葉蘭万丈!
縞衣
1.俺と親父
「酒買って来い!」
怒鳴り声と共に、床にビール缶を叩きつける音が響く。
「さっさと行けこの野郎が!」
尻を思いっ切り蹴りつけられた。
親父の酒癖の悪さは、昔からだ。妻である母親は、とっくの昔に逃げ出した。息子の俺を置いて。
もう十年も前の話だ。
ひどいとか薄情だとか、思って恨んだ事もある。
どうして俺を連れて行ってくれなかったのか。どうして、親父の元に置いて行ったのか…。
その時は、どうしても分からなかった。
でも、今なら分かる。
母親は、恐れていたんだ。
息子の俺が、いつか親父のようになり、再び自分を傷つける事を。
成長と共に、俺はその事に気がついた。
昔の俺は、わざと親父に反抗して、顔や首や、目に見えるところを殴らせようとした。
そうすれば、学校で教師が不審がってくれるかもしれない。
児童相談所や警察に連絡が行って、親父が逮捕されてくれれば、俺は暴力から解放される。
でも、親父は目につくところに傷を負わせるなんてヘマはしなかった。
親父には借金がある。
そのせいで見張りがつけられていて、俺が自分で警察へ逃げ込むなんて事もできなかった。
家の中には、各部屋に一つずつ、隠しカメラと盗聴器が仕掛けられている。
長年そんな状態だと、どこにそれがあるのかまで簡単に調べられるようになる…にも関わらず、外してしまう事はできない。
例え外しても、留守中に侵入され再度仕掛けられるだけで、おまけに「どうして外した」と殴られるのだから、何の得もない。
だから、いつも誰かに見られていると分かった上で生活するしかない。
風呂でもトイレでも、隠し事なんか一切できないように常に見張られているのだ。
そんな中で、親父はしょちゅう俺に手を上げる。
少しでも何かが気に入らないと、殴られ、蹴られた。
辛いのは、鳩尾への一発だ。しばらく息もできない。
必死に息を吸おうとして、吸えなくて喘ぐ。気絶した事もある。
親父は、昔から問題ばかり起こしていたそうだ。
母親は、親の知り合いからの紹介で、そんな親父と嫌々結婚したらしい。
息子を置いてでも逃げたかった母の気持ちが分かる気がしてしまうのは、そういう理由からだ。
もともと望んでいない相手との結婚だったのだ。
幸せになれたならいいけれど…予想していた、もしかするとそれよりも遥かに酷い現実だったなら、誰だって逃げたくもなる。
だからもう、母の事は恨んでいない。
むしろ、親父の事も俺の事もすっかり忘れて、新しい人生を歩んでいてほしいくらいだ。
いつか再会したいだなんて、望んでもいない。
きっと母は、親父とそっくりに成長してきた俺を見たら怯えた顔をするだろうし、そもそも会いたくもないはずだ。
すっかり忘れるだなんて、できないだろう事は分かっている。
だが俺にとっては、母は間違いなく過去の人で、もはや顔を思い出す事さえできないし、日々の生活の中では、母の事を思い浮かべる事だってない。
俺の頭にいつだって浮かぶのは、一緒に暮らしている親父だ。
幼い頃は、ただひたすら恐怖の対象として、しかし今では、たった一人の家族として。
うちの生活は楽じゃない。俺は中学にすらほとんど通わなかったし、もちろん高校にだって行っていない。
俺が働かなければ、親父はすぐに悪い癖が出てせっかく稼いだお金も失くす。
俺が働くようになるまでは、親父もさすがに自分が全て持っていると生活できなくなる事は分かっていて、稼いだお金は俺に預けていたから、俺は必死に遣り繰りを覚えた。
親父が我慢できなくなってお金を持ち出そうとした時には、俺は恐怖心も捨てて――と言うより、親父よりも生活できなくなる事の方が恐怖だった――親父に飛びかかっていくようになった。
そうして徐々に、俺は親父に対抗する力を持った。
親父は、数年前に倒れて以来体調を崩して、それからは明らかに俺の方が強くなった。
いつも親父から暴行を受けていたせいで、俺は殴られたり蹴られたりする時、どうやってガードすればいいかという事も自然に覚えたし、反撃の仕方も身に着いた。
