第8話 18歳

 玄関の開く音がしたので、おかえり、と言いながら見に行くと、案の定息子が帰ってきていた。特に返事もなく階段を上がって行ったので、もう一度、おかえり、と背中に声をかけたが、返事はないまま、息子の部屋の扉が閉まる音がした。



     *     *     *     *     *



 始まりは、息子が命の次に大切にしているギターだった。


 ある日、家中に掃除機をかけていると、リビングに置かれた息子のギターケースが目に入った。息子はギターを大抵は自室に置いているので、それは珍しいことだった。

 掃除機をかけるのに邪魔なので、渋々それを息子の部屋に持って行ってやり、掃除を続けた。

 その後、帰宅し、自室にギターケースがあるのを認めた息子は、ドタドタとリビングへと降りてきて、「俺のギター触った!?」と、いきなり私を問い詰めた。私がむっとしながらも、触ったわよ、と答えると、息子は「何でだよ! 触んなっていつも言ってるだろ!」と喚いた。

 そこから、侃々諤々の口論が始まった。

 あなたがリビングに置いておくのがいけないんでしょう!

「私物を何一つ置くなって言うのかよ!」

 掃除機をかけるのに邪魔だから、どかすついでに部屋に持って行ってあげたんでしょう!

「掃除機なんて、ギターを避けてかければいいだろ! 大体、触るなっていつも言ってるんだから、そのままにしておけば良いだろ!」

 触るなって何よ! そのギターを買ってあげたのは誰だと思ってんのよ!

「またその話かよ! じゃあギター代を返せば良いよな!?」

 そう言って息子が財布を取り出したので、私はカッとなってしまい、息子の手から財布をはたき落とした。

 しばらく、私と息子で無言のにらみ合いが続いた。息子が黙って部屋へと引っ込んで、私と息子の冷戦は始まった。


 初めは、言葉を交わさないところから始まった。次に息子は、ギターケースに、これ見よがしに「触るな!」と書いた紙を貼った。仕返しに、ギターケースが家に置かれている時は、"この下掃除機をかけていません"、と書いた紙を貼ってやった。すると息子は、私の本棚の本の順番を滅茶苦茶にした。仕返しに、息子が見ている前で、置かれたギターケースを触る真似をわざとらしくしてやった。息子はムスッとした顔で、無言でギターケースを回収し、それを私から守った。

 そんなことを続けていると、次第に息子が夕飯を外で食べてくる日が増え、それまでも遅かった息子の帰宅時間がどんどん遅くなり、最終的には連絡もなく帰ってこない日が増えた。

 無断外泊から帰ってきた息子に問いただすと、「バンドの練習」とだけ答え、心配だから連絡くらい入れなさい、と言うと、「嫌」と宣った。

 その頃には少し冷静になって、ちょっとやり過ぎたかな、と反省したが、その頃には息子と過ごす時間も殆んどなくなっていた。

 私の代わりに夫が息子に問いただすと、バンドの練習に熱を上げているのは本当らしかった。練習で帰りが遅くなったり、そのまま一人暮らしの友達の部屋に泊まることがあるらしい。練習に打ち込むのは良いが、帰らないなら帰らないで連絡を入れろ、と夫が嗜めると、渋々と言った体で頷いた。夫の言うことは聞くんかい、と私は思ったが、黙っていた。


 夫が嗜めて以降、息子が無断外泊することは減ったが、家にいる時間は変わらず短かった。

 夫は、ちょうどこの時期に会社での部署移動があり、仕事が大変になったようで、家に帰ってくるのが遅くなってきていた。息子について夫は、どうせ大学に合格したら出ていくんだから、今から慣れておけば良いじゃないか、とあっさりとしていた。

 長女は中学に入ってから勉強に目覚め、学校の図書室や市立の図書館で勉強することが増え、こちらも家にいる時間は以前に比べて減っていた。

 次女は、私と息子が言葉を交わさない状況に居合わせると、眉尻を下げて分かりやすく困ったような顔をしたので、申し訳なく思った。

 家族が家にいる時間が短くなるのは、子どもは成長するのだから仕方ないと思えた。でも、やはりどうしても、寂しかった。


 決定的な事件が起きたのは、息子との冷戦が始まってから1ヶ月ほど経った頃だった。


 段々と家に帰らない日が増えていた息子が、ある日、連絡をせずに家に帰らなかった。

 翌日、帰ってきた息子に、約束と違うでしょう、と問い質すと、息子は溜め息をつきながらリュックとギターケースを床に置き、「その約束は親父とはしたけど、お袋にはしてない」と屁理屈をこねた。

