第12話 47歳

 目が覚めた。はずだが、何も見えなかった。


 意識して目を開けようとしてみるが、何も見えないままだった。目が開いたのか開いていないのかも分からなかった。

 体を動かそうとしてみた。腕を上げてみることも、指一本を曲げることすら出来なかった。

 助けを呼ぼうとした。口を開けることすら叶わなかった。

 まるで深い海の底に横たわっているかのようだった。暗く、動けず、何も感じない。

 意識を失う前の記憶はあった。台所に立っているところを、後ろから殴られたのだ。


 ということは、ここは、死後の世界?


 急に怖くなってきて、助けて、誰か、と心の中で繰り返し祈ったが、何も変わらなかった。


 やがて諦めて闇に身を委ねていると、微かな音が聞こえた。すがりつくように、必死に耳をすませた。


 ……つまり、一言でまとめますと、今、お母様は、植物状態だということです


 知らない人間の声だった。だが、その後に聞こえた複数人の泣き声の中から、よく知っている声が聞こえた。

「それは、間違いないんですか」

 間違えようもない。少し震えているその声は、息子の声だった。



     *     *     *     *     *



 耳をすませることで、周りの音や会話を拾うことが出来た。寧ろ、"聞く"以外のことが何も出来なかったので、私はそれから何日にも渡って、周りの音を聞き続けた。そうして、今、自分が置かれている状況を理解した。

 私はどうやら、くも膜下出血で倒れたらしかった。あの後頭部の痛みは、殴られた訳ではないことが分かった。その後、意識を取り戻したが、聴覚以外の感覚や身体機能を失っていると分かった。

 でも、あの医者らしき人物は、植物状態だと言っていた。植物状態とは、意識のない人のことを言うのではなかったか。私は、現にこうして、意識はある。ただ、それを伝える手段がないだけで。

 そこで、はたと思い出した。そういえば、母と二人暮らしをしている時に、二人でとある映画を見た。タイトルは、……潜水士? 蝶? とにかく、あの映画の主人公も、病気に倒れ、身体が殆ど動かなくなったが、唯一動く左目の瞬きだけで意思を伝え、自伝を書き上げた。

 私は、彼と似た状態にいるようだった。ただ彼と違うのは、彼は瞼が動かせたが、私は動かせないということだ。たった一つ、でもとてつもなく、大きな違いだった。

 私に意識がないと思われていることを理解すると、私はするすると絶望に包まれていくのを感じた。意識があることをなんとか伝えたいと、再度、目を開けようとしたり、身体を動かそうとしたり、声を出そうとした。何度も何度も挑戦して、それでも駄目で、挑戦すればするほど、絶望は大きくなっていった。


 倒れて以降、息子や娘や孫達は、毎日のように、動かず返事も出来ない私のもとにお見舞いに来てくれ、声をかけ続けてくれているようだった。もしかしたら、手を握ったりしてくれているのだろうか。それを感じることが出来ないだけで。

 夫の葬式で、息子が私の手を握ってくれたことを思い出す。暖かい、あの感覚を、また感じることができたなら、と切に願った。



     *     *     *     *     *



 いつ寝て、いつ起きたかが分からなかったので、倒れてからどのくらいの月日が流れたのか、よく分からない日々が続いた。数ヶ月? 半年? それとも、いつの間にか何年も経っていたりするのだろうか?


 毎日ではなかったが、子どもや孫達は、それでもよく、私の元へ会いに来てくれた。私は聞こえていないと思っているはずなのに、来てくれる度に、色々なことを話して聞かせてくれた。


 おばーちゃん、わたしね、こんどね、発表会でね、しろくま役をやるんだよ。おどるんだよ。元気になったら、おばあちゃんの前で、おどってみせるね。

 私のクラスはね、おむすびころりんをやるんだ。私はね、おばあちゃん役だよ! おばあちゃんの杖、借りてもいい?

 おばあちゃん、僕ね、中学でラクロス部に入ってるんだよ。ラクロスって分かる? あのね、網のついたラケットでね、ボールを奪い合って……

 お義母さん、私達、夏休みに海に行こうって話してるんです。この人が昔、溺れて大変だったっていう、あの海岸です。この人、子ども達に蛍光色の水泳キャップを買ってきたんですよ。

「母さんが、あの水泳キャップを被せてくれてたから、助かったようなもんなんだ。当たり前だろう」


 おばあちゃん、元気になったら、またおばあちゃんのうどんが食べたいな。おばあちゃんのうどんが、世界で1番おいしいと思うんだ。

 ぼくぶどうがいいー。

 ぶどうは、おばあちゃん、作ってないでしょ!