その点については、親父に感謝している。
世の中、いい事ばかりでもなければ、いい人間ばかりでもない。自分の身を守る術を身に着けるに越した事はないし、それを自然と手にする事ができたのは、まぎれもなく親父のお陰だ。
そう思えるようになった時から、俺にとって親父はただの暴力野郎ではなく、たった一人の家族になった。
だから、怒鳴りつけられようが尻を蹴りつけられようが、俺は親父の面倒を見る。
☆ ★ ☆ ★
コンビニで酒を買った。
いつもはこの時間、仕事をしている。
睡眠時間は、平均一日三時間。
それ以外は、主に仕事。
昼間は工事現場で働き、夜は夜間工事やガードマンの仕事をする。
中学の時から、年齢を誤魔化して働いていた。
クビにならないように、必死でやって来た。
そうやって働いてきたせいか、俺は実年齢よりも年上に見られる。
世の中の多くの同年代は、高校生だ。
そんな年で酒をレジに持って行こうものなら、不審そうな目を向けられ、「身分証を」と言われるだろう。
しかし俺は、疑われた事さえない。
早く帰って欲しい、そんな顔で見られた事は、いくらでもあるけれど。
今日は雨が酷い。
いつもは雨でも夜間工事をするけれど、今日は酷いから、工事も中止になった。
「ただいま…」
「遅ぇぞてめえ! さっさと飯作れ!」
ずぶ濡れになって帰ってきた俺に、親父はタオルを投げつけてそう怒鳴った。
「てめえ、これだけしか買って来なかったのか?! ふざけやがって、また殴られてえのか! このドM野郎!」
ビールが二本入ったコンビニ袋を俺の手からむしり取った親父は、そう言って俺の尻を蹴った。以前に比べて、明らかに弱々しい蹴りだ。
もともと細い親父は、さらにその細さを際立たせるように痩せ、顔色も悪い。
親父は寝ている事が増えた。それなのに酒はやめない。だから俺は「金がない」と言って買う量を減らすようになった。
自分がろくに働けなくなった分、収入が減るのも当然だから、親父はどうにかそれで納得した。
が、こうして酔ってしまうと、抑えがきかなってしまう。
「もっと買って来い!」
「飯遅くなってもいいならな」
そう返すと、親父はぐっと言葉に詰まって腕を振り上げる。
返す言葉がないと手を上げるのは、昔からの癖だ。
以前と違うのは、その手が俺には当たらないという事。
今も、酔った足元がもつれて、腕を振りかぶったまま転びそうになったから、とっさに体を支えた。
「こんなに酔ってんだから、我慢しろよ」
「うるせぇっ…」
「すぐに飯作るから、それ食ったら寝ろよ」
「ガキが生意気言いやがってっ。冷てぇんだよ、手ぇ放せ!」
親父は俺の手から逃れると、ふらつく足で短い廊下を歩き、奥へと向かう。
その後ろ姿があまりにも頼りなくて、俺は親父の肩を背後から掴むと、強引に体を抱き上げた。
「なっ、てめぇ何すんだっ!」
無理矢理に、いわゆる「お姫様抱っこ」をされて、親父は赤い顔をさらに真っ赤にさせて怒鳴る。息が酒臭い。
「うるせえ黙れ酔っ払い。もうあんたにやられっ放しの俺じゃねぇんだよ。『老いては子に従え』って言うだろうが」
「俺はそこまで老いてねぇ…!」
「けど病気してんだろうが。いいかげん病院に行けっつの」
「そんな金ねぇだろうが!」
「親父の作った借金のせいでな。金は俺がどうにかするからとにかく病院に行け。酒やめてでも病院は行け」
「うるせぇ、病院病院言うんじゃねぇよ! だいたい、そんな金あるなら返済しろってむしり取られるのがオチだろーが!」
「俺が仕事増やしてでも稼ぐって言ってんだよ。酒買う金はあるのに病院は行けないっておかしいだろうが。そもそも、俺はあんたに死なれたら困る」
「何が困るってんだ! 俺が死ねば万々歳だろうが!」
親父がそう言って暴れるので、俺は腰を落として親父を下ろした。ちょうど居間にも着いたところだったし、暴れる親父を抱えるのも嫌だ。
「いってぇ…! 仕返しかてめぇ!」
暴れたから尻からドスンと床に落ち、親父は文句を言った。大人しくしていればこうはならなかったはずなのだから完全なる自業自得だが、親父は俺を睨みつけている。
