2.衝撃

 今日も雨が酷くて、工事が中止になった。

 おかげで、思いがけず休みができた。秋の長雨に助けられている。

 俺は朝から機嫌良く買い物に出かけた。雨が酷くても、お構いなし。長靴を履いて傘を差して、雨が傘を打つ音をBGMに、近くのスーパーへ向かった。


 高い食材は買えないが、書籍コーナーで立ち読みしたところによると、比較的安く買える食材――例えば玉ねぎとか人参とかジャガイモ、納豆など――をバランス良く食べる事は健康にいいようなので、俺はさらに気を良くして買い物を済ませ、家に向かった。

 相変わらず雨は酷い。でも、気持ちは全然憂鬱じゃなかった。

 家に着くまでは。


「ただいま」

 返事はなくシンとしている。起きていれば「早く飯を食わせろ」だの言ってくるのが親父だ。雨の時には不思議と眠くなるし、きっと寝ているのだろう。

 俺は服を脱ぐと、あらかじめ玄関に用意しておいたバケツにそれらを放り込んだ。廊下にポタポタ雫を垂らすより、この方がいい。

 やはり用意しておいたタオルで髪と体をサッと拭き、それを首からかけたまま買った物を持って居間へ向かう。バケツを片付けるのは後回しだ。


「親父、帰ったぞ」

 声をかけるが、返事はない。やっぱり眠っているようだ。

 しかし布団が空なのを見た時、背中を冷たい何かが走ったような気がした。なぜだろう、変な胸騒ぎを感じる。

 きっとトイレにでも入っているのだと言い聞かせながら、袋をドサッと床に置いて急いで向かう。ノックもせずに開けたそこに、やはり親父はいない。

「親父?!」

 まさか家にいないのか、と思った時、ガタンと物音がした。――風呂場からだ。

 慌てて駆け寄り戸を開けると、親父はちょうど服を頭からかぶったところだった。


 その背中に、俺は痣を見つけた。一つ二つではない、無数の痣…。

 見た瞬間、俺はカッとなった。

「何だよそれ」

「それって何だ」

 分かっているだろうに、親父は何でもない事のようにそう言った。当たり前に服を着て、くるりと俺の方を向く。


「何だって、痣の事に決まってんだろ」

「痣は痣だ。俺がお前にしていたように、俺も暴力を受けてんだ。ただそれだけだろうが」

「ただそれだけ……だと…?」

 絞り出したような声に、俺は自分でも驚いた。それは親父も同じだったようで、元々小さくはない両目をいつもより大きくさせて、俺を見つめている。


「怒ってるのか…?」

 親父の質問に、俺はブチ切れそうになるのをどうにか堪える。何も言わない俺に、親父は俺の怒りの大きさを理解したようだ。

「今に始まった事じゃない。今さら怒る必要はない」

「何…?」

「お前だって、薄々気づいてただろうが。俺が、ただこき使われてただけじゃねぇって事ぐらい」


 確かにそうだ。俺だって、疑った。親父が俺に暴力を振るうのは、自分が同じ事をされているからかもしれないと。

 だが思い出す限り、親父がひどい怪我で帰ってきた事はない。お客の相手をさせる為に、あまり酷い事はしないでいるのだと思っていたが…考えてみれば、親父はもうホストではない。

 自分の仕事でいっぱいいっぱいでそこまで考えている余裕はなかったが、もしかすると、自分がいない間に散々な事をされていたのでは…?


 一度生まれた疑念は、一瞬にして俺の中を駆け巡る。

「まさか…」

 俺は最悪の想像をして、親父の両肩を掴む。

「まさか親父」

「やめろ葉蘭。俺を惨めにさせたい訳じゃないなら、それ以上言うな」

 俺の最悪の想像は、その言葉によって肯定された。


 言葉を失った俺の腕は、ガクリと力を落として親父の肩から滑り落ちる。

 そんな俺の頬をビシャリと叩いて、親父は俺の髪を引っ張りながら耳に顔を近づけた。

 見た目には、ただの暴力に見えるだろう。

 だが俺の耳に届いた言葉は、全く違った。

「お前を同じ目には遭わせない」

 盗聴器にも拾えないほど小さな声で、しかし今までに聞いた親父のどんな言葉よりも、力強く俺に響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る