猫刑事~ 秋の日のルナティクス ~
@YAMAYO
第一話
『
僕はまさに三十年余りに及ぶ自らのしがなき人生において、一番強烈な絶望の只中にいた。
去る人は去り。
壊れるモノは壊れ。
入り組んでいた幾つかの問題はその複雑さをより複雑にして僕の行く手に立ちふさがっていた。
予期せぬ突然の豪雨のように、短期間かつ一所(ひとところ)に悪いことが集中した。
そんな壮大な負の連鎖の冷たい輪の中で、僕は嘆く余裕も涙一つ流す気力もない程に全身を濡れそぼらして疲れ果てていた。
おまけに今は秋の一番奥深く。
そこは人を侘しくさせるためだけに特別に拵えられたような季節だった。
だからそれは誰かが僕の心の隙間にスルリと入り込もうとするにはこれ以上ない位絶妙なタイミングだった。
噂通り、あるいは名前の通り。
猫刑事はそういった好機を的確に捉えることのできる優れた鼻を有し、しなやかな体躯でもって僕の日常へと難なく滑り込んできた。
「猫刑事と申します」
と猫刑事は言った。
「……はい」
「カシワギ・タケシ様御本人でお間違いございませんね?」
「ええ、僕が柏木たけしです」
「柏の木の『カシワ』に木々の『キ』、そしてファーストネームは何故だか平仮名で『タケシ』でお間違いございませんね?」
「……ええ、何故だか平仮名で『たけし』です」
「字画の関係なのでしょうか?」
「まぁ……おそらくは」
「なるほど、なるほど。……それでは字画の悪さからくる未来の不幸、不運を回避せんがために『武』や『剛士』なりを選ばず、あえて平仮名表記になすったご親御様のおかげで、さぞや幸福に満ち満ちた人生を歩んでこられたのでしょうね、カシワギ・タケシ様?」
「……由来は、何某教の神官様が何某神から受けたご神託だそうです」
「なるほど、なるほど。それはそれは高尚にして高貴な真名。あなたは過飾や虚飾なく神の仔と申し上げても差し支え無いほど偉大な存在ということですね、カシワギ・タケシ様?」
どうやら人の心を逆撫でるようなしゃべり口調も噂通りのようだ。
***
猫刑事の噂が僕の周辺を賑わせるようになったのは、本当に最近になってからのことだ。
具体的にはつい一か月程前、昼食を摂りに出かけた会社近くの天ぷら屋において、猫刑事と僕の人生とは初めて交わり合った。
「とにもかくにも、奴はやばいんだ」
と、いつも昼休みを供にしていた同僚は長らく待たされた挙句にようやく運ばれてきた上天丼に文字通りむしゃぶりつきながら僕に言った。
相当腹が減っていたのだろう。
まるでその天丼が何日かぶりにようやくありつけた食事でもあるかのように、猛烈な勢いで彼は最初の海老天を頭から尻尾の先端まであっという間に平らげてしまった。
「やばいって猫が?感染症とか?」
「猫じゃない、猫刑事。ウィルス感染どころか十分おきに消毒液のシャワーを浴びに家に帰っているんじゃないかっていう位に清潔で潔癖的な身なりをしているんだそうだ。まぁ、俺も実際にこの目で見たわけじゃないからその比喩の加減が正しいのかどうか何とも言えないけど」
「猫刑事……」
「そう、猫刑事」
「普通、お巡りさんって言えば犬じゃない?」
「だな。でもとにかくそいつは『猫刑事』って名前なんだから仕方がない。巡査長だか警部補だか捜査一課だか二課だか、『はぐれ』なのか『さすらい』なのか、『七人』いるのか『相棒』がいるのか、その辺りのことまでは知らん」
どうしてそんな話になったのか、今となってはよく覚えていない。
ただそれは、昼食時間帯の大混雑のせいかなかなか注文したものが来ず、その空腹を紛らわすために間断なく交わし続けていたあてどもない会話の一部として、自然の流れで彼の口から出てきたものだった。
―― なあ、猫刑事って知ってるか? ――
といった具合に。
猫刑事……。
その単語の耳慣れない響きに僕はとても興味をそそられ、思わず食いついてしまった。
「そいつがある日突然家を訪ねて来たが最後、目を付けられた人間はありとあらゆる角度からやつに追い詰められ、骨の髄までしゃぶり尽くされ、最後には精気のないただの抜け殻にされてしまうんだ。猫なのか刑事なのか、猫の姿をした刑事なのか、はたまた刑事の姿をした猫なのか、そもそもそれが一体何で、いつどこからやってきたのか、正体は誰にもわからない。具体的にどんな害を及ぼすのかもはっきりとはわかっちゃいないし、それが本当に害をもたらすものであるのかどうかも正直わからない。『奴』とは言っているが、それが複数人でグループを成している組織的なものか単体で活動しているものかそれもわからないし、一体何が目的でそんなことをするのか皆目わからない。ま、一口に言ってしまえばとにかく猫刑事については何もわかっちゃいない。全ては鬱蒼と生い茂るマタタビの群れの奥深くに隠遁されてしまっているわけだ」