「何に対する仕返しだよ…。そんなもん始めたら時間が足りねぇ」
俺の言葉に、親父は黙り込んだ。なぜか驚いたような間の抜けた顔で俺を見つめている。罵られるとでも思っていたのだろうか。
「俺のせいで親父まで濡れちまったな。服着替えられるか?」
タオルで拭いたとは言え俺がびしょ濡れだったから、抱えた時に親父も濡れたのだ。
俺は普段から雨に濡れるくらい慣れているし風邪など引かないが、弱っている親父はそうはいかないだろう。
「うるせぇ放っとけ…! くしゃん!」
言った尻から親父はくしゃみをする。
俺はやれやれと濡れたTシャツとジーンズを脱ぎ捨てタオルでさっと体を拭き、タンスから親父のパジャマを取り出した。肩にかけたタオルで親父の鼻を拭うとそれも床に放って、うっすらと濡れた親父の服を脱がせにかかる。
「放っとけって…!」
「病院行きたくないんだろ? だったら風邪引く前に服くらい着替えないとだろ」
「自分でやる…!」
子どもみたいにジタバタと嫌がるので、俺は親父の胸にくたびれたパジャマを押し付けた。
「着替えたら寝とけよ。これは没収な」
親父が暴れた時に放り出したコンビニ袋を素早く拾い上げて、俺は台所へ向かう。――と言っても、居間と台所は同じ空間だからほんの数歩歩くだけだ。
「あっ、てめえ! どさくさに紛れやがって!」
親父は喚いたが、追って来る事はなかった。無理矢理着替えさせられそうになったのが余程嫌だったのだろうか、大人しく着替え始める。
その後も、俺が冷蔵庫に入れたビールを取りには来ずに布団に入った。
もう何年も使っているせんべい布団だ。体の事を思うなら、もっと柔らかくて温かい布団に寝た方がいいに違いない。
おそらく誰が見ても、親父はひどい父親だろう。
だけどそれでも、俺は親父に死んで欲しくない。親父がいなくなったら、俺は一人ぼっちになってしまうから。
俺は一人になっても生きていける自信はあるが、おそらくそれは、本当にただ生きるだけだ。
親父の世話を焼くという事が、いつの間にか俺にとっての生きる意味になっている。
もし親父がいなくて一人っきりだったら、俺は何に対しても意味なんて持てなかったに違いない。ただ生きる為だけに働き、ただ生きる為だけに生きる…。
それはきっと、とても苦しくて辛い事だ。
俺はパンツ一丁のまま、狭苦しい台所で料理を作り始めた。親父は腹が減ったと文句を言っていたし、服を着るのも面倒だった。
冷や飯を鍋に入れ、水を入れる。そのまま火にかけて、お粥を作る。
溶き卵とネギの入ったものが、親父の好物だ。
親父は昔から味にはうるさく、不味いと殴られた。
しかし、作るのに手間取り遅くなっても殴られる。
だから俺は「手早く美味いものを作る」のがモットーだし、自然と腕も上がった。
これも親父のお陰だから、感謝している。
正直、忙しい中で料理に時間をかけるのは嫌だ。そんな時間があるなら眠りたい。でも食事は必要。
だから、パッと手早く作れるようになった事は、俺にとって大きな財産なのだ。
どうせ親父はずっとあんな調子なのだし、これから落ち着いていくという事もおそらくはないだろう。
だったら、くよくよするより前向きに生きたい。いいはいい、悪いは悪いでハッキリさせれば、必要以上に親父を嫌わなくて済むし恨まなくてもいい。
俺は誰かを恨んで疲れるより、もっと楽に生きたい。馬鹿じゃないかと罵られたとしても、それが俺の生き方なんだとハッキリ言いたい。
恨む事の辛さを知ったからこそ、俺はそう思う。恨みは、ひどくエネルギーを消費するから。
わかめと豆腐の味噌汁を作り、大根の漬物を皿に盛ってお粥も完成させると、俺は親父を起こしに布団へ向かった。狭い居間と寝室との間には元々は
「飯」
「…」
返事がない。眠ってしまったのか。
「親父、飯食うぞ」
軽く肩をゆすると、うっすらと目を開けた。
「好物のネギ卵粥だ」
「…ん」
親父が目を覚ましたのを確認すると、俺は台所に戻って料理を盛った。使い古した盆にのせて、それを運ぶ。
折り畳み式の小さなテーブルに二人分置き、緑茶を入れる。
