第3話 0歳
最初にあの占い師の言葉を思い出したのは、結婚してから1年と少しが経つという頃だった。それは大分お腹が大きくなり始めた頃の妊婦検診で、お腹のエコー画像を見ている看護士から、男の子ですね、と告げられた時だった。
私は、そうですか、とだけ答えて、ぼうっとお腹のエコー画面を眺めた。今までは、ここですよ、と看護士に指差してもらわないと分からないくらい小さな影だったのが、自分でここだと分かるくらいの大きさにはなり、ずっと人間らしいフォルムに近づいていた。
これからこの子が産まれて、大きく成長することは分かっていたが、こんな小さな、私がいないと生きていくことも難しい存在が私を殺すなんて想像もつかなかったので、私はただ男の子が産まれるという占い師の言葉が当たったことに感心するだけだった。
妊娠してから、食の好みが毎日のように変わり、匂いにも敏感になって気分を悪くすることが増えてしまい、辛かった。妊娠以前は大好物だったものを食べたいと思えず、その日その日で食べたいもの、食べられそうなものを探してなんとか食いつないだ。
ある時は納豆が大好きになりそればかり食べる日が数日続いたかと思えば、その翌日急に納豆の匂いが駄目になり、買いだめしていた納豆を全て夫に食べてもらうことになった。ある時は無性にラーメンが食べたくなり夫に作ってもらったが、いざ出来上がったラーメンを目の前にすると、急にラーメンの匂いで気分が悪くなり布団に横になってしまい、夫が2人分のラーメンを食べることになった。そんな日々が数ヶ月続いた。
不思議なのは、ちょうど子どもの性別が男だと分かった頃に、パタリとそういったことがなくなり、妊娠以前と同じように食事を楽しむことが出来るようになったことだ。人体の神秘に夫と一緒に首を傾げた。その頃の夫は、私の妊娠以前と比べて5kg程太っていた。
それ以降は平穏に日々をすごし、予定日を迎えることができた。しかし予定日に陣痛がくることはなく、夫と一緒に、きっと息子はのんびり屋さんだね、と笑いあったが、翌日、翌々日にも陣痛がこなかったことで、私達は口をつぐみ、今か今かとハラハラしながら陣痛を待つことになった。
やっと陣痛が訪れたのは予定日の3日後だった。私のお腹の中で呑気にすくすくと成長した息子は、新生児の平均体重よりも随分と大きく育っており、私と医者と看護士を手こずらせた。
陣痛が本格的になってからやっと息子が産まれるまで、かなりの時間がかかり、私の体力はどんどん削られた。陣痛促進剤が与えられ耐え難い痛みが何度も襲ってきたときには、まさか、息子に殺されるというのはこのことか、と考えたほどだった。
なんとか息子が産まれ、疲れからぐっすり眠っていた私がやっと目覚めたとき、息子は私のベッドの横のベビーベッドですやすやと眠っていた。この大きさの人間が私のお腹の中にいたのか、と驚くほどの、貫禄のある大きさだった。
出産に立ち会い、私の手を握り声をかけ続け応援してくれた夫は、私のベッドの横の椅子に座り、ベッドにもたれるようにして寝ていた。やがて目を覚まして私と目があい、笑顔になった夫は、大きな隈ができ、げっそりとしていて、私よりよっぽど死にそうな顔をしていたので、私は思わず吹き出してしまった。
息子が産まれてからは、怒涛の日々が始まった。初めての育児は話に聞くよりもずっと大変で、ほとんど眠れない日が続いた。自分は眠れていない中息子を必死に寝かしつける、自分はご飯をまともに食べられていない中息子が飲むミルクを急いで用意する、自分が死にそうになりながら必死に息子を生かそうとする、そんな日が長く続いた。
やっと育児に慣れてきて、自分のことにも多少気が回せるようになったのは、息子がもうすぐ1才になる頃だった。
その頃に、初めての出産や育児はどうだったかと周りから聞かれると、私はいつも、死ぬかと思った、と笑って答えた。その時にはいつも、心の中にあの言葉が浮かんでいた。
「あなたは息子に殺される」
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