第5話 5歳

 息子が4歳の時、娘が産まれた。産まれる前は、息子が幼児返りをするのではないかと内心心配していたが、そんな心配は杞憂に終わった。むしろ、息子は積極的に"おにいちゃん"ぶるようになったのだ。

 私が娘にミルクを与えようとすると「ぼくがやる」と主張し、授乳をしようとすると「なんでぼくはおっぱい出ないの?」と地団駄を踏んで悔しがり、娘をベビーカーに乗せて散歩に行くときは「ぼくが押す」と駄々をこね、娘を寝かしつけようとすると「ぼくできる!」と言って娘より先に寝オチしていた。その時の、カメラを見つめて満面の笑みを浮かべる娘とカメラに全く気づかず爆睡する息子のツーショットは、しばらくの間私達夫婦の携帯の待受画面を占拠した。


 娘は1歳と少しでトコトコと歩き始め、晴れている日には外で息子と娘と私の3人で、公園で遊べるようになった。息子は娘に公園での遊び方を色々と伝授しては「だってぼくおにいちゃんだから」と胸を張り、娘はおにいちゃんの後ろをついて歩き、やることを何でも真似しては、喜んでいた。


 その日は晴れてはいたものの、公園はあいにく年に1度の害虫駆除剤散布の日で、遊びに行くことは出来なかった。ただ、夫は仕事に出掛けており、我が家の1台分の駐車スペースが空いていたので、そこで二人を遊ばせることにした。

 普段遊んでいる公園は芝生だが、駐車スペースはセメント敷きだ。だから二人のために"例の白い石"を拾ってやり、これで地面にお絵描きが出来ることを教えてやった。二人はとても驚いた後に狂喜し、駐車スペースいっぱいに絵を描いて、楽しそうに遊んだ。私は家の掃き出し窓を開けてそこに腰掛け、二人の遊んでいる様子を眺めた。娘の絵は、まだ何を描いているのかよく分からなかった。息子の絵も大概そうだったが、息子は1つ描きあげる度に、「ママ! 見て、きょうりゅうかいたの。ママ、見てる? ママ!」と、描いたものの報告をしてきたので、なるほど、それはきょうりゅうなのね、と把握することができた。


 二人でしばらくお絵描きをすると、駐車スペースは二人が描いた絵で埋め尽くされた。すると息子が娘に新しい遊びを提案した。駐車スペースの真ん中を横切るように線を引き、両端に適当な大きさの四角を描き、ここはサッカー場だと主張したのだ。娘用の、柔らかい小さなボールを持ってくると、娘と一対一で息子式のサッカーを始めた。そのボールは少し前に夫が買ってきたばかりで、娘はまだ遊んだことが殆んどなく、まずは"ボールは転がる"であるとか、"ボールを足で蹴ると、遠くへと転がる"であるとか、"ボールは投げても怒られない"であるとか、そんな基本的なところから吸収していった。

 息子が娘の足元に優しくそっとボールを蹴る。ボールが娘の足元で止まる。娘がそれをよいしょと拾い上げる。私と息子が拍手して誉める。娘も笑って拍手をする。その時にボールが落ちる。もう一度ボールを拾う。投げる。息子まで全然届かない。息子が数歩歩いてボールを拾う。私と息子が拍手をする。娘も笑って拍手をする。息子が定位置に戻る。息子がボールを蹴る……

 そうやって、繰り返して遊んだ。少し退屈だけど、平和で幸せな時間だった。


 繰り返し遊んでいるうちに、娘はボールの投げ方のコツを掴んだのか、投げたボールがふと少し遠くへ飛んだ。ボールは息子の後ろへと転がっていった。息子が「ぼくが取ってあげる!」と、いつものように"おにいちゃん"を発揮し、後ろへと振り向いて駆け出した瞬間、私は、駄目!、と叫んだ。

 息子の後ろには、細い道路があった。


 息子は最近、"おにいちゃん"を発揮したがるから、私がやっては駄目だと教えることは、やらなかった。道路へ飛び出すこともそうだ。

 家の前の細い道路は、車通りが殆んどない。

 その上、退屈で平和な時間に、私は完全に油断した。

 息子が駆け出したときから、嫌な予感があった。叫ぶと同時に、その胸の中の嫌な感じが、私の足を動かした。


 息子がしゃがんでボールを拾い上げようとしている。タイヤとアスファルトが激しく擦れる嫌な音がする。息子が音の方を向く。驚いて体を固くする。


 そこで私はやっと息子に追い付いて、息子を道路の向こう側へと突き飛ばそうと思ったのに、気づいたら覆い被さるように抱き締めていた。しまった、と一瞬思うが、残された私に出来ることと言えば、腕に力を込めることと、キツく目を閉じることだけだった。


 時が止まったかのように、何の音もしなかった。車体の熱と、タイヤとアスファルトの摩擦熱を、感じた気がした。錯覚だろうか。

 ものの数秒が、何倍にも感じられた。

 恐る恐る目を開ける。車は私の10cm先で止まっていた。


     *     *     *     *     *


 車の運転手は私達にしきりに謝ってきたが、どう考えても悪いのはこちらだ。私も運転手に何度も謝った。車を降りた時の彼の顔が真っ青で、少し震えてもいて、心の底から申し訳なく思った。

 運転手はしゃがんで息子に視線を合わせ、息子にも謝った。息子は泣くでもなく、ただ呆然としており、運転手の話にほんのわずかに頷くだけだった。


 運転手はひたすら頭を下げながら、車へと乗り込み、去っていた。

 その車が角を曲がり見えなくなった頃、息子の小さな、「……ママ」、の声に、私は息子へと振り向いた。そして、息子が再度口を開きかけたところで、気づくと私の右手が息子の頬を張っていた。

 私がハッとすると、息子はじわじわと目に涙を浮かべ、ごめんなさい、を連呼しながら大声で泣き始めた。しゃがんで息子を抱き締めた。私も泣きたくなった。

 息子を抱き締めたまま、耳元で言った。お願いだから、ママの言いつけを守って。じゃないと、ママ、寿命が縮みすぎてなくなっちゃうよ……いくつ命があっても足りないよ……

 息子は私の言葉に、泣きじゃくりながらも何度も頷いた。



     *     *     *     *     *



 この一件の数週間後、我が家の駐車スペースにフェンスが設置された。このフェンスは、車の出し入れの際以外には閉めておくことに、家族会議で決定した。これで我が家に2つ目の、"息子が発端となった柵・フェンス"が設置されたことになる。

 完成したフェンスを息子と並んで眺めた。息子が、これで娘が道路に飛び出そうとしても安心だといったようなことを言ったので、あなたのために設置したんでしょ、と息子を小突いた。それは息子なりの冗談だったらしく、息子は照れたように笑った。


 あれからしばらく経っても、あの目を瞑っているときに感じた熱を、ふと感じることが時々あった。これは流石に錯覚だろう。

 でも、その時には占い師のあの言葉を、一緒に思い出さざるを得なかった。



「あなたは息子に殺される」

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