 いいじゃん! だっておいしいんだもん!


 お母さんが見てるって言ってたあの韓流ドラマ、倒れた後の回も、全部録画してるよ。退院したら、私の家で、夜通し鑑賞会しよう。

 全部見終わったら、皆で韓国に行って、ロケ地巡りしようよ。

 まま、かんこくって、どこにあるの? しんかんせん、のる?


 本当は聞こえているとも知らず、子どもや孫達は、お見舞いの度に、とても賑やかに話してくれた。

 やがて私は、意識があることを伝えることは諦め、子どもや孫達の会話を聞くことと、今までの人生を思い出してそれに浸ることに、日々の時間を捧げるようになった。



     *     *     *     *     *



 ある日、お見舞いに来てくれた息子が、「今日で、母さんが倒れてから、ちょうど1年だよ」と告げた。

 もうそんなに経ったのか、と驚くとともに、私は、ここ何ヵ月も考えていたことを、どうにか息子に伝えられないか、と考えていた。

 私は、息子に、もういいのよ、と伝えたかった。



 おばあちゃん

 おばあちゃーん

 お義母さん

 お母さん

「母さん」


 お見舞いに来てくれる子どもや孫達の会話から、何かを感じとった訳ではない。いつも皆、変わらず元気に明るく、私に話しかけてくれる。

 ただ、子どもや孫達の明るい声を聴く度に、ここ暫く、私の胸は苦しくなって仕方がなかった。それでも私には、耳を塞ぐことも出来ない。無理に明るく振る舞っているんじゃないかとか、大事な予定を差し置いて来てくれているんじゃないかとか、無理をさせているんじゃないかと、勘繰った。一度生まれたその考えは、日に日に膨らんでいき、自分の中で否定することが、段々と難しくなっていた。


 私は、息子達に、私は十分に生きたと、思い残すことはないと、あなた達のお陰でこの上なく幸せな人生だったと、伝えたかった。



     *     *     *     *     *



 それから、また幾日かが流れた。

 その日は、息子家族が朝からお見舞いに来てくれていた。私は孫達の会話を聞きながら、目を開けて顔を見たいと、腕を動かしその柔らかな頬に優しく触れたいと、願っていた。今日もその願いは叶わず、大声で泣き叫びたいような気持ちに苛まれていた。

 やがてお昼時になったようで、孫達が空腹を訴えた。そうなると、病院の一階にある食堂にお昼を食べに行くのが、いつもの流れだったが、今日は息子が、「お父さんは、お医者さんにお話があるから」と言って、病室に残った。事前に聞いていたのだろうか、息子の嫁は何も聞かず、ぶうたれる孫達をせっつき、病室を出て行った。

 病室には、私と息子だけとなった。

 医者に話があるなんて、嘘だと分かっていた。私は、息子の言葉を待った。

 息子は、言葉を選ぶかのように、暫く黙った後、話を始めた。

「……少し前に、夢を見たんだ。母さんがまだ元気だった頃の、祖母ちゃんも生きてた頃の夢。電話で母さんと話してるんだよ。孫達は元気かって話から始まって、祖母ちゃんとこんな話をしたとか、夕飯の献立とか、昨日見たテレビの話とか、そういう、どうでもいい話をしてた」

 少し間が空いてから、息子は続けた。

「そこで、母さんが昨日テレビで見たっていう映画の話を始めたんだ。なんか、タイトルは忘れたって言ってたけど、左の瞼しか動かせなくなった人の、実話に基づいた話だって。そこで俺、夢の中で気づいたんだ。これは夢じゃなくて記憶だって。この会話、実際に母さんとした、って」

 そうだ。私も、思い出した。私はあの、潜水士の映画を見た翌日に、息子に電話で感想を話して聞かせたのだ。そして、そこで、

「それで、母さん、確かあの後に、もし自分だったら、って話をしてたなって思い出して。母さん、言ったと思うんだ。もし私が動けなくなったら、延命措置はしなくて良いよって。もう十分に生きたからって。幸せな人生だったから思い残すことはないって」

