第三話

 猫刑事のペースだった。


 追い返そう追い返そうとする心とは裏腹に、ずるずると僕は猫刑事が妖しく手招きする世界へと引き込まれてしまい、遂には家に上げてソファーに座らせ、気付けばとっておきのコーヒーまで出してしまっていた。


 「実に美味しいコーヒーです」


 コーヒーを一口すすると猫刑事は驚いたように目を丸くさせて僕を見た。


 本当に驚いているようだった。


 「いやいや、お構いなくとは言いつつも、これだけ美味なコーヒーを頂いてしまいますと思わずここに通い詰めたくなってしまいますね。失礼ながら、あなたにこのような才能が御有りになるとは存じ上げておりませんでしたよ、カシワギ・タケシ様?」


 「まあ、上等な豆なもので……」


 僕もまんざらではなかった。


 猫でも刑事でも得体のしれない何かでも、自分の淹れたコーヒーのことを褒められるのはこの上なく嬉しいものだ。


 「ふむ……」


 世界が揺らぎ、ペースが乱れた。


 何かに思いを巡らせているようで、出会ってから終始雄弁だった猫刑事が黙り込んだのだ。


 その思惑が何か僕に有利に働くことであるのか。

 

 はたまた不利に傾くものかは計りかねたけれど、どちらにしても、僕なんて及びもつかない位に猫刑事の頭の中は高速で回っているのだろう。


 そしてそれはその日猫刑事が初めて見せた隙らしい隙でもあった。


 これは好機と、僕は改めて猫刑事をまじまじと観察してみることにした。


 なにせそれまでの間、猫刑事を落ち着いて値踏みしているような余裕なんて与えられていなかったのだ。


 とは言え、猫刑事の顔や風体はずいぶん言葉に置き換えにくいものだった。


 何がどうだと言うわけじゃない。


 僕の語彙や比喩の能力が乏しいせいもあるのだろうけれど、猫刑事の姿は言葉にして切り取って捕らえようとするには、何と言うか、あまりにも忙しがなかった。


 とりあえず顔を構成する一つ一つのパーツは無個性で平凡で凡庸で、庸(よう)愚(ぐ)とでさえ言えるくらいに普通だった。


 十色並み、一般ピープル、通行人A、市井の猫……。


 道で一度や二度すれ違った位ではとても覚えられそうにない、そんなどこにでもいる普通の薄い顔だ。


 しかしその普通の顔の表情が、猫刑事の心持ち一つでがらりと印象が変わる。


 僕を蔑もうすればその顔は圧倒的な侮蔑と完全なる否定で嘲弄的に歪み、ひとたび愉快になればその顔は純真無垢な子供のようにとても大きな笑みに包まれて歪んだ。


 きっと怒れば怒ったで鬼か悪魔かという位な形相で顔を歪めるのだろうし、哀しめば哀しんだで絶望的な悲哀に打ちひしがれたように顔を歪めるのだろう。


 要するに顔のパーツのみならず、体のサイズや醸し出す雰囲気、気配ですら、些細な感情の変化一つで大きくなったり小さくなったり膨張したり収縮したり、一所に留まることがなかった。


 そんな具合に忙しなく形態の変化を繰り返し、自らの存在を逐一更新してでもいるかのようだった。


 僕にそんな素早いものを捕らえられるわけがなかった。


 僕は子供の頃からトンボや蝶々を捕まえるさえめっぽう苦手なのだ。


 そして、おもむろにもう一口コーヒーに口を付けたところで猫刑事は、顔を元の僕を卑下するような厭らしい表情に戻してまた薄く微笑んだ。改めて僕の家の居間に猫刑事の世界が展開した。隙間は塞がれ、ほつれは修繕され、ペースは元通りに整えられた。


 結局有意なモノは何も得られず仕舞いだった。


 「どんな陳腐な物語にも必ず主人公がいます」


 猫刑事は唐突に語りだした。



              ***



 昔々、とある戦争のとある戦場において一人の青年兵士が幾人かの仲間と共に塹壕堀をしておりました。


 それは硝煙の香りが天高く立ち込める長く暗い夜でした。


 隊の備蓄していた食糧は壮絶な戦闘の際に打ち捨てられ、補給の望みもなく、僅かばかりの飲料水を皆で分け合って飲み、調達係が見つけてきた小さなキノコや食べられる野草を幾ばくか口にして飢えを凌いでおりました。


