第6話 10歳

 先に言ってしまうと、息子はそれからも幾度となく危ない目に遭い、そして私はそれを助けようとして何度も死にかけた。

 ただ、私が死にそうになる度に、これで何回死にかけたか分からない、とママ友にこぼすと、小さな男の子の母親はそんなものよ、と、彼女は笑うし、息子を庇って火傷を負ってかかった病院で、医者の前で思わず、死ぬかと思った、と呟くと、大袈裟ですね、と彼も笑った。

 その度に私は、占い師のあの言葉が実現しようとしているのか、それとも私が気にしすぎなのか、よく分からなくなった。


 息子が10歳になったとき、我が家は5人家族だった。息子が7歳の時に二人目の娘が産まれていたからだ。我が家は日々賑やかになっていった。


 夏休みに入り、息子が「海に行きたい」と言ったとき、私は、来たか、と身構えた。今まで私が死にかけた時、つまり息子が危ない目に遭った時は、包丁といい車といい、どれも突然のことだった。だが今回は違う。事前に分かっているのだから対策を立ててやる、と気合いを入れた。

 夫も私も息子の発言に賛成し、かくして週末の海水浴が決定した。それは息子や娘たちにとって初めての海だった。


 海へのドライブ中、息子が車に酔ったと訴えた。そこで私は取って置きの方法を息子に教えてやった。歌を唄うと治るよ。私が子どもの頃から信頼してやまない、車酔い解消法だった。夫は、なんだそれ、と言って笑ったが、息子はお気に入りのアニメの歌を唄い始めた。

 最初は弱々しい歌声だったのが、数曲唄うと、段々と元気な歌声へと変わっていった。息子が「お母さん、すごい!」と誉めてくれた。息子と一緒に娘たちも唄い始めた。私も参加した。やがて夫も唄い始めて、車の中は5人の歌声で満ちたまま、海岸へと到着した。


 海へ着いてまず、私は息子や娘たちに、海とはとても怖いところなのだ、と教えて、いくつか約束事をさせた。浮き輪を使うこと。水泳キャップを被ること。自分の胸より深いところへ行かないこと。ブイの外へも行かないこと。私たちが見えなくなるようなところ、声が届かなくなるようなところへも行かないこと。潜ろうとしないこと。時々海水で頭を濡らして冷やすこと。

 夫は、心配性だなぁ、と言って、凪いだ海を見ながら苦笑した。私は、本当は膝より深いところへは行ってほしくないくらいだった。子どもは膝の深さの水でも溺れると聞いたことがある。でも、それじゃあんまりだろうと思って妥協した。

 息子は最近、すぐ大人を困らせるようなことを言う。「お母さん、胸の深さってどこ? 胸の下のところ? 上のところ? それともチクビ?」とニヤニヤ聞いてきたので、やっぱり脇の下の深さにしようか、と言って、脇の下をくすぐると、甲高い声でキャーッと笑った。

 長女は、初めは水泳キャップを格好悪いから嫌だと不貞腐れていたが、今日のために買った浮き輪を夫が膨らまし始めると、そんなことは気にならなくなったようで、早く、早く、と言って足踏みした。


 次女はまだ3歳だったので、砂浜と波が届くくらいの範囲で、私が遊ばせることになった。ただ、次女は波を怖がり、何回か挑戦させてみたが結局克服出来ず、砂浜専門で遊ぶことになった。お城と言いつつただの山にしか見えないものを量産しては喜び、小さな蟹に悲鳴を上げて怖がっていた。


 息子と長女の海デビューには、夫が付き添った。浮き輪を身につけた息子と長女は、初めは恐々と海に入ったが、すぐにその楽しさに目覚めたようだった。海の中から息子と長女が私を呼んだので、私と次女は手を振って応えた。蛍光色の水泳キャップがとても目立っており、私は、よしよし、と一人ほくそ笑んだ。


