第二話

 「私がこうやってあなたが一人暮らすアパートの部屋のドアの前の廊下の上に佇んでいる意味がおわかりになりますか、カシワギ・タケシ様?」


 と猫刑事は言った。


 「いえ、わかりません」


 と僕は正直に答えた。


 猫刑事について、結局僕は何一つ確かな情報を持ってはいないのだ。


 「なるほど、なるほど。おわかりにならない?ふむふむ……それは少々、なかなか困ったことですよ、カシワギ・タケシ様」


 猫刑事は本当に途方に暮れた様子で言った。


 しかしその顔は困っているというよりは、どちらかというと僕に対する侮蔑みたいなものがより多く含まれているようだった。


 「本当に心当たりがございませんか?」


 「はい」


 「本当に?」


 「……わからないものはわからないです」


 僕はいくらか戸惑いながら言った。


 それが猫でも刑事でも得体のしれない何かでも。


 初対面の相手からいきなり蔑まれたとしたら少々態度に困ってしまう。


 猫刑事が僕の前に立っている理由なんて見当がつくはずないじゃないか。


 「なるほど、なるほど。確かにわからないものをわかるかと問うたところでわかるわけがありませんね。いやいや、申し訳ございません。お気に触りましたでしょうかカシワギ・タケシ様?言葉が足らないのが私の悪い癖でして。いやいや、元来私は無口なほうでしてね、幼き頃から『お前は口数が少なすぎて何を考えているのかわからない』と周囲の者に言われ続けてまいりまして、常々気を付けているつもりではあるのですが、やはり持って生まれた性分というものは中々どうして、ふと気を抜くと途端に顔を出して来るものですね。いやいや、一言余計なことを付け加えて他者を傷つけてしまうヒトも多いですが、私のようにいつも何時も一言足りずに誤解を招いてしまうという輩だって決して少なくはないと思うのですがどうでしょうね、カシワギ・タケシ様?……それともやはりこれもわかりませんか?」


 無口な猫刑事の饒舌の最後には、やはり一言余計に僕を小馬鹿にするような言葉が添えられていた。

 

 そう、大げさに丁重さを装ってはいるが、猫刑事は完全に完璧に僕を見下していた。


 それも生半可な見下し方じゃない。


 たとえば王と平民、あるいは月とすっぽん。


 善と悪。

 光と闇。


 ……そして生と死。


 表裏性だとか内包性だとかいう詭弁的な意味は抜きに。


 意味として、概念として正反対の位置にあるそれらのたとえ通り。


 猫刑事にとってはそれくらい僕たちの立場はかけ離れているかのようだった。



 ……実は過去にこんな横柄な態度を他人に取られた経験があながちないわけでもない。


 そのあまり愉快ではない昔の記憶が猫刑事の態度に誘発され、反吐のように心の奥底から一気に込み上げてきてしまう……。

  


              ***


 

 早いもので、あれからもう十年も経つ。


 オチを最初から暴いてしまうけれど、ようするに僕は電車で痴漢に間違われた。


 当時、二十歳になったばかりの僕の前途は一点の曇りもなくどこまでも開けていた。


 一社会人として世間に揉まれ。

 法の下に飲酒も喫煙も容認され。

 選挙権なるものを行使して微力ながらも政治に参加することを許され。

 いくつか年上の恋人を持ち。

 

 ほんのスズメの涙ほどではあるけれど自らで稼いだ貯蓄という立派な財産を持った高卒二年目の若者に、怖いものなどあるはずがなかった。


 スーツとネクタイ、そして通勤の満員電車。


 生まれてからもう二十年経ったのだと改まって思えば、自分がとんでもなく大人になったような気がした。


 日に日に深まる秋の寒空の下、僕は熱にあてられでもしたみたいにフワフワと浮足立っていた。


 だから僕の方に油断があったことも確かに否めない。


 その日も会社に向かう電車に揺られていた。


 一体何があったものか、毎日終末でも迫っているかのような喧噪で混雑している朝のラッシュ時の電車が珍しく空いていた。


 皆が一斉に一本分時間をずらすことを思いついたのだろうか?