 はじめに二十人いた隊は二度の銃撃戦で六人にまで減りました。


 そのうちの一人は左の太ももを銃弾で貫かれ、一人は誰かが踏んだ地雷の爆風の巻き添えを受けて右半身に大やけどを負っていました。


 銃の本数に見合うだけの十分な弾薬もありません。


 次に戦闘が行われれば、援軍でも来ない限り、十中八九全滅だと皆が内心では思っていました。


 通信機もなく、現状の報告もできない隊に助けが来る見込みなどほとんどありませんでしたが、誰もがその事実から目を背けようとするかのように、それぞれに割り当てられた仕事をただ黙々とこなしておりました。


 勇猛で知られる将校が指揮をとる隊でした。


 軍部からの期待も大きく、精鋭たちで編成されたこの隊は他の小隊から密やかに離れ、とある特命を任せられました。

 

 具体的な内容こそ隊長以外には知らされていませんでしたが、向かうべき場所は自陣と敵陣との境界付近である最前線、もちろん戦線上において最も過酷でタフなところでした。


 将校の護衛……表向きはどうあれ作戦の意味を皆、暗黙のうちに理解していました。


 青年は密かに崇拝していた将校の直属の隊に配属された事を意気に感じ、終始鼻息を荒くさせておりました。


 実地経験の浅い若輩者ではありましたが、軍事教育が生みだした盲目的な性格に人一倍の愛国心が詰まったこの青年は、敵の凶弾から身を挺して将校を守り英雄的に絶命していくという自分の理想の死に様を夜毎に想像しながら布団の中で一人興奮をしておりました。


 しかし、いざ実戦となった時、その将校は敵の銃撃の第一波で呆気なく死んでしまいました。


 どこから情報が漏れたものか、敵は隊が敵陣営の手前に展開しようと少し前に出たところを待ち伏せ、銃弾の雨を降らせました。


 将校の正確な位置まで把握していた敵は、その辣腕(らつわん)の一つでさえ揮う間も与えずに将校の身体を蜂の巣のように穴だらけにしてしまいました。


 思いがけない敵の砲火と指揮系統の混乱によって、隊の統率は乱れに乱れました。


 青年兵士もパニック状態に陥りました。


 必死になって足を動かしてはいましたが、自分が一体どちらの陣地に向かって逃げているのかも定かではなく、遮二無二に乱射した小銃も敵を撃ったものか味方を撃ったものかわかりませんでした。


 ふと気が付けば、仲間に引きずられるようにして岩陰に隠れ、青ざめている自分がそこにいました。


 戦闘の激しさの割りに、犠牲者は例の将校とその流れ弾を受けた一人だけでした。


 それを多いと見なすか少ないと見なすかは別として、十八人の兵が残りました。


 そしてその中で一番の年長者で実戦経験も豊富な軍曹が代わって指揮をとり隊を立て直しました。


 そもそも百戦錬磨の玄人たちの集まりであったので、皆、頭と心を切り替えるのにそう時間はかかりませんでした。

 