 息子と長女が夫の指南の元、海での泳ぎ方をひとしきり練習した後、砂浜へと戻ってきたので、砂浜に敷いたレジャーシートの上で5人で少し休憩した。子どもたちが好きなお菓子を持ってきていたので出してやると、息子と長女が最後の一個を取り合った。長女は最近、随分と口達者になり、最終的には、お兄ちゃんなんだから我慢しなさい!、と言って、最後の1つを奪うとサッと口に入れた。息子はその台詞に弱く、ただ悔しそうに唸っていた。夫は、どこでそんな言葉を覚えてきたんだ、と呆れたように言った。

 その後、私と息子は仰向けに横になって休憩した。娘たちは楽しそうに夫の体を砂で埋める遊びをしていた。息子が私に、「お母さん、地球が揺れてるよ」と少し驚いたように言った。

 息子のその感覚は、私も体験したことがあった。私が子どもの頃は、海好きな父に、毎年のように海に連れていってもらった。少し遠くまで行っていたので、近くの旅館に泊まっていたのだが、1日海に浮いて遊んだ日の夜は、まるで布団ごと海に浮いているように、まだ波に揺られる感覚があった。その感覚を、息子も味わっているのだと分かって、少し嬉しくなった。


 休憩後は、夫が次女担当、私が息子と長女担当になった。息子と長女は、海にもすっかり慣れたようで、浮き輪でプカプカと浮きながら波に身を任せてみたり、猛烈なバタ足で波に逆らって沖方向へと進んでは波に押し戻されてみたり、二人で鬼ごっこをしてみたりを繰り返した。ただ、私が何度も、深いところへは行かないでね、と言ったので、時々止まっては、胸より深いところには来ていないことを確認していた。私も、息子と娘が私からある程度離れると、浮き輪についた取手を引っ張り、元いた場所へと引き戻すことを繰り返した。息子と長女はその引っ張り戻される感覚を気に入り、戻される度に声を上げて笑っていた。


 何回か目に息子を元いた位置へと引き戻したとき、長女との距離も空いてきていることに気づいた。やれやれ、と思いながら、娘も引き戻しに行った。元の位置へと戻るのに10秒とかからなかったと思う。戻って、あれ、と声が出た。息子の姿が見えなかった。周囲をぐるっと見回す。やはりいない。あの目立つ水泳キャップが見つからない。嘘、なんで、と声が漏れた。全身から血の気が引いていくのを感じた。

 すると、長女が、お母さん、あれ、と震えた声を出した。長女の指差す方に目をやると、海の深い青の中に、息子の水泳キャップの、蛍光イエローが沈んでいるのが見えた。私は悲鳴をあげた。



     *     *     *     *     *



 病院のベッドで眠る息子の寝顔を眺めていると、控えめなノックの音がして、扉が開いた。夫が、飲み物買ってきたよ、と言って、ペットボトルのお茶を差し出してくれたので、礼を言ってありがたく受け取った。


 結局あの後、私の悲鳴と、息子のもとへ行こうと滅茶苦茶な泳ぎを始めた私を見て、全てを悟ったライフセーバーに、息子は助け出された。息子が溺れた地点は大人の私でも足がつかない深さで、子どもの頃は毎年海に行っていたというのにカナヅチの私は、盛大に溺れた。大量の海水を飲みながら沈み始めたところで、私は夫に助け出された。私でも足が着く深さまで引っ張ってもらったところで、夫の手を振り払って水の抵抗に必死に抗いながら、砂浜へと急いだ。夫は、呆然と立ちすくんでいた長女の手を引いてくれた。

 砂浜に着くと、息子は砂浜に横たえられており、ライフセーバーが大きく呼び掛けながら、息子の頬を叩いていた。決して色白ではないはずの息子が、全身真っ白になっているのに気づいた瞬間、私は息子の横で膝をつき、泣き叫んだ。遠くに救急車のサイレンを聞いた気がした。


