第27話

「くうッ! 」


 必殺の意志を持って放たれたアークの一撃だったが、シンキは反射的に身を捩った。中指の爪の先が頬に引っ掛かり、朱色の線が宙に描かれる。だがそれだけだ。致命傷には至らない。アークは歯噛みしながら一度息を吸った。完全な弛緩から急激に緊張した全身が痛みを訴えてくるが、黙殺する。吸血鬼の肉体は優秀だ。すぐに痛みは治まった。


 シンキは今し方自分を攻撃した吸血鬼を恨みがましい目で睨む。虚ろな瞳の中に、確かに憎悪の炎が灯っていた。自身の頬に触れる。鮮血が指に付着する。それを舐め取ると、ほう、と溜め息を1つ、吐いた。


「やってくれましたね、吸血鬼風情が」


 怒りを露にしたシンキを見て、アークはニヤリと不敵に笑った。正直なところ、今の一撃を避けられたのは厳しかった。既に指先は上手く動かない。人形を操るのは難しいだろう。呼吸も満足に出来ない。3000年生きてきた中で、一番追い詰められていると言って間違い無かった。だが今動かなければ死ぬのだ。


「精々20年かそこらしか生きていない人間風情が、粋がるなよ」


 その言葉は自身への鼓舞でもあった。負けない、負けるわけにはいかない。神すら越えようとする自分が、神の手駒でしかない粛正者如きに敗れていいはずが無い。アークは、自身に暗示の魔術を掛け始めた。

 指が満足に動かないなら、もう完全に動かなくしてしまえばいい。呼吸がまともに出来ないなら、そもそも呼吸を止めてしまえばいい。それでも活動出来るのが、この体である。指は爪で相手の体を掻き切る形で固定され、荒い息は、死んだように静かになった。シンキの能力は恐ろしいものだ。満月であるという吸血鬼側へのメリットを相殺して余りある効果をもたらしている。


「ああやって殺すのは、僕の最後の慈悲だったんですが。それさえわからないのが、貴方達なのでしょうね」


 シンキはポケットから手袋を取り出すし、嵌めた。手の平に当たる部分に、大きく眼が描かれている。左手側のそれには傷がつけられ、眼が潰れていた。

 それは吸血鬼を屠るために教会の魔術師――――――教会では魔術のことを奇蹟と呼ぶらしいが――――――が編み出した装備である。片目が潰れた意匠、光と闇の神を表すそれを掌握する、という意味が込められたそれは、吸血鬼に対する特効を発揮する。

 アークの攻撃を避けた身のこなしからして、シンキは本来優れた闘士なのだろう。それが全力で、目前の吸血鬼を殺そうとしている。


「私が貴方の死です、吸血鬼」


「それを乗り越えてこその吸血鬼だ、粛正者」


 その言葉を出した時点で、アークの肺の空気は完全に無くなった。言った瞬間、一息で、否、息をする間も無く、アークはシンキの懐に飛び込んだ。


「――――――!! 」


 声にならない気勢。固定され動かなくなった右手の五指が、シンキの心臓を貫かんとする。


「ふっ! 」


 それが胸に触れる直前、アークの腕を、シンキの肘と膝が挟み込んだ。骨の折れる、嫌な音が聞こえた。

 だが、その程度でアークは狼狽えない。捉えられた右腕を、左腕の爪で切断する。夥しい量の出血は、シンキへの目くらましになった。たまらず、シンキは後退する。

 そこに再びアークの爪が叩き込まれる。しかし今度は、真正面から手で止められた。組み合う形になる。すかさずシンキがアークの鳩尾に蹴りを入れ引きはがそうとするが、アークは微動だにしない。


「何っ!?」


 シンキが驚愕する。彼女は知らない。アークは今完全に呼吸を止めていることを。鳩尾を蹴られたからといって、肺の機能は停止しない。そも、もはやアークの肺は機能していないのだ。

 お返しとばかりに、今度はアークがシンキを蹴りつける。


「ちぃっ! 」


 だがそれはシンキの膝に防がれる。吸血鬼の膂力があろうと、体術に関してはアークは素人だ。蹴り方が悪く、逆にアークの足首が壊れる。


「せあっ! 」


 防いだ足でそのままアークの顎を蹴り上げる。脳が揺さぶられ、一瞬完全に意識が飛んだ。地面に転がって、ようやく意識を取り戻す。切り落とした腕も、壊れた足と顎も既に治癒している。満月が与えてくれている恩恵は、この治癒力の増進くらいだろう。


 再びシンキに向かってアークが走る。無謀とも言える突進。普段のアークからは考えられない蛮行である。だが、考えが無いわけではない。夜明けまではかなりの時間がある。それだけの時間があれば、シンキの体力を削りきるには十分だ。不意を突かれてやられるかもしれないが、そうするのが今の最善手である。上手くいけば他の面々が起き上がる可能性もある。耐えるべき時だった。


 無尽蔵の体力と、完全な無呼吸運動から繰り出されるのは文字通り、『息を吐かせぬ』猛攻である。拳と爪がぶつかり合い、金属の擦過音めいた、およそ生身の生物が出すものではない音がする。手足だけでなく、牙での噛みつきまでしてくるアークに、シンキは苛立ちを募らせる。幾度となくアークを吹き飛ばしているが、必殺の武器である拳を使わせてもらえていない。朝まで戦おうと平気なだけの体力が彼女にはあったが、それでも思い通りにならない歯がゆさが、焦燥を生んでいた。そしてそれは隙を生む。


「なっ」


 動揺から声が出る。なんということだろう。アークは力任せに自分の影から人形を引き抜き、それをシンキにぶつけたのだ。シンキには今までの行動からアークが人形遣いであるなどということは予想も出来ない。完全な不意打ちに、一瞬だけ反応が遅れる。そしてその一瞬につけ込めるのが今のアークである。とうとう、一撃をシンキの顔面に与える。ゼロがされたことへの意趣返しのようであった。


 だが、その程度で倒れるシンキではない。あまりにも単純な奇策にまんまと嵌ったことは、彼女の冷静さを取り戻す結果となった。必殺となり得る一撃を二度までも回避された。結果、アークは余計に追い詰められたと言える。長い戦いはまだ、始まったばかりだった。

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