 頼もしい先輩達にいなされ、最年少で一番位の低いあの青年兵士も遅ればせながら落ち着きを取り戻す事ができました。


 そして落ち着いたと同時に将校を守れなかった事への悔しさと敵への憎悪が心底から込み上げてきました。


 今や隊が編成された作戦目的を知る人物もおりませんでしたし、ここは速やかに自陣へと退却するのが最適の解であったはずです。


 しかし、奴らに一矢報いねば、無念を晴らさねばという復讐心が隊員すべての目と思考を曇らせてしまいました。


 もちろん青年も例外ではなく、もはや体の一部のように掌に馴染んだ小銃の柄を力強く握りしめました。


 今度は青年たちの側から仕掛けていきました。


 戦闘力はさほど低下してはいなかったので、皆はこの奇襲は確実に成功するだろうと俄然強気でした。


 窮鼠猫を噛むではありませんが、不意の反撃に目論見通り相手はたじろぎました。


 そもそも彼らの任務は隊の撃滅というよりも敵国にも名が知れ渡り、重要な密偵を帯びていたらしいあの将校を討つのが目的でした。


 指揮官を失い、混乱のうちに退却していった小隊を深追いする事なかれという軍部の指示で自陣へと引きかえしていたその背中を彼らは襲われたのです。


 この銃撃戦も熾烈を極めました。


 青年兵士も今度は己を見失うことなく戦いました。大義のため、お国のため、そしてなによりも討たれた将校のため青年は命を惜しむことなく敵に立ち向かっていきました。


 両軍の被害は甚大でした。


 相手陣営にどの程度のダメージを与えたのかは定かではありませんでしたが、相当数の兵士と武力を削ぐことができたという確かな手応えがありました。


 しかしこちらも結局新たに十二人もの兵士が尊い命を落としました。これ以上戦えばどうなることかという矢先に夜がその黒々とした帳を降ろし、一時(いっとき)の休戦が訪れました。


 夜営のための塹壕を掘り続けながら青年は思いました。


 何故自分は五体満足で生き残り、こうやって元気にシャベルを振るって土に突き立てているのだろう、と。


 生まれた時代がそうさせたのか、育った教育がそうさせたのか。


 もはやそれは判然とはしませんが、とにかく青年は生物が生から死へと向かって行くという自然の摂理を頭から無視し、森羅万象、万物全てを死から逆算してでしか想像できない憐れな若者でした。


 どのようにして死ぬか?そのためにはどのように生きていくか?


 彼の傍にはいつも死が寄り添っていました。


 自らの死に意味を持たせるためというのが彼の生きていく上での唯一の意味でした。


 青年は死ぬ事についてまるで恐れを感じていませんでした。


 むしろ死してこそ自らの功績は偉業として磨かれ、その命は輝くものだと常々考えておりました。


 彼は英雄になりたかったのです。


 そして古代・近代問わず、英雄というものは死んで名を上げるものと疑いませんでした。


 ですから彼はこの戦場で英雄的な活躍をして死ぬつもりでした。


 しかし、守るべき人はもはや死にました。このまま全滅してしまえば後世に自分の事を語り継いでくれる人もいないでしょう。


 英雄どころか自分はただの一兵士として、一人の人間として、ただの名もなき肉の塊となって朽ち、そして名もなき森の名もなき土へと返り、名もなき大地の一部となるだけでしょう。


 青年は思わず身震いをして首を振りました。


 そんなまるで意味のない死など、彼の極端に偏った、されど豊富に溢れ出た想像力で描いた死のビジョンの中では決してあってはならないことでした。


―― 絶対に生き残ってやる ――


 彼の生への執着は理想の死に様への執着のためにより増していきました。


 おそらくそれはそこにいた誰よりも……いいえ、この世に生きとし生きるモノの中で一番に強いものでありました。


軍曹「動けるこの四人で交代しながら歩哨に立つ事にする。村田、まずはお前が立て。一時間したら次の奴を起こし、そして休め」


村田「わかりました、軍曹殿」


軍曹「いいか、気を抜くなよ。何かあったらすぐに皆を叩き起こすんだ。我々は必ず生きて帰る。戻らぬ我が隊に異常が有ったと察し、朝には必ず本営から助けが来るはずだ。それまで何としてでも生き延び、そして隊長の仇である鬼畜連中を撃滅してくれる!」



長い夜は続きます。



                @@@


 

 「こんばんは、ムラタ・ショウゾウ様」


 俺は今、夢を見ている。

 ……多分、夢だ。


 だってそうとでも思わなくちゃ説明がつかないじゃないか。


 猫が喋っている。

 

 猫が黒い毛をなびかせ。

 尻尾を揺らし。


 俺の方をまぶしい物でも見るみたいにして細い目で見ている。


 ただ見ているだけならそれでいい。


 やたら野良猫が多い村で育ったんだ、ガキの頃から盛った猫に睨まれたり襲われたり、そんなものは全然慣れっこだった。

 