 そこからまた口論が始まった。リビングに居合わせた長女はテレビの音量を上げて我関せずといった風で、次女は困ったような顔をしながら、長女の隣に座っていた。

 そこに夫が帰ってきて、私と息子がやり合っているのを見て、溜め息をついた。

 息子が、「大体、お前はなんでもかんでも恩着せがましいんだよ! 買ってあげただとか、やってあげただとか! 俺が1度でもそんなの頼んだことあったかよ!」と言った。夫は息子を、いい加減にしろ!、と叱ったが、それは私の耳には入ってこなかった。息子が私を、お前、と呼んだことがひどくショックで、悔し涙が浮かぶのを感じた。

 その時、ふと視界の隅のギターケースに意識がいった。その時私は、今となっては自分でも本当に馬鹿だと思うが、はっきりと、息子のギターに嫉妬をした。

 私はお前呼ばわりされるのに、恩着せがましいと言われるのに、あなたはとても大事にされているのね。あなたをプレゼントしたのは、私なのに。息子の喜ぶ顔が見たかったからなのに。あの日から息子はあなたしか見ていない。あんなに母親想いの子だったのに。今はあなたが命の次に大切なもの。私の大事な息子を、盗らないでよ。


 私は、泣きながら息子のギターケースをなぎ倒した。大きくて重そうな音がした。家族皆がシーンと黙って、リビングにはバラエティー番組の場違いなわざとらしい笑い声と、私の荒い息遣いだけがあった。息子が驚き口を開けている。当然だ。いつも少し触るだけで烈火のごとく怒っていたのに、それをぞんざいになぎ倒されたのだ。


 息子が私を突き飛ばした。私が床に倒れると、そこにはチェストがあり、私はその角に後頭部を強かに打ち付けた。あっ、と思ったところで、1拍遅れて、バキッと鈍い音がした。

 後頭部を押さえながら目を開けると、息子は左頬を押さえており、夫が握りこぶしを作っていた。夫が息子を殴ったのだと把握した瞬間、息子は家を飛び出した。



     *     *     *     *     *



 私の後頭部には大した傷はなかったので、冷やすだけで済ませた。

 頭の怪我よりも、夫にこんこんと説教される方が辛かった。息子にも悪いところはあったが、もう18なんだから、お前もいい加減子離れをしろ、だとか、子どもが成長するに連れて、親よりも大切なものが出来てくるのは当たり前だ、だとか、長女と次女がそうっと自室へと引っ込むほどの怒りようだった。私はひたすら小さくなるばかりだった。

 息子が家を飛び出した瞬間、私はその背に、行かないで、と泣きながら叫んでいた。

 息子が大学に合格したら家を出ていくのは分かっている。でも、せめてそれまでは一緒の時間を過ごしたかった。それも私の我が儘だろうか。


 夜が更けても、息子は帰ってこなかった。

 夫は、待っててやると帰ってきた時に調子に乗るから寝ろ、と言ったが、私はリビングのソファーから動かなかった。夫は諦め、先に寝るために2階へと上がっていった。

 家の中はとても静かで、壁掛け時計の、カチ、カチ、という規則的な音しかしなかった。

 息子を待ちながら、私はずっと考えていた。考えに考えて、そして決めた。朝になった。息子は、結局その日は帰ってこなかった。


 朝になり、2階から降りてきた夫に私は言った。

 引っ越そう。

 夫は分かりやすく、ポカンとした顔をしていた。



     *     *     *     *     *



 家族には、特に娘たちには、引っ越しに反対された。息子が出て行ったショックでおかしくなったと思われたかもしれない。それでも、学校が変わらない位置にするから、少しの距離だから、と説得して、無理矢理押しきった。

 新居を探す中、私は複数上がった候補の中から、今の家から見て北東に位置する家を推薦し、そこに決定するように仕向けた。もちろん方角のことは口にはせず、日当たりが良さそうだの、便利そうな位置にあるだのと言って、その家を褒め称えた。息子が家を飛び出してから何日か経過していたが、その間にあっという間に次の家が決まった。

 

 引っ越し日が決まり、いまだ帰らぬ息子に、この日に我が家は引っ越しをするので、それ以降に帰ってきても誰もいません、この日までに部屋にあるものは全部捨てます、と、メッセージを送った。