 さすがに座席は全て埋まっていたけれど、ともあれ気持ちはとても軽く、朝から気分がよかった。


 どうやらそれは他の乗客達も同じらしく、皆、この小さな朝の幸福をじっくりと噛み締めているように見えた。


 電車は滞りなく発車した。


 僕は流れていく車窓の外の風景をぼんやりと見るでもなく眺めながら夢想に耽っていた。


 確か例の年上の彼女のことを考えていたはずだ。


 昨夜の彼女の火照った肌。

 湿っぽい吐息。

 そして耳元で囁かれる甘い言葉。


 当時の僕は彼女に夢中だった。


 彼女を中心にして世界は周り、宇宙は構築されていた。


 たとえ明日で終末のカウントダウンがゼロになったとしても一片の悔いもなかったことだろう。


 自覚はなかったけれどもしかしたら口元はニヤついてさえいたかもしれない。


 「この人痴漢です!」


 という鋭い声と共に突然僕の腕は誰かに掴まれて持ち上げられた。


 あまりにも唐突。


 僕の意識はまだ甘い官能の向こう側にいて、『この人痴漢です』の言葉は、僕とはまるで関係のない次元にある世界で燃え盛る、対岸の火事といってもよかった。


 けれど、火元は思いのほかすぐそばだった。


 というか発火していたのは僕だった。


 がっちりと自分の腕を捕らえている細くて白い五本の指。

 その爪に塗られたオレンジ色のマニキュア。

 指の持ち主である鼻から下がマフラーで隠された女子高生とおぼしき女の子の鋭い目。


 そして徐々に感じてきた腕の強い痛み……。


 突き付けられたそれらの現実を前に僕の『二十歳の微熱』はにべもなく引いていった。


 そしてそれと入れ替わるような形でようやく理性が顔を出し、自分が相当厄介な状況に追い込まれてしまったようだと事務的に、電車のアナウンスのそれよりももっと無感情に告げた。

 

 もちろん、痴漢なんてするわけがなかった。

 そんなものしようとも、したいとも思ったことはなかった。


 僕と痴漢行為との関係はその他考えうる限り多くの障害を持ってして。


 対岸どころか彼岸のかなたで擦られたマッチの灯りくらい、関りが遠く隔てられていた。


 しかし、声を挙げたその女子高生をはじめ、混み合った車内(いつの間に乗り込んでいたのか、そこにはいつもと変わらない混雑があった)の乗客達がそんなことなど知る由もない。


 皆の僕を見つめる視線はこの上なく冷たかった。


 皆がこぞって僕を軽蔑していた。


 僕は弁解したかった。


 例えこの喉が掻き切れて二度とは声を出すことができなくなってしまっても、僕はその最後の一声まで自分の無実を世界中に叫びたかった。


 その女子高生の肩を掴んで揺らし、何を訳の分からないことを言っているのだと憤りたかった。


 しかし、結局僕は何も言えなかった。


 羞恥と混乱のために顔を真っ赤にし、何事か自分でもよく解らない言葉をボソボソと呟くだけで精一杯だった。


 それからの記憶は切れ切れでしか覚えていない。


 女子高生に代わって体格の良い大きな男が僕の腕を掴み。

 まもなく到着した次の駅のホームへとそのまま僕を引きずり下ろし。

 

 それが嫌だったので振りほどこうと少し抵抗した肘がたまたまその男の鼻に当たり。

 大量の鼻血が出てホームの床に広がり。


 それを見て興奮した幾人かが何かを大声で叫びながら飛び掛かってきて僕を思い切り地面に押さえつけた。


 鉄と秋の寒気に湿気ったコンクリートの饐えた匂いがした。


 

 後の話は何てことはない。


 

 駅舎内の事務所、そしてそこから警察署に連れて行かれはしたけれど、結局その痴漢騒ぎは何人かの善良な人達の証言と、当の被害者である女子高生の手によって事なきを得た。


 僕が片手を吊り輪、もう片方をコートのポケットに突っこんでいて、決して痴漢行為など働くことはできなかったと数人の乗客が弁解してくれた。


 それを警察官が女子高生に追及してみると、彼女はあっさり痴漢被害は虚言であったと認めた。


 日々の受験勉強でうっぷんが溜まり、インターネットの掲示板にたまたま載っていたこのうさ晴らしの方法を面白半分に真似てみたのだそうだ。


 その日の昼にはもう警察は僕を自由にしてくれた。


 「未成年だし、少し精神的に参ってるから」という理由だけで僕とその女子高生とは直接顔を合わせることも出来ず、彼女からの謝罪の言葉は、いかにも面倒くさそうに憮然とした警察官が代わりに僕に伝えるという形で済まされてしまった。


