第119話 堺くん
学校では、就職組が次々と内定を取る中、データ取りにみんなで精を出した。棟内で啓を見かけることもあったし、たまたま培養や解析などの休憩時間が重なると一緒にご飯もとれた。
そんなある日、堺くんに呼び止められた。
堺くんとわたしは同じゼミだけれど、扱っているテーマが異なり、思っていたほど一緒にはならなかった。
「風ちゃん」
「あ、堺くん。作業、進んでる?」
「ボチボチね……」
堺くんは何かを言い淀んだ。
「あのさ」
「うん?」
「……啓と婚約したって話は本当?」
わたしは耳までぱぁっと赤くなってしまった。思いもよらぬところでそんな話をすることになるなんて、思ってもみなかったから。
小さく縦に頷く。
「そうかぁ……。俺にチャンス、もうないんだ」
「だって……」
「啓は全然、追い越せないなぁ」
堺くんは遠い目をして、階段の窓から見える緑に目をやった。
「風ちゃんの気を引いたら、俺のものになってくれるんじゃないかって、何度も思ったよ。でも、上手く行かないことってあるよね。……おめでとう、は、まだ言えないな」
ちょっと悲しそうに彼は笑った。
「啓と、結婚するの。いろいろ迷惑かけちゃったね」
「ほんとに? 他の男は知らなくていいの? まだ時間はたっぷりあるでしょう? 迷う時間もあるよ」
壁にもたれた堺くんの目は、わたしを真っ直ぐに見ていた。
「風」
うちの研究室前を通りかかりの啓が、足を止める。
「堺、なんかすごく久しぶりだなぁ」
「フィールドに出てたからさ」
「山男だな」
啓は明るく笑った。
「啓、内定と婚約、おめでとう」
「……話したの?」
わたしは首を振って否定した。
「婚約、急ぎすぎじゃん。もうちょっと風ちゃん、自由にしてあげないの?」
「何も縛りつけてないよ」
「そっか。俺の出番、なしだな。……風ちゃん、しあわせ?」
しあわせ? わたしの中は、啓との婚約が決まったことでうれしさに溢れていた。たぶん、それを「しあわせ」と呼ぶんだろう。
「うん。すごくしあわせ」
啓は目を見開いていた。わたしの言葉にいちばん驚いたのは啓だったようだ。
「そっか。じゃあ、これからも啓に大切にしてもらうんだよ」
わたしは微笑んだ。
「堺」
「おう」
「……ありがとう。風のこと、しあわせにするから」
「ばーか。その覚悟があって、プロポーズしたんだろ? まったくお前はなんでもせっかちだし、考えなしだから気をつけろよな」
階段を啓と一緒に下りた。ふたりとも何も言わず、同じことを、違う角度でおそらく考えてるんじゃないかと思う。
「サンプル置いてくるから、一緒に昼、行く?」
「ああ、うん」
「じゃあちょっとだけ待ってて」
壁にもたれて空を見ていた。
黒い雲が流れてきたので雨になるだろう。傘を持って行った方がいいかしら……。お昼からは80パーセントと、予報は告げていた。
「降りそう?」
「うん」
「風、この間、熱出したばかりだからな。研究室の共同の傘、借りてくるよ」
「いいよ、手間でしょう?」
啓は、その大きな手をわたしの頭にポンと置いた。
「お姫様がまた倒れるよりいいでしょう? すぐ取ってくるよ」
啓は軽やかに走って行った。
「雨、降りそう?」
「あ、うん」
堺くんも研究室から出て、お昼に行くようだった。
「お昼? あの……一緒に行かない?」
「行かないよ、っていうか、行けない」
どちらともなく言葉を失う。堺くんとの楽しかった思い出が、こんなときにくるくると頭の中で回り出して、やり切れなくなる。
「もう、キスなんてできないね。人妻かー」
「人妻って。そんなにすぐ入籍はしないし」
「……そういうの、言っちゃダメだよ。今だって手を繋ぎたいのを我慢してるんだから」
胸が、つきん、と痛くなる。
去年の夏休み、堺くんと3センチだけ指先が触れたことを思い出す。何回かキスしたことより鮮明に……。
「人妻になる前に……なった後でも、必要になったらここにおいで」
「院に進むの?」
「山男だからね。風ちゃんを忘れられるまで、スマホの番号、変えないから。何かあったら逃げておいで」
堺くんは雨の降りそうな空の下を、ひとり、歩いて行ってしまった。
その後、ビニール傘を持った啓が現れて、わたしたちは食堂に向かった。
誰にも見えない校舎の影で、一度だけ、せがんでキスをした。
「堺がいないとさみしい?」
「そういうわけじゃ……」
「そういうことでしょう? オレが堺の代わりにもなるよ。大丈夫、もたれかかって」
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