっと誰の口にも入る事はなく、捨てられるかこのまま永久にこの中で冷気を浴び続けるのだろう。


 そう、私が出て行ってしまったばっかりに。


 そう思った途端にひどく切ない気持ちになって、自然に涙が込み上げた。


―― 本当に私はどうしちゃったの?……帰りたい。彼のいるこの家に帰りたい ――


 これまで生きてきた中で色んな哀しい事や色んな悔しい事を人並みには経験してきた。


 そしてどんなに哀しくても悔しくても、絶対に泣かずに全部乗り切ってきたというのに、今はとにかく涙が止まらなかった。


 私は冷蔵庫にしな垂れかかるような体勢のまま、声を押し殺して泣いた。


 哀しかった。

 悔しかった。


 たまらず噛み締めた唇がとても痛かった。


 私の惨めさを煽るように、私の弱さを非難するように、冷蔵庫は低く冷たくいつまでもうなり続けていた。


 やっぱり彼への愛情は変わってはいないんだなと改めて痛感した。


 この四週間、会えなかった分だけより一層彼を激しく求めている自分に気づかされた。


 彼を忘れるには思い出があまりにも多すぎた。

 彼を嫌いになるには彼の良いところを知り過ぎていた。


 そしてこれから一人で生きていくには二人でいることの幸せに慣れ過ぎていた。


 だけど、私は怖かった。


 またいつ『あれ』が来るのかと。


 また唐突に『あれ』が現れて、生活も幸福も未来も希望も、そして彼も私自身までをも粉微塵に破壊してしまうのではないかと。


 彼を傷つけ、私を傷つけ、そして全てを打ちのめすのではないだろうかと。


 それが本当に怖かった。


 そんな影に怯えながら暮らしていく自信がなかった。


 私はもう耐えられなかった。

 逃げ出したかった。


 恐怖からも影からも、それでも懸命に愛してくれようとする優しい優しい彼からも。



 ……だから私は家を出た。

  


                ***



 「それで、結局会いもせずに帰って来ちゃったんですか?」


 半ば呆れ、半ば怒りながら彼女は言った。


 「そもそも何をしに行ったんですか、センパイ?旦那さんと寄りを戻しに行ったんじゃないんですか?」


 「そうじゃないの」


 「それじゃあ離婚届を渡しに?」


 「ううん、違う」


 「じゃあなんですか?」


 「ただ、彼がちゃんと暮らしてるかなって」


 「それだけ?」


 「だって電話も出なかったし、何かあったのかなって……」


 「あーもーめんどくさい!」


 彼女はそう言って苛立たしげにタバコを一本咥えて火を点けた。


 「アタシの憧れたセンパイらしくないですね、そんなウジウジしたの」


 彼女は私の中学・高校の後輩で、一緒に野球部のマネージャーをしていた。


 歳は一つ下、当時から妙にウマが合い、社会人になってからもその付き合いはずっと続いていた。


 そして家を飛び出したはいいものの、実家にも帰る気になれず、ホテルに泊まるにもお金だってあまり持っていなく、路頭に迷っている私を彼女は親切にも居候させてくれていた。


 全然後輩らしくもなく、口も態度も悪かったけど、本当は思いやりのある気立てのいい娘だった。


 ちなみに彼女自身は独身で、浮いた話は久しく聞かない。


 「ごめん」


 私はしょんぼりした。


 「本当にごめんと思っているならさっさと仲直りして愛しい旦那様の元に帰ってくれませんか?いくらどちらもスタイルがいいとはいえ、アラサー女が二人暮らすには窮屈なんですよね、ここ」