 そんなやつら、逆にやっつけてやったもんだ。


 だけど、さすがに口を利く猫に会ったことはなかった。


 「まあ、夢ですので」


 猫がまた喋った。


 いわゆる猫なで声っていう甘ったるくて媚びてくるような可愛い声じゃなく、えらくはっきりと聞き取りやすい男の声で、低音の利いたなかなかの良い声だった。


 一言一言が、耳というよりか頭の中に直接響いてくるようにずっしり重たかった。


 それも夢だからか?


 「お褒めにあずかりまして、ありがとうございます。及ばずながら、私、声には少々自信を持っております」


 猫は自信たっぷりにそう言った。どうやら俺の考えている事こともこいつにはわかるらしい。まあ、夢だもんな。


 「……それでその猫さんが俺になんの用だって?」


 「いえいえ、用という程ではないのですが」


 「だから何?」


 「まあ、色々と……」


 「なんだよ、勿体つけやがって。さっさと済ましてくれよ、次の歩哨に立つ前にゆっくり体を休めておきたいんだ。こんな夢見てる元気だってもったいない」


 「ああ、その事なら心配なさらなくとも大丈夫です」


 「何?」


 「心配なさらなくとも、次にあなたが歩哨に立つ必要はありませんよ、ムラタ・ショウゾウ様」


 「何故?」


 「あなたが次に歩哨に立って守るべきその隊はもはやありません、ムラタ・ショウゾウ様。隊は全滅したのです」


 「……何、馬鹿を言ってる」


 「隊は全滅したのです、跡形もなく。そしてあなたは次の歩哨に立つために仮眠しているのではなく、敵の銃弾を受けて生死の境を彷徨っているのです」


 この猫は何を言っているんだ。いくら夢だからって勝手なことばかり並べたてやがって。


 俺たち兵士は何かが近づいてくる音や気配には本当に敏感なんだ。


 どんなに疲れてたって深く眠ってたって、自分らを殺そうと殺気立ってる敵の気配ぐらい気付かないわけがない。


 「それに気が付かなかったので、あなたは今、こうやって生と死の狭間に立っているのですよ、ムラタ・ショウゾウ様」


 猫はこともなげに言った。


 「詳細についてお知りになりたければ、事細かに説明しないでもありませんが、それを聞いたからと言って何がどう変わるわけではありませんのであしからず。要点だけ掻い摘んでお話いたしますと、歩哨に立っていた軍曹様は立派に勤めを果たそうと気を張り詰めておりました。ムラタ・ショウゾウ様、あなたが先程申しました通り、ただでさえ日頃から兵士として研ぎ澄ませていた五感を、軍曹様は殊更敏感に先を尖らせてひたすら暗闇に目を凝らしていたのです。しかし、何事も『過ぎる』というのはよくありません。軍曹様も気を張り過ぎてしまったのでしょう。その張り過ぎて伸びきった緊張の糸に極々僅かながらも弛みができてしまいました。そして待ち構えていたようにその弛み目がけて睡魔が襲い掛かり、軍曹様を戦場から遠く離れた眠りの国へと連れ去ってしまったのです。いやいや、彼は本当にご立派な方でした。誰も責めることはできません。隊長であった少尉様亡き後、ひるむ事なく隊の士気を維持させたのは他でもない、軍曹様の功績です。彼というお人がいなければ、隊はとうの昔に統率を失い、散り散りになって退却していた事でしょう。しかし、こうなってしまえば、そのまま大人しく自陣に引き下がっていた方がよかったと言わざるを得ないのかもしれません。あなた方が知る由もありませんが、お相手様のねらいは最初から少尉様ただお一人であったのです。ですからお相手様が威嚇と退却を促すために数多く放った銃弾は、あなた方の兵をほとんど傷つける事はなかったのです。それを自分達の能力の高さだと勘違い為されたあなた方は冷静さを欠き、少尉様の護衛という本来の任務を見失い、弔いだ報復だと気負ってお相手様を襲ってしまったのです。なまじ腕の立つお人達ばかり集まっていたのも災いしたのでしょう。自分達だけで勝利できると慢心してしまったのです。敵の戦力や武力の正確な情報もないままに。もちろん、お相手様も逆上したでしょう。警戒を怠っていたわけではありませんが、予期せぬ奇襲に同胞の多くを失ったのです。怒り、猛り、仇を取らなければと心を燃え上がらせておりました。ちょうどあなた方と同様にです。しかし、お相手様は冷静にその心を抑え込みました。夜に乗じて当初の予定通りに一度本隊と合流後、改めて作戦を練り、体勢を整え、本隊の指示の元、あなた方の更にその向こう側を討つべく出陣したのです。お相手様はあなた方の戦力がもはやほぼ皆無、増援の希望もなしという情報をすでに把握しておりました。それならば敵陣に踏み込みがてら、にべもなく打ち取れるだろうという判断でした。密偵を帯びた隊に何事かあっても関知しないというあなた方の本営の態度を知っていたのです。そうです、軍事的な駆け引きという意味で、失敗したアカツキにこの作戦は最初からなかった事に、完全に完璧に黙殺されなければいけなかったのです。あなた方は軍の大事な精鋭の集まりでした。任務は確実に成功させなければいけませんでした。成功させて帰ってくる、それが前提でした。しかし、反面であなた方は捨て駒でもありました。通信機を持たされなかったのを疑問にお思いになりませんでしたか?任務の意味をどうして少尉様以外の誰にも告げられなかったのでしょう?その時、誰か一人でも疑問に……」