 息子が鼻をすする音がした。

「俺、その場で、何バカ言ってるんだよって言って、すぐに話題を変えたなって思い出して。思い出したら、すごく後悔して。もっと、もしもの時の話をしておけば良かったなって。でも、その時は、母さんのもしもの時を想像するのが嫌だからって、逃げてしまって。40超えた大人のはずなのに、何やってんだ、って、後悔して」

 息子が後悔する必要はないと思った。それが、普通の感覚だと思う。それに、こうなる前に、自分の考えについてしっかりと残しておかなかった、私が悪いと思った。

「俺、だから、夢の中で急いで聞いたんだ。母さん、今はどうしてほしいと思ってる? って。そうしたら、私の最期は、あなたに殺されるって、決まってるのよ、って言ったんだよ。それで、何言ってるんだよ、って聞いたのに、そろそろ夕飯の支度をしなくちゃ、って言って電話を切ろうとするから、ちゃんと答えて! って言ったのに、電話が切れて。俺、母さん! って叫びながら、夢から覚めたんだ。……ねえ、母さん」

 息子は、今にも泣き出しそうな声で、聞いた。

「俺が、母さんを殺すって、どういう意味?」



     *     *     *     *     *



 息子は、「母さんの今の気持ちが分からない以上、少し考えさせてほしい」と言って、それから暫くの間は、それまでと同じ日々が続いた。

 相変わらず、子どもや孫達は、よくお見舞いに来てくれた。ただ、子ども達3人が病室に揃うと、子ども達は、先生とお話ししてくるから、おばあちゃんのそばにいてね、と孫達に言って、3人揃って部屋を出ていくことが増えていた。私は、息子の考えについて話をしているのではないかと、想像した。

 その度に私は、私の意識が身体から離れていき、幽霊となって子ども達の元へと向かい、息子の考えを後押しする妄想をした。もちろん、それが実現することはなかった。


 それからまた何日か、はたまた何週間か、時が流れた。私は相変わらず子どもや孫達の声を聞き、昔を懐かしむだけの日々を送った。たまに、子ども達がまだ皆家にいた頃の夢を見て、隣を見ると夫が笑っていて、なんだ、全部夢だったのか、とホッとしたところで目が覚め、現実を思い出し、心の中で孤独に泣き叫んで、気が狂いそうになった。


 意識が戻って以来、久しぶりに、私は、心の中で繰り返し祈った。


 誰か、お願い。私の気持ちを、伝えてほしい。お願い。誰か。



 誰か!



     *     *     *     *     *



 数日後、息子が再度、病室で私と二人きりになり、言った。

「……母さん、決めたよ。もう、終わりにしようか」


 もし私がまだ表情を変えることが出来たなら、きっと、呆けた顔をしていたと思う。


 息子は、それから私に、今まで頑張ってくれてありがとうだとか、もっと早く決められなくてごめんだとか、子ども達3人で議論に議論を重ねたとか、先生にもすでに話をしているだとか、"予定日"だとかを、泣くのを堪えるような声で、話して聞かせてくれた。

 一通り話すと、息子は、長い、長い話を始めた。

「少し前、病院から帰るとき、一人でゆっくり考えたくて、嫁や子ども達には先に帰ってもらったんだ。それで、一階の、自販機コーナーの横のソファーに座って……あそこ、人通りも少なくて、狭くて、静かでさ、なんか落ち着くんだよな。

 それで、そこのソファーに座ってボーッと考え込んでたら、人が来て、自販機で飲み物を2つ買って。俺、動くつもりなかったから、まだまだボーッとしてたんだけど、その人に、不意に話しかけられたんだ」



     *     *     *     *     *



「お母さんのこと、悩んでるの?」

 俺が驚いて顔をあげると、その人物が、買ったばかりの飲み物を俺に差し出しながら、ニコニコと微笑んでいた。

 意表を突かれた俺は、ええ、はい、まあ……とか呟きながら、差し出された飲み物を思わず受け取った。それはホットのミルクティーで、その缶の熱さに、慌てて角だけを触るように持ち方を変えた。

