第25話 佑香さんち

「あ、芽が出てる!」

 

 窓際に置かれた緑色の鉢植えに、いつものように霧吹きをしようとしたところ、小さな芽がいくつか出てきているのを見つけた。

 鉢植えには死んでしまったネオンテトラを埋葬して、パンジーの種を撒いてある。ちなみに後で調べたら、これはプランター葬というらしい。

 

「いい感じに育てられてるのかな。水槽の方も大丈夫そうだし。なんとか持ち直せて良かった…。」

 

 ネオンテトラが突然3匹死んでしまった時はどうすればいいのか分からなくて、とても焦ってしまったが、続けて何匹も死んでしまうような事態は避けることが出来た。

 

「さて、そろそろ行かないと。」

 

 何となく、少しだけ気分は乗らないけれど、今日は浅野観賞魚センターに行かなくては。

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 じりじりと照りつける太陽に肌が焼かれる。しっかりと日焼け止めは塗ったけど、汗で流れてしまうのでは無いかというくらい暑い。

 自転車を漕いでいる間は風を感じて、ほんの少しだけ涼しいのだが、信号に捕まると地獄のような暑さが襲ってくる。

 

「暑い……。まだ7月なのに暑すぎ……。」

 

 今は7月半ば。これから夏休みが始まり、8月に入って暑さは更に増していくだろう。

 ひーひー言いながら自転車を漕いで、浅野観賞魚センターに到着する。流石に暑いからか、いつもベンチに座っている店長さんが今日は居ない。

 

「こんにちは。」

 

 暑さ対策だろうか。いつもは閉じているドアが開けっ放しになっている。店長さんはレジ横に座って雑誌を読んでいた。

 

「おぉ、いらっしゃい。暑いな。」

 

 私をちらっと見てから立ち上がり、すぐ近くの雑誌売り場に、読んでいた雑誌を戻す。今読んでいたのは売り物だったんだ……。

 

「最近魚の調子はどうだ?暑いから何匹かやられちまったんじゃないか?」

 

 ぐーっと伸びをしてから首をぐるりと回し、腰をトントンと叩きながら、店長さんが何気なく問いかけてきた。あまり聞かれたくなかった質問に、私はドキッとしてしまう。

 

「あー、はい……。この前ネオンテトラが3匹死んじゃってました……。多分暑さとCO2添加のやりすぎで……。」

 

 思い出すと今でも気分が落ち込む。もっと早く気がついてあげられたんじゃないかと何度も後悔した。

 

「3匹かぁ……。まぁそんなもんで済んだならいい方じゃないか?」

 

 売り場に並んだ数冊の雑誌を整頓しながら、店長が続ける。

 

「ネオンテトラは丈夫な方だけど、落ちるときは一気に落ちるしなぁ。何年も熱帯魚やってるやつでも、原因もわからずあっという間に全滅することもある。夏の水温管理は難しいしな。3匹で済んだなら、よく世話できてる方だと思うぞ。」

 

 私の方を振り返ってニヤッと笑った。

 

「え、あ……。はい……。私……、何とかやれてるのかな……。」

 

 店長さんに言われると少し気持ちが軽くなった。何だか張り詰めていた緊張がほぐれたみたいにホッとした。

 

「ちなみに、夏の水温対策としてはこういうものがある。」

 

 店長さんがいつの間にか持っていたのは、黒くて四角い小さな扇風機みたいなもの。

 

「水槽のふちに取り付けて、蓋を開けて風を送ってやると、気化熱で水温が下がるという代物だ。これが今なら1000円でそこに売っている。どうだ?」

 

 店長さんが指さす方に目を向けると、特設ブースっぽく作られた棚に商品が積み上げられていた。白い紙に黒い字でデカデカと『水槽用扇風機!特価1,000円!』と書かれている。

 せっかくだから見てみようと近づこうとすると、後ろから声をかけられた。

 

「千草。そんなの買わなくていいよ。それ、3年前からの在庫処分だよ。」

 

