第7話 15歳
世の中に断捨離ブームが訪れたとき、影響されやすい性格の私は、例に漏れず断捨離にハマっていた。その日、納戸の中の整理をしていると、懐かしいものがあることに気がついた。以前、台所の入口に設置していた、子ども用の柵だ。
息子のあの事件以来設置された柵は、そろそろ外そうかというところで長女が、今度こそ外そうかというところで次女が産まれたため、外すタイミングを逸したまま実に10年近く、我が家の台所で任務を全うし続けた。その健闘ぶりに、外した後も何となく納戸にしまったままになっていた。
次女はもう8歳になり、4人目の予定もないので、捨てても構わないだろう。それを持ってリビングへ行き、テレビを見ていた夫に、これ捨てても良いよね、と私が言うと、夫は私の手の中のものを見て、そうだなぁ、と言いつつ、懐かしそうに少し目を細めた。
次の粗大ゴミの日、玄関に置かれ貼り紙をされたそれは、なんだかとても小さく見えた。夫が腕を組んでそれを見下ろし、お前には子ども達を長い間守ってもらい感謝しているが、同時に何度足の小指を痛め付けられたか分からない、といったようなことを真面目な顔をして話しかけていたので、笑ってしまった。
そんなことをしていると、次女がやってきた。夫が、良いところに来たと言わんばかりに、そこに並んで、と柵の隣を指差した。次女が言われた通りにすると、夫は柵と次女のツーショット写真を、携帯電話に納めた。柵は次女の足の付け根くらいの高さだった。昔はこの柵の高さくらいの背しかなかったのになぁ、と感慨深そうに夫が言って、次女がはにかんだ。
そこへ今度は長女が2階の自室から降りてきた。夫は今度は娘たちと柵とのスリーショットを所望した。長女は、何コレ、とつまらなそうな顔をしていたが、夫の写真にはしっかりと写ってあげていた。柵は長女の太ももくらいの高さだった。
そんなことをしていると、2階から息子も降りてきた。夫が、お前も並んで、と長女の隣を指差したが、息子はそちらをチラリと見ると、「意味分かんねえ」とだけ言って、出掛けてしまった。ギターケースを背負っていた。
夫が目に見えてしょげていたので、次女が夫を慰めた。長女は、私もそろそろ出掛けなきゃ、と言ってリビングへと向かった。
息子は現在15歳で、絶賛、反抗期に入っていた。
* * * * *
あの海での一件以降、まるで私の心を見透かしたかのように、息子が危険な目に遭うことはパタリとなくなっていた。ただ単に、成長して、迂闊な行動が減ったからかもしれないが。
息子が産まれた時にもらった育児休暇の後は、出産前に働いていた会社に復帰したが、長女を身籠った時には休暇はもらわず、そのまま退職してしまった。息子の育休後に仕事に復帰した際、仕事のブランクを埋めるのにとても苦労し、またそれが出来る自信がなかったからだ。
しかし、次女が小学校に上がったのをきっかけに、隣町にあるターミナル駅の駅ビルに入っている本屋でパート勤務を始めた。実に10年ぶりの社会復帰だった。
本屋を選んだのは殆んど偶然だったのだが、想像していた以上に肉体労働が多く、40を超えた体にはなかなか厳しいものだった。
その日のパートを終えた私は、ヘトヘトになりながら電車に乗り、家の最寄り駅まで移動した。ホームに降りて階段へと向かうと、よく見知った後ろ姿が見えた。名前を呼ばれて振り返った息子は、私を見つけると、分かりやすく嫌そうな顔をした。息子の周りにいた、息子と同じ制服を着た数人の少年たちも私に気づき、色めき立ったのを見て、私は、やってしまった、と思った。年頃の、しかも絶賛反抗期の息子を、よりによって友人達の前で呼び止めてしまい、後悔した。
息子の友人達が、俺ら先に帰るからママと帰りな、と言って、息子を残して先に行ってしまった。息子は「おい!」と呼び止めたが、聞かなかった。
息子と二人で取り残されて、微妙な沈黙が流れた。息子がこちらを睨み、「外で話しかけんなよ」と言った。私は小さな声で、ごめんね、と謝った。息子がホームの階段へと歩き出したので、私もその斜め後ろをついて歩いた。息子が「ついてくんなよ」と言ったので、目的地、同じじゃない、と返したが、息子は黙っていた。息子は、都合が悪くなると黙るのだ。