 その人物は俺の隣に腰かけると、自分の分の炭酸飲料のプルタブを引き、グビグビと飲み始めた。

 自分はそんなにも思い詰めた顔をしていたのだろうか、と思いつつ、俺は貰ったミルクティーのプルタブを引き、一口飲んだ。普段甘い飲み物はあまり飲まないが、その温かさと甘さに、少しだけ心が解れる気がした。

 隣の人物へと顔を向け、どうして分かったんですか? と聞くと、「すごく悩んでる風だったから。君が悩むとしたら、きっとお母さんのことだろうと思って」と、なんだか答えになっているようでなっていない返しをした。続けて、「今、君のお母さんがどんな状況かは、知っているよ」と言ったので、そうか、母さんの知り合いで、見舞い客か。それで、俺のことも知っているんだろう、と一人納得した。

 母のお知り合いでしたか、と聞くと、「お知り合いと言っても、1回会って話しただけだけどね。君のお母さんが結婚する直前だよ」と言った。

 そこで俺の頭の中に疑問符が浮かび、その人物を改めてまじまじと見てしまった。母が結婚したのは50年近く前だが、隣の人物は、どんなに上に見繕っても、俺よりも年下に見えた。それに、髪の長い男性なのか、化粧っ気がなく声が少し低めの女性なのか、なんだか性別がよく分からない人だった。とりあえず、失礼を働きたくないので、お若いですね、とだけ言って濁してしまった。

「君が、自分を責めることは何もないよ。これは全部、決まっていたことだからね」と、その人物は炭酸飲料を飲み続けながら言った。決まっていたって、なんのことだろう。この人は、運命とか、そういうのを信じているんだろうか。

 でも、母の今の気持ちが分からないから、決心がつかないんです。

 自分でも驚いた。初対面の相手に、こんな話をするべきではないと、言ってから思ったが、考える前に言葉がするりと出てきてしまった。

「今の気持ちなら、もう聞いているんじゃない? 夢の中でお母さんは言ってたんでしょ? 私の最期は、あなたに殺されるって決まってる、って」

 驚いて、隣の人物の顔を見やる。あの夢の話は、母と、妻にしかしていない。……どうして、と蚊の鳴くような声で尋ねた。

「勘違いしないでほしいんだけど、これは僕が決めたことではないよ。お母さんのせいでもないし、もちろん君のせいでもない。僕は、聞かれたから教えてあげただけだからね。これは全部、決まっていたんだよ」

 だから、その決まっていたっていうのは、なんなんだ。さっきから、なんだか会話が噛みあわない。まるで、夢の中で母と話していた時のような感覚だった。

 あの、順序立てて話してくれませんか? とお願いしたが、その人物は、「でも、君のお母さんの今の気持ちを伝えに来ただけだし……」と言い、その後小さな声で、あんなに頼まれちゃねえ、とぼやいた。

 その人物が、立ち上がり、いつの間にやら飲みきっていた炭酸飲料の空き缶をゴミ箱に捨てた。待ってください! と言いつつ、俺も立ち上がる。

 母と会った時のことを、聞かせてくれませんか。

 聞きたいことが多すぎたが、とにかくその人物を引き留めようと必死だった。「君のお母さんと会ったとき? そうだね……」と、その人物は言うと、俺に顔をグッと近づけ、「君のお母さんの両手を握って、このくらいの距離で顔を覗き込んだよ」と言って、ニコリと笑った。

 思わず後ずさってしまった。え? この距離で? 近くないか? しかも手を握って? 二人は、そういう関係だったのか? 父さんと結婚する直前に? いや、そもそも50年前のこいつは何歳だよ?

 後ずさった先にはベンチがあり、俺はそこに再度座り込んでしまった。けれど、その人物は、俺に顔を近づけたまま、言った。

「君の目、お母さんとそっくりだね。左目の淵に小さいホクロがあるのも同じだ」と言った。

 思わずその人物の目を見つめ返すと、瞳に俺が映っているのがよく分かった。怯えているように見えた。

「どうする? 君も、聞いておく?」

 その人物が急に真面目な顔で聞いてきて、"何を"かは分からなかったが、俺は、やめておきます、と弱々しく呟いた。自分の中で小さな警告音が鳴っている気がした。

「そう。まあ、普通はそうだよね」

 と、言うと、その人物はやっと俺から体を離した。

「じゃ、本当にそろそろ行くね。伝えるべきことは伝えたし。お母さんによろしくね」

 そう言うと、その人物は自販機コーナーから出て行った。一瞬呆けてしまってから、ハッと気が付き、あの、名前を、と呼びかけつつ自販機コーナーから飛び出したが、そこにはもう、その人物の姿はなかった。自販機コーナーから出たところは広いロビーになっていて、そこにはもう人は殆どいないため、すぐに姿を隠すのは難しいはずなのに、いくら視線を巡らせても、見つからなかった。