「じゃあ結局は何もないってオチの話じゃないの、それ?」
僕は冷やかされたと思って笑った。
「そうあってくれればいいんだけどな」
しかし同僚は生真面目な顔を崩さなかった。そもそも僕の知る限り、彼は下らない冗談を真顔で話せるほどの器用な舌を持ち合わせてはいない。なおも神妙そうに彼は言葉を接いだ。
「誰もその存在に確信めいたことは言えない。おまえの言うとおり、本当は何もないのかもしれない。俺だってネットから拾った話題の又聞きの又聞きだ。所詮はただの噂話、害のない都市伝説や誰かが適当に拵えたつまらない怪談かもしれない。でもな、昨日まで普通に会話をして、例えばこうやって仲良く昼飯を一緒に食ってたやつがだ、明くる日には魂が根元から引っこ抜かれたみたいに腑抜けになってしまいました、髪の毛も真っ白です、原因はよくわかりません、しかし精神は確実に完璧に破綻しています……。ほら、こんな話ならさして耳に新しいことじゃないだろ?ある日突然、頭のタガが外れてしまうみたいな話だ。圧倒的な失望や絶望、身の毛もよだつ恐怖体験、深すぎる喪失感、極端に強いストレス、困窮した精神……。古今東西、理由のこじ付けは多々あれど、実はそれらをもたらした犯人はただ一つ」
「それが猫刑事だと?」
「その通り、奴は人の心の隙間を目がけてやってくるんだ。そしてその隙間を無理矢理にこじ開け、侵入し、好き勝手かき乱した挙句に片づけ一つしないでまた入ってきたところから出て行くんだ。……何かをそこからごっそりと搾取してな」
「サクシュ?」
「搾取だ。もちろん金銭的なものじゃないぞ。精神的な意味合いにおいての搾取。押収とか強奪とかいう表現じゃなく、確かにそれは文字通り『搾取』、全てを搾って、全てを取るんだそうだ。多分、その言葉の持つあまりポジティブとは言い難い響き、救いのない字面がピッタリだったってことかな。融通が利かないと言うか、有無も言わせず容赦がないと言うか、まぁそんな感じのものだ」
「ふむ……」
僕は思わず腕を組んで考えた。
搾取する猫。
あるいは搾取する刑事。
いや、搾取する猫刑事……。
ますますその実像が見えなくなって僕の頭は軽く混乱の気配を見せた。
僕ら二人の間になんとも形容しがたい妙な間ができた。
僕らはそれぞれ同じ対象についてそれぞれの思いを馳せていた。
彼が自ら語った猫刑事についてどんな意見を持っていたのかはわからない。
否定的でも肯定的でもない、かと言って彼の口ぶりからはそこに何か独自の見解や自論があるようにも見えなかった。
しかし普段から思慮深く論理的に物事を捉える彼が、何か一家言めいた考えを持っているのは明白だった。
彼がただの時間つぶしのためだけに軽々しく耳に入った噂話を他人に披露し、挙句、相手を無目的に戸惑わせてかき乱してしまうことなど有り得ないのだ。
けれども彼は押し黙った。
あるいはただうまく言葉で言い表せないだけなのかもしれない。
あるいは彼も僕と同様にただただ混乱しているだけなのかもしれない。
猫刑事?俺は何だって今こんなところで、そんな事を口に出してしまったんだ?と。
どちらにしても、固く閉じられた彼の薄い唇は、そこからこれ以上何かを引き出すことはできないだろうことを暗黙の元に博していた。
雑多な声が賑やかな繁忙時間帯の店内において、僕らのテーブルだけがぽっかりと別次元の時間が流れてでもいるかのように静まり返っていた。
……沈黙を破ったのは同僚のほうだった。
彼がふうと一つ吐いた大きなため息は、僕らを元の時空、国やら会社やらについぞ搾取されてばかりのこの卑しくも美しい、安くて美味いと評判の天ぷら屋が商業ビルの地下一階に入っている世界へと一瞬のうちに引き戻してくれた。
「さてと……。なあ、おまえのその天丼だって猫刑事は搾取の対象として今もどこかで狙っているかもしれないぞ。だからさっさとかっ込んじゃえよ。昼休みだって永遠じゃない、そんな中でもまだ立って並んで食えてない人達だっているんだ」
そう言った彼の丼には、もう付け合せのお新香が一切れ残っているだけだった。
僕はと言えば猫刑事のイメージばかりがどんどん頭に先行し、空腹感などすっかり忘れ去っていた。
ハッとして自分の丼を見やると、殆ど箸を付けられていない天ぷら達が、どこか意味有り気な表情で僕の前に整然と並んでいた。
彼らは一体何を伝えようとしていたのか。
ジッと己の身から体温が無くなっていくことに対する悲しみか諦めか?
