第25話 お互いのタイミング

 ドアを開けて、順番に中に入る。

 今日は朝、あわてたらしく、食器やペットボトルがテーブルに出しっぱなしだった。

「あ! ごめん。ちょっと寝坊しちゃってさ」

「一コマ、英語だったから早かったもんね」

「昨日、バイトだったから。すぐに片すね」

 こんなとき、彼女は洗い物くらいしてあげるものなのかなぁ。でもそれが嫌なひともいるだろうし迷う。

「手伝う?」

「あ、じゃあ、買ってきたもの冷蔵庫にお願い」


 冷蔵庫の中は案の定、ほぼ食べる物がなく、水とお惣菜の残り物しかない。

「夕飯、作ってみようか?」

「え、いいよ、お米もないよ」

「ひと休みしたら買い物にいこう。でも、腕は期待しないでね」

 ようやく啓が笑ってくれた。


 そのあと、ふたりで何を作るか決めた。食べたい物をあげて、ネットでレシピを探す。

 で、失敗のないカレーにしようということになった。

 ……またお姉ちゃんに教えてもらおう。


 夕方になるまで、ふたりでゆっくり話したり、ゲームをしたりした。ゲームはほとんどしたことがなくて、啓に笑われてばかりだったけど、沈黙が続くよりずっとマシだった。


 空の色が、薄いブルーにトーンを変える。

「もっと早く買い物に行けばよかったかなぁ? 風、帰り、遅くなっちゃわない?」

「大丈夫だと思うけど」

「自転車で買ってきちゃおうかと思ったけど、学校に置いてきちゃったな」

 啓は窓の外を見て、時間を気にしていた。

「そんなに神経質にならなくたって」

「……」

 両手を、向かい合って繋いだ。

「夜になるのが怖いな」

「なんで?」

「なんでってさ……」

 不意に手が離れた。

「買い物に行こうか?」


 カレーを作り始めたのはいいけれど、わたしの手際の悪さに啓はくくくと意地の悪い笑い方をした。そしてピーラーを使ってさっさと野菜の皮をむいてしまう。

「オレさ、バイトで厨房に入ってるから」

「え? やだ、早く言ってくれたらよかったのに」

「聞かなかったじゃん。それに、苦手なこと一生懸命にやってる風は見ててかわいいし」

「かわいくないよ」

「かわいいよ」

 すかさず頬に軽いキスをされてしまう。

「何しててもかわいい」

 そう言うと彼は「座ってていいよ」と言ってやさしく笑った。


 悔しいことに、啓が作ってくれたカレーはすごく美味しかった。

「厨房にいるとさ、残り物もらえたりするんだよ。だから食費、浮くんだよね」

「そうなんだ」

 何だか立場がない。彼女の役目がない。

「また、お姉ちゃんに教わってくるから。そしたらレパートリーも増えると思うんだけど」


「お姉ちゃんがいるの?」

「うん、結婚してるからうちにはいないけど、わりと近くなの」

「ふうん、知らなかった。仲がいいんだね」

「たぶんね。おねえちゃん、しっかりしてるからわたしのこと、よく見てくれて」

「なるほど。なんか納得」

 笑っている。確かにわたしは何でもゆっくりだし、みんなとテンポが違う。

 食べた後、食器くらいは洗わせてもらった。

 悪戦苦闘してると後ろから啓に声をかけられた。


「ねぇ」

「どうしたの?」

 やっと洗い物をやっつけて、タオルで手を拭く。啓の様子が気になって、向かい合って座った。

 彼はこつんとおでこをくっつけてきた。当然、すぐ目の前に彼の顔がある。いつもは屈託なく笑っているのに、今は真面目な顔をしている。


「ねぇ、風」

「ん?」

「キスしていい?」

「あ、うん……」

 髪を撫でられて、わたしは目を閉じる。

 彼の唇がそっと、わたしの唇に触れる。

 二度、三度とやさしく口づけされて、わたしはその心地良さをゆっくり味わう。

『大事にしてる』、その言葉が頭に浮かぶ。わたしは彼に触れたくなって、彼の体に腕を回した。


 ……うっとりするようなキスって、こういうのだと思う。

 だんだんその口づけは深くなって、求められることについて行くのが難しくなる。息が切れて、ため息がもれる。それでも離してもらえなくて、窒息してしまいそうで思わず声がもれてしまう。

「ん……」

 自分でも今まで聞いたことのない声。


まだ息苦しくて、彼の背中に回した手が、薄いブルーのシャツを掴む。

「んん」

そんなに苦しいのに、やめてほしくないのはなんでなんだろう? 少しも離れたくない思いで、彼のキスに夢中について行く。


「……」

これ以上、むり、と思うところでようやく開放された。

「抱きたいよ」

とくん、と心が揺れた。

「本当に風がそれを望んでるなら、オレは風を抱くよ。別に男のプライドとか関係ないよ」

本当のことを言えば、このまま、今の気持ちのまま流されてしまいたかった。けど、彼にはその時じゃないのかもしれない。お互いのタイミングが合うとき、きっとそんなときが来るんだ。

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