 「もういい、わかった、わかったから」


 俺はそこで猫の長いお喋りを止めた。


 何もわかっちゃいなかった。


 しかし、これ以上こんな猫ふぜいに我が隊のことをいいように言われるわけにはいかない。


 「いやいや、申し訳ございませんでした。お気に触りましたでしょうか、ムラタ・ショウゾウ様?決してあなた様やお仲間様たちを非難するつもりで言ったわけではないのです。いつもいつも一言二言足らずに誤解を招いてしまってお相手様に不愉快な思いをさせてしまう、言葉が足らないというのが私の悪い癖でして。直そう直そうとは常々思っているのですが、いかんせん生まれ持った性分というのはなかなかどうして……」


 「それでお前の用ってのはなんなんだ?俺をからかって遊ぶことか?だったらもう十分だろう、俺を起こしてくれ。お前が訳の分からないことを言い出すから軍曹殿が心配になってきた。俺が順番を繰り上げて代わりになってやる」


 「ふむ、信じてはもらえないようですね。まあ、いいでしょう。それでは私の用件はただ一つ、あなたをお救いして差し上げようというものなのですよ、ムラタ・ショウゾウ様」


 いよいよ頭が痛くなってきた。


 やっぱり俺は相当疲れているんだろうな。


 どうせはっきりとした夢を見るんだったら、こんな下らない喋る猫なんかが出てくるんじゃなくて、いい女を抱くだとか美味いもんをたらふく食うだとか、他にもっとあったんじゃないか。


 「ああ、その頭痛は、あなたが頭を打ち抜かれたからなのですよ、ムラタ・ショウゾウ様。少しずつ夢と現実との境が曖昧になってきたようですね。このままいけばあなたは確実に死ぬことでしょう。何せ銃弾が脳をかすめながら頭を貫通して行ったのですから、当然でしょう。本来ならば即死しています。とりあえずは私が出血や痛み、そして死という概念そのものを抑え込んでいるので大丈夫ですが、あなたの返答によっては私はすぐにこの手を放します。そうなれば当然、堰き止められていた流れは一息にあなたの元へと流れ込んで行きます。そしてもう二度と女性の甘美な肌をその手に抱くことも出来なければ、美味なる食物にありつくこともできません」


