第121話 名字のこと

 いつかを思い出す。

 夢を見ていた。

 スイカの匂いは、いつも楽しい思い出を運んでくる。


 ああ、みんなでスイカを食べてるんだ……。


「お母さん、風、起きたよ」

「あーもー、風、また心配かけてこの子は! 啓ちゃんに謝りなさい」

「啓、ごめんなさい……」


「ま、お母さんも啓ちゃんも想定内でしょう? そんなに怒らないであげたら? 仕方ないじゃん」

 気がつかないうちに、お姉ちゃんがうちに来ていたらしい。お姉ちゃんはさりげなく、わたしをいつも庇ってくれる。


「お母さんだってそんなに怒ってないわよ。ただ、風の体が心配なだけよ」

「電車に乗った時だけなる病気ってないよ。啓ちゃんとこ行って緊張したんでしょうよ」

 涙がぽろぽろこぼれてきて、顔が隠れるまで布団をかぶった。なんだかとても悔しかった。


「すみません、ちょっと」

「あらあら、啓ちゃんも大変ね」

 啓は客間の襖もぴっちり閉めて、部屋に入ってきた。

「泣いてるの?」

「……泣いてなんかない」

「そっか、泣いてるかと思って心配してきちゃったよ」

 いつものように指で髪を梳いてくれる。自分の実家にいる、ということより、ずっと安心する。


「啓……」

「何?」

「聞かなかったことにしてくれる?」

「いいよ、特別にね」

「……帰りたい」

 彼は困った顔をして、わたしの頭を抱いた。そうしてキスをしてくれる。

「よしよし。15日には帰ろうか」

「ごめんなさい、ワガママ言って」

「いつものことだろ?」


 啓はさっと立って、襖を閉める時、「また見に来るよ」と言って出ていった。


 次に現れたとき啓は、2階のわたしの部屋からめぼしいぬいぐるみを何体か持ってきてくれた。

「啓、ありがとう!」

「好きなんでしょう?」

「うん、この子たちがいないとねー、さみしいの」

 その光景を、彼はにこにこ見ていた。


「風の部屋、初めてひとりで入っちゃった」

「あ! 掃除もしてなかったのに、ひどい!」

「女の子の部屋にひとりで入ったの初めてだから、すっごい新鮮だったよ」

「やだもう、恥ずかしいじゃない」

「ぬいぐるみの一体くらいいたら安心するだろうと思ったんだよ、風のことだからさ。お腹すかない? みんなもう夕飯、すませたよ」

「言われてみれば」


 ひとりでいる客間は静かで暗い。バカみたいだけど、ぬいぐるみでもないといるのが怖い。

 部屋の隅を見ると、この間同様、啓の布団もあってホッとする。


「風? ご飯だよ。歩ける?」

「あ、たぶん」

 啓に支えられて台所に行くと、お母さんの、じゃなくて啓が作ったと思われるおじやが置いてあった。

「ちょっとこの季節に熱いけどね、お母さんに頼んで台所、お借りしたんだよ」

「ありがとう、おいしそう」

 そのおじやには、紫蘇とみょうが、葉ねぎが添えられていた。


 わたしの向かいに啓が座って、わたしはゆっくりおじやをいただいた。

「そう言えばさ」

「うん」

「つき合うまで風のこと見てたって言ってたじゃん?」

「うん?」

「女の子って食べるのゆっくりなんだなぁって思ってたら、風だけだった」

「ひどーい」


「だからさ、もし一緒に食べることがあったら、『小鳥遊たかなしさん』が気をつかわなくていいように、気づかれないようにゆっくり食べてあげようと思ったんだよ。……内緒の方がよかった?」

「ううん……また啓を好きになっちゃう」

 つき合い始めたころを思い出す。そう、確かに啓とご飯を食べに行く時は早さを気にしなくてよかった。いつも、啓が早さを合わせてくれていることには少しずつ、気がついていた。


 啓は立ち上がると客間のほうに向かった。

「今のうちにオレの布団、引いてくるわ」

 わたしはうなずいて、続きのおじやを食べた。


 翌朝はお父さんもいて、啓がいることを喜んでいた。朝からビールを飲もうと言い出してお母さんに怒られた。

 お姉ちゃんたちは15日だけ来るということで、今日はもういなかった。わたしはまだ体調が完全ではなく、去年の夏のようにパジャマで縁台を眺めていた。その隣には啓がいて、ふたりでいろいろなことを話した。例えば昨日話したような思い出話、例えばこれから迎えるであろう結婚のこと。


「啓くん」

「はい?」

「また風はこんな暑いところに座って。熱も下がらないんだろう? 啓くんだって暑いだろう」

「ボクがここを撤退する時が、風さんが布団に戻る時なんで大丈夫です」

 お父さんは笑った。

「啓くんは上手いな」

 啓もにっこり笑った。


「これは……まだ誰にも話してないんだが」

「はい」

「どうしても、とは言わない。もしも構わなければ、婿養子にならないかな?」

 あまりに突然の話だったので、わたしも啓も驚いて声が出ない。


「いや、ダメならいいんだよ。ただボクは君をとても気に入っているしね、それに……風が心配だからねぇ。『小鳥遊たかなし』のままでいれば、気兼ねなくうちに帰れるだろう、と思っただけなんだ。いや、お母さんにバレたら怒られるから秘密にしてくれよ」

「……考えてみます」

 啓がどう思っているのかと思い、彼の顔を見ると、難しい顔をして向日葵を見ていた。

「わたしが『小清水こしみず』になるから、大丈夫だよ」

 陽の当たる縁台の前で、わたしは彼にそう言った。







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