 先程、廊下の向こうから、大泣きに泣いて親には連絡しないでくれと懇願している彼女の声が僕のいた部屋にも聞こえてはいたので、確かに反省はしているようだった。


 そして彼らは僕に対してバツが悪そうにするでもなければ特別気の毒がる様子もなく「じゃあもう帰ってもいいよ、お疲れさん」の二言で僕を警察署からはじき出した。


 もちろん誰も家まで送ってくれなかったし、帰りの交通費もくれなかった。


 強制的に下ろされた電車の切符代だって誰も返してはくれなかった。


 押し倒された際にこすったであろう腕と頬の擦り傷だけが僕の虚しさを理解してくれたように、ヒリヒリと同情的に熱を持って病んだ。


 おまけに一張羅であるコートの端には名も知らぬ大男の鼻血の跡が色濃く染みつき、クリーニングに出しても取れるかどうかわからない。


 ……僕が何をしたっていうんだろう。



 幸いなことに会社からは「お前に隙があったのも悪い」などとひどく怒られ。


 恋人からは「あなたが隙だらけだからカモにされたのよ」などと罵倒の限りをつくされただけで、免職にも別れ話にも発展することはなかった。


 本当に、幸いに……。


 ……僕が何をしたっていうんだよ。



              ***



 あれから十年が経った。


 記憶の細部はあやふやとなってはいたけれど、一連の大まかな流れと匂いや感触などの感覚的な部分だけは、未だにはっきりと僕の心に刻まれていた。


 だから猫刑事のふてぶてしさはあの時、終始僕を犯罪者だと決めつけてかかりながら取り調べにあたった警察官や駅員の態度を嫌でも思い出させた。


 白くノッペリとした駅の事務所や警察署の取調室の陰湿な空気、そんなものが頭にフラッシュバックしてきて、僕は思わず顔をしかめた。


 そして目ざとい猫刑事がそんな僕の心に生じた微妙な変化を見逃すはずもなく、何やら満足げに細く不気味な微笑みを浮かべた。目ざとく、隙間を見つけたのだ。


 「カシワギ・タケシ様。あなたの無知についてここで語り明かしたところで何一つ世のためになることはありません。それで世界から貧困や戦争、その他の数限りない愚かなる行為や劣悪なる事象が消え失せるわけではないのです。確かに無知であることは罪なのかも知れません。それは万死に値するほどに恥ずべきことであるのかもしれません。しかし、たかだかあなた一人の無知によってもたらされる世の中の動きなどほんの微々たるものなのです。いや、そんなもの動きですらありません。あなたの愚劣は、ただあなた一人だけの愚劣であるべきなのです。他者を巻き込んではいけません。何も巻き添えにしてはいけません。あなたの物語はあなた一人だけで完結させなければいけないものなのです」


 僕はいよいよ面倒くさくなってきた。


 しかし、その不平不満を今猫刑事に向かってぶちまけるには、やはり僕は疲れすぎていた。


 なにせ僕は先ほどまで激しい絶望のまさにど真ん中にいたのだ。


 ここ数日まともな食事も充実した睡眠も摂らず、複雑な思考世界の中にうずくまり続けていた。


 誰かを説得してお引き取り願う元気はどこにも残されていなかった。


 それに例え元気があったって新聞の勧誘一つ断るのに相当骨折りをしてしまうような僕だ、とりあえずは余力を最大限に振り絞って落ち着かなければいけないと思った。


 僕は目を瞑り、気を落ち着けるために小さく深呼吸をした。


 すると猫刑事のつけた香水か何かだろうか?