そんな状態になるまで放っておいた僕に対する怒りか非難か?
それとも有難い啓示か?
ちなみにその神託は一体いくら位なんだ?
ちなみに僕の名前は五万円だったそうだ。
それは安いのか?
はたまた暴利なのか?
……僕は天ぷら達の無言のメッセージも自慢の天つゆの味もロクにわからないまま、慌てて全てを口の中にかきこんだ。
思えばその時からもうすでに僕に対する猫刑事の搾取は始まっていたのかもしれない。
***
その後、幾人かの人に猫刑事のことを尋ねてみたけれど、皆、やはり一度ならずその噂を耳にしたことがあるらしかった。
そして改めて周りを気にして見てみれば、週刊誌や新聞、テレビのワイドショーなんかにも猫刑事は特集として頻繁に取り上げられていた。
今の今まで僕がその尻尾の先でさえも彼らの存在に気が付きもしなかったのが不思議な位に、猫刑事は世間での地位を確固たるものとしているようだった。
そう、どこからともなくふって湧いたように出現した彼らを、人々は概ね歓迎の色を示して迎えた。
一番論争が白熱したのはやはりインターネット上だ。
政府公認の秘密警察だとかアルマゲドンの前兆だとか宇宙人の地球侵攻だとか、悲喜交々、縦横無尽、千客万来……。とにかく、真しやかな話が右に左に忙しなく飛び交った。
しかし、それらの根底に流れているものは全て同じ、結局は誰もその正体についてはまるでわからないということだ。
これだけたくさんの人々が認知し、仮説や憶測が数多く囁かれていながら、不思議と誰も確信めいた事が言えなかった。
一度、過去に猫刑事に遭遇したことがあるという一人の老父が現れて話題になったけれど、結局それも痴呆老人の戯言だと世間は厳しく冷たくあしらった。
確かに、あの戦時下において老人がまだ血気盛んな一兵卒の青年だった頃。
どこかの戦場で死にかけた彼を夢の中に出てきた猫が助けてくれて。
その後ややあってから人間として姿を変えた猫が、その時の対価を請求しにやってきたのだというこの老人の話。
猫刑事にまつわる他の刺激的でカラフルなエピソードに比べ、あまりにも稚拙で滑稽に過ぎた。
人々が求めているのはそんな陳腐なダーク・ファンタジーではなく、もっと崇高かつ装丁煌びやかな骨太のエンターテインメントだったのだ。
だから老人の物語るその話の記事を簡単に読み捨てられなかったのは、多分、世間でも僕くらいなものだったかもしれない。
大仰に過ぎ。
偶像崇拝のような体を帯び始めてきた他の多くの逸話なんかよりも。
そのモノクロ写真に写る老人の顔(目の部分に黒い線が入っている)が訴えかけるものの方がよっぽど僕には現実的でリアリティーがあるように思えた。
実際、その週刊誌の記事を読み終えた後の僕の頭には、フワフワとおぼろげなシルエットでしか思い描けなかった猫刑事と言うものに対するイメージが、少しだけソリッドな形で歩き始めたような気がした。
@@@
とある老人ホームにて。
「あれは本当に恐ろしい」
カメラのレンズを向けられた短い白髪の老父は、小刻みに体を前後に揺らしながらそう言った。
猫背気味の小さな身体を殊更丸く縮め。
とろんとした目は半ば閉じ加減。
大きな耳はその複雑な形状だけをこの世に残し、本来そこに備わっているべき聴覚は絶望的な程に遠いところへと追いやられてしまっていた。
要するに誰も彼の世界の平穏を犯すことはできないようだった。
側頭部とこめかみの境目辺りにある丸い古傷だけが、この浮世から離れたような老人の中にあって、どこか場違いに生々しかった。
「見た目が恐ろしいと言うことなのでしょうか?一体それはどんな外見をしているんです?」
若い女性が大声で矢継ぎ早に質問した。
「実際に猫刑事に会われたことがあるんですね?それはいつのことですか?」
「あれは本当に本当に恐ろしい」
―― ……勇み足だったかな ――
粘り強く何度も同じ質問を繰り返してはみたが、一向に手応えがなく。
さすがにインタビューをする記者も失望と疲弊の色を隠しきれない様子だった。
旬の話題である猫刑事の独占スクープを狙い。
