第120話 夏休み
夏休みは学会があって、それはもう忙しくてデートだとか言っている場合ではなかった。
お盆休みは、去年と同じく実家に帰った。去年と違うのは、13日にわたしは啓の実家にもう一度行って、啓は15日は実家に、16日に去年と同じくうちに来る。
「ねぇ、本当に大丈夫なの? うちに行くときは一緒だけどさ、帰りはひとりなんだよ?」
「……子供じゃないもん」
啓はまったくわたしを信用してない。去年のはたまたまだし、初めてで緊張してたからだし。……今年こそ、小清水家の嫁となるべく、少しはいいところを見せてこないと!
「啓ちゃん、泊まってきてもいっそ構わないから、風ちゃん、送って行きなさい」
「でもお母さん、それじゃあまりにも……」
「風ちゃん」
お母さんはにこっと笑って、
「これからお式まで、まだまだあるんだから、ゆっくり慣れればいいわよ。お盆に限らず、時間のある時にゆっくりいらっしゃい」
「ありがとうございます」
恥ずかしくて下を向いてしまったけど、ありがたい気持ちでいっぱいだった。お母さん、やさしい……。啓のやさしさの原点は、ここなのかもしれない。
というわけで、啓とまた電車で帰る。
お父さんには会えたけど、啓のお兄さんと弟の良輔くんは家にいなくて、またも空ぶる。
「良輔は遊び歩いてるだけだけどさ、兄貴は研究がすきなんだよ。教授の座がどーのとか言ってたけど、あれだけやってれば、そのうちなるよ。嫁さんもらえるか微妙だけど」
「そんな、身も蓋もない」
「だって兄貴もオレと同じ男子校出身だし、オレみたいに初対面の人と喋ったりもしないし」
お兄さんはどんな人なのかな、と思っていたけど……これからは想像はやめよう。お会いする日はきっと来るし。
申し訳ないけど、混んでる電車の中でも座らせてもらう。わたしの席の前に、啓が立つ。
「お盆だから混んでるね。風、さっき買った冷たいお茶、飲みなよ」
「あ、うん……」
電車の中は冷房は入っていたけれど、人が多くてあまり快適とは言えなかった。
「顔色、悪くない?」
「大丈夫だと思うけど」
「すごい汗かいてるじゃん」
啓の判断で、次の駅で下りた。とりあえずベンチに座る。もわっとした熱気はあるけれど、人混みに入っている感じは薄れる。
「ほら、スポーツ飲料。こっちの方がいいんじゃない?」
「ありがとう……」
冷たい飲み物が、内側からからだを冷やしてくれる。すーっと、体の中にいいものが吸収されるのを感じる。
「お父さん、車で来てくれるって。下のベンチに行こうか」
「うん、なんかいつもごめん」
「バカだなぁ。何のためにオレがいるの?」
啓は微笑んで、わたしが歩くのを補助してくれた。
「車の免許、取るよ」
「今は忙しくて取る暇ないでしょ?」
わたしの研究室と違って、実験系の研究室にいる啓の卒論はデータが命だ。どうしても時間がかかる。そしてその後は啓はとうとう入社するわけだから、免許を取る暇なんかないと思う。
お父さんが来て、ロータリーで乗せてくれる。
「啓くん、風、どんな感じ?」
「電車に乗っていた時は真っ青ですごい汗だったんですけど、降りてからスポーツ飲料飲ませて、涼しいところに座っていたら顔色は少しは良くなったかと」
「……いつも迷惑かけて申し訳ないね」
お父さんがミラー越しにこちらをちらりと見た。また心配かけてしまったな、と心が痛む。
「お父さん、何、言ってるんですか? これからずっと一緒にいるんだから、こんなのはじめの一歩にもならないですよ。ボク、時間を作って、車の免許を取りますから」
「小さいころから乗り物に弱くてねぇ。だけどまさか、この大事なときに電車にも乗れないんじゃ。御両親に申し訳が立たないね」
「大丈夫ですよ。……ぼくの母も体が弱くて電車にも乗れなかったと……あ、故人と一緒にしてすみません」
「いやいや、君の大切なお母さんだろう? いつまでも心の中で大切に想ってあげなさい」
「はい……」
写真立ての中の啓のお母さん、元々、体が弱かったなんて聞いたことがなかった。啓はお母さんのことは喋らない。男の子だからかもしれないし、……思い出したくないから、なのかもしれない。思い出はないって言ってたけど、聞いた思い出はきっとたくさんあるんだろう。……
車の中で寝てしまって、気がついたら家だった。ある意味、みんなの予想通りにわたしは家に到着した。
「うん、さっき着いた。この前と同じ感じだからさ、悪いけど……父さん、怒るかな? 母さん、ごめんね。うん、暇を見て免許を取るよ。大丈夫だよ。父さんによろしく」
「啓……?」
そっと、抱きしめられる。
「あんまり心配させるなよ」
「ごめんなさい」
本当に悪いことをしてしまったと後悔する。
啓の肩越しに客間の見慣れた襖が見える。
「オレの母さん……オレを産んでくれた方だけど、やっぱり風みたいに電車にも乗れない人でさ。早く死んじゃったじゃん……何も覚えてないんだ。風も、そんなふうになっちゃったらどうしようかと」
わたしはそろそろと、啓の背中に手を回した。啓の胸の力強い鼓動が聴こえてくる。
「ならないよ。わたしは普段、病気にならないじゃん? 人混みが苦手とか、普通でしょう? どこにも行かないって約束したじゃん」
「約束したよね?」
「したよ。これからもずっとだよ?」
啓が大きく動揺していることに驚いた。わたしとお母さんを重ねてみている部分はあるかもしれないとは思っていたけど、まさかそんなことに不安を感じていたなんて……。
ますます彼をひとり残したりできないと思った。
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