 それまで息子を心配して送ったメッセージには返信がなかったのに、そのメッセージには「マジで言ってる?」と返ってきた。マジです、と返信をした。


 結果、息子は荷物をまとめるために、渋々と帰ってきた。

 息子が帰ってきて、私の顔を見ると、気まずそうに顔を背けた。私は息子の横顔に向けて、ごめんね、と謝った。子離れ出来ずに馬鹿な嫉妬をしたことを、反省していた。息子は私の顔を見ないまま、「……俺も、ごめん」と呟いた。

 捨てられたくないものを段ボールにまとめると、息子はまたすぐに家を出ていった。息子の物が入った段ボールがあることで、いつか帰ってくるつもりのようだ、と、少しだけ安心した。

 引っ越し当日にしか引っ越し先は教えないと伝えたので、引っ越し当日にも不貞腐れた顔で息子は現れた。引っ越しのトラックを追いかけるように、家族で車に乗って移動した。

 すぐに新居に着いて、車を降りて、息子は呆れたように、「……これ引っ越す意味あんの?」と言った。目の前には、今まで住んでいた家と似たような家が、少しだけ小ぢんまりとして林に囲まれて建っていた。

 新居の周りの林を見て、私は、そうか、と気がついた。


 息子は引っ越し後も、帰りが遅いことや帰らないことはあった。

 ある日、私は息子に、友達の部屋に泊まるばかりでなく、たまには我が家に泊めるように言った。息子は初めそれを嫌がったが、一度泊めると、友達の部屋よりも広いこと、周りが林なので、近所迷惑を考えずに練習できること、新居の立地が友達にとって使いやすい位置にあったことから、やがて頻繁に泊めるようになった。

 私も、息子の友達の顔を見ることで、悪い友達と絡んでいるわけではないこと、息子は良い友達に囲まれていることを知ることが出来て安心した。また、息子が音楽をやっている時の、私には見せたことのない表情を見て、ああ、この子は大人になったんだな、と、やっと実感した。

 初めは、騒がしくなったなあ、と言っていた長女も、息子が友達を連れてきていると、あの曲やってよ、と流行りの曲をリクエストするようになった。加えて、強い性格の長女は、これから勉強してくるから、集中力が上がるようなクラシックな曲を頼む、と言って2階に上がり、ロックを専門としている息子たちを戸惑わせた。

 次女はドラム担当の友達に、ドラムの叩き方を教えてもらい、とても嬉しそうにしていた。どうやら運動会のマーチングバンドで小太鼓を叩くらしく、私がクラスで一番上手いって誉められたんだよ、と笑っていた。

 夫は、音楽の溢れる我が家に帰ってくると、まるで野外フェス会場だな、と言って苦笑し、金曜の夜などは音楽を聞きながら、ビールを飲んでリラックスしていた。


 息子が家を出ていくまではもっと一緒の時間を過ごしたかった。引っ越しをして、それが実現した。私は心の中であの占い師に、やるじゃない、と呟いた。

 実を言うと、引っ越す前よりも今の家の方が、狭く、古く、駅からも遠くなった。グレードとしてはダウンしていた。

 でも、ある日次女が、私は今の家の方が好きだよ、と言ってくれた。私は、私もよ、と笑った。



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 息子が大学に合格し、とうとう家を出る日、息子はまるで近所のコンビニに行くような気軽さで出ていった。荷物は予め送っていたので、リュックとギターケースだけを持って、特に行ってきますの挨拶もないままだった。

 それでも私は、息子が出ていって寂しく思った。息子は賑やかな性格ではなかったはずなのに、家の中がいつもより静かに感じられるのは何故だろう、と考えた。

 壁掛け時計を見て、そろそろ高速バスに乗った頃だろうか、と考えていると、携帯電話がメールの着信を告げた。見ると、息子からだった。

「今までありがとう」

 その一言だけが送られてきていた。

 そういう大切なことは面と向かって言いなさいよ、と思ったが、同時に、メールで良かった、とも思った。息子からのメールを読んだ瞬間、ボロボロと大粒の涙をこぼしてしまい、こんなところを息子に見られなくて良かった、と思った。


 こうして、息子と私は離れて暮らすようになった。そうすると、私が占い師のあの言葉を思い出すことは、全く、全く、なくなった。




「あなたは息子に殺される」

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