 「仕事の邪魔してる?」


 「ええ、おおいに」


 彼女は肩をすくめた。


 ついこの前まで彼女は大手出版社の社会部で第一線の記者として活躍していた。


 将来を嘱望されていた(自称)らしいのだけれど、何か大きなミスをしてしまい、その責任を取って会社を辞した。


 今はフリーランスのジャーナリストとして自分を売り込んでいる真っ最中で、その道一本で食べて行こうとするには本当に大事な時期だった。


 こうやって話している今も彼女はパソコンの前で何かの資料を整理しながら私の相手をしてくれていた。


 邪魔をしているのは重々わかっているつもりだった。だけどね、私もそう簡単に帰るわけにはいかないの。


 「……帰るわけにはいかないの」


 「ふむ……本当に何があったっていうんです?詳しく訳を話してくれないと、アタシも一緒に解決策を練りようがないですよ、センパイ」


 「ありがと」


 優しい娘だなと思った。

 世の中の男たちは本当に見る目がない。


 「本当にありがとう。私もね、隠すつもりも謎めかすつもりもないし、誰かに話して私も早くスッキリしたいとは思ってるの。でもね、何と言うか、正直私にもよくわかってないのよ、ホントのところ。どう言葉にして表現したらいいものやら、全然わからないの。一つ一つは確かに言葉に変換していけるかもしれない。一つ一つに説明はつくかもしれない。どれもこれもホントに些細な事ばかりなんだもの。でもね、いざ全部を繋ぎ合わせてぱっと広げてみるんだけど、そうするとそれはまるっきり私の伝えたいこととは違った形になってしまっているの。何が違うんだろう。何が足りないんだろうって何度も最初からやり直してみるんだけど、やっぱり違うものになるの。そしてそんな事を繰り返す度に余計にこんがらがっていっちゃって、どんどん、どんどん真実から遠のいて行っちゃうみたいなの。そのうち真実っていうのが何なのかすらも曖昧になってきちゃって……」


 「センパイ」


 彼女は私の言葉をそこで切った。


 そして作業の手を止めてくるりと向き直り、怖いくらいに真剣な目でキッと私を睨んだ。


 「センパイ、それって猫刑事に関係してませんか?」


 「ネコ……何?」


 「ネ・コ・ケ・イ・ジ、猫刑事です。それに会いませんでしたか?」


 「いや、多分会った事はないと思う」


 私はちょっと考えてから言った。


 ネコケイジ?


 「その言葉自体、今初めて聞いたくらいだもん」


 「テレビのニュースや新聞でけっこう話題になってたんですけど、本当に初めて?」


 「うん、テレビも新聞もきちんと見てるけど聞いたことないと思う。ボーっとしてて見逃してたのかな」


 「見逃すって……まあ、いいです。旦那さんの方はどうです?そんな話をしたことないですか?」


 「どうしたの?取材受けてるみたいね」


 彼女のあまりの迫力に私はちょっとたじろいでしまった。


 ネコケイジ?


 「真面目な話なんです。『猫』の『刑事』で猫刑事」


 「夫とはそんな話したことないと思う」


 猫刑事?


 「思う?」


 「夫とその話は


 猫刑事?


 「ふむ……そうですか。それならまあいいんですけど」


 どうにも腑に落ちていない様子だったけど、彼女はそれ以上何も尋ねはしなかった。


 「それが何か私たち夫婦の問題に関係あると思ったの?」


 今度は私が聞く番だ。


 「ええ、ジャーナリストの直感ってやつですかね」


 「……あなたの勘って昔から当たる方だったよね?」


 「そのはずだったんですけどね。その勘だか直感だかのせいで今はほら、このザマです」


 そう言って彼女はパソコン・デスクに向かって手を広げた。


 そこは所狭しと積まれた本や原稿用紙の束、写真やペンやその他たくさんのもので溢れかえっていた。


 彼女の苦労を具現化してそのまま思い切りぶちまけたみたいに悲惨な有り様だった。


 「それでもあなたはその直感に自信をもっているのね?」


 「もちろん」


 「……猫刑事について教えて」


 「別に根拠なんてないんですよ?」


 「ええ、それでもいい。忘れてるみたいだから教えてあげるけど私も一応女なの。勘の一つや二つ、秘め事の二つや三つ、ちゃんと持ってるのよ」


 「それでこそセンパイだ」


 彼女は笑いながら言った。


 そしてごそごそと雑誌の山の中から一冊週刊誌を取り出して開いた。


 「とりあえず、このアタシが書いた記事を見せますね。ほら、この写真のお爺ちゃんなんですけど……」

 


 猫刑事、あなたが私に何かをしたの?

 猫刑事、あなたが私から彼を奪ったの?

 

 猫刑事……あなたが私の幸せを壊したの?






 さあ、どうでしょうか?






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