 甘いような酸っぱいような辛いような、何とも形容し難い複雑な匂いが微かに鼻をくすぐった。


 決して不快な匂いじゃない。


 むしろ僕の荒ぶる精神にはアロマ的な作用を及ぼすようで、心がゆっくりと鎮まっていくのを感じた。そう、そのまま落ち着け、落ち着け、落ち着け……。


 「……本当に、あなたの言うとおりだと思います。一から十まで」


 僕は目を見開き、真っ直ぐに猫刑事を見据えて言った。


 「僕には何もわかりません。あなたが一体何者で何を目的として僕を訪ねてきたのか皆目見当もつきません。猫刑事と名乗るからには何か僕に犯罪の容疑がかかってそれを追及しにきたんでしょうか?あなたがさっき言ったように僕が何も知らないことが罪なのでしょうか?それなら反省しています。本当です。確かに僕は昔から噂話や世情には人一倍疎くて、いつもそういうものを知るのは一番最後でした。本来黙りこまずに、その場で言わなければならなかったことをいつもいつも後になってからハッとして思いつきます。勘だって鈍くてまるで頼りになりませんし、何か閃きが頭に訪れることもありません。いつだって一足も二足も遅いんです。鈍くさいと親は呆れました。呑気だと妻は笑いました。そうです。猫刑事さんに改まって言われるまでもなく、僕は僕の鈍さを知っています。自分の無知を知っています。それについては常日頃から本当に反省してるんです。改善の兆候は未だにあまり見られません。でも努力はしています。それを解っていただけたのなら僕には何もあなたや世間に後ろめたい罪なんてありません。無知に甘んじてのほほんと暮らしているわけではないんです。毎日必死になって生きているんです。そう、毎日……必死に……」


 そこで珍しく僕の頭に鋭く閃きのようなものが走った。


 僕は今、全然落ち着いてなんかいない。


 そして僕はいつからこんなにつかえることもなくスラスラと長く喋られるようになったのだろう?


 僕の舌はよく回らないことで有名じゃないか。


「見事な口上で」


 猫刑事は愉快で堪らないという風に浮かべた微笑みを更に大きくした。


 猫刑事のペースだった。

 

 隙を見せまいと身構えたつもりが、いつの間にか猫刑事の描いた思惑通りに僕は踊らされているようだった。


 

 そういえば、呑気だと僕を笑った後で妻はこうも言っていた。


 「この世にあなたのペースを乱せる人なんているのかしらね?」と。



 ……どうやらいたみたいだよ。


 人かどうかはともかくとして。



                 @@@



 私は夫・たけしの事を愛していた。

 いや、今でも確かに愛している。


 決して何事にも動じず、何事にも怒らず。

 

 いつも柔和な物腰で話し、世界の行く末を穏やかな眼差しで見つめ続ける優しい彼の事を、私は今でも心から愛している。


 出会ったあの頃も、結婚してからのこの数年間も、彼はずっと変わらずに優しかった。


 多分、これからもこの先も、ずっと彼の優しさは変わらないのだろう。


 人は彼のことを鈍い人間だと言う。


 頭の弱いやつだと馬鹿にする人だっている。


 私の両親も私たちが結婚を決めた際に、それだけが気がかりだと本気で心配していた。


 私を信頼し、進学や就職、その他それまで私自ら下してきた数々の人生の選択に概ね理解を示し、尊重してくれた両親でさえ、私たちの結婚には一言苦言を呈さずにはいられなかった。

 

 だけど私はそんな両親に言った。


 「彼はノロマなカメさんかもしれない。だけど知ってるでしょ?どれだけウサギが早くたって賢くたって、最後に勝つのはカメさんのように地道に一歩一歩確かに歩んで進む人なの。……いや、やっぱり勝たないかな?だって彼はこの話のカメさんみたいに相手が寝ている隙にシメシメって言ってゴールをするようなズルい人じゃない。彼は『もしもしウサギさん、こんなところで眠ったら風邪ひきますよ』って言ってわざわざ起こしてくれるような優しい心の持ち主なんだから」と。


 それは別に意地や虚勢を張ったわけではなかった。


 確かにしっかりしていそうでどこか抜けたところがあるのは本当だ。


 理知的で、なんでも知ってそうに見えるのだけど、肝心な事をいつも見落としていたり忘れていたり知らなかったりする。


 けれど、それは無理に知識人ぶってスマートにしているからでもなければ、怠慢や卑しい打算からワザとに抜けたふりをしているからでもない。


 彼は至って真面目だった。


 真面目に天然に少しだけ抜けていた。


 私はそんな見栄も欲も張らず、背伸びも慢心も近道をする事もせず、ただひた向きに一歩づつしっかりと歩んで行き、ライバルの体にまで気を配れる優しい彼の事が本当に好きだったのだ。