 店長さんが珍しく宣伝してきたにも関わらず、それを遮ったのは黒いシャツとショートパンツ姿の佑香さんだった。

 

「店長、取りに来たよ。」

 

「はいよ、ちょっと待ってな。あと、3年前じゃなくて2年前だ。」

 

 店長さんはレジカウンターにさっきの扇風機を置いて、奥に行ってしまった。

 

「こんにちは、佑香さん。」

 

「うん。千草、今日は時間あるんだよね。」

 

 私はこくりと頷く。昨日の夜に佑香さんから、連絡が来ていたのだ。今日は1日暇だったので、大丈夫と返した結果、浅野観賞魚センターで待ち合わせすることになったわけだ。

 

「じゃあこの後あたしの家に行こう。」

 

「佑香さんのおうちね……。えぇ!?」

 

 驚きの言葉を口にすると同時に、店長さんが奥から発泡スチロールの箱を持ってきた。

 

「はいよ。確認してくれ。」

 

 レジカウンターに発泡スチロールを置いて、蓋を開ける。佑香さんは箱に手を入れて、何かを取り出す。それは水が入って空気がパンパンに詰まった、見覚えのある袋。

 

「……。うん、いい個体じゃん。さすが。」

 

「お魚?」

 

 佑香さんが手に持った袋には、小さな袋が2つ入っていた。その中にはそれぞれ小さな魚が1匹ずつ入っている。

 

「ヒプソレビアス マグニフィクスのペア」

 

「マグニ……?ペアってことはオスメス?」

 

「うん、こっちの派手なのがオス。地味なのがメス。」

 

 佑香さんは背負っていたリュックを開けてごそごそと荷物をいじってから、袋をリュックに入れた。

 

「外めちゃくちゃ暑いけど大丈夫?」

 

 思わず佑香さんに聞いてしまった。

 

「ん、大丈夫。保冷バッグが入ってるの。家まで20分もかからないくらいだし。」

 

 佑香さんはリュックの中を見せてくれた。魚が入った袋は保冷バッグに入れられ、その保冷バッグがリュックに収まっている。これなら外の暑さで水温が一気に上がることは無さそうだ。

 

「お会計は8,000円な。」

 

 店長さんがピッピとレジを打ちながら言った。

 

「8,000円!?お魚2匹で!?」

 

 びっくりして大きな声を出してしまった。

 

「レアだからな。」

 

 なぜか超どや顔の店長さん。普通に諭吉を出す佑香さん。

 

「よし、行こう。」

 

 リュックを慎重に背負って、佑香さんは外に向かう。私も後を追いかける。レジ操作を終えた店長さんは、売り物の雑誌を手に取ってレジ横に腰を下ろした。

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 自転車で慎重に走る佑香さんの後を追いかける。8,000円もするお魚を背負った佑香さんは、なるべく振動を与えないように、段差を避けながら走っている。

 

「もうすぐ着くよ。」

 

 赤信号で止まったタイミングで告げられた。いったいなぜ私は佑香さんの家に行くことになってしまったのだろうか。聞こうとしたタイミングで信号が変わった。

 

 佑香さんが速度を落とし、1軒の家の前で止まった。私も併せて停止する。

 

「ここ。自転車はこっちに停めて。」

 

 先導する佑香さんに従い、自転車を停める。ガレージの一角が駐輪スペースになっているようだ。

 

「おじゃましまーす。」

 

 佑香さんの後に続いて進む。ご両親は留守にしてるようで、少しほっとした。

 

「ここがあたしの部屋。」

 

 玄関から少し廊下を進んだ先、1階の奥まった所が、佑香さんの部屋らしい。ガチャっとドアを開けると、ひんやりとした空気が漏れ出てきた。

 

「うわ、涼しい。」

 

「クーラーつけっぱなしだからね。どうぞ。」

 

 佑香さんの部屋はクーラーのおかげで涼しく、湿度も高くない、快適な状態に保たれている。私は初めて、同じ趣味を持つ友達の部屋に踏み入るのだった。

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る