 その後、息子はライフセーバーの人工呼吸を受けて呼吸を再開し、意識を取り戻した。念のため病院で検査を、ということで、到着していた救急車でこの病院へと来た。検査の結果、別状はなかったが、息子は病院で一泊してからの帰宅を許可された。

 娘たちは病室のソファで寝ていた。今夜は私は息子に付き添い、夫は娘たちを連れて先に家に帰る予定だった。


 夫が私の隣の椅子に腰かけると、少し話しにくそうに、私に聞いた。あの時、何のことを言っていたの。

 聞くと、息子が息を吹き返す前、私が息子の横で泣き叫びながら、こう言ったと言う。

 お願い、死なないで。あなたは私を殺すんでしょう。私より先に死なないで。私を殺していいから死なないで。

 言われてみれば、そんなことを言った記憶があった。何も考えずに口をついた言葉だった。

 夫にあの占いのことを話してみようか、と考えた。そして、口を開きかけたとき、息子の「……お母さん」と細く呼ぶ声が聞こえた。

 見ると、息子が目を覚まして、こちらを見ていた。そして、「お母さん、僕ね、言われたこと、破ってないの。本当だよ」と言って、その時のことを話してくれた。

 私が長女を引っ張り戻しに行ってすぐに、浮き輪の空気が随分と抜けていることに、急に気づいた。私が戻ったら再度膨らませてもらおうと考えたところで、少しだけ大きい波が来た。波は自分を乗り越えていったが、その時に浮き輪がスルッと持っていかれた。あっ、と思ったとき、今度は強い引き波が息子の体を引っ張った。思わずよたよたと数歩下がると、そこから急に海が深くなっており、足が着かなくなった。泳いで浅瀬へ戻ろうとしたが、海の底の方の流れが、岸から離れるように速く流れており、まるで誰かに足を引っ張られるかのように、沖へ、底へ、と、流されてしまった。

「お母さん、本当だよ。信じてくれる?」

 息子が私に聞いたので、私は、当たり前でしょう、あなたが約束を破るような子じゃないって、お母さん、知ってるよ、と伝えて、頭を撫でた。

 息子の言葉で確信した。やはり気のせいではない。占い師のあの言葉が実現しようとしている。そして、私を殺させるために、息子は幾度も危険な目にあっている。

 私は、息子に、ごめんね、お母さんのせいなんだ、ごめんね、ごめんね、本当にごめんね、と泣いて謝った。

 息子は「なんで、お母さんは悪くないよ」と言って慌て、夫も、お前のせいじゃない、と肩を抱いてくれた。二人とも、私が息子から目を離したことを悔いていると考えているのだろう。

 違う、違うの、ごめんなさい、ごめんなさい……


 私が泣いていると、娘たちが目を覚ました。長女が、あ、お兄ちゃん起きてる、と言って、次女の手を引きながら息子のもとへと寄ってきた。そして長女が、あげる、と言って、上着のポケットから出したものを息子に渡した。砂浜で最後の1個を取り合った、あのお菓子だった。

 聞くと、息子が検査を受けるのを待つ間に、病院の売店で買ったのだと言う。長女は小学校に上がったばかりで、最近お小遣いを貰い始めた。そのなけなしのお小遣いを使ったと分かった。

 長女は、そのお菓子は次女が一人で会計したと付け加えた。次女はとても人見知りで怖がりで、知らない人の前では、基本的に私たち家族の後ろに隠れていた。その次女が会計をしたところを想像すると、きっと頑張って勇気を出したのだろう、と想像がついた。

 息子が「ありがとう」と言い、私たち家族に、いつもの笑顔が戻った。

 長女が息子に、人生初の救急車の感想をせがんでいるのを見ながら、私は、夫が話した、私の言葉を思い出していた。

 私を殺していいから死なないで。

 私は、息子が私を殺すのに失敗して死ぬくらいなら、素直に殺されようか、と、ほんの少しだけ、考え始めていた。



「あなたは息子に殺される」

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