第3話

 放課後、いつものように部活を終えた俺は、今日は本当に忘れ物をして一年教室へと向かっていた。

 ぐるりと校舎の廊下を回るより中庭を突っ切るのが近道なのでそうしていると、視界を紙飛行機が横切った。

 思わず立ち止まって眺めてしまえば、紙飛行機は近くの植え込みに落ちて沈黙した。


「先輩だよな……」


 特に意味はなかったけれど小さな溜め息を一つ落として屋上を見上げる。案の定先輩らしきロング髪のシルエットがあった。

 ただしそれは後ろ向きで、落下地点を確かめたようには見えなかった。

 こっちを見ないだろうかとしばらく見上げていたものの、先輩らしき女子生徒はそのまま屋上中央の方へと姿を消した。


「え、あれどうしよ。渡しに行ってやるべき?」


 まあ一年教室のある四階まで上がったついでに、屋上までのもう一階分を上がったところで疲労度は変わらないだろうし、いいか。

 それにポイ捨てはいけませんと一言物申さないと。

 紙飛行機を拾うと、とりあえず中庭から移動した。


 程なく到着した俺は、鍵のかかっていない鉄製の屋上扉を押し開けようとして、しかし細く開けた所で動きを止めざるを得なかった。


「――別れない! 私は絶対心変わりなんてしないもん!」

「君はまだ高校生なんだ。いくらでも選択肢はある。……僕もあの返答は軽率だった」


 聞こえた会話に、固まってしまったからだ。

 ええと、この先……修羅場?

 酷く興奮した先輩の声と、もう一人はどこかで聞いたことのある男の声だ。

 扉を半分も開けていないから屋上の光景は見えない。

 相手は誰かとか好奇心はゼロじゃなかったものの、俺は何も見なかった事にした。


 だってこれはきっと見たらいけないやつだ。

 あと聞いても。


 軽い気持ちで詮索するのは口さがない噂を流す連中と同類だと思う。

 昔苦しんだ分、俺は俺がそっち側に転落するのを許せない。

 自己満だろうと偽善だろうと。


 大体にして、俺の存在がバレるのが一番まずい気がするし。

 そういうわけで、慄きにも似た感情を胸に、俺はそっと扉を閉め来た道を戻った。

 早く離れないと、という僅かな焦りと微かな後ろめたさを感じなから段抜かしで階段を駆け下りる。

 その日は動揺の余り取りに行くはずだった忘れ物をすっかり忘れて帰ってしまった。


 拾った紙飛行機は鞄に入れて家に持ち帰った。





 夕食後、思い出したように鞄を開け制服を取り出していたら、紙飛行機が一緒に出てきた。


「あ、やべ、忘れてた」


 紙飛行機は部活で使ったタオルとかの汗荷物の湿気を吸い、しっとりへにゃっとなっている。

 そのせいか、手に取ってふと気付いた。


「……何か書いてある?」


 紙の裏から文字が透けて見えていた。

 プライバシーとか諸々が頭を過ぎったが、一体何が書いてあるのか妙に気になった。

 屋上での一件もある。

 俺は一度思案しそして、好奇心に負けた。


「まあ単なるメモとか落書きだろ、どうせ」


 だって屋上から飛ばすくらいだ。

 俺はそう言い聞かせてさっさと折り目を広げた。


 中には、女子らしい丸みのある字で、こう書かれていた。


 ――都筑つづき先生へ。

 ――先生の言葉を受け入れられないよ。

 ――何度言われても私は絶対に別れない。


「……ええと、これって…………」


 正直予想もしていなかった内容に思考が稼働停止に陥っていた。


 都筑先生ってあの数学のだよな?

 そう言われれば屋上で聞いた声は、彼のものと酷似していたように思う。

 独身の都筑先生はインテリだけれど、イケメンってほど際立った容姿でもない。でも授業内容はわかり易く普通に好感の持てる指導熱心な先生だ。それほど課題が多くないのも俺的にはポイントが高い。

 男の俺でも好感を持つくらいだから、女子の中にだっているだろう。


 けれどその好意の針が恋愛に傾いているとしたら、それは少々厄介だ。


「これ、マジでどうしよ。何気ない振りして返せるかな俺……」


 もしこれを俺以外の誰かが見ていたら……と思ったら、あまり面白くない想像しかできなかった。

 高梨先輩が捜しに来るだろうか?

 こんなある意味でヤバいものが書いてあったからわざわざ回収していたのかもしれない。

 回収し続けるのは決心が着くまでって言ってたが、つまり暴露しても構わなくなるまでって意味だったのか?


「こんな証拠になるような危ういもん持ってたくないし、処分したっていいよな」


 そう結論付けた俺は、早々に細かく千切って捨てた。





「ええと、あっいた君キミ~。そこのバスケ部の君だよ君!」


 俺たちの教室に高梨先輩の声が響き渡ったのは翌日の長休み時間だった。

 スライド扉の間から顔を覗かせ、どういうわけかその視線は俺を捉えている。

 クラスの皆も俺と先輩を不思議そうに眺めた。


「円田、あの先輩ひとはやめとけって言っただろ!」

「そうだぞ、目を覚ませって」


 クラスの友人二人が本気で心配そうに小声で訴えて来る。

 何だよこいつら、思った以上にいい奴らだ。

 俺は密かに感動した。


「いや、そう言うんじゃない。たぶん落とし物を拾った件だろうな。心配かけて悪い」


 努めて何でもないような顔をすれば、二人はホッとした顔をする。

 注目を浴びながらも先輩の待つ教室前方に行くと、彼女はわざわざ廊下の端まで俺を引っ張った。


「ねえ、昨日紙飛行機拾ったでしょ。それ今何処にあるの?」


 案の定。

 見ていなかったようでどこかでは見ていたんだろう。俺が中庭に入って来た辺りを見ていたのかもしれない。そこから見当をつけて……。


「あー…すいません。捨てちゃいました」

「そうなんだ? ならいいけど」


 変に隠さずあっさりした俺の返答に先輩もあっさりしたものだった。

 内心ホッとする。

 中を読んだのはこれでバレな――


「中見てマズいって思ったからでしょ?」

「――!?」

「ふふっ。ここじゃあれだし、部活終わったら屋上来て? 駄目かな?」

「……わかりました」


 何とか動揺を堪えるのが精一杯だった。


 夕方屋上に行くと、既に待っていた先輩はどうせ俺がわかっていると思ってか、潔く都筑先生とのことを認めた。


「まあ、別れようって言われてるけどね。私はその気ないんだけど」


「でも向こうが、どうしてもって」


「理由も私の将来のためとか言うだけで具体的な事は何も言わないんだよ」


「そんなの納得できないよね!」


 などなど、のっけから顔を近付けられて力説されて、俺は「それは、まあ…」と当たり障りのない相槌係にされてしまった。

 結局しばらーく先輩と二人で屋上の手摺に寄り掛かって、ひたすら先輩の文句を、つまりは愚痴を聞かされた。

 何故こんな事に……。


「実は先生とはご近所さんなの。小さい頃から知ってて、お兄ちゃんお兄ちゃんって懐いてた。家庭教師もしてもらって、思い切って告白したらいいよって言ってくれたの!」

「へえ、旧知の仲だったんですか」

「そうだよ」


 でもね、と先輩は不服そうに形の良い唇を尖らせた。


「まだ軽めのキスしかしてくれないのよ!? 一年も付き合ってるのに!!」


 ぶっ!

 俺は自分の唾で酷く咳き込んで、涙目で先輩を見やる。


「はあ、そうなんですか、けほっ」

「反応薄~」

「……他にどう言えと?」

「まあそうなんだけど~、私って魅力ない?」

「いえいえまさか! 先輩くらい美人な人って中々いませんよ。もう眼福そのものです」

「正直だね君は」


 気が抜けたように「へへっ」と笑う先輩。

 小悪魔的な「ふふっ」じゃなくて「へへっ」

 こっちが素の先輩に近いような気がした。


「やっぱ噂なんて当てにならないな……」

「ああ私の? ふふっ色々と微妙な噂立ってるみたいだよね」

「知ってたんですか」

「そりゃあ自分のだし、流してる相手をよく知ってるから。私は先生一筋なのに、バカみたい。そっちの彼氏が勝手に横恋慕してきたんじゃないかアホチクショ~! こっちはきっぱり断ったってのにさ!」


 ああ、発信源は知り合いなのか。

 面倒な女子同士の事情がありそうだ。


「はっ噂なんてホントろくなもんじゃないですよね」


 俺が顔を歪めてしみじみ声を落とすと、先輩はキョトンとした。


「実感こもってるねえ」

「まあ、過去にちょっと。噂で関係がこじれる事ってありますよね……」


 気付けば話してしまっていた。

 クラスの誰にもした事のない過去話を。

 先輩に。

 気負いなく、躊躇いなく、極々普通に、世間話みたいに。

 向こうの秘密を知ったからってのもあると思う。

 先輩はただ「ふうんそっか」と話を受け流してくれるだけだったけれど、それがかえって気楽だった。


 会ってほんの間もないのに、恐ろしく居心地がいい。


 いや、ほとんど知らない相手だからそうなのかもしれない。

 或いは、単に開放的な屋上という場所のせいかもしれなかった。

 話を終えてまた景色をただ眺めて、何となく俺は横目で先輩を見据える。


「ところで、今日も手に持ってるそれ、中書いてあって、飛ばすんですか?」

「うん?」


 先輩は指先に挟まれ今は畳まれている紙飛行機を風見鶏のようにくるくると右に左に回して、自身もくるりと俺を向く。


「――もちのろん!」

「胸張って偉そうに言うことでもないと思いますよ。そんなことする前に、少し時間を掛けて先生と話し合ったらいいんじゃないですか?」

「あの人は頑固だから、無駄だよ」


 口元だけで微笑みつつ、どこかどうしようもない顔で先輩は紙飛行機を開くと、早々に手摺りを振り返って思い切り腕を振り切る。


「あ」


 紙飛行機が飛んで行く。


 中庭に墜ちると、先輩は少し気が晴れたようにして、その実そそくさと一人下へ取りに行った。

 誰かに読んで欲しいのか欲しくないのか、好きと憎さで複雑な気持ちなんだろう。

 先輩が戻って来る間、俺はのんびりと一人夕空を眺めた。

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