第28話

 シンキの動きが変わった。今まではアークの予想外の行動に動揺し、迎え撃つばかりだったが、今度は攻めに転換する。フットワークは軽く、一撃は重い。彼女の能力の影響を自己暗示によって抑えてはいるが、時に意識の外、気が抜けた瞬間に放たれる攻撃を受けきれない。せめて急所に拳が当てられないよう防御するのが、アークの限界であった。

 最早アークに打つ手は無い。使える手札は全て切った。満月を空に浮かべる大魔術も、既に満月ならば意味が無い。体力を削ろうと戦ってきたが、シンキの動きは一向に鈍くなる様子が見えなかった。


「もう終わりです、諦めなさい、吸血鬼」


 諦める。その単語が、酷く胸に染み渡った。

 アークは自問する。自分は今まで、何かを諦めたことがあったろうか。

 アークは自答する。否、自分は今まで、何もかもを諦めずここまで生きてきた。

 3000年の長い生。ただ生きるだけなら、何をせずとも良い肉体。真なる不老不死の探求など、辞めても良かった。だが、それをするのはアークにとって死と同義だ。

 肺に空気は残っていない。呼吸は完全に止めている。ならばそれは、魂から出た咆哮だったのだろう。


「諦めるだとッ!?誰がッッ! 」


 世界そのものを震わせるような声に、しかしシンキは冷ややかな目と言葉で応じた。


「そうですか、ならば死になさい」


 無慈悲な一撃が、シンキの心臓を穿つ。体の中でそれが弾ける音が確かに聞こえた。アークの体が、倒れている仲間達の方向に、派手に吹き飛んだ。


「……手応えがおかしい?」


 確かに死に至る一撃だった。奇蹟の付与された手袋で心臓を潰されれば、吸血鬼は例外無く滅びる。アークは特殊な方法で吸血鬼になったが、そんなことも関係無い。しかしシンキはいつもと違う感覚を覚えた。なにか、ような。


 アークの体が落ちたのは、リドルの側だった。傍から見れば死体が2つ転がっているようにしか見えない。シンキがもう少し察しの悪い人間だったのならば、仕事が終わったと判断して、その場を去ったかもしれなかった。

 だが、気付く。遅すぎたが、自分が覚えた違和感の正体に。


(!!)


 アークが見せた隙は、誘いだったのだ。シンキの攻撃に、反応速度では対応しきれない。ならば反応するまでもない、当然の結果として特定部位への攻撃を誘うのみ。

 致命の一撃を食らう瞬間、攻撃を受ける位置をズラし、インパクトの瞬間に大きく後ろに跳んだ。普段なら気付くような露骨な誘いに、シンキは乗ってしまった。なぜなら、


(僕は、勝負を焦っていた……!)


 何度蹴り飛ばそうと向かってくるアークに、苛立ちを覚え、焦燥を感じていた。あるいはシンキが老練の戦士なら、そんな手には乗らなかったかもしれない。能力に頼らず、拳のみで戦っていたのなら、殴り合いが続くことに焦りなど感じなかっただろう。若さと、戦う必要の無い能力が、勝負事への冷静さを忘れさせていた。


 シンキは走った。自分の未熟さから来た失敗を取り戻すために。だがそれもやはり、遅すぎた。


 吸血鬼は立っている。致命傷だと思われた傷も、既に治っていた。口元には血液が付着している。英雄リドルの血、普段アークはそれを、ほとんど口にしない。6000年を生きたあの竜との戦いの後に吸ったのを除けば、最後に吸ったのは随分前になる。血を吸う、他人の体の一部を取り入れるというのは、対象の知識、経験を取り入れることも意味する。英雄である上に、1000年を生きた彼女のそれは、吸血鬼にとって最高クラスの逸品であるが、彼女の記憶は鮮烈で極悪であり、同時に発狂しかねない猛毒でもある。それ故アークは彼女の血を滅多に吸わないのだ。

 だが吸った時の効果は絶大である。英雄としての戦闘能力、その殆どを、一時的にではあるが自分の物に出来る。アークがリドルを側に置くのは、こうした意図もあった。

 魔術で剣を作り出す。リドルは剣を濫造しての飽和攻撃を好むが、アークは逆に、一本の剣を集中して作る。人形師として非常に細かい作業を得意とするアークがそうすれば、細部まで緻密に装飾の施された、しかし無駄の一切無い名剣が出来上がる。


 シンキは深呼吸をした。目の前の敵は今までの自分に倒されるだけにある存在ではない。拳を一度強く握り、全身に意識を巡らせた。

 正直なところ、シンキはアークに見とれていた。一瞬であれ気を取られ、気を呑まれてしまった。今のアークは、1つの生命としてあまりに美しすぎた。

 一流の画家がそれを描こうとすれば、その色彩を表現する色を作れない自分に絶望しただろう。

 一流の詩人がそれを歌にしようとすれば、その吐息を表現する語彙の無い自分に失望しただろう。

 一流の哲学者がそれを言葉にしようとすれば、その美のイデアを言葉にするための思想を切望するだろう。

 それほどまでに美しいのだ。傅き褒め称えるのが、他者に許される唯一の行為である。


 アークが動く。その筋肉の躍動さえ、美しかった。

 シンキは抵抗する。アークと比較すればあまりにも醜いが、それをするのは酷であろう。彼女は良く戦ったのだ。

 今のアークは吸血鬼であり、英雄である。極大の世界のシミであり、神によって生かされているシンキでは、死にはしないが分が悪い。

 剣による連撃を、捌く、捌く。いつも奇怪な言動で周囲に呆れられるリドルであるが、その技能は、下手な達人では相手にならない領域のものである。普段アークが彼女の攻撃を受けながら生きているのは、単純に相性の良さからであり、技量のみで勝負するなら、リドルに勝てる者は世界中でもそうはいない。


 リドルの血はアークを完全に回復させている。シンキの能力も最早ほとんど効いていない。

 シンキは歯噛みする。その手だけは使いたくなかったが、命あっての物種だ。背に腹はかえられない。


 アークはシンキが何か魔術を使おうとしていることに気付き、警戒した。いつでも防御が出来るように身構える。この状況で繰り出す魔術ならば、どんなものにしろ、致命的なものに違いない。


 アークが身構え、攻撃の手を緩めたのを見て、シンキはニヤリと笑った。この最後の手段は、その一瞬の間さえあれば良いのである。

 シンキはアークに接近する。無謀に思える突撃、それはシンキの、他者の意識を弛緩させる能力による、である。全力で発動されるその能力は、今のアークでさえ対応出来ないものだ。

 そうして接近したシンキは、両手を広げ、それを、


 


 次いで弾ける閃光。手拍子による、常人ならば鼓膜が破れかねない爆音と、魔術による失明してもおかしくない光。人力スタングレネードと言えば聞こえは良いが、言ってしまえばド派手なねこだましである。しかしそんな原始的な手法は、確かに吸血鬼の視力と聴力を奪い去った。

 その回復も人間よりは余程早いアークであるが、目が見えるようになった頃には、シンキは忽然と姿を消していた。

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