過去に遭遇したことがあるという人の噂を聞きつけて鼻息も荒くこの老人ホームに駆けてきたまでは良かった。
しかし、下調べもせず。
裏付けもロクに取らないままに直感と勢いだけで出てしまった自分の若さと未熟さを、この女性記者は今更ながらに激しく悔いていた。
―― これじゃただのお爺ちゃんのうわごとじゃないの ――
無理を言って同行してもらったベテランのカメラマンには本当に申し訳ない事をした。
根気強くカメラを構える彼の表情を読み取ることは出来なかったが、内心ではきっとひどく怒っているだろう。
そしてそれ以上に……。
あれだけ大きいことを言って息巻いておきながら一つの収穫もなくこのまま会社に戻ったとしたら……。
『タコ爆弾』の異名を持つ真っ赤になった鬼上司の顔を想像するだけで、いっそ彼女はこの場で死んでしまいたくなった。
「本当に恐ろしい、あれは本当に」
尚も老父は同じ言葉を繰り返した。
側に付き添っている介護の女性職員も気の毒そうに記者を見ていた。
身よりがなく、遠縁の更にその末端にあたる人達の情けと街の助成制度によって長い間この老人ホームに入居させられている老父は、元々寡黙で大人しく従順な人物だった。
何かわがままを言って職員を困らせた事もなく、他の入所者とのトラブルを起こしたという話も聞いたことがなかった。
そもそもあまり喜怒哀楽を示さず、抜け殻のように毎日をぼんやりと過ごしている彼と進んで交流を持とうとする者は誰もいなかったのだ。
それがどうだろう。
ある日の昼食時、食堂に備え付けられた大型テレビから流れる猫刑事を取り上げたワイドショーを観てからというものずっとこの調子で取り付く島がなく、職員一同ほとほと参っていた。
「……お手数をかけてすいませんでした。帰ります」
女性記者は座っていた椅子からすっくと立ち上がった。
覚悟を決めたのだ。
少し青ざめた顔色が彼女の憂鬱と諦めの心境をこの上なく物語っていた。
大きなミスが続いた。
文字通り背水の陣で臨んだスクープも肩透かしに終わり、今度は怒られるだけでは済まないかもしれなかった。
だからこそ「猫刑事なんているわけないのよ」と思わず去り際にこぼしてしまった心持をその場にいて彼女の顔を見た人達は皆理解できたし、心から同情することもできた。
……ただ一人を除いては。
玄関ホールに行こうと振り返りかけた彼女の腕をがっちりと掴むものがいた。
老父だった。
彼女が驚いて向き直るとそこには、先ほどまでほとんど夢遊状態で佇んでいた老人が、全身を上気させ、血走った目を見開きながら彼女を鋭く睨んでいた。
その激昂した様子は、芝生のようにキレイに刈り込まれた短い白髪が逆立って見えるほどだった。
半ば開かれた口から見える尖った八重歯もまるで牙のようで、老父の姿はまさに猛り狂った猫が憑依してでもいるかのようだった。
「『やつ』はいる」
猫老人は重厚な声で言った。
体と連動して弱々しく震えていた先ほどまでの彼の声とは似ても似つかぬ力強い声だった。
どうやら先程の彼女の発言が聞き捨てならなかったようだ。
「『やつ』は確かに存在している。あんたは今いないといった。そんなことは有り得ない。あんたのような人間がいる限り『やつ』は存在し続ける。『やつ』はいる。『やつ』は本当に恐ろしい。だが本当に恐ろしいのは『やつ』ではなく、『やつ』を認めようとしないあんたのようなやつらだ」
老父が語気を強めるとともに彼が記者の腕を掴む力も増していった。
彼女は思わず小さな悲鳴を上げた。
呆然として一部始終を見ていたカメラマンと介護の女性職員はその声でハッとして我に返り、慌てて二人を引き離しにかかった。
この骨と皮だけと言っていいほどに痩せ細った老人のどこにこんな力があるものか、二人がかりでも彼の手を彼女の腕から引き剥がす事ができなかった。
しかし、思わず声こそ上げてしまったが彼女は怖がっている風でもなく「私のことはいいからカメラの準備をして、早く!」と鋭い声でカメラマンに向かって言い放った。
「だって腕が……」
