第4話 2歳

 息子が、寝返り、ハイハイ、つかまり立ちと、順調に成長していき、そして一人で歩けるようになると、少しも目を離すことが出来なくなった。

 自分で移動することが出来るようになった息子は、あちこち移動し、様々なものに興味を持ち、どんなものでも手に取ってしげしげと眺め、それを振り回してみたり、時には口に入れようとして、慌てた私がそれを取り上げると、大声で泣いたりしていた。


 その日料理中だった私は、台所に立ち、息子を1人でリビングで遊ばせていた。息子の最近のお気に入りである子ども向け番組を録画したものを流してやると、息子はそれを見て、変な声を出しながら番組キャラクターの動きを真似して遊んでいた。私は、台所からカウンター越しにリビングに時々目線をやって、息子の無事を確認していたが、ある時からふと料理に集中してしまい、しばらく目線をやるのを忘れてしまった。


 そんなことを知ってか知らずか、テレビに飽きてしまったのであろう息子が、その日の興味の矛先はよりによって台所に向いてしまったようで、小さな足で一生懸命歩き、いつの間にか台所に入っていたことに、私は全く気付かなかった。

 鍋を見つめていた私が、そろそろ人参を入れよう、とまな板の方へと顔を向けると、やっとそこに息子がいることに気が付いた。息子は、あろうことか人参と包丁を載せたままのまな板に背伸びをして一生懸命手を伸ばし、まな板をずりずりと動かし始めているところだった。

 私が思わず叫び声を上げると、息子はビクッとして体を固くし、背伸びをしていた踵が床へとつき、結果息子が掴んでいたまな板が傾いた。初めに切った人参が床へとばらまかれ、そしてその次に、包丁が滑り落ちた。全てがスローモーションに見えた。


 結果、包丁はより重い柄の部分から床へと落ち、少しだけ跳ねてから止まった。刃から落ちてこなかったとはいえ、息子の数センチ横へと落下したので、私は思わずその場にへたりこんでしまった。息子にはかすりもしなかったが、私の声や焦りように驚いたようで、しばらく金縛りにあっているかのようになっていたのが解けると、猛然と泣き出した。

 とにかく息子に何もなかったことに安心して、私は震える膝を叱咤し立ち上がると、息子を抱き上げた。息子は背中を反らせて手足を猛烈にバタつかせながら泣いたが、そのうち私に必死にしがみつき私の胸に顔を埋めて泣きわめいた。


 息子を抱き抱えながら、いまだに震える手を伸ばし、コンロの火を消した。そして床に落ちている包丁へと手を伸ばし、しっかりと柄を掴み持ち上げると、再び落ちることのないように、シンクの中へとそうっと置いた。床に散らばった人参も1つ1つ拾って一先ずこれもシンクの中に置くと、足元をよく確認しながら、そろそろと摺り足で台所を出た。

 台所を出たところでようやく少しホッとして、私の腕の中でいまだに泣き続ける息子に、大丈夫、大丈夫よ、もう大丈夫……と、自分自身に言い聞かせるように何度も囁いた。


 そのまま、息子を抱えながら各部屋を巡り、風を通すために開けていた窓を閉めて施錠し、カーテンを閉めた。そしていつも使っているリュックを手に取り、リビングに戻った。

 テレビでは子ども番組が流れたままで、キャラクター達が陽気なエンディング曲に合わせて踊っていた。リモコンを使い、テレビの電源を消した。

 その頃にはもう、私の胸に顔を埋めながらぐずぐずいうくらいになっていた息子にも、私のしようとしていることが分かったようで、いまだに涙を湛えて潤んでいる目を私の顔へと向け、

「おんも? おんも いく?」

と、まだ数少ない自身の語彙をフルに使って聞いてきた。

 私は、息子に、そうよ、と告げた。



     *     *     *     *     *



 夫が帰宅すると、台所を見て少し驚いたような顔をした。台所の入り口に、今まではなかった、子ども用の柵が設置されていたからだ。

 夕飯時に今日あったことを夫に話して聞かせた。思い出しただけでもゾッとする光景だった。とにかく、息子に少しの怪我もなくて何よりだった。

 それでも思わず、テーブルの下で、左足で右足の甲を撫で、無事を確認してしまった。もしあの包丁が私の足に刺さっていたら、どうなっていたのだろう? まさか死ぬことはないと思うけれど……どのくらいの出血があると、人は死ぬのだろう? そんな考えが頭の中をぐるぐると巡った。


 今日の夫の帰りは早めだったので、息子もハイチェアに座り、一緒に食卓を囲んだ。ただし私と夫が食べるものと息子が食べるものは別に用意しているので、息子はハイチェアのテーブルに載った息子用の食事を、子ども用のスプーンを右手に持たせた意味がなくなるほど、両手を使って豪快に食べていた。

 一緒に食卓を囲ませ始めた頃は、大人と同じものを食べたがり、散々騒いで訴えていたが、最近はそれもなくなった。私達が盛んに息子用の食事を褒め称え、羨ましがるようにしたからだ。その代わり、

「まま。 まま。 あいっ」

と、寛大にも自分の食事を一口大人達に分け与えようと、度々スプーンを私達に差し出すようになった。ところが私達が大きく口を開けてわざとゆっくりとそれを食べようとすると、素早く手を戻して自分でそれを食べ、私達を見てにんまりする。そんなことが私たち家族の最近のお約束になっていた。

 息子は今日あったことも忘れ、とてもご機嫌に夕飯を食べ、私と夫に2回ずつ、"1口あげる詐欺"をやっていた。私への2回目の詐欺を行った際に、私がわざとらしく悲しそうな顔をしてみせると、息子は口をポカンと開けて驚いたあと、少し申し訳なさそうな様子で、

「あい……」

と改めてスプーンを差し出すものだから、思わず私と夫は声を上げて笑ってしまった。


 夫と息子とともに、そんな楽しい食卓を囲んだおかげで、包丁が落ちてきた際に私の頭を掠めたあの言葉は、すっかり私の頭の中から消えていた。


「あなたは息子に殺される」

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