第2話
上履きに履き替え紙飛行機を持った俺が屋上に行くと、その女子生徒は待っていてくれた。
「はい。これどうぞ」
敬語を使っといて良かった。
上履きの色からして彼女は一学年上だった。
あれ、この人って確か……美人で有名な
下の名前は何だったか思い出せないが、俺の手から「ありがとう」と微笑んで紙飛行機を受け取るのは、ファッション誌の読モをやったりして何かと噂になる人だった。
専属モデルの話も出ているとかいないとか聞いた事もあったっけ。
確かに手足がスラリと長くて小顔。
目は大きくてぱっちりだし、くるんとしたまつげはどこか外国のお人形のようで、誰が見ても魅力的な外見の持ち主だ。
「君は一年生……みたいだね」
俺の上履きの色から判断したんだろう、高梨先輩は一度俺の爪先を見やった。
「部活で疲れてるのに、わざわざありがとう」
「や、実はまだ屋上って入った事なかったんで入ってみたくて……、だから気にしないで下さい」
嘘じゃない。
ここに来た理由の一つだ。
「そっか。なら良かった」
先輩はあっさり俺の言葉を受け入れて微笑むと、視線を外して屋上からの景色を眺めやった。
目的を果たしたんだから、俺はさっさと立ち去るべきだったのかもしれない。
だけど、退去を告げる「それじゃもう行きます」の代わりに口から出たのは、
「あの、まだここにいますか?」
そんな言葉だった。
「え?」
「あっ、いや、俺もう少しここにいたいな~って。で、施錠とか……」
「ああ、そういう事。大丈夫私まだいるし、責任持って鍵はかけるから」
彼女はたぶん屋上のだろう鍵を顔の横で振ってみせた。
どうやら先生から許可をもらった上でいたらしい。
でないと鍵なんて持っているわけがない。
アピールを終えた高梨先輩は外を向いて屋上の手摺に両腕を預けた。
俺も先輩の横に並ぶと彼女に倣う。
校庭には部活終わりの生徒が帰っていく様が見えた。加えて高いフェンスのある校庭片隅では野球部が用具を片付けている。
「ねえ、何部なの?」
「バスケ部です。先輩は?」
「帰宅部」
「それは部活じゃないです」
俺がつまらない冗談に小さく辟易の気配を漂わせると、先輩は手にしている紙飛行機を弄って少しうーんと唸ってから、
「入ってないよ」
言い直した。律儀か。
「そうですか。ところで先輩はなんで紙飛行機なんて飛ばしてるんですか? 一週間くらい前も授業中見かけたんですけど、それも先輩が?」
「え、見たんだ? あちゃーサボってたのバレちゃった」
さして悪びれた様子もなく彼女はおどけるようにした。
誤魔化せばいいのに、真面目なのか不真面目なのか。
「紙飛行機、好きなんですか?」
「別に?」
「じゃあ何で飛ばしてるんですか……。ストレス解消とか?」
俺が本格的に呆れていると先輩は腕を上げ、しかし途中で飛ばすモーションを中断。
「飛ばさなきゃ始まらないと思って」
「始まる?」
「あ、違うかな」
俺が困惑を深めると彼女は言い直した。
「始まるじゃなくて、終わる……か」
「終わる? 何が…」
「――私の世界が」
紙飛行機を飛ばしたくらいで世界が終わる?
