第56話 別れ話
一度、啓の授業中を見計らって彼の部屋に戻る。堺くんが手伝ってくれて自分の荷物を持てるだけ持ち出す。……おそろいのパジャマ、行き先がわからなくなっちゃったね、ごめん。
LINEは大変なことになっていて、ちーちゃんは爆キレ、美夜ちゃんは別れるべき時、と言い出した。
ちーちゃんは、『あんな女のどこに魅力を感じるのかわかんない。図々しいし、礼儀もなってない。あいつ、ヤっちゃったんじゃないの?』
と言い、美夜ちゃんは、
『あの場所で風を捨てるなんてサイテー。あの女、サークルも出禁にしてやる』
……二人ともなんだかんだと心配してくれるんだから、これが友情だ。
自宅に帰ろうと荷物を抱えてホームに行った。たった一ヶ月にも満たないのにこの荷物……ほとんど洋服。バカみたい……。
「風」
まるで名前のようにふわりと、わたしの名前を彼が言った。トランクに座っていたわたしは、何が起こったのかわかりかねている。
「風……会いたかった」
啓はこっちの方向に歩いてやってきた。わたしはそれをただ見ていた。
トランクの脇に啓がしゃがむ。
「まだ、オレのものでいてくれる?」
「……それを忘れたのは啓じゃなくて?」
わたしが乗るはずだった上り列車が一本、走り出す。
「風、話を聞いてよ」
「どこまで聞いて、わたしはどこまで悔しい思いをすればいいの?」
「何もない」
「ないはずがない」
啓はいつになくわたしの手首を強く握って、真剣な顔をした。
「風……お願いだから、話を聞いてよ」
「何を聞くのかわかんないもん」
「言ってきたよ、さっき」
「何を?」
「オレには彼女がいるから、からかうのはよしてほしい。絶対、何があっても君を好きにならない。彼女しか好きにならないから」
お尻の下のスーツケースに、ずっと座っていても凹まないかな、とおかしなことが気になり始める。
「言ったよ。君みたいに他人の心の読めない人は嫌いなんだって」
啓が近づいてきて、わたしのふにゃんとした体を腕で掴んで立たせた。わたしはまだ目眩がしそうだったけど、目だけは啓を見ていた。
「風だけが好きなんだ。もう一度、やり直させてくれないかな?」
それは、春の桜の下の告白みたいにドラマチックなシュチュエーションではなかったけれど、力強い彼の声に、わたしは聞き入っていた。
「ダメかな?」
「……ダメかもしれない。啓が他の女の子と話してるとこなんて見たくないって言ってたじゃない。どうして約束破るの?」
「ちょっと待ってて」とスマホを持って話をしている。
バイトの時間、過ぎてるよなぁ……。
「バイトはちゃんと行かなくちゃダメじゃないの?」
電話を切った啓に話しかける。
「バイトは大事だよ。責任持ってやりたい。でもさ、バイトは幾らでも代わりがあるけど、風の代わりはいないから」
「……わたしじゃなくても女の子ならいるじゃん」
「風……どうしたらわかってくれるの?」
「わかりやすい状況にならないと、考えられないよ」
啓は相変わらずスーツケースに座るわたしの顎を急に掴んだ。
下り電車が入ってくる。
電車は少しずつ、速度を緩めてホームに停止する。
ホームにバラバラと出てきた人たちが、私たちを見てぎょっとする。……わたしたちは、ずっとキスしていた。
離れないでいてほしい気持ちと、このままではいられない気持ち……離れてしまってから、離れてしまったことを悲しく思う。
「おいで。もう離さない。ふらふらしたりしないよ」
お尻を上げると、啓は荷物を持ってわたしの手を繋いだ。ことことこと、駅の階段を下りる。改札をスルーして、また駅の出口に逆戻りした。
啓は、駅の出口脇のお稲荷さんの木陰であの日したように、お互いを欲し合うようなキスをした。多少手荒に扱われても、不思議と嫌ではなかった。
「啓……ん……」
「愛してる」
雨がパラパラとアスファルトを濡らし始めていた。啓は雨になかなか気がつかないで、キスは止まらない。
「啓……雨…」
「雨? 関係ない。風が欲しい」
雨は止まない、啓は動かない。このままここで情動に身を任せていても仕方ないし。
ブブブッと鈍い振動が響き、啓のスマホが鳴る。ちらりと画面を確認して、わたしに向き直る。
「堺とやったの?」
「なんでいきなりそんな話になるのよ」
「やったのかって聞いてんの」
「……そんなに安くないよ」
LINEは堺くんが送ってくれたものだった。
「キスだけ?」
啓の顔が子犬のように、何かを懇願する表情になる。
「キスだけだよ」
「帰ろう。……逃げ出さないでね」
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