「お願いだから早くして!チャンスなのよ!」彼女と老人とは正面から対峙した。「あなたは猫刑事に会ったことがあるんですね?」
改めて記者は老父に質問した。
「『やつ』はいる」
「いません」
「『やつ』はいると言っている!」
「いえ、私は信じません。もしもそれが気に食わないようでしたら、私に『やつ』のことをもっと教えてくださいませんか?私が『やつ』の存在を信じられるくらいに。まず、初めて『やつ』に出会ったのはいつのことなのでしょう?」
「……『やつ』はいる。ずっと昔から」
カメラマンは急いでカメラを構えた。
レンズの中に写った老人の頭の古い傷跡が一瞬、仄かに発光したように見えたが、光の加減のせいだろうとそんな事には取り合わず、カメラマンは夢中でシャッターを切った。
この後行きつ戻りつゆっくりと、時間にして二時間以上を費やして猫刑事の取材は行われた。
そして急いで会社に戻るや否やすぐに記事を書くべくデスクへと向かった。
話の要点をまとめ。
歴史的背景と照らし合わせ。
説明の足りない部分を推測と仮定で巧みに補って瞬く間に原稿用紙数枚程の文章に起こした。
……しかし、女性記者はどうにも納得ができなかった。
取材中、あれほどまでに生々しく、臨場感のある恐ろしささえ頭の中に描き出す事ができていたというのに、こうして文字にしてみると何と陳腐な話に見える事か。
彼女は何度も文章を練り直したり組み替えたりをしてみた。
持ちうる限りのスキルの全てをそこに捧げた。それでも、やはり取材時に感じたあの鬼気迫る程のおどろおどろしさの一つまみですら記事上には反映できなかった。
「大丈夫、自信を持ちなよ」
デスクで頭を抱えて悩んでいる女性記者にそんな優しい言葉をかけたのは、老人ホームに同行したあのカメラマンだった。
「ありがと。でも全然、面白くないのよね、この記事」
渋い顔で彼女は唇を噛んだ。
「そんなことはないさ。よく書けているよ、これ。俺は一緒にその場にいたからよくわかる。あのめちゃくちゃなインタビューでよくこれだけのものが書けたなと思うよ、ホント」
「けど、本当にアタシが伝えたかったことはこれっぽっちも書けてない。一緒にいたのならわかるでしょ?あのお爺ちゃんが語ったのはもっとエグくて、もっと強く社会に対して投げかけなきゃならない問題であるはずなのよ。こんな滑稽な話で済んでいいはずがないのよ、本当は……」
二人はそこで言葉を詰まらせた。
カメラマンも彼女の言いたい事はわかっていた。
しかし、彼にもそれはどうすることもできなかった。
これ以上、その文章に不足しているものも書き過ぎているものもないように思えた。
彼女のジャーナリストとしての才能……特に筆力に関してはこれまでいろいろな記者と組んできたベテランカメラマンの彼から見ても彼女は一級品だと評価していた。
若さと気性のせいかまだまだ荒削りでその才能を存分に持て余してはいるが、大器の片鱗がこの短い記事の中にもそこかしこに見受けられた。
だがどうだろう……。
それでも老人の口から語られた猫刑事とこの記事の猫刑事とでは根本的にまるで異質なものにしか見えなかった。
どうしてなのだろう?
何が悪いのだろう?
やはり彼にもわからなかった。
「……まあ、俺が一番いい写真を選んでのっけてあげるよ。臨場感あふれる熱いやつをさ。そうすりゃ少しはあの時の感じに近づけるんじゃないかな。ほら、やっぱ文章だけで説明するんじゃ難しいことだってあるんだよ、な?編集長には俺も掛け合ってやるからさ。せっかくの独占スクープなんだ、もっと自分を信じなよ」
―― ……そんな簡単なものだろうか…… ――
内心ではそう思いながらも、もはや後のない女性記者はそこで甘んじるしか手立てがなかった。
その後のこの記事に対する世間の反応はもはや周知の通りだ。
余程悔しかったのだろう、彼女が上司に提出した辞表の端には、強く握りしめたような跡がくっきりと残されていた。
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