親父も言っていた通り、うちは病院になんてそうそうかかれない。だから病気予防の為に、なるべく緑茶は飲むようにしている。
もちろん高級なのは飲めないから、一番安いものだ。
それでも、あるとないでは大違い。お茶があるだけで、食事した時の満足感だって違う。
親父が引っかけてこぼさないようにお茶をテーブルの真ん中に置いた頃、親父がのそのそと布団から這い出て来た。
「……風邪引くぞ」
パンツ一丁の俺を見て、親父が顔をしかめる。
今は九月末。昼はまだまだ暑いものの、夜はだいぶ冷えるようになってきた。おまけに、今日は大雨で空気が冷えている。
ろくに暖房なんてない家で育ったから寒さには強いし、冷房だってなかったから、暑さにだって強い。これくらいじゃ風邪引かないとは思うけど、親父が気にするから手早く服を来て、一緒に食事を始めた。
「――てめえはほんとにドM野郎だ」
食後にお茶を飲みながら、親父が突然そんな事を言った。
「何でだよ」
「俺みたいなの相手に、嬉しそうに世話焼きやがって…」
どんどん声が尻すぼみになっていく親父に、俺は思わず笑ってしまう。
ギロリと睨まれたが、それは昔と違ってひどく弱々しく、迫力なんか微塵もない。
「素直に幸せだって言えよ」
「あ?! てめえ、図に乗ってんじゃねえよ!」
「だって親父はドSだろ? 俺がドMで良かったじゃねえか」
「俺はドSじゃねえ、ただのSだ!」
俺の冗談に大真面目に返し、おまけに変なこだわりを口にする親父に、「どこか違うのかよ」と呟くと、「全然違う!」と箸を茶わんに打ちつけた。
以前は、こうしてよく箸を折ったものだ。今は、その力さえなくなっていっているようだけど…。
「親父…。マジで病院に行った方がいいんじゃないか?」
「行かねえって言ってんだろ?! あんまりくどいと、ぶん殴るぞ!」
「殴ればいいだろ? 今さらそんな脅しが効くと思うなよ」
「生意気になりやがって…!」
口ではそう言いながら、親父は嬉しそうに笑う。
――こんな笑顔、昔は目にする事もなかった。
親父の中で、何かが変わったのだろうか。
俺の中で、親父に対する気持ちが変わったように。
「葉蘭。お前、そろそろ自立するか」
笑顔を引っ込めて、親父はそう言った。
「は?何だよ急に」
「急にじゃねえ。今の俺はただのお荷物だ。こんなゴミさっさと捨てて、女とガキでもつくりやがれ」
親父の言葉に、俺は呆れた。
「俺まだ16なんだけど」
「16なら結婚できるだろうが」
「それは女の場合だろ? 男が結婚できるのは18からだよ」
「…そうだっけか? 法律が変わったんじゃなかったっけか」
「変わってないだろ。そもそも俺にそんな相手いないし」
そう言うと、親父は大袈裟に溜息をつく。
「情けねぇ…。16にもなって女の一人もいないなんて」
「悪かったな」
「俺のせいか…。俺が邪魔だからだろ。こんな家じゃ、女連れ込む事もできねぇし」
親父はそう言って家の中を見回した。
一軒家だが、一階建てだし部屋数もなく、古くて隙間風もスースー通るような建物だ。持ち物が少なく、掃除も一応はしている事もあって、そこまでひどくは散らかっていないものの、女の子が喜ぶ家でない事も確かだ。
何より、好きになった子と隠しカメラや盗聴器の仕掛けられた場所で愛し合いたくはない。そんな事をしたら、監視している連中を大喜びさせてしまうかもしれない。
もっとも、「好きになった子」なんて今まで一人もいなかったから、心配するだけ無駄なのだけど。
「女なんてつくる気ないから気にするなよ。て言うかそもそも、俺が女と子どもつくるとか、そっちの方が有り得ない話だろ? 親父が病院通いするよりもっと」
俺の言葉に、親父は舌打ちする。もっともだと思ったらしい。
「くそ…。借金なんて、まだまだ返済しきれねぇぞ。お前に一生かけて返させるつもりなんかねぇんだよ!」
「そっか、そりゃありがたいな。けど、返さなきゃどうしようもないだろ」
「今の仕事じゃ、一生かかったって返しきれないかもしれないんだぞ! くそ…ホストできてた頃はまだ良かったが…」