 そして猫は思わせぶりにニタリと笑った。


 そのピンと立った耳の方にまで裂けてしまうんじゃないかという位に大きな笑いだった。


 「このままではあなたの死は単なる死です。軍からは見放され、英雄はおろか、他の多くのお仲間と同様に身ぐるみを剥がされ、寒空の下、身一つで地面に打ち捨てられ、名もなきただの肉の塊となり、虫や獣たちに食われ、その残骸はやがて土へと還り、大いなる大地のただの小さな一掴みとなることでしょう。どうですか、ムラタ・ショウゾウ様?あなたにこの死を耐えることができるでしょうか?俗にいう犬死というものですね。誰かを救えもしなければ、あなた自身にとっても救いのない、意味を持たないただの死です。想像して頂けますか、ムラタ・ショウゾウ様?その死がどれ程惨めなことなのかを。その死がどれ程報われないことなのかを。私にはそんな死をないものにする事ができます。今のような私の小さな小さな肉球によって繋ぎ止められている仮の命などではなく、永遠に近い程に長い命を保証しましょう。あなたは激戦の中ただ一人生き残った、それも頭に銃弾を受けながらも生き残った奇跡の人として崇められるでしょう。もうすぐこの戦争も終わります。そしてその死を弔われる人は弔われ、忘れ去られる人は忘れ去られます。生きて責任を負うべき人達は然るべき責任を負います。死してその罪を濯がれる人が出てきますし、生きてその罪を償わされる人が出てきます。その他、世界も世相も文化も風潮もこの戦争を境に色々なことが良くも悪くも劇的に変わっていきます。しかし、あなたの立場は変わることはありません。あなたは戦争を語り継ぐべく貴重な生き字引として英雄になるのですよ、ムラタ・ショウゾウ様。もちろん、その対価として相応なものは提供していただかなければなりませんが」


 頭の痛みが段々強くなってきたみたいだ。


 それもどえらい風邪を引いた時とか酒を飲みすぎた次の日とかの頭痛みたいに内側にズキズキ響いてくるような痛さじゃなくて。


 なんと言うか、ふっと気を抜くと血やら脳ミソやら頭の中のものが外側に向かって弾け飛んでしまうような、何かが外に外に出て行こうともがいて暴れているような痛さだ。


 この猫畜生の言うように、頭に穴でも開いてるんじゃなかろうか。


 いや、本当に痛い。


 こんな痛いのは初めてだ。


 本当に死んじまうのかもな。


 親父にぶん殴られたり、あの変な髭を生やした軍の訓練長のクソ野郎に竹刀で思いっ切り殴られたりした時だってこんなに痛くなかった。


 親父か……。


 なんだか無性に会いてえな。


 そういやぁ小さい時、俺が将来兵隊になりてえって言ったら口では褒めてくれたけど、今思えばちょっと悲しそうな顔してたっけな。


 やっぱり本当は自分の跡ついで大工にさせたかったんだろうな、親父。


 あーあ、カッコいいからってだけで兵隊になりたかったんだけど、こんなところで死んじまうんじゃカッコもくそもあったもんじゃねえやな、畜生が。


 そっか、俺は死ぬんだな。


 鉄砲なんかじゃなくて黙ってトンカチ持っときゃよかったんだよな。


 あーあ、死んじまうのか。


 あの世に行けば、お袋や祖父さん達にも会えっかなぁ。


 うん、それもいいかもな。


 ずいぶんガキの頃に死んじまったからな、かあちゃんの顔なんてほとんど覚えてねえけどわかるんだろうか。


 まあ、なんとかなるだろう。


 あの世ってやつはなんでも都合よく物事が回ってくって田舎の和尚さんも言ってたもんな。


 うん、死ぬのも悪くはねえかもな。


 「それでは、このまま死んでしまいますか、ムラタ・ショウゾウ様?」


 「……いやだ」


 「わかりました」


 猫が厭らしさを隠しもしないでニタリと笑った。


 そして、甘いような酸っぱいようなよくわからない匂いがしたなと思った途端、頭の痛みと一緒に意識が遠くなっていくのがわかった。



空白の時間

     空白の時間

          空白の時間



目を覚ました時。

俺は真っ白なベッドの上にいて。



戦争はとっくの昔に終わっていた。




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