 もしかして、長い夢を見ていたのだろうか。

 一瞬そんなことを考えたが、俺の手の中には、すっかり冷たくなってしまったミルクティーの缶が、確かに握られていた。



     *     *     *     *     *



「それで、その後、考えたんだ。もし、母さんの延命措置を諦めるなら、そのスイッチを切るのは、医者じゃなくて、俺がやりたいって」

「もし、延命措置を諦めないなら、母さんは、神様とか、もしくは運命とか、そういうのに殺されたって表現するのが、正しいのかな? って」

「それで、思ったんだ」

「母さんが他の何かに殺されるくらいなら、俺が母さんを殺したいって」

 そこで息子は、照れたように付け加えた。

「……まあ、医者の前で、殺す、殺される、って言ったら、そういう表現はやめてください、って怒られたんだけどね」



     *     *     *     *     *



 "予定日"には、子どもや孫達が勢揃いした。ただ、孫達には、今日が何の日かは伝えられていない様子だった。孫達が順々に私に話しかける。元気になったらあれをしようね、あそこに行こうね、あれを食べようね、と未来の話をしてくれた。いつものような、胸の苦しさは、もう無かった。孫達の声を記憶に刻みこむように、耳を傾けた。

 やがて全員が話し終わると、孫達は病室の外へと出て行った。率いたのは、私の初孫である、息子の長男だった。彼はもう中学校に上がっていて、もしかしたら彼にだけは事情を話しているのではないかと推察した。彼だけは、未来の話をせずに、過去の話と、礼を言っていた。


 病室の中に、私の子ども達3人と医者など、大人だけになった。

 医者が息子に、延命機器のスイッチの切り方を説明をする。スイッチ2つを同時押し、もう1つスイッチを押して、最後のスイッチは長押し。これで、私は永い眠りにつく。その後の死亡確認は、医者が行う。

 説明の後、医者は念押しをした。本来、延命機器のスイッチを切るのは、医者の役目なんです。今回は、"超"特例だと考えてください。書類には、私がスイッチを切ったと名前を書きます。あなたたちは、絶対に、誰にも、口外しないようにしてください。

 子ども達3人は、はい、と返事をした。


 長女と次女が、私に最後に語りかけてくれる。子供の頃の思い出や、感謝や、これからは空から子どもたちを見守っていてほしいとか、お父さんによろしく、とか、そういう話をしてくれた。私はそれを、心の中で涙ながらに聞いていた。

 語り終わると、次女はもうしゃくりあげるほど泣いていて、長女はそんな次女に寄り添うように、一緒に病室を出て行った。長女が次女の肩を支えながら歩いていく後姿が、ありありと浮かんだ。長女は強く、次女は優しい性格だった。これからも、皆で支えあって生きてほしいと、心の中でその背に声をかけた。

 続いて医者が、息子に、外にいますので、終わったら声をかけてください、と言って、出て行った。私は、ありがとう、と、これも心の中で声をかけた。


 とうとう、息子と二人きりになった。

 息子が私のベッドの隣の椅子に座る気配がする。

 息子は、私に語りかけ始めた。



     *     *     *     *     *



「母さん、覚えてる? 俺が幼稚園の時、前の家の駐車場から飛び出して、車に轢かれかけた時があっただろ。あの時、母さんにすごい勢いで叩かれて、本当にびっくりしたなぁ」