親父は、見た目には顔が良くスラリとしていたから、女性にはモテたらしい。少し悪そうな雰囲気が、ホスト通いする女性たちのハートを鷲掴みにしていたらしいのだが…数年前に無理がたたって倒れてからは、ホストを続けるのは厳しくなってやめてしまった。
「お前もホストになりゃ今より稼ぎは良くなるだろうが…俺がさせたくねぇ」
「何でだよ」
「お前が思ってるより大変な仕事なんだよ!」
怒鳴りつけられ、俺は肩をすくめる。
「どんな仕事でも大変だろうよ。ま、どうせ俺まだ16だし、やるつもりもないけどな」
「そうか…」
あからさまにホッとした様子の親父に、俺は首を傾げる。
「親父、熱でもあるのか?」
いつもと違う様子に、俺は親父の額に右手を当てる。
「別に熱くないか…」
「当たり前だ、熱なんかねぇ!」
俺の手を振り払った親父は、バツが悪そうに俺から目を逸らした。
「実は病院行ったのか? ガンにでもなったのか」
「違う、体はいちど壊しちまったからなかなか戻らねぇだけだよ! ガンじゃねえ!」
「そうか? でも最近、前より痩せたし…」
「何でもねぇよ! そんな事より、とっとと片付けて風呂入って寝ろ!」
「はいはい、分かったよ」
その返事が、親父は気に入らなかったらしい。立ち上がって食器を手に取ろうとかがみかけた俺は、横から親父に体当たりされた。
「! あぶねっ…」
親父のする事は無茶苦茶だ。こういう時だけやたら元気なのも不思議だ。が、やっぱりふらついて自分も倒れそうになる親父をかばいながら、どうにかテーブルの上に倒れ込む事は免れた。
後ろ向きに受け身を取った俺の上で、親父は拳を作る。
そのまま鳩尾に向かうそれを見ながら、俺は腹に力を入れた。
「っ…」
馬乗り状態になった親父に抑えつけられているせいで、防御が完璧でないから、食らえばきつい。
本当は突き飛ばす事もできるけど、俺は滅多にそれをしない。以前ならともかく、今では力も俺の方が強いし、痩せた親父を突き飛ばしたら、俺の方が暴行を加えているみたいだ。
「くそっ…」
親父がうめき声をもらす。俺の腹筋は、鍛えられていて結構かたい。殴った親父もダメージを受けたのだ。
「……年貢の納め時か」
少しして、お互い痛みも落ち着いた頃に親父がぽつりとそう言った。
「何の話だよ」
「俺はもうダメだ…。葉蘭、お前は出て行け」
親父は俺の上に倒れ込んだような状態で、俺の顔の近くでそう言った。
多分、声が小さくて盗聴器もその音は拾っていない。相変わらず雨がひどく、一階建てだから屋根を打つ雨の音がダイレクトに響いて、かなりの騒音になっているからだ。
「出てけって…。無理だって分かってるだろ」
「――俺の借金だ。お前はこれまでにも十分払った。これ以上、お前が負担する必要はない」
「は…? 急に何言って」
「急にじゃねぇ、前から考えてた…」
「俺は考えてねぇよ。親父を置いて行ける訳ないだろ」
「何でだ…! 俺なんか、お荷物でしか…!」
「母親と同じになっちまうだろうが」
俺の言葉に、親父は目をみはった。
「弱った親父を置いて出て行くのは、まだガキだった俺を置いて出て行った母親のした事と同類だ。俺はそんな事したくない。あの人がそうしてしまった気持ちは理解できるし恨んでるつもりもないけど、自分も同じ事をするかどうかとなりゃ話は別だ」
「葉蘭…」
親父は泣きそうな顔で、弱々しく俺の顔を見つめてくる。なんだか幼い子どもみたいで、俺の手は気がつくと親父の後頭部に伸びていた。
「だからもうそんな事は言うな。親父の為じゃない、俺の為なんだから」
「…馬鹿野郎」
親父はふいっと俺から顔を逸らす。苦痛で歪んだような、涙を堪えたような表情に、俺は胸がずきりと痛んだ。
「いいよ馬鹿で。俺は何だかんだで、親父が好きなんだ。ずっと昔に出て行ったあの人なんかより、遥かにな」
「……てめえはやっぱりドM野郎だ」
そう言ったきり、親父は黙り込んで何も言わなかった。
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