5.

「寝られない……」

 つい、声に出して呟いた。

 ここ数日、ますます昼夜逆転が進行していた。ぐちゃぐちゃな時間に眠ったり食べたりしている私よりも、パキラの方がよっぽど生き生きしている。

 昨晩は明け方まで寝つけず、緋(あけ)色に染まる部屋を眺めているうちにとろとろと眠った。そうしたら今度は、夕方の五時まで目覚めなかった。さすがにお腹が空いたので、冷蔵庫の中のハムと卵を炒め、三日前が賞味期限だった食パンの最後の一枚を焼き、それでとうとう家の中の食料が尽きた。

 洗い物をして、とりあえずシャワーを浴びたら買い物に行く気分ではなくなってしまって、あいかわらず雨が降っていたので洗濯物を風呂場に干して、それからずっと図書館で借りた本を読んでいた。携帯はベッドと壁の隙間に落ちてしまって、まだ充電していない。

 さすがに明日こそ授業に出ないとまずいし、そもそも家に食べるものがない。ちゃんと寝ようと思って電気を消したのが午前二時。それから一時間半経った。

 朝が来るのがいちばん早い季節だ。窓の外はもう、じわじわと夜明け前の青に移ろいはじめている。

 あざらしくんの鼻先をつつく。当然ながら、何の反応もない。寝返りを打って、パキラに視線を移した。こんもりとした木のシルエットを眺める。

 ひょっとしたら、お腹が空いて眠れないのかもしれない。全然食欲はないのにそう言い訳して、私は起き上がった。パキラのほうは毎日水と太陽でたっぷり食事をしているのに、私ときたら、今日はまだ一食しか取っていないのだから。

 流しの電気を点けて、台所で戸棚の中を漁る。最後に買い物に行ったのが四日前で、昨日と一昨日は家から出てさえいない。何もあるはずがない。

 戸を閉めようとして、ふと、見覚えのない缶が上のほうに置いてあるのに気づいた。平べったくて軽いそれを手に取る。そこそこ有名な、紅茶屋さんの缶だった。

 私も、寒い時期にはよくティーバックの安い紅茶を飲むが、自分でこんな紅茶をわざわざ買った記憶はない。

「どうしたんだっけ、これ……」

 缶の中には未開封のままの茶葉が、袋に入って収まっている。しばらく記憶を探って、今年の三月のことを思い出した。ああ、そういえば。

「仲村くんにもらったやつだ……」

 今年の二月十四日は、ちょうど二人とも取っていた授業の試験があって、仲村くんと顔を合わせた。トリックオアトリート! と開口一番叫んだ彼に、それはハロウィンでしょ、とつっこんで、たまたま持っていたポッキーをあげた。ちゃんと三月にはお返ししなさいよ、という冗談と一緒に。

 三月十四日はもちろん春休みで、私も自分の発言をすっかり忘れていた。それが、偶然仲村くんと大学の図書館の前で出くわしたのだ。私と目が合った彼が、あ、まずい、という顔をしたので、そういやバレンタインにポッキーあげたっけ、と思い出した。お返しは? とふざける私に、仲村くんは提げていた袋の中から、小さな缶を取り出した。

 ――しょうがないなあ。二種類買ったから、片方あげよう。

 ――仲村くんって、紅茶にこだわりがあるの?

 ――いや、全くないから、紅茶好きの知人に勧めてもらった。

 ――せっかく勧めてもらったのに、ひとにあげちゃったら意味ないんじゃないの。

 ポッキー一袋に紅茶一缶はぼったくりだろうと思って私は遠慮したのに、仲村くんは、飲んだ感想を教えてくれればいいんだよと笑ったのだった。

 けれど、こっちの家にはポットも茶こしもなかったし、もう寒さも緩んできていたから、結局飲む機会がないまましまいこんでしまった。そうして新年度がはじまって、仲村くんと話すこともなくなった。

 私は不意に、紅茶の袋を開けた。何も考えていなかった。袋が開いた瞬間、あ、しまった、どうしようという理性の声が、頭の片隅で聞こえた。

 甘やかな良い香りが立ち上る。温かいお茶を飲むような季節ではなかったけれど、それを嗅いだ私は無性にその紅茶が飲みたくなって、やかんを火に掛けたのだった。

 マグカップを取り出して、直接茶葉を入れる。気をつけてゆっくり飲めば、それで飲めないこともないだろう。缶のラベルに茶葉の種類が書いてあったが、わざと見ないでおいた。どんな味がするのか、自分の舌で確かめたかった。

 湧いた湯をマグカップに注ぐ。ぶわりと茶葉が舞って、透きとおった色が溶け出した。染まっていく器の中身を眺めていて、まだ部屋の電気を点けていなかったことに気づいた。

 明かりを灯す。マグカップを座卓に移し、カーペットの上に腰を下ろした。ほわほわと白い湯気が視界を覆った。

 熱い紅茶を一口啜る。砂糖も何も入れていないのに、香りそのままの甘みが広がる。おいしいお茶だった。お腹の中に熱が届いたのがわかる。私はなんだかじんとしてしまって、そっと震える息をついた。

 湯気ごしにパキラを見やる。つややかな緑の葉が――

「え?」

 ぞくりと、背筋が冷たくなった。鉢の前まで飛んでいく。ぴんとはりつめていたはずのパキラの葉が、萎れていた。

「だって、だってずっと元気で……あれ……?」

 昨日も一昨日も、私はパキラを眺めていたはずだ。

 だけど。

 一瞬で変り果てるなんて、ありえない。私は、いつから、見えていなかった? こんなふうになるまで、どうして気づかなかった?