 私だって、本当にびっくりしたのよ。あの頃のあなたは、危なっかしくって、何度寿命が縮んだか、分からないくらい。

「海で溺れたこともあっただろ。あの後父さんが、母さんはカナヅチなのにお前を助けようとして、溺れかけたんだぞ、って教えてくれて」

 あの時は考える前に体が動いていたの。大量に水を飲んで、本当に死ぬかと思ったんだから。

「俺のために、引っ越ししようって言い出してくれたんだろ? 感謝してるんだ」

 新しい家での生活は、楽しかったね。私、あの家で皆で笑ってた頃の夢、未だによく見るのよ。

「……思い返すとさ、俺、本当に数えきれないくらい、母さんに助けられてきたんだなって。そのせいで何回も危ない目に会わせたんだなって」

 あなたが覚えている以上に、たくさん、危ない目に会ったのよ。熱湯からあなたを庇って火傷したこともあったし、あなたが階段から転げ落ちそうになって、抱きとめようとした私が逆に落ちたこともあったし、あなたの振り回した絵本が目に入りそうになったこともあったし、あなたが変な人に連れて行かれそうになって、娘を抱きかかえたまま飛び蹴りをしたこともあったし、あなたがジャングルジムから落ちそうになったのを受けとめようとしたら強く頭をぶつけてしまって、頭が本当に割れるんじゃないかと思ったこともあったし、インフルエンザに罹ったあなたを看病したら感染ってしまって、ケロリとしているあなたを横目にうなされ続けたこともあったのよ。

「本当にごめんな」

 謝ってほしいわけじゃないの。

「……」

 ねえ、何か喋って。

「……」

 ……私、もう、聞くことしか、出来ないのよ。

「……」

 ……ねえ。

「……」

 ……。

「……母さん、泣いてるの?」

 え?


 息子が、私の左の目尻を、優しく指で拭う感覚を、確かに感じた。心臓が止まるんじゃないかというほど、驚いた。私はもう、体のどこにも感覚は残されていないと思っていた。でも、実際は、左の目尻のごく一部分だけ、まだわずかに感覚が残されていたらしい。

 温かな感覚を、久しぶりに感じることが出来て、私は、体が震えるほど嬉しかった。

 もう一度、もう一度だけ触ってほしい。

 この期に及んで欲が出てしまい、心の中で祈っていると、私の顔の随分と近くから、息子の声がした。

「……本当だ。母さんも、ここにホクロがあるんだね。同じだ」

といって、息子が再度、私の左の目尻を優しく撫でた。私は、その優しい感覚に意識を集中した。ごく狭い範囲なのに、とても暖かかった。

 もう、これで、本当に、思い残すことはない、かな。

 やっと、そう思うことができた。


「俺さ、母さんの息子で、本当に良かったと思ってるよ」

 私もよ。あなたたちのおかげで、この上なく、最高に、幸せな人生だった。

「もし、生まれ変わってまた母さんの子どもになれたら、今度はもっと、」

 もっと?

「……母さんの言うことを聞いて、危ない目に会わせないように、気を付けようと思う」

 じゃあ、私は……

 一人、心の中で笑った。

 私は、怪しい占い師に、人生の最期なんて、聞かないようにするわ。



     *     *     *     *     *



 息子が、延命機器のスイッチを切る音がした。

 私は、急速に眠くなるのを感じる。


「……母さん」

 ……ん

「……今まで、本当にありがとう」

 …………うん

「……母さん」

 ……………………ん

「……おやすみ」

 …………………………………………うん



 人生最期に思い出すのは、小さい息子を抱っこしているときの記憶に、することにした。

 腕の中の息子は、いつもに比べて随分と温かかった。顔を覗き込むと、案の定、小さなあくびをして、私の胸に顔を擦りつけるような仕草をした。

 眠いの? ねんねしようか?

 息子に聞くと、息子は小さく頷いた。

 そんな息子を見ていると、私もとても眠たくなってきて、息子を抱いたままソファに座り、私も目を閉じた。息子の静かな寝息が聞こえる。背中を一定のリズムで優しく叩いてやった。

 幸せだなあ、としみじみと感じた。


 あの言葉を聞いた時はビックリしたし、私には呪いのようだったけど、でも、実現して良かった。息子が私を殺してくれて、私は幸せだった。


 意識が、海の底よりも深く、暗いところへ、沈んでいく。

 底の方から、まるで私を誘うように、占い師のあの言葉が、聞こえる。

 私は、その沈んでいく感覚に、ただ身を任せた。






「あなたは息子に殺される」

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私は息子に殺される 小木 一了 @kazuaki_o-o

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