改札に出るには、一旦階段を降りて、別のホームへと移動する必要がある。その道を歩きながら、私は息子が今日も背負っているギターケースを見た。今は何の曲を練習してるの、と聞いてみたが、「言っても分かんねえだろ」と一蹴され、確かにそうだと、私は黙った。ギターケースには私には分からないバンドのステッカーが貼ってあり、ふとそれに手を伸ばすと、息子は「触んなよ」と言って、ギターケースを私から遠ざけた。そのギターを誕生日に買ってあげたのは誰だっけ、と私が睨むと、息子はそれには答えず、スマートフォンを取り出し、歩きながらそれを操作し始めた。息子は、都合が悪くなると黙るのだ。
中学に入学して少しした頃、息子は音楽に目覚めた。初めは様々な音楽を聴き漁っていたが、そのうちとあるギタリストに惚れ込み、自分もギターを始めたいと言った。それならば、と、ギターを習える教室を探し、通わせることにした。1年経ってもその熱は冷めることがなく、熱心に練習を続けていたので、誕生日プレゼントに思い切ってギターを送った。息子はとても喜び、そのギターは文字通り、息子にとって命の次に大切なものとなった。今は軽音サークルにも入り、同じ趣味をもつ友達と仲良くやっているようだ。
改札のあるホームへと出た。息子が私の少し斜め前を、スマートフォンをいじりながら歩いている。ちょうど黄色い点字ブロックの上辺りだ。ながら歩きはやめなさい、と言ったが、無視された。外の広い世界を知った息子は、今まで生きてきた世界に興味を示さなくなった。私にはそれが、嬉しくもあり、寂しくもあった。
私達が歩くホームを電車が通過する、とアナウンスが流れる。息子はスマートフォンを見ながら歩いている。その時、向こうから早足で歩いてくる背広の男性の肩が、息子の肩とぶつかった。息子が少し、線路側によろける。電車が近づく大きな音がする。
思わず息子に手を伸ばし、ギターケースの取っ手を掴んだ。
電車が通過する。大きな音と強い風圧が私達を襲った。
電車が通りすぎて静かになって、落ち着いて見てみると、息子と電車の間には30cmくらいの間隔があった。私が心配しすぎたのだろうか。でも、電車の大きな音がしたとき、車の事件の時と同じ、胸の中の嫌な感じが、サッと生まれたことに気づいていた。久しぶりの感覚だった。息子を守ろうと下手に駆け寄って死ぬはずだったのだろうか。
息子が、「……なに」と、私を見た。言葉はぶっきらぼうだが、その目に、少しのばつの悪さが見えた。ギターケースに触れている私の手は、振り払わなかった。
私が、ながら歩きは、やめなさい、とゆっくり言うと、息子は黙ってスマートフォンをポケットにしまった。
私もギターケースから手を離し、二人で改めて改札へと歩き出した。
改札を抜けたところで、息子が「先に行って」と言い、コンビニへと入っていった。そんなに母親と歩くのが嫌だろうか、と、とぼとぼと家へ向かって歩いた。
歩きながら考える。占い師が言うところの"息子"とは、私の初めての子どもであり、長男たる息子のことで間違いないだろう。息子が小さい頃は、息子が危険な目に遭い、それを私が守ろうとして、結果、死にかけていた。息子が大きくなって、そんなことがパタリとなくなってからは、占い師のあの言葉を思い出すことは久しくなかった。
久しぶりにあの言葉を思い出し、そして息子が大きくなったからこそ考える。もし、もしも、私が息子に酷く恨まれるようなことをしてしまい、偶然の結果ではなく、確固たる殺意をもった息子に殺される、ということは、あり得るだろうか?
いやまさか、息子に限って、でも、もしも、占いの力で、息子がすっかり変わってしまっても、絶対に、そんなことはないと、本当に、言える?
家についても、夕飯の支度をしていても、それを食べ終えても、お風呂に入っていても、その考えが頭の中をぐるぐると巡った。
私がお風呂から上がり、冷蔵庫を開けると、夕飯の支度をしていた時にはなかったはずのプリンが目に入った。思わずリビングを振り返ったが、テレビの前のソファには長女しかいなかった。これどうしたの、と長女に聞いてみると、お兄ちゃんが入れてた、と答える。母さん以外が食べようとしたら止めろって言ったから、じゃあお母さんへって書けばって言ったけど、黙って部屋に行っちゃった。
プリンを取り出すと、それはまだ冷えていなかった。冷蔵庫に入れたばかりなのだろうと分かった。
ありがたくプリンを頂くことにした。長女の提案に答えず、黙って2階に上がる息子を想像して、思わず笑みがこぼれた。息子は、都合が悪くなると黙るのだ。
さっきまで頭の中をぐるぐると巡っていた考えと、占い師のあの言葉は、いつの間にか消え去っていた。
「あなたは息子に殺される」
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