「電話……」

 仲村くんに、伝えなくては。名前までつけてかわいがっていたのだ。謝らなくては。

 ベッドと壁の間に腕をつっこんで、携帯を取り出す。充電器につないで、画面に明かりが灯るのを狂おしい思いで待った。

 携帯が起動する。アドレス帳から、仲村くんの名前を探す。何か稀之介について困ったことがあったら訊いて、と仲村くんが番号を渡してきて、私も、もしとんでもない大事故とかに遭ったら連絡してくれていいよ、と自分の電話番号を教えたのだった。これまでずっと、個人的に連絡する用などなかったから、そのとき初めて。

 携帯を耳に押し当てる。コール音の合間に、ふつうは寝ている時間なのでは、という常識がようやくよみがえってくる。もう掛けてしまったけれど。

 唐突に、無機質な電子音が途切れた。

『……もしもし?』

「あ、な、かむらくん」

『どうしたの?』

 電話越しの声は眠たげだった。やっぱり寝ているところだったのだ。

「あのね、あの、ごめん……ごめんなさい……」

『うん?』

「ぱき……稀之介がね、元気がないの。葉っぱが萎れてて、私、気づかなくて……」

 言っていて、泣きたくなった。

「水遣りは、していたんだけど。ごめん。どうしたら」

『あー……』

 声からは、動揺も怒りも窺えなかった。私は携帯を握りしめて、言葉の続きを待った。

『水の遣りすぎじゃないかなあ……ひょっとして、植物育てたこと、あんまりない?』

「……朝顔なら、育てた」

『それは僕も育てた』

 笑い声が聞こえた。

『パキラはさ、あんまり水要らないって言ったでしょ? 土を見て、乾いたときにたっぷりあげればいいんだよ。毎日じゃなくていいんだ』

「毎日してた……」

 私はがっくりうなだれて、ベッドに額をのせた。

「水遣りって、そういうものかと……」

『うんうん、まあ、説明不足の僕が悪かった。ごめんよ。しばらく水はあげなくていいから。ちゃんと土が乾くまでね。もし受け皿に水が溜まっていたら、そのつど捨てて。置き場所はどんな感じ?』

「家の中……窓の前」

『うん、それはそのままで大丈夫』

 仲村くんは、幼稚園の先生みたいな調子で請け合った。

「わかった……ほんとごめん、ちゃんと元気になるように、今度こそ気をつけるから」

 私があんまり沈んでいるものだから、仲村くんの声はいっそう優しくなる。

『稀乃介は強いやつだからね、すぐに復活するよ。そんなに落ちこむ必要ないよ』

「うん……」

『そうだ、おみやげにもみじ饅頭を買っていってやろう』

 いかにもありがたいだろうというふうに言うので、つい笑ってしまった。

「ええ? 広島まで行ってるの?」

『うん。関東では修学旅行で広島に行くって聞いたからさ、見てやろうと思って』

「まあ、私たち、修学旅行といえば東京だったもんね。でも、広島より京都・奈良のほうが絶対多いでしょう。聞いた相手が偏ってる気がするよ」

『でも、京都は旅行で行ったことあるし、そういう気分じゃなかったんだ』

 ずっと遠い場所から届く仲村くんの声は、世界の向こうから流れてきた夕ごはんの匂いみたいに、私の気持ちを落ち着かせた。目を閉じて、旅の空を思い描く。

「広島な気分だったの?」

『どちらかというと、瀬戸内な気分、かな。今日は厳島神社を見てきたけれど、おもしろかった。有名だからってばかにするものじゃないね』

 有名だからばかにしていたのか。

『島の中で、揚げもみじ饅頭っていうのが売っていてね、それがとてもおいしかったんだ。というわけで、揚げのほうは無理だけど、もみじ饅頭、楽しみにしておいて』

「はいはい。あ、おいしいといえばね」

 肩越しに、座卓の上のマグカップをふりかえる。

「春休みに仲村くんから貰った紅茶、とってもおいしかったよ」

『六月なのに、紅茶飲んでるの?』

「そう、六月なのに、飲んでるの」

 マグカップからは、まだほかほかと温かな湯気が上がっていた。

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夜のなかの小舟 音崎 琳 @otosakilin

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