益々意味がわからない。
抽象的かつ比喩的な意図があるんだろうか。
「はあ」
俺の曖昧で適当な相槌を気にした様子もなく、先輩は今度は最後まで腕を振って俺が拾ってきた紙飛行機を飛ばしてしまった。
「折角拾ったのに……」
「ふふっごめんね。けど気にしないで、自分で何回でも取りに行くからいいんだよ。決心が着くまでは」
「決心?」
本当に言葉に謎を孕む人だな、この人は。
ミステリアスを売りにでもしているんだろうか。
秘密のある女。
なまじ綺麗な顔立ちをしているだけに様になる。
とは言え俺はこれ以上余計な詮索はしなかった。
その後、十分景色を堪能したところで俺は先輩にお礼を告げて屋上を後にした。
さくさくと階段を下りながら思う。
彼女が言っていた、始まるとか終わるとかいう世界ってのは、たぶん自分を取り巻く現状って意味なんだろう。
「……何か、変わった思考回路の人だよな」
紙飛行機、そんなものを飛ばさなくたって築いて来た世界が突然終わる事だってある。
思い出し、俺は軽く頭を振った。
残っていた階段を駆け下りる。
「お、忘れ物か?」
すれ違ったのは見覚えのある男性教諭。
まだ二十代と若く、通常は二年の副担任をしているが、俺のクラスの数学も受け持ってくれている。
理系出身なだけあって、涼しげで理知的な目鼻立ちの男性だ。
ただ、向こうはまだ俺の顔と名前が一致していないらしく、下手に名前を呼ぼうとはしなかった。賢明だな。
「ああいえ……はい。さようならー」
俺は正直に答えかけ、屋上の件を教師に伝えるのはまずいと考え直し無難に返答した。
「さよなら。気を付けて帰れよー?」
定番かつ気さくな返しにぺこりと頭を下げ、俺は下駄箱のある方へと廊下を曲がった。
一方の都筑先生は、そのまま階段を上って行ったようだった。
翌日、俺はまたもや授業中に紙飛行機を見つけてしまった。
昨日の今日だし十中八九高梨先輩だろう。
サボる奴はいるとしても、彼女の他に紙飛行機を飛ばすような奇特な生徒がいるとも思えないからだ。
呆れる反面でどこかその解放的な自由さが羨ましくも思う。
……自分に忠実なんだろう。
皆が教室にいる授業時間独特の静寂から一歩を抜け出すのは、スリルすらあると思う。先生に見つかれば大目玉は必至だろう。
それでも実行する原動力は一体何なのだろう。
一度訊ねてみたいと思った。
休み時間。
「実は昨日ちょっと二年の高梨先輩と喋ったんだけどさー、綺麗な人だよな」
俺はクラスの友人と談笑がてら先輩の話を持ち出した。すると友人二人はそれぞれ表情をしょっぱいものに変えた。
「円田やめとけやめとけ。高梨先輩っていい噂聞かないじゃん」
「そうだぞ、惚れたのか? 貢がされるぞ?」
「恋人が破産したって聞いた事あるし」
「そうそう」
俺は苦笑する。
「それは随分真っ黒な噂だな。いや惚れたとかそういうんじゃないって。ただちょっと変わった人だとは思ったけど」
そうなんだよ。高梨先輩は悪い噂しか聞かない。
ビッチだとか彼氏に散々貢がせたとか、大人相手に体売ってるとか、色々。
けど、昨日の感じだとそんな風には見えなかった。
まあ初対面相手に猫でも被っていたのかもしれないが。
でなきゃ彼女の美貌をやっかんだ誰かが流した噂なのかもしれない。
「でも、噂……か。振り回されるのはこりごりだな」
「お? お? 円田く~ん? その言い様は~もしや何か噂で困った経験がおありでー?」
あ、まずい。
つい口が滑った。
「いや、極力噂なんて真に受けない方がいいって思っただけだよ。高梨先輩は美人! 眼福には変わりない。それでいいじゃん」
わざと力説してみせると、友人たちは不自然には思わなかったようで、俺の女子論に賛同した。
噂なんてほとんどがフィクションだ。
本当の事は一握り。
中学時代、噂に振り回された経験があるからそういうものの扱いは身に染みていた。
「ねえ辞書貸してー?」
廊下から教室に響いた声に俺は顔を向けた。
見れば他クラスの女子が入口の所から顔を覗かせている。
――
俺は中学時代同じバスケ部仲間だった同級生を何とはなしに眺めて、目を逸らした。
前は仲が良かったが、今は喋る事もない相手だ。
廊下ですれ違っても互いに目も合わせないし挨拶もしない。
中学の時は後ろ一つにポニーテールにしていたのに、今は軽めのボブカット。そういやいつの間にか髪を切ったんだな。
そんな沢口は高校では女子バスケ部に入らなかった。
確かバドミントン部にいるのを見かけたっけ。
きっと俺が男バス入部希望だと思ったからに違いない。
「――円田、なあ円田って?」
「んあ? ああ悪いちょっとぼっとしてた」
「おいおいマジで高梨先輩に惚れたんじゃねえよな?」
「恋煩いかー?」
「まあ、先輩に興味はあるな」
「あちゃー」
「日本は自由恋愛の国だ。骨は拾ってやる……!!」
協力的なのか非協力的なのかよくわからない調子のいい友人に、俺はノリに合わせて「そん時は頼む!」と拝んだ。二人からどっと笑いが上がった。
沢口は友人から辞書を借りたのか、気付けばいなくなっていた。
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