 

 私がそんな風に言う度に彼はいつも「そんなことはないよ」と言って苦笑した。


 「僕はそれなりに欲だってあるし、どうでもいいことで見栄をはったりもする。近道をしないんじゃなくて近道がどこにあるかよく解らないから仕方がなく遠回りをしているだけなんだ」


 「じゃあ、あなたはウサギが寝ている横を素通りするの?」


 「それは……なんだかズルいような気がしていやだな」


 「ほら、やっぱり真面目で優しいじゃない」


 「うーん、確かに真面目なのは認める。けど、ホント僕は結構短気な人間なんだよ。すぐにカッとなるし些細なことでブスッと不機嫌になるし、君が言うほど穏やかな心持ちを抱いて生活なんてしてないよ。どちらかというと毎日怒ってばかりいるような気がする」


 「それじゃ今までその怒りを何かにぶつけた事ってある?八つ当たりみたいにして」


 「うーん、それはあんまりないかもしれない。だってそんなことしたところで何にも解決しないと思うんだ。かえってその八つ当たりのせいで物が壊れたり人が傷ついたりして、そこに新しい怒りが生まれちゃうだけだろ?うーん、うまく言えないけど、それってなんだかすごく面倒くさい事になりそうだし、それなら僕の怒りは僕の中に閉じ込めておくのが一番なんじゃないかなって思うからさ。……だけどそれは僕が面倒くさがりなだけで、優しい人間だからってわけじゃない」


 「それじゃ怒りを閉じ込めるのは面倒じゃないの?」


 「うーん」


 と彼は困ったように顔をしかめた。

 真剣に困っていた。

 私はこの彼の顔が堪らなく愛おしく、それを見たいがためによくこんな風に意地の悪い質問をした。



 痴漢騒ぎがあった時も、彼はこんな顔をしながら私の前で謝っていた。


 当時、同じ会社に勤めていた私たちは内緒の恋人関係になったばかりだった。

 

 会社の二年先輩だった私が新卒の彼の教育係を一任されたのがきっかけで会話をするようになり、二人きりになる機会も自然と多かった。


 何かと私を頼ってくる世間知らずの年下の男の子がとても可愛らしく、妹との二人姉妹だった私にとっては弟ができたみたいでなんだか嬉しかった。


 小さな会社だったし、よく周囲のおじさん連中からセクハラまがいの冷やかしを受けたり、他の女子社員も事あるごとに私たちの仲を訝ったりもしていたけど、そのうちそれも悪い気がしなくなってきた。


 二年が経とうかという頃にはもう自然に異性として互いに強く魅かれ合っていたようで、そのうちどちらが何を言うでもないまま、私たちは付き合う事となった。


 あの日の朝、彼は会社に来なかった。

 彼が遅刻するなんて入社以来初めての事だった。


 寝坊でもしたのだろうか?


 その前の晩、彼が寝入ったのを起こさぬようにスルリと静かにベッドから抜け出し、身支度を整えて私は家へと帰った。


 帰り際、ワンルームのアパートの玄関から見送った彼の寝息は実に安らかで幸福そうだった。


 私もその幸福感にあてられたのか思わず微笑み、そして安心してドアを閉めた。


 そこにどんな翳りも見出す事はできなかった。


 だから私は心配になった。


 あのドアを閉めた後に何か只ならぬ問題が持ち上がったのだろうか?


 高熱でも出した?

 事故にでもあった?


 何度コールしても応答のない携帯電話を握りしめながら私は、悪い事ばかりを想像していた。


 上司はもちろん怒っていた。

 

 彼が自宅で仕上げると持ち帰り、私も手伝いながら作成したその資料がなければ朝一番の会議が出来ず、仕事が進まなかったのだ。


 昼前に彼から会社に電話が入った。

 

 開口一番怒鳴り散らした上司の声の中には、怒りと共に安堵の気持ちも存分に含まれているようだった。上司は上司で彼の安否を気遣っていてくれたようだ。


 もう出社しなくていいと強い口調で言って受話器を置いた上司に向かい、元教育係としての建前を振りかざして私はすかさず尋ねに行った。


 「柏木君、何があったんです?事故?病気?」


 「……チカン」


 「はい?」


 私は上司が何を言っているのかわからなかった。


 チカン?


 「今朝、電車の中で痴漢に間違われて、さっき警察から解放されたんだそうだ」


 上司は呆れたように頭をかき、顔を大きくしかめながらため息を吐いた。


 「間違われたって……」


 「アイツに痴漢をやるような甲斐性はないだろう?考え事でもしてボーっとなってるところであれよあれよと巻き込まれちまったんだろうさ。全くアイツのおおらかなところは長所なんだけど、それにも増して短所になる事の方が多いな」


 怒りとも呆れともつかない感情がどこからともなく湧き出してきて、私の心をあっという間に満たしてしまった。もちろん無事であったのは何よりだった。


 病気でもなく、事故でもなく、彼の命が無事であった事に私はまずとても安心した。


 そしてたかだか数時間その安否がわからなかっただけでこんなに心配してしまう程、私は彼の事を愛しているのだとそこで確信した。


 その一瞬が私の愛を揺るぎないものへと変化させ、彼との結婚を決意させる決め手となったと言ってもいい。


 ……しかしながら。


 本当にしかしながら、この愛情とは別に込み上げてきた感情は一体なんなのだろう。


 今すぐ彼を呼びつけて散漫な注意力について朝まで懇々と説教をしてやりたかったのは怒りと言えば怒りだった。


 彼の目の前で上司のように大きなため息を吐きながら厭味ったらしく首を振ってやりたかったのは呆れと言えば呆れだった。


 そして実際に痴漢行為を働いたわけではないのに何故だか彼を軽蔑している自分がいた。私の体だけでは満足できなかったのかと痴漢行為をされたという女性に対して女として強く嫉妬している自分がいた。


 何故だか彼が憎かった。

 とてつもない憎しみを抱いていた。

 もしかしたら殺意すらもそこにあったかもしれない。


 わけがわからなかった。

 

 彼は痴漢に間違われただけであって何もしていないのだ。


 おそらくロクな反論も強い抵抗もせず、何もしなさ過ぎてかえって潔い犯人のような雰囲気を醸し出してしまった位に、彼は何もしなかったのだろうと思う。


 現場にいたわけではなかったけど、私にはその光景がありありと描き出せる。


 彼は何も悪くない。

 

 そう、彼は誰がなんと言おうと慰めてあげるべき可哀相な人であり、私の愛を持ってして救うべき被害者だった。


 ……それなのに私は同時に彼の事を殺したい程に憎んでいた。


 まるで私が彼の罪深い手によって存在を害されてしまった被害者であるかのように。


 私はその日の夜、煩悶とした頭のまま彼に会いたくはなく、彼が何度も鳴らしてきた携帯電話のコールを取ることはなかった。


 多分、すごく気にしている事だろうと思った。

 とても惨めな夜を一人過ごしている事だろうと思った。


 けれどそれでも会うわけにはいかなかった。

 

 今会ったりしたら私は何をするかわからない。

 

 もしかしたら彼をもっともっと深く傷つけてしまうかもしれない。


 もしかしたら溢れる程の甘ったるい愛情を持った右手と、同じ位に辛辣な憎悪を携えた左手でもって彼の首を絞めてしまうかもしれない……。




 「お姉ちゃん、ちゃんと部屋で寝なよ」


 そう妹に声を掛けられて私は目を覚ました。


 ダイニングで酔いつぶれてそのまま眠ってしまったようだ。


 テーブルの上には飲み終わる度に思い切り握り潰されてボコボコになったビールの空き缶が無数に散乱していた。私はむくっと体を起こした。


 体がとても重かった。


 反射的に時計を見て時刻を確認したけど、目がひどく霞んで文字盤の数字一つたりともまともに見定める事ができなかった。


 「パーティーでもあったみたい」


 妹はテーブルの上の惨状を見てそう言った。


 「パーティー……そうね、お祝いをしてたの。お姉ちゃんね、結婚するの」


 「ふーん、結婚するんだ」


 「うん、結婚するの」


 「おめでとう」


 「ありがとう」


 私たちはしばらく黙ってテーブルの上の空き缶を見つめていた。


 私はその無残な缶ビールの成れの果てを数えてみた。


 よくこれだけ飲めたものだと我ながら感心した。


 妹は何を考えていただろう。


 まあ、なんでもいいや。


 とにかくひどく疲れていた。


 私は意を決して椅子から立ち上がり、一つ大きく伸びた。


 そして自室に引き上げて眠り直す事にした。


 朝になればきっと色んな事がなるようになるでしょうという楽観と期待、そして多少の諦観を込めて。


「相手はどんな人?」


 去り際の私の背中に妹が尋ねた。


 「優しい人」


 私は振り向いて答えた。


 「優しい人?」


 「うん、とっても優しい人」


 「優しい人……」


 「うん、とにかくとっても優しいの」


 「……幸せ?」


 「まあ……ぼちぼちかな」


 妹は肩をすくめただけでそれ以上は何も聞いてこなかった。


 多分、あまり幸せそうには見えなかったことだろう。


 だけど仕方がない。


 その時は私自身、自分が幸せかどうか判断するにはやっぱり疲れすぎていた。



 手際よく夜食のカップスープの準備をする妹の指の爪には、私が短大の卒業旅行でハワイに行った時のお土産として渡した、有名ブランドのオレンジ色のマニキュアがキレイに塗られていた。


 いつの間にかそんな物が似合うような年になっていたんだなとしみじみ思った。


 「勉強ははかどってる、受験生?」


 「うん、ぼちぼち」


 妹は天使が浮かべた笑みのように屈託なく微笑んだ。

 


              ***



 朝起きてみると、期待していた以上に私の心はスッキリとしていた。


 拍子抜けしてしまう位だった。


 嫌な夢も見なかったし、寝起きもすこぶる良かった。


 昨夜あれほど多量に摂取したビールのアルコールさえどこか私の知らない遠い場所へと運び去られてしまったようだ。


 大げさに聞こえるかもしれないけど、狭苦しい卵の殻を突き破って生まれ変わったような爽快な気分だった。何も危惧する事はなかったんだ。


 そう思うと私もなんだか元気が出た。


 熱いシャワーを頭から浴び、母親が何か声を掛けたのも無視し、そこら辺の服を引っ掴んで着ながら妹の自転車にまたがって急いで家を出た。


 下着だってまともに付けなかった。


 一刻も早く彼のところに行かなければと思った。


 もしかしたら一睡もせず、打ちひしがれながら長い夜を明かしたのかもしれない。

 

 いつまでたっても来ない私の名前をそれでもずっと泣きながら呼び続け、喉を枯らしているのかもしれない。


 彼が哀しんでいる顔を想像するだけで私のペダルを踏み込む足は自ずと力強くなった。


 ……待っててね、今行くから。


 

 少しづつ目覚め始めた朝の街をまさに風のように自転車で息急き走り抜け、彼の住む古いアパートに辿り着き、部屋のドアを思い切り開けたところで、この朝一恋愛ドラマの終幕はすごい音を立てながら勢いよく降りてきた。


 彼はベッドの上ですやすやと眠っていた。


 二十何時間か前に私が微笑みながら見送ったのと全く同じ健やかな眠りに、彼は幸せそうにくるまれていた。


 テーブルの上をはじめ、部屋の中はいつものように整頓されて私のようにヤケ酒を煽った形跡もみられなかった。

 

 シャワーを浴びて体を拭いたバスタオルはキチンと干され。

 

 コンタクトレンズはちゃんと消毒液に浸され。


 スーツはキチンとハンガーにかかっていた。


 いつも通りの彼の部屋。


 大好きな彼の匂いがする部屋の中で、私の可愛い後輩クンは、二人で色違いを買ったお揃いのパジャマの上下をしっかりと着込んでぬくぬくと布団に入ったようだ。


 私は全身全霊、身体に宿る力のあらん限りを込めた右手の拳を、横たわる彼のみぞおち辺りに思い切り叩き込んでやった。


 後にも先にも、こんなに力一杯何かを殴った事なんてない。


 その時に込み上げてきたのは、わけのわからないややこしい感情などではなく。


 純然たる強い怒りだけだった。


「おはよう、柏木たけし君。さあ、結婚するわよ」


「うーんと……うん?」


 彼は例の困った顔をした。寝ぼけ眼と痛みに歪んだ困り顔、